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グラニテ
永井するみ

   第一章

     1

 花崗岩のようにざらざらしたもの。
『グラニテ』というフランス語の意味である。
 しゃりしゃりと口当たりが良ければそれでいいわけではないということだ。砕けたとはいえ、岩石のようなものなのだから、硬質で、強く、輝きを宿していなければ。
 市ノ瀬万里はフォークを片手に考える。
 今、作っているのはリンゴと紅茶のグラニテ。
 毎朝、七時半に娘の唯香は家を出る。高校二年生。通っている私立高校は、自宅から三十分余りのところにある。三学期もあと少しで終わり。きょうは午前授業で昼過ぎには帰ってくる。
 玄関で娘を送るとすぐに、万里はグラニテ作りに取りかかった。
 熱い湯で濃く淹れた紅茶には砂糖を溶かしておく。リンゴは芯を取り除き、皮ごと適当な大きさに切ってミキサーにかけ、レモン汁を振りかける。そこに紅茶を注ぎ、再びミキシング。バットに流し入れて、冷凍庫に入れる。
 ここで一息。でも気を抜いてはいけない。
 頃合いを見てフォークでかき混ぜるのだ。このタイミングと、どれくらい丁寧に、あるいは荒っぽくやるかによってでき上がりがまるで違ってくる。適度にザラメ状の美しいグラニテになるか、それとも、がりがりに凍った巨大なアイスキャンディ、というか、アイスプレートになってしまうか。
 誰にでも作れるシンプルな氷菓だが、それゆえこだわり出すときりがない。
 きっかり三十分後にタイマーをセットしてから万里はキッチンを離れ、部屋の掃除に取りかかった。柔らかな布で家具や電化製品の上の埃を払ってから掃除機を取り出す。それを見て、シュシュが、きゅうんと小さく鳴き、別室に逃げ込んでしまった。シュシュはオスのトイプードルで、掃除機が大の苦手。怖くてたまらないのだ。
「ごめんね。できるだけ早く終わらせるからね」
 声をかけてから、掃除機のスイッチを入れる。3LDKのマンション暮らしなので、さほど時間はかからない。一通り掃除機をかけ終えたときに、ちょうど洗濯も終わった。洗濯物をバスケットに取り、ベランダに干す。部屋に戻ったら、タイマーが鳴った。
 すごくいいタイミング。自分の段取りの良さに、万里は満足の笑みを漏らす。
 シュシュが廊下からこちらを窺っている。
「もう大丈夫よ」と言ってもすねているのか、反応がない。
 撫でてやろうと近寄ると、その手をすり抜けてキッチンに行ってしまい、自分専用のボウルから水を飲んでいるようだ。ちゃ、ちゃ、っと舌を鳴らしている。
 万里は洗面所で丁寧に手を洗ってからキッチンに行く。入れ違いにシュシュはリビングに戻っていった。
 シュシュは唯香の犬である。もちろん、万里もかわいがっているし、餌をやることも多いのだが、シュシュが心を許しているのは唯香だけだ。他の人間に対しては、根っこの部分によそよそしさを残している気がする。
 冷凍庫に入れてあったバットをそうっと取り出した。まだほとんど水だ。ケーキ用のフォークで静かに混ぜる。リンゴの果汁と紅茶の混じり合った香りが立ち上る。均等に混じり合ったところで、再び冷凍庫に戻した。
 タイマーをまた三十分後にセットして、今度はバスルームに向かう。バスタブには、たっぷり湯がはってある。気に入っているバスソルトを放り込んでから、溶けるまでの間に服を脱ぎ、髪をくるりとまとめて頭の高い位置にピンで留めた。熱いシャワーを浴びてからバスタブに身を浸し、万里はうっとりと目を瞑る。仕事が休みの日に入る朝風呂ほど、幸せを感じさせてくれるものはない。
 万里は三店舗のカフェを経営している。店名は、『ラ・ブランシェット』。本店は駒沢公園のすぐ近くで、あとは用賀と横浜の日吉に支店がある。
 もともとは、当時住んでいた一戸建ての自宅に併設した小さなスペースで、手作りケーキを販売していた。その日焼き上がった分を並べ、売り切れたらそれでおしまい。贅沢な材料を使っていながら良心的な価格のケーキは、近隣の住人にたいへん好評だった。
 その小さなケーキ屋は、夫の悠太郎の後押しで始めたものだった。せっかくパリまで行って勉強したんだろう。その腕を眠らせておくのはもったいないよ、と言って。
 仕事を終えた悠太郎が帰宅した折に、まだ万里が店にいると、「きょうは売れ残っちゃったのかな」と半分からかうような、半分は真面目に心配するような顔をした。
「しょうがないな。僕が残りを全部買ってあげよう」
 本当に代金を支払おうとするものだから、万里が、いらないわよ、と言ってそれを押し戻し、売り物をただでもらうのは心が痛むと言って悠太郎が譲らず、しまいには二人で笑い出してしまったこともある。そして、店の片隅に立ったまま、二人で売れ残りのエクレアやサバランを頬張るのだった。
 ケーキと一緒にお茶も飲めるようにしたらいいのに、などと馴染み客から言われることもあったが、万里は笑って受け流していた。若い頃に打ち込んだケーキ作りを続けることができ、作ったものを喜んで買っていってくれる人がいる。その上、それをおいしいと言ってもらえる。十分、幸せだった。
 優しい夫とかわいい娘がいて、おいしいお菓子を作って売る。ずっとこうして生きていけるなら、他には何も欲しいものはないと思っていた。
 夫の悠太郎が急死しなければ、今もきっとそう思っていたはずだった。

 悠太郎と結婚したとき、これで一生、私は一人ぼっちになることはないと思って、万里は心から嬉しかった。悠太郎が私を一人にするはずがない、と信じていた。
 なのに十年前、悠太郎は脳梗塞で突然、逝ってしまった。
 早くに父を亡くした万里にとって、十歳年上の悠太郎は夫であるだけでなく、兄であり、父のような存在でもあった。
 出会いは万里が高校二年生のとき。歯の治療のために万里が通った歯科医院の若手医師が悠太郎だったのである。
 それまで虫歯に悩まされた経験がなかった万里にとって、歯医者は子供の頃にフッ素を塗布してもらっただけの場所。けれど、その日は違った。奥歯の治療が必要だった。機械の音、振動、口内に入れられる唾液を吸い取るチューブ。すべてが不快で怖くて身を硬くしていた。万里の気持ちを少しでも和らげようとしてか、悠太郎はとても優しい声で話しかけた。と言っても、それは歯科医が患者にかけるごく普通の言葉ばかりだった。「あと、少しだからね」「痛かったら左手を上げておしえて。すぐに中断する」「大丈夫かな?」というような。けれど、万里にはそれはまるで魔法の言葉のように響いた。彼の声を聞いていると、恐怖が消えていった。
 長くかかった治療がようやく終わったとき、万里は得意のマドレーヌを焼いて、悠太郎に持っていった。
「お世話になりました。これ、お礼です」と言って。
 悠太郎はおもしろそうに万里を見て、食べ過ぎて虫歯にならないように気をつけるよ、と言った。
 その後、お菓子のお礼にとランチに連れていってもらった。次には映画に。穏やかな交際が続いた。
