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暗夜鬼譚 夜叉姫恋変化
瀬川貴次

   第一章 朱華幻影 〜文中より抜粋〜

 一条が僧侶たちをからかっていたのと同じ頃、平安京の西に広がる嵯峨野を、一台の牛車が進んでいた。
 牛車の横には、馬に乗った少年がぴたりとつきそっている。立烏帽子をかぶり、赤みの濃い香染(黄褐色)の狩衣を身にまとった彼は、御所の警備役の近衛から、蔵人に昇進して間もない大江夏樹であった。
 まだ、今年元服したばかりの十五歳で、父親は周防国(現在の山口県東部)の国司。貴族としては中流で、帝のそば近くに仕える蔵人に任命されたのは、破格の出世と言えた。
 もっとも、それだけに責任も重く、忙しさは並ではない。今日の休みも激務のすえに、やっと勝ち得たものだ。
 せっかくの休みだから、好きに使いたかった。が、久しぶりに邸でごろごろできる──そう思ってのんびりと昼寝をしていた夏樹を、容赦なく叩き起こしたのは乳母の桂だった。
「まあ。いい若いかたが、まるで年寄りのようですわね。実は、嵯峨野にいる妹が具合が悪いらしいので、訪ねてみようかと思っていたところですのよ。夏樹さまもお暇ならごいっしょされません? もちろん、お暇そうですから、ごいっしょされますわよね?」
 と、こちらの意見を聞くふりをしながら、無理やり外へひっぱりだしてくれたのである。
 久しぶりに会う妹に、養い子の自慢をしたかったのだろう。その証拠に、いざ行ってみると妹はいたって元気そうで、桂は彼女を相手にずっとしゃべり通しだった。
「母上を早くに亡くされ、父上は周防国にお残りになられて、夏樹さまのお世話はわたくしひとりに任されておりましょう? 正直なところ、不安でしたけれど、このように立派な公達になられて。やはり、お血筋でしょうかねえ。母上は北野の大臣のお孫でしたから。このたびは蔵人にまで出世され、主上の覚えもめでたく、御所の女房たちの間でも噂の的だとか……。乳母として、鼻がたこうございましてよ」
 手放しの褒めようで、御簾越しに聞いていた夏樹のほうが恥ずかしかった。
 蔵人になれたのは確かに出世だが、自分自身の実力ではなく、いろいろあってタナボタ式に手に入ったにすぎない。北野の大臣の血筋といっても傍系にすぎないし、父親といっしょに周防国に下って四年も田舎暮らしをしていたため、都ぶりなどすっかり忘れてしまった。
(噂になっているといったって、単に珍しがられているだけで……)
 そう思っているのは実際のところ、本人だけだった。
 少年らしい凛々しさと脆さが共存して、容姿はまったく申し分ない。桂の言うとおり、血のなせる業か、さわやかな気品も最初からその身に備わっている。
 少し純情すぎるところも、遊び好きな貴族の男どもを見慣れている女房たちにとっては、かわいらしいと好評だ。
 位はまだ六位。けして高くはなく、下から数えたほうが早いくらいだが、この若さで蔵人に抜擢されれば将来有望と言ってもいいだろう。
 そのようなわけでネタは尽きず、桂の自慢話はなかなか終わらなかった。妹もさぞや呆れていただろう。
 結局、帰るころにはすっかり陽が暮れてしまっていた。洛中の邸に着くのは、きっと夜だ。都も最近、何かと物騒なので、夏樹はなるべく早く帰りつくよう、道を急いだ。
 そんな折、牛車の物見の窓を開けて外を眺めていた桂が、突然、夏樹に声をかけた。
「あの、少し車を停めていただけますか?」
 夏樹はすぐに、従者に牛を立ち止まらせるよう命じた。それから、馬を降り、
「どうかしたのかい?」
 と尋ねる。牛車の揺れが、老いた身にこたえるのではないかと密かに心配していたところだった。
 が、桂はいたって元気で、顔色もよかった。どうも、久しぶりの外出でまだはしゃいでいるようだ。
「あそこの赤いものはなんでしょうか?」
 と、広がる野原を扇で差す。
「ああ……壱師の花(ヒガンバナ)が咲いているね」
「壱師の花でしたか。まるで秋の野が燃えているようですわ」
 桂はかなり目を悪くしているため、遠くの花がぼやけて、火のように見えるらしい。
 あまり道草はしたくなかったが、せっかくの上機嫌に水をさすのもためらわれた。
「いくつか摘んできてやろうか」
「まあ、よろしいんですか?」
「うん。ちょっと待っていて」
 道をはずれ、野に入ると、見た目より高く草が茂っていた。それを踏み分け、少しでもきれいな花を摘もうと奥へ進む。
 一本二本程度では桂も満足するまい。そう思って、何本も摘んだ。いつしか夢中になって。夏樹も花の美しさに魅せられていたのかもしれない。邸の庭に植えるのもいいかもしれないと、一本、根から掘り起こす。
 さすがに疲れてきたので手をとめ、あたりを見廻すと、満々と水をたたえた広沢池が野原のむこうで光っていた。池の対岸の山の、木々の合間には遍照寺の大門や僧堂の屋根が並んでいる。
 空は夕日の色に染まり、野には飛び火のようにぽつぽつと咲いた壱師の花。秋の訪れを感じさせる美しい光景だ。だがその光景に、夏樹は漠然とした不安を覚えた。
 桂が壱師の花を火のようだと譬えたせいだろうか。