 万里が大学四年生のとき、卒業したらすぐに結婚しようと悠太郎はプロポーズした。が、万里はしばらく時間がほしいと言ったのである。大学では栄養学を学んでいたが、それと並行して洋菓子教室に通い、その面白さにとりつかれていた。できることなら、パリで勉強してみたいと思い詰めていたのである。万里の気持ちを聞いた悠太郎は、行ってきたらいいよ、待ってるから、と鷹揚だった。半年の予定で万里はパリヘ旅立った。
 離れたことで彼の存在感は、万里の中で増していった。心細いときや寂しいとき、万里はいつも悠太郎を思った。菓子作りを学ぶのは楽しかったが、それは悠大郎がそばにいるからこそなのだと思い知らされた。作った物を食べてくれる、愛しい人が身近にいる。それが万里にとっては大事だった。
 帰国してすぐに結婚。娘にも恵まれ、幸せな時間が流れていった。
 医者仲間の勧めもあって、悠太郎は年一回の人間ドックは欠かさず受けていた。
「唯香と万里のために元気でいないとな」よくそう言ったものだ。
 テニスを愛し、週末にはメンバーになっているクラブで汗を流していたし、タバコも吸わなければ、酒もほどほど。四十代前半の男性としては、悠太郎は若々しく、健康的だった。
 その彼が急死するなんて……。
 悠太郎の死から二ヶ月経っても茫然自失の体でいる万里を心配して、母や友人が、早く店を再開した方がいいと勧めてくれたのだ。叱りつけられたというべきかもしれない。
 家に閉じこもって泣いてばかりいてはいけないわ。お店はどうするの? いつまで休んでいるつもり? 唯香ちゃんがかわいそうよ。万里さん、あなた気付いている? 唯香ちゃん、笑わないの。笑えなくなっちゃってるのよ。
 言われて初めて気が付いた。唯香は表情を失い、目が空ろで顔色が悪かった。おとなしやかな外見に相反して、唯香は体を動かして遊ぶのが大好きで、七歳だったあの頃はドッジボールに熱中していた。暇さえあれば公園に行き、男の子たちに交じってボール遊びに興じていたのだ。なのに父親の死以来、友達と外で遊ぶことはおろか、微笑むことさえなくなっていた。いつも万里の側に寄り添い、黙って本を読んでいるか、無表情にゲーム機に向かっているか。
 万里さん、あなたが泣いていたら唯香ちゃんだって笑えないのよ。
 面やつれした娘をもう一度見直して、万里はぎゅっと両手を握りしめた。
 しっかりしなくちゃいけない。
 悠太郎がいないこの世界で、唯香と二人、生きていかなくてはならないのだ。つらいとか、心細いなどと言っている場合ではない。
 店を開けよう。
 翌週からケーキショップを再開した。久しぶりだったこともあり、ケーキの種類を少なくして、それまで以上に一つ一つ丁寧に作った。午前十一時にオープンして、午後二時には売り切れる盛況ぶり。店を訪れる客のほとんどが万里の友人や近隣の主婦で、悠太郎が亡くなったことを知っていた。
「頑張ってね」
「万里さんのケーキ、楽しみにしてるんだから」
「ここのケーキがないと、午後のお茶の時間が寂しくて」
「何かお手伝いできることがあったら言ってね」
 温かな励まし。優しいいたわり。
 ありがとう。娘のためにも頑張るつもり。もちろん、お店は続けるわ。ケーキを作るしか、私にできることはないもの。今後とも、ご贔屓にね。
 明るく応じ、笑顔を作りながら懸命に万里は頑張った。店を再開して一ヶ月半が経ったときだった。
 最後の客を笑顔で見送ってから CLOSED のプレートをドアに掛けた。一人、店内に戻って空になったショーケースを見ていたら、万里の頬を冷たいものが伝った。いやだ、何? と思いながら上を見た。どこから水が落ちてくるのかを確かめようとして。けれど、天井にも窓にも、水滴などついていない。なのに、また落ちてくる。それが涙だと分かるまでに少し間が要った。
 私、泣いてる?
 信じられない思いで、万里は頬に手を当てた。
 どうして。みんなに励まされて、少しずつ元気を取り戻しているのに、取り戻しているはずなのに……。なぜ涙が出るのだろう?
 止めようと思っても、涙はあとからあとから頬を伝う。その場を動くこともできないまま、万里はしゃくり上げた。
 元気を出して。
 お手伝いできることがあったら言ってね。
 唯香ちゃんのためにもしっかり。
 悠太郎が亡くなって以来、たくさんの人が言ってくれた言葉が頭の中で渦を巻く。
 ああ。
 万里は両手で顔を覆った。
 胸の奥が痛い。
 そのとき、店のドアがノックされた。
 CLOSED のプレートを掛けておいたのに、気付かないのだろうか。店に明かりがついているから、まだやっていると思い込んでいるのか。
 泣いているのを見られたくなくて、ドアには目もやらずに横顔を向けたまま、申し訳ありません、というつもりで小さく頭を下げて店の照明を消した。これで閉店の意は伝わっただろう。
 なのに、またノックの音がした。仕方なく万里はちらりとドアを見た。大柄な男が、ドアにはめ込まれたガラス越しにこちらを見ている。万里と目が合って、一瞬、笑顔になったが、すぐに眉が強く寄せられた。
「万里さん」
 葛城怜司だった。悠太郎の高校時代からの友人で、葬儀の折もひとかたならぬ世話になっていた。手の甲で頬を拭うと、万里は歩み寄ってドアを開けた。
「どうしたの? 何かあった?」入ってくるなり葛城が訊いた。
「いえ」
 万里は首を横に振った。心配そうに覗き込む葛城の顔を見たら、また涙が溢れそうになったが、必死で堪えた。
「客に何か言われたの?」
 誰かにいじめられたんじゃないかと心配している。娘が泣いているのを見た男親の反応そのものだ。普段の万里だったら笑っていただろう。けれど、そのときは笑えなかった。
 実際は葛城が心配したのとは反対だ。周囲の誰もが万里を気遣い、力になってくれようとしていた。それなのに、涙が溢れてしまう。人々の厚意を受け止め続けるのが苦痛になっていたのだ。
 葛城に向かって、その気持ちをどう表現すればいいのか分からなかった。
 ようやく万里の口から出たのは、「疲れちゃったんです」という一言だった。
 葛城は虚を衝かれたような顔をして、万里を見つめた。
「お客さんも、仕入れ先の人も、みんな優しくて」と言ったところで言葉に詰まってしまう。
 葛城はしばし考え込んでいたが、ぱっと顔を上げて気分を変えるように言った。
「悠太郎に線香を上げさせてもらっていいかな」
 万里はうなずき、ティッシュペーパーを手に取って洟をかむと、店の戸締まりをしてから棟続きの住居へ向かった。
 仏壇は居間にある。葛城が手を合わせている間にキッチンでお茶を淹れた。そうしているうちに、万里の気持ちはだいぶ落ち着いてきた。
 テーブルにお茶を置いて、どうぞ、と勧める。葛城は向かい側のソファに腰を下ろし、正面から万里を見つめた。彼が心配してくれているのは分かったが、口を開いたらまた涙がこぼれそうで、万里は黙っていた。
「万里さん」葛城が思い切ったように口を開いた。
「はい」
「どうせなら、もっと大きな店を切り盛りしてみたらどうだろう?」
 意外な言葉だった。疲れちゃったんです、と口走ったりしたから、しばらく店を閉めてゆっくりしたら? とでも言われるのではないかと思っていた。なのに、葛城の提案はまるで逆。
 もっと大きな店を切り盛り?
「一人でいるのはよくないよ。特にあの店。あそこには悠太郎との思い出が染み付いているんだろう? 思い出を大事にするのはいいことだけど、今の万里さんにはもっと別の何かが必要だ。そんな気がする」
「だからって、大きなお店なんて」
「前から思ってはいたんだ。手作りケーキを売るだけじゃ、もったいないなってね。もちろん、万里さんのケーキ作りの腕は一級だろうが、何て言うのかな、万里さんはもっとトータルで人をもてなすことができる。ほら、この部屋。あと、悠太郎の歯科医院の待合室なんかも、万里さんが整えたものなんだろう? 居心地のいい空間を作り出すのがうまいんだ。プロのインテリアコーディネーターなんかとは違う。もっと親しみやすくて、商業的じゃなくて、家庭的なんだけど、くだけすぎていない。そういう場所」
「ありがとう。嬉しいです」
「カフェ、がいいんじゃないだろうか」
「カフェ?」
「そう。表参道や青山にあるのを真似る必要はない。万里さんらしいもの。たとえば、万里さんがパリに留学していたときに好きだった店をイメージしたら?」
 万里は自分の中のカフェのイメージを探った。万里が好きだったのは、行きつけの本屋の隣にあった小さな店だ。年季の入ったテーブル。深いローストのコーヒーの味わい。
かりっと焼いたベーコンとグリュイエールチーズを挟んだサンドイッチ。そこに集う人々のくつろいだ表情。間断なく続くお喋り。低い笑い声。思い出すだけで、胸の奥にさまざまな感情が湧き上がってくるあの場所。
 いつも店の一角で、万里は東京にいる悠太郎を思った。手紙を綴ることも多かった。当時の万里の寂しさや不安を吸い取ってくれたのがあのカフェだった。
「ヨーロッパに演奏旅行に行ったときなんかに、路地裏で小さなカフェを見つけて入ってみる。これが、驚くほど居心地がいい。コーヒー一杯と栗の菓子をもらって一時間も粘る。文庫本を読んでのんびりする。学生に戻ったみたいな気分になる。いい歳をしておかしいかもしれないけどね。万里さんがカフェを作ったら、ああいう店になりそうな気がする」
 カフェを経営するなんて、思ってみたこともなかった。なのに、聞いた瞬間、胸の中が温かくなった。その場所が浮かんだ。そこにいる自分自身も。
 霧が晴れて、目の前が開けていくようだった。新しい世界に出ていけば、もう一度、生きていける。
 だが、次の瞬間には自問していた。
 本当にそんなことができるのだろうか。今まで悠太郎に守られて生きてきた私に。
 少し考えてみます、と言った万里の表情は硬かった。
「ゆっくり考えてみたらいいよ。不動産屋に知り合いがいるから、その気になったらいつでも言ってくれよ」
「ありがとうございます」
 そのときインターフォンが鳴った。唯香が学校から帰ってきたのだ。玄関に行き、ドアを開ける。
「ただいま」と言いながら入ってきた唯香が、玄関に男物の靴を見つけて嬉しそうな顔になる。ばたばたとリビングルームに向かって走り出した。
「葛城のおじちゃま」唯香の声が弾む。
「お帰り。唯香ちゃん」
「ねえ、私のピアノ聴いて。メヌエット、弾けるようになったんだよ」ランドセルを放り投げ、早速ピアノに向かう。
「そりゃすごいね。では、拝聴しましょうか」
 弾き始める。が、すぐにつっかえる。
「あ、失敗。もう一回最初からね。ちゃんと聴いててよ」
「はいはい」
 クレセント交響楽団の常任指揮者である葛城に向かって、ちゃんと聴いててよ、と言ってのけるのだから唯香もたいしたものだと思い、ようやく万里は心から笑うことができたのだった。

 迷いに迷ったのだが、カフェに立つ自分の姿が日増しに輪郭をはっきりさせていくのを認めるしかなくなったとき、万里はやってみようと決めた。
 自宅を売却してマンションに引っ越し、残った金を事業資金にすることにした。葛城の知り合いに頼んで店舗となる物件を探してもらう一方、洋菓子作りを学んでいた頃の友人、天野秀美に相談を持ちかけた。秀美とは、パリの菓子学校で一緒に勉強した仲だった。秀美は留学中に知り合ったベルギー人のパティシェと結婚し、向こうで店を構えて幸せに暮らしているとばかり思っていたのだが、数年前に離婚して日本に戻り、語学スクールでアルバイトをしていた。悠太郎が亡くなったとき、親身になって世話を焼いてくれたのも秀美だった。
「カフェ?」
 秀美は驚いた声を出した。訝るような案じるような顔で万里を見た。
「新しいことを始めたいの」
 万里が言ったら、それですべてを察したように、秀美は、万里ちゃん、えらいよ、ほんとにえらい、と言ってはらはらと涙を流した。
 実際にカフェを始めてみると、秀美はとても頼りになった。調理師免許とパティシェの資格を持っているばかりでなく、とにかく骨身を惜しまない。黙々と仕事に精を出す彼女がいるから、自然に他のスタッフの質も向上していったのである。
 万里は経営に関する用事で外出することも多いが、本店に秀美がいてくれるので安心だった。
 十年。とにもかくにも続けてきた。小学生だった唯香は十七歳になり、万里は今年の夏、四十三歳になる。
 四十三歳。
 腕を目の高さに上げながら、改めて自分の年齢を噛みしめる。二の腕には年相応の脂肪がつき、たるんでいる。いつしか肌の張りもなくなった。
 ついこの間、風呂上がりの唯香が、タオルだけ巻いている姿を目にして驚いた。首筋や胸元のぴんと張りつめた肌の上で、湯滴が躍っていた。シミも皺もなにもない。上等な生クリームを思わせるすべらかな肌。その瑞々しさに見惚れそうになり、風邪ひくわよ、早くパジャマを着なさいと慌てて声をかけたのだった。
 唯香の肌と比べたら、今の私なんて、冷蔵庫に入れっ放しのまま忘れ去られていたスポンジケーキのようにしなびている。
 ぴぴぴぴぴぴ。高く耳につく音が響いた。
 タイマーが鳴っているのである。
 いけない。もう三十分経ったんだ。
 万里は慌てて風呂から上がる。バスローブを羽織ってキッチンヘ行く。冷凍庫からバットを取り出して、フォークでざくざくと混ぜる。いい感じに表面が凍り始めていた。
 混ぜ終わると、再び冷凍庫に戻し、万里は洗面所に取って返す。コットンに化粧水をたっぷりしみ込ませて顔に叩き込んでから、今度はボディクリームを掌にとって全身にすり込む。簡単なマッサージ。細胞が蘇っていくような気がするのは、クリームとマッサージのせいなのか、それとも、これから凌駕に会うからなのか。
 万里の休みの火曜日と、凌駕のオフの日が重なったのは久しぶりだ。
「ランチをして、午後はずっと一緒にいて、夜になったら、二人でパーティに行こう」
 そんなふうに誘われたとき、万里はなんと言えばいいのか分からないほどうっとりと嬉しかったのだが、口をついて出たのは、なんだか疲れちゃいそうね、というかわいげのない言葉だった。凌駕は気分を害した様子もなく、疲れたら休めばいいさ、と応じた。
 凌駕とは、十二時に下北沢で待ち合わせている。万里の自宅のある桜新町からなら、三十分みれば大丈夫だろう。グラニテを作ってから出かけるつもりだった。学校から帰ってきた唯香がきっと喜ぶ。
 普段から仕事で家を空けることが多いのに、その上、仕事が休みの日まで娘を一人にしてしまうことに罪悪感を覚える。十七歳の娘は、一人で留守番をするのを寂しいとは感じていないかもしれない。一人の方が気楽でいいとさえ思っていそうな気もする。それでも何か、ちょっとした罪滅ぼしをしないと気が済まない。自己満足に過ぎないのだとしても。
 昨夜のうちにカレーを用意してあるから、夕飯はそれを食べてもらえばいい。昼食用にはパンを買ってくると唯香が言っていた。
 あとはグラニテ。
 幼い頃から、唯香はこの氷菓が大好きだった。ことにリンゴの入ったグラニテが。同時に、彼女は世の中で最も厳しいグラニテ批評家でもあった。と言って、口に出して文句を言ったり、出されたものを残すわけではない。ただ、満足のいくものといかないものとでは、唯香の表情がまるで違うのだ。
 リンゴは芯の周りに蜜を含んだ紅玉でなければならず、紅茶はフォートナム&メイソンのアッサム。砂糖やリキュールの量にも気を配らなければいけない。なにより、舌触りの善し悪しがもっとも大事なポイント。手抜きをして一度か二度かき混ぜただけだと、粗すぎるらしく、食べながら唯香は小首を傾げる。アイスバーのように固いものになってしまったときは、とても悲しげな顔になる。それでも残さずに食べてくれるから、作った万里としては、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。なんとしても唯香が合格点をくれるものを作らなくては。
 それで万里は、きょうも完璧なグラニテを作るべく朝から気合いを入れて取り組んでいるのである。三十分ごとの攪拌厳守。
 あと二、三度、かき混ぜれば、唯香が帰宅する頃には理想的な仕上がりになっているはずだ。その間、新聞を読み、ストレッチをし、着替えてメイクをする。グラニテを仕上げてから家を出ても、待ち合わせには間に合うだろう。
 楽しげな足取りでリビングルームを横切りながら、ソファの上の犬を指先で撫でる。シュシュはじっとしていて、顔も上げなかった。

     2

 凌駕と待ち合わせたのは、下北沢の裏通りにある創作和食の店だった。新鮮な素材を使ったセンスの良い料理を食べさせてくれる。夜には何度か行ったことがあるが、ランチは初めてである。弁当がうまいんだよ、と凌駕が言っていた。
 万里が店に入っていくと、凌駕は先に来ていて、奥の小上がりでビールを飲んでいた。
 光の加減でブルーにもグレーにも見えるニットに黒っぽいパンツ。最近、よく着ている組み合わせだ。左手には万里が贈った腕時計。その上に、旅先で目について買ったというごついブレスレットを一つ重ねている。大柄というほどではないが、肩幅が広く、引き締まった体つきをしている。癖のない短い髪。日焼けした肌。一見すると、一流ではないけれど二流とも言い切れないスポーツ選手といった風情だ。
 グラスの脇に置いているのはペーパーバックで、最近、彼が凝って読んでいるトルコの若い作家のものだろう。右手にモンブランのボールペンを持ち、読みながらときどき手帳にメモを取ったりしているのを見ると、まるで現代文学専攻の大学院生のようだと思う。
 万里の視線に気付いて、凌駕が視線を上げた。表情を緩め、本にしおりを挟んで閉じる。
「勉強熱心ね」
 凌駕はちょっと笑って応じ、
「何飲む?」と訊いた。
「ビールを」
 凌駕が店員にビールを注文する。
「食事は弁当を頼んじゃったよ。いい?」
「もちろんよ。お弁当って、懐石料理を盛り合わせたお昼のお弁当のことでしょ?」
「そうだよ。他にある?」
「凌駕がお弁当って言うと、日の丸弁当のイメージだから」
「ひでえなあ」
 笑っていたら、ビールと茹でた空豆が運ばれてきた。まずは乾杯する。
「昼間からのんびりできるのっていいね」
「そうね」
 凌駕も万里も自由な仕事をしているのだから、もっと好きなように時間を使えそうなものなのだが、二人の休みが合うこと自体が少ないし、夜に待ち合わせて会ったとしても、遅くても九時半には万里は帰る。いくら高校生になったからといって、娘に深夜まで一人で留守番させておくのはいやだった。
「唯香ちゃんは大丈夫?」凌駕が訊く。
「大丈夫よ。お昼にはパンを買ってくるって言ってたし、デザートにはグラニテを作ってきたの。夕飯にはカレー。多少、遅くなっても大目に見てくれるでしょ」
「ならいいけど」
 弁当が運ばれてきた。刺身、煮物、揚げ物、それぞれが美しく盛りつけられ、とてもおいしそうだ。
「いただきます」早速、凌駕は箸をとる。「俺、和食って好きだけど、コースで順番に一品ずつ出されるのは苦手。揚げ物と一緒にご飯が食べたくなっちゃうからね。最後にご飯と味噌汁と漬け物だけだと、寂しいよ」
「情緒がないわね」
「お? 言ってくれるなあ。でも情緒派なんだよ、俺は」
「情緒派? 初耳だわ」
「映像の端々から情緒がにおい立つって批評されたことがある」
「確かに、映像からはね。でも、本人からはにおい立ってないわよ」
「見る目がないなあ、万里さんは」と言って笑う。
 凌駕は映画監督である。彼と知り合ったのも仕事がらみだった。五年前、万里の経営するカフェで撮影をしたいと申し入れてきたのだ。
 あの頃と比べれば、映画監督、五十嵐凌駕の名は広く知られ、彼の作品はもてはやされるようになったが、こうして向かい合っている彼は少しも変わらない。気取りのない、陽気な男だった。
 お腹がすいていたようで、凌駕は食べるのに熱中している。本当は、牛丼とか大盛りラーメンとか、そういったものがよかったんじゃないのだろうかと万里は思ってしまう。この店を指定してきたのは、私への思いやりなのかな、と。凌駕にとっては、彩りや素材の良さよりも、量が食事のポイントなのだ。彼は若い。その彼に気を遣わせてしまっているのかと思うと、とても幸福なような申し訳ないような気持ちになる。
 一回り以上年下の恋人を万里は複雑な思いで見つめる。

 五年前、ラ・ブランシェットは、駒沢公園近くの一店舗だけで、経営者兼店長兼、ときにはパティシェとして万里はきりきりと働いていた。と言っても、開店当初の毎日が緊張の連続といった段階はとうに過ぎ、適度に力を抜いて、仕事を楽しむコツも身につけていた。
 万里は開店前のひとときが好きだった。掃除の行き届いた店内。磨き上げられたグラスが輝き、鍋やフライパンが銀色の鈍い光を放つ。ケーキやパンを焼く香りが漂ってきて、コーヒーの準備も整っている。
 一通り店内を歩いて見て回り、心の中でオーケーを出した後、テラスに立って公園を眺める。澄んだ空気が流れ、折々の季節の香りを運んでくる。大きく深呼吸をしながら、万里はしばしその場に佇む。それが習慣だった。
 その日もいつもと同じように、万里はテラスで深呼吸をした。自分の居場所を確保できた喜びと、きょうも一日がんばろうというささやかな自分への檄、そして悠太郎にもこの店を見てもらいたかったという、どこにも持って行き場のない思いを噛みしめた。悠太郎がここにいたら、なんて言うだろう? 何も言わずにそばにいるだけだろうか。
 胸の奥の方から突き上げてきそうになる切なさを押し込んで、さて、開店だ、と思ったときに、すみません、と声をかけられた。
 振り返ると、若い男が立っていた。ジーンズにTシャツ、かなり履き込んだスニーカーという普段着なのに、とてもきちんとした印象を受けたのは、彼の生真面目な表情ゆえだったかもしれない。
「突然、すみません」
「いえ。なにか?」と万里は訊いた。
 彼ははにかんでいるような、同時に絶対に退かないといった頑固さを滲ませた顔で、五十嵐凌駕と名乗り、実は僕、映画を撮っているんです、と言った。
「前から、この店に惹き付けられていました。店の佇まい、満席で賑わっていても、ざわついていない感じ。すごくいいなと思ったんです。ここで撮影させていただけませんか?」
 凌駕はそう言った。まっすぐに万里を見つめて。
 万里が戸惑っていると、
「お願いします」彼は深々と頭を下げた。
 立ち話では済みそうもなかったので、座るようにとテラスの椅子を勧め、従業員に言ってアイスティーを持ってこさせた。
 彼は次の作品の舞台になる場所をずっと探していたのだと言った。恋人同士、友人、親子。何組かの人々が出会い、別れ、そうしながら、今の自分を乗り越えようとする物語だという。
 その後、もう少し詳しい話を聞いた。凌駕はずっとアルバイトで生活費を稼ぎながら、自主制作映画を撮ってきたが、ようやく有名なフィルムフェスティバルで賞をもらい、プロとして仕事ができるようになったのだということだった。今回の作品に全力を注ぎたい、そのためにもこのカフェで撮影させてほしい、と続けた。凌駕の真剣な眼差しに半ば押し切られるようにして、万里は店での撮影を承諾した。
 店のオーナーという立場上、万里は何度か撮影現場に立ち合う機会があった。若い監督の撮る映画ということもあって、何となく和気あいあいとした現場を想像していたのだが、実際に目にしたそれは、ぴりぴりとした緊張感に包まれたものだった。ノーギャラでもいいから凌駕くんの映画に出して、と志願してきたとかで大物女優が出演することになったのも大きかっただろうが、それ以上に凌駕の存在感が際立っていた。大声を出したり、怒ったりするわけではない。むしろ彼は穏やかで、もの静かだった。低い声で説明し、指示を出し、あとは役者とスタッフに任せる。そして、ただじっと見つめる。
食い入るような視線を向ける。
「カット」という声がかかった瞬間、皆が凌駕の反応を待って息を詰める。
 一瞬の間。期待や責任や不安や自信など、その場にいる人々のあらゆる気持ちが凝縮された一瞬だった。
 満足がいかないと、凌駕はとても残念そうにゆっくり瞬きする。そして、もう一度、イメージを伝え直す。その繰り返しだった。これだ、というものが撮れたときは、目の輝きがぱっと強くなる。それはもう、これ以上ないほどに明るく、子供のような無邪気さをたたえた表情を見せるのだ。
「よし! これだよ。すっごくいい」という楽しげな声と開けっぴろげな笑顔。
 役者もスタッフも、凌駕のその表情が見たいのだ。その声を聞きたいのだ。だから全力を尽くす。撮影現場に漲る緊張感は、人々の情熱の証だった。
 作品の完成パーティに、万里も招んでもらった。万里が思っていた以上に映画は注目されたようで、映画以外のマスコミ関係者もいた華やかなパーティだった。大勢の人に囲まれた凌駕になんとか近付いて、万里はおめでとうございますという言葉だけを伝えた。
 お義理程度にビュッフェの食事と飲み物をもらい、そろそろ帰ろうと思って会場を出た。クロークでコートを受け取っていたら、いつの間にか凌駕がそばに来ていた。
「また会えますか」と凌駕が言った。
「え?」
 仕事に関することを言っているのかと思った。映画の宣伝用か何かに、ラ・ブランシェットを使いたいのかと。
「会ってほしい。連絡します」
 短く言うと、彼はパーティ会場に戻っていった。
 凌駕のアプローチは性急で直線的だった。
 パーティのあった翌日には電話がかかってきた。そして、夜、二人で会った。食前酒も飲み終わらないうちに、万里さんのことが好きです、と彼は言ったのである。
 万里は呆気にとられた。
 からかわれているのかと思ったが、彼は真面目な顔をしていたし、それまでに垣間見た仕事ぶりからして、たちの悪い冗談で人の気持ちをかき乱すような人間ではないと分かっていた。
「でも……」
 ようやく言葉を押し出したものの、万里は何を言おうとしたのか分からなくなった。いや、本当は分からなくなったわけではない。続く言葉はいくつもあった。
 でも、私の方がずっと年上よ。
 でも、私は未亡人なの。
 でも、私たち、出会ったばかりでしょう。
 でも、あなたにはもっとふさわしい女性がいるわ。
 そのどれもが陳腐なばかりでなく、万里の本心ではなかった。
 年上で未亡人で、出会ったばかりで、凌駕にもっとふさわしい女性がいるのだとしても、そんなことはどうでもいい。万里も凌駕に惹かれていた。撮影に立ち合わせてもらったとき、もしかしたら、初めて声をかけられたあの朝からずっと。それに気付いて、万里は狼狽えた。
 悠太郎を失ったとき、二度と男性によって心を動かされることはないだろうと思った。娘の成長を見守りながら齢を重ねていく。それが自分の人生だろうと。心の奥に炎が点ることなど、もうないはずだった。悠太郎と共に過ごした日々は、万里の人生においてとても重く、絶対的な価値を持つものだった。
 なのに……。
 凌駕との出会いは、ふいに飛んできた優しく美しい礫のようなもの。
「ありがとう。嬉しいわ」万里は言った。「信じられない気持ち。どうしたらいいのか分からない」
 言った途端、胸が一杯になり、涙が溢れそうになる。本当に、どうしたらいいのか分からなかった。凌駕に心を持っていかれそうになっているのは本当だったが、彼はあまりにも若く、悠太郎と違いすぎる。でも、だからこそ惹き付けられたのかもしれない。
 悠太郎が遥かに広がる海だとしたら、凌駕は波だった。押し寄せるときも、引いていくときも、そこにあるすべてを巻き込み、自分のものにしてしまう。万里はもう彼に搦めとられていた。
「ラ・ブランシェットの従業員に情報収集して、万里さんが独身であるって知ったときは嬉しかった」と言って凌駕は笑った。「俺は、万里さんのことをずっと見てたんだよ」
 撮影場所を探して歩くうちに、ラ・ブランシェットに出会い、最初は客として訪れてみたのだという。広くも狭くもない空間。大きめのカップでサービスされるカフェオレ。手作りのタルトやサンドイッチ。取り立てて変わったものがあるわけではない。なのに、なぜこんなに落ち着けるのだろうと不思議になったのだと。自分の家にいるような居心地よさとは違う。愛しい女性の部屋でくつろいでいる居心地の良さだった。
 それから、何度かラ・ブランシェットを訪れた。店に入るときもあれば、外から眺めているだけのときもあった。その何度目かの往訪のとき、開店前、テラスで大きく伸びをし、深呼吸をする女性がいるのに気が付いた。従業員が、オーナー、と呼びかけるのを聞いて、ああこの人が、オーナーなのか、あの空間を作った人なのか、と思ったのだ。そして、いつしかラ・ブランシェットと、その場所を生み出した人物とに惹き付けられていた、時折、女性オーナーが寂しげな横顔を見せるのも気になっていたのだと。
 その頃には、ラ・ブランシェット抜きでは、撮影はできないとまで思い詰めていた。そして、あの朝、凌駕は万里に話しかけたのだ。
「万里さんのおかげで、あの映画が撮れた。俺の人生が開けたんだ」
 彼の作品は小劇場を中心にロングランを続け、高い評価を得た。ラ・ブランシェットは人々が出会い、別れる場所として使われた。映画が封切られた後、店を訪れる人が増え、急遽スタッフを増やしたり、営業時間を延長したりした。
 人生が開けたのは万里も同じ。
 その後、支店を増やすことになったのは、凌駕の映画のおかげだった。

 あれから五年。
 今ではすっかり馴染んだ凌駕の部屋。
「万里さん、コーヒー飲む?」キッチンから凌駕が訊いた。
 食事を終えた後、彼の部屋に来て、日当たりのいいベッドの上で愛し合った。昼間の光の下で肌を晒すことには抵抗がある。四十二歳という自分の年齢をいやでも意識してしまう。カーテンを引いてほしいと万里は何度も頼んだのだが、凌駕はこのままがいいと言うのだった。
 風呂で目にした自分の肌。衰えの滲む肉体。
 凌駕は仕事柄、たくさんの美しい女性たちを見ている。その彼の目に今の自分がどんなふうに映ることか。考えただけで、おそろしい。
「お願い」
 万里が言っても、
「万里さんを見ていたいんだ」
 凌駕は万里に覆いかぶさり、唇を押し当て、万里が何も言えないようにしてしまった。
 体を離した後、うとうととまどろんでいたら、もう夕方の四時を過ぎている。
「頭をすっきりさせたいから、濃い目にコーヒーを淹れてね」
「了解」
 凌駕の知り合いの版画家が、青山の骨董通りにあるギャラリーで個展を催す。初日のきょうは、レセプションパーティが予定されている。一緒に行こうと誘われていた。凌駕と一緒に華やかな場に出かけることに、最近は抵抗がなくなった。前は、周りの人がどう思うのか、凌駕が気詰まりではないのかと気を回してばかりでちっとも楽しめなかったのだが、万里が心配するほど他の人たちはこちらに関心はないのだ。市ノ瀬万里さん、カフェを経営してるんだ、と凌駕が紹介して、どうも、と挨拶すればそれでおしまい。凌駕とどんな関係なのかと詮索されることもなければ、好奇の視線を向けられることもない。もしかしたら、あったのかもしれないが、少なくとも万里は気付かなかった。
 二人で一緒に街を歩いていても、まったく平気。凌駕には少しも気負ったところがなく、どこにいても違和感がない。
「映画監督なんて、名前はまあまあ知られたとしても、どんな顔をしてるかなんて誰も分からない。役者なんかと比べたら、気楽なもんだよ」と凌駕は言う。
「はいよ」
 凌駕がマグカップを持ってきてくれた。注文通りの濃いコーヒーだ。こうして誰かが淹れてくれたコーヒーを、バスローブ一枚羽織った格好で飲む幸せ。
「おいしいわ」
「ラ・ブランシェットのコーヒーと、どっちがうまい?」
 少し考え、
「それぞれ持ち味があるから」と答えた。
 凌駕は少し笑い、そうだね、と言う。
「パーティには何を着ていくの?」万里が訊いた。
「いつもの」凌駕の答えはあっさりしている。
 いつもの、というのは、一張羅と言ってもいいようなダークスーツだ。凌駕はセンスも悪くないし、ファッションに関心がないわけではないのだろうが、何枚も欲しいとは思わないようだ。気に入った服があると、そればかり着る。ダークスーツはその典型だ。改まった席に出るときは、いつもそれを身につける。
 万里には凌駕のそんなところも好ましい。好きなものはとことん愛する。一途な気質が感じられると思う。
 その彼は仕事を愛し、万里を愛してくれている。
 今は確かにそうだろう。けれど、いつまで?
 彼は才能にあふれ、将来を嘱望されている。この先、たくさんのものを手に入れていくだろう。もはや駆け出しの映画監督とは言えず、しっかりとした実績を上げ、周囲に影響を与えていくに違いない。やがては家庭を持ち、子供も生まれるだろう。
 いつか凌駕は離れていく。
 それは予感というより確信だった。そうでなければならないという信念といってもいいかもしれない。
 常に心の中で別れの準備をしておかなくてはならない。万里は自分に言い聞かせる。けれど、そうすればするほど愛おしさが募る。凌駕とともにいるこの時間が貴いものになる。彼との時間を一秒でも長く続けるためならなんだってする、と思ってしまう。
 一方で、そういう自分を必死で牽制する。凌駕に重たいと思われたらおしまいだ。
「ごちそうさま」万里はカップを置いた。「先にシャワーを使ってもいい?」
「いいよ」
 ベッドから立ち上がろうとしたら、凌駕に腰を抱かれた。バランスを崩してベッドに倒れ込む。
「やっぱりダメ」凌駕が言う。「もう一回しよう」
「何言ってるのよ」
 笑いながら押しのけようとしたが、凌駕は万里の両手を押さえ、首筋に唇を押し当ててくる。
 彼の熱い唇。今は私だけのもの。今は……。
 泣きたい気持ちになる。
「時間がないわよ」できるだけ普段通りの声で言う。
「平気だよ」
「きりがないわね」
「きりがないんだよ」

 地下に続く狭い階段を下りて行くと、思いがけず開放感のある空間が広がる。ギャラリー『A・O』。アオと読む。
 受付で名前を記帳してから会場に入る。手前に飲み物のカウンターがあり、その奥には軽食のビュッフェ。
 シャンパンをもらった。
 開場が五時で、今は五時十分。まだ客は少ない。
「凌駕」
 どこから現れたのか、小柄で金髪の男性が凌駕に飛びついてきた。
「おう。高田。おめでとう」
「サンキュ」
 その男性が版画家の高田壱男であるらしい。
「来てくれて嬉しいよ。そちらは?」にこにこしながら万里を見る。
「市ノ瀬万里さん。カフェを経営してるんだよ。前に作品で使わせてもらった」
「へええ、あのカフェかあ。いいなあ」
「お茶を飲みにいらしてくださいね」万里が言うと、
「いいの? 嬉しい。ほんとに行っちゃうよ」と言いながら、体をくねくねさせる。
「是非どうぞ」
「わあい。きょうは、ゆっくり見て行ってよ。この個展、すっごいリキ入れて頑張ったんだから。凌駕に誉めてもらいたくってさあ」
 おねえキャラの友達だと聞いていたので驚かないが、高田が身をくねらせながら凌駕にまとわりついている姿は、ちょっと見物だった。
「あ、そうだ。凌駕、あっちに紹介したい人がいるんだよね。グラフィックデザイナーなんだよ」
 凌駕が万里の方をちらっと見る。
「行ってきて。私は作品を見せてもらうから」
 うなずいて、凌駕が高田について歩いて行く。
 ふいに孤独を感じた。凌駕には華やかな交友関係があり、またそういった中に身を置くのが似合っている。やはり住む世界が違うのだとこんなときに思い知らされる。
 入り口に近いところから順番に作品を見ていく。『元気一杯の火山たち』だとか『きれいな海で泳ぐ幸せなお魚』『竹やぶの中にはかぐや姫じゃなくて、蛇がいたのです』といったタイトルは、高田のキャラクターにぴたりとはまるが、作品はと言えば、どれも大自然をダイナミックに表現したもので、男性的な印象を受ける。荒々しい火山が直線と激しい色彩で表現されている。表面に散らされたざらざらしたものは、砂なのだろうか。
 シャンパンを飲みながら作品を眺める。作風とタイトルのギャップがおもしろく、万里はときどき一人で小さく笑った。
 しばらくすると、凌駕がそばに戻ってきた。
「お話は終わったの?」
「一応ね。あいつは話し足りないみたいだったけど、きょうの主役を俺が独り占めするわけにはいかないしね」
「そうよね。高田さんの作品って、すごく力強いのね。驚いちゃった」
 目の前には、キラウエア火山の版画がある。
「あいつはあんなふうだけど、実は男の中の男なんだ」
「そうかもしれないわ」本気で同意した。
 次第に人が増えてきた。入り口付近で賑やかな声がする。モデル風の若い女性を伴った男性や、年齢不詳の男性、裕福そうな女性のグループ。
「あー、テルちゃん、来てくれたんだ。ミッチーも。ありがとう、ありがとう。嬉しい」高田がはしゃいでいる。
「おめでとう」
「お招きありがとう」
「はい、お花」
 また高田が喜びの声を上げる。
「何か食べる?」凌駕が訊いた。
「あんまりお腹すいてないわ」
「軽いものなら食べられるんじゃない? 適当に取ってくるよ」凌駕がビュッフェカウンターに歩いていった。
 入り口で人声がする。新しい客が来たのだろう。高田は人気があるらしい。
 万里はまた作品に向かい合った。海の絵だった。タイトルを確かめようと近付いたとき、お母さん、という声が響いてきた。反射的に振り返る。
 ジーンズに紺色のTシャツ姿の若い女の子が立っていた。化粧気のない顔。髪が乱れ、肩で息をしている。ほっそりした手足は頼りなく長い。薄暗いギャラリーの中で、彼女のいる場所だけがぽっかりと浮かび上がって見える。
「唯香」
 万里は驚いて走り寄る。
「どうしたの。なんでここにいるの?」
「お母さんこそ、どうして電話に出ないのよ! 何度もかけたのに……」もう少しで泣き出しそうな顔をしている。
 心臓をぎゅっとわし掴みにされたような気がする。娘のこんな表情を久しく見ていなかった。悠太郎が亡くなったとき以来だ。いったいなぜ、唯香はこんな顔をしているのだろう。嫌な予感に体が震えそうになる。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。私が落ち着かなくて、どうする。
「こっちに来て」
 唯香を会場の外に引っぱっていった。唯香は黙ってついてくる。階段の一番下のところで向かい合う。
「何があったの?」不安に駆られながらも、努めて平静に万里は訊く。
「シュシュが……」と言って口元に手を当てた。
「シュシュがどうかした?」
「学校から帰ってきたら、様子がおかしかったの。ぐったりして、元気がなくて。ソファに吐いたあともあった」
「それで?」
「お母さんに電話をしたのよ。でも通じなかった」
「ごめん」
 地下鉄でここまで来た上、ギャラリーは地下で電波が通じない。もしかしたら、凌駕の部屋にいたときにも着信していたのかもしれない。携帯電話はマナーモードにしたままバッグに突っ込んでいて、着信履歴を確認することもしなかった。言い訳のしようがない。
「シュシュを青柳先生のところに連れていったの。そうしたら、腎臓の病気だって。最近、水をがぶ飲みしてませんでしたかって訊かれた。してた?」
 そういえば、よく飲んでいたかもしれない。今朝も舌を鳴らして飲んでいた。暖かくなったからだとばかり思って、気にしていなかったのだが。
 万里の返事も待たずに唯香は続ける。
「今、点滴してもらってるの。あとでもう一度、来てくださいって青柳先生から言われてるの。そのときにシュシュを入院させるかどうか決めるからって。だからお母さんに相談したかったの。カレンダーに、『五時、青山、ギャラリーA・O』 って書いてあったから、とりあえず青山まで来たのよ。ここの住所はネットで調べた。電話番号も載ってたから、お母さんを呼び出してもらおうと思って、さっき電話したんだよ」
「ここにも電話したの?」
「そう。でも、お母さんはいなかった」
「まだ着いていなかったんだわ、きっと。電話を取った人に言付けてくれればよかったのに。そうしたら、私の方から電話したわ」
「待っていられなかった。だから来ちゃったの。点滴で元気になればいいけど、もしならなかったら、シュシュ、危ないんだって。歳とってるし」
「そんなに悪いの?」
「朝は元気だったの? お母さんが家にいたとき、シュシュはどうしてた?」
 元気がなかった。ソファの上で丸くなり、小さな声で、くうん、と鳴いた。なのに万里は気に留めなかったのだ。唯香に向かって、それを告白することができなかった。
「帰りましょう。青柳先生のところに行かなくちゃ。ちょっと待ってて、一緒に来た人に、先に帰るって言ってくるから」
 会場に戻ろうとしたとき、ちょうど凌駕がこちらに歩いてきた。万里と唯香をかわるがわるに見て、どうかしたの、と訊いた。
「飼い犬の具合が悪くて。帰らなくちゃならなくなったの」早口で言う。
「お母さん、早く」唯香が急かす。「シュシュが待ってる」目に涙が浮かんでいた。
 凌駕が唯香を見ている。万里は慌てて紹介した。
「娘の唯香。私が携帯に出なかったから、ここまで捜しに来たの。唯香、こちら、五十嵐凌駕さん。映画監督の」
 唯香はさっと凌駕を見て、申し訳程度に頭を下げた。腹を立てているような表情。こんな状況で母親の男友達を紹介されたことに戸惑い、不愉快に感じているのだろう。
「じゃ、行くわね。ごめんなさい」
 凌駕に言うと、万里は身を翻して唯香とともにその場を後にした。

       3

 シュシュの容態が落ち着くまでに、一週間かかった。
「元気になってよかったね」凌駕が言う。
 開店前のラ・ブランシェットのテラス席で、カフェオレを飲んでいる。
「数日入院して、獣医さんで点滴を受けてたの。一時は危なかったのよ。もち直してくれて、本当に良かった」
 腎疾患を持つ犬専用のドッグフードを与えているのと、唯香が以前よりももっとシュシュに甘くなったのを除けば、それ以外は普段通り。食欲もある。散歩に行きたがる。シュシュは元気になった。
「この間はごめんなさいね。パーティの途中で慌ただしく帰ったりして。唯香をきちんとあなたに紹介できなかったし」
「いいんだよ」
 黙ってカフェオレを飲む。向かいの公園の方から、桜の花びらが風に乗って飛んでくる。
 四月は万里の一番好きな季節だ。春の香りのする風を頬に受けていると、自分が新しく生まれ変われるような気がするから。そして、もう一つ。凌駕の誕生日のある月だから。十三歳違いの凌駕と、万里の誕生日のある八月まで、ほんのしばらくは十二歳違いでいられる。
 今年の誕生日のお祝いは何にしよう?
 昨年はバカラのグラスを贈った。凌駕は朝起きて一番に水を飲むときも、夜水割りを飲むときも、そのグラスを使っている。その前は、腕時計だった。それは今も彼の左手にある。
 今年も何か、凌駕にずっと身につけてもらえるもの、そばにおいてもらえるものを贈りたい。この間、下北沢の和食屋でペーパーバックを読みながら、メモを取っていた彼の姿が浮かんだ。ボールペンか万年筆がいいかもしれない。
 公園を眺めながら、万里は楽しく思いを巡らせていたが、凌駕の声で我に返った。
「唯香ちゃんって高校生だよね?」
「え? ええ、そうよ。この四月で三年生になったわ」
「十七歳?」
「そう」
「何かアルバイトしてるの?」
「アルバイト? してないわ。どうして」
「すごくきれいなコだったから。モデルか何かの仕事をしてるのかと思った。それか、子供の頃から劇団に所属してるとか」
「まさか」万里は笑って打ち消した。「あの子はそういうタイプじゃないのよ。内気で人見知りするし。派手なことはあんまり好きじゃないみたい。人前に出るなんて、とてもとても。将来はトリマーになりたいって言ってたわ。犬や猫の毛をカットしたり、きれいに整えてあげる仕事」
 どうせだったら獣医さんを目指したら? と勧めてみたら、怖くて手術なんかできない、と言っていた。
「もったいないな」凌駕がつぶやく。
「もったいないって何が?」
 凌駕は少し考えてから口を開く。
「この間、ギャラリーに唯香ちゃんが現れたときのことだよ。お母さんっていう声がして、その場にいた人の多くが受付の方を振り返ったと思う。そして、みんな、驚いたんだ。唯香ちゃんの立っているところだけ、スポットライトが当たっているようだった。目が離せなくなった。万里さんが歩み寄って唯香ちゃんを階段の方に連れていって、ようやく呪縛が解けたけどね。でも、あの強烈な引力は天性のもの。貴重だよ」
「それは違うわよ」万里は笑いながら、顔の前でひらひらと手を振る。「みんなが見てたのは、唯香があの場にまったくそぐわない存在だったからよ。血相を変えて、お母さんって呼んでるんだもの。誰だって見るわ。まるっきり普段着だったし。あの子、すごく浮いていたのよ。それだけのことだと思う」
「違うよ。それだけじゃない」凌駕の声に力がこもった。「俺には分かるんだ。唯香ちゃんには、特別な何かがある」
「ないわよ」
「あるよ。今までに、唯香ちゃんがスカウトされたことはないの?」
 ないわけではない。唯香と一緒に原宿や渋谷に買い物に行くと、それらしき人から声をかけられたり、名刺を渡されるのはしょっちゅうだ。けれど、そんなのは、年頃の女の子にはよくあること。怪しげな男もいたし、きちんとしたプロダクションの人もいた。いずれにしても、万里には娘を浮き沈みの激しい、人間関係の入り組んだところにやるつもりは毛頭なかったし、唯香自身も少しも興味を持っていなかったので、きっぱり断った。
 客観的に見て、唯香が不細工でないのは分かる。顔立ちは整っている方だろう。けれど、ものすごい美人というわけではないし、身長も百六十センチそこそこで、ほっそりしていると言えば聞こえはいいが、簡単に言えばめりはりのないすとんとした体つきだ。モデル体形にはほど遠い。万里の目には、ごくごく普通の、どちらかといえば地味な女子高生に映る。
 けれど、凌駕の目には違ったのだろうか。
 青山のギャラリーに唯香がいたのは、ごく短い時間だった。だが、いくら短い時間だったにせよ、凌駕の視線が唯香に注がれていたと思うだけで万里の心はざわついた。はっきり言えば、不快だった。
 なぜ凌駕は、唯香ちゃんには、特別な何かがある、などと言うのだろう。
「万里さんに頼みがある」
 凌駕はまっすぐ視線を当ててくる。万里は思わず身構えた。
「唯香ちゃんを次の映画で使わせてもらえないだろうか?」
「え?」
「ずっと探してたんだ。主人公のイメージに合う女の子を。若手の女優はもちろん、アイドル、モデル、いろいろと当たってみた。でも、いなかった。妥協できない。このコだって思う相手に巡り会えないことには、映画を撮り始められないんだ」
「ちょっと待って。それが唯香だって言うの?」
「うん。唯香ちゃんを見た瞬間に分かった。俺が探していたのは、彼女なんだよ」
「冗談じゃないわ。あの子の何を知ってるの? 凌駕があの子を見たのは、この間のギャラリーの時だけでしょ。ほんのちょっとの間だけ。違う?」
「そうだよ。それでも分かる」
「分かってない。あの子は演技なんてできないの。人前に出て自分を表現するのは苦手なの」
「万里さんこそ分かってないよ。唯香ちゃんは、まだ何もやってみていないんだよ。始めてもいないのに、演技ができない、表現するのが苦手なんて、なぜ言えるんだ?」
「母親だもの、分かるのよ」
「いいや、分かってない。分からないふりをしているような気もする」
「ふり? なんで私が分からないふりをしなければならないの?」
「唯香ちゃんが心配だからなんだろうね」
「母親が娘を心配するのは、当たり前でしょう?」
「唯香ちゃんを心配しているのは嘘じゃないだろうけど、万里さんが本当に心配しているのは自分自身のことなんだよ。万里さんは不安なんだ。唯香ちゃんを離したくないんだ。自分だけのものにしておきたいんだ。失いたくないんだよ。ご主人を亡くしてから、万里さんには唯香ちゃんしかいなかった。唯香ちゃんにしがみついてる」
「ひどいわ」唇が震える。
 なぜこんなことを言われなければならないのだろう。
 どうして、凌駕と言い合わなければならないのだろう。
「ごめん。言葉が過ぎたかもしれない。でも、唯香ちゃんを束縛してほしくない。唯香ちゃんには唯香ちゃんの道があると思う。それを認めることが、万里さんのためでもある」
 凌駕のためなら何でもする。力になりたいとずっと思ってきた。けれど、これだけは譲れない。唯香を映画に出演させるなんて。
「唯香ちゃんをもう一度、紹介してほしい。撮影にかかるまで、あまり猶予がないんだ。今すぐにでも唯香ちゃんに会わせてほしい」
「無理よ。たとえ会わせたところで、結果は見えてるわ」
「映画に出るか出ないかは、彼女が決めることだ」
「いいえ。あの子はまだ子供なの。唯香は映画には出ません。それは私が決めることです。お願いだから、唯香には関わらないで」
 万里は立ち上がると、凌駕をその場に残して店に入っていった。

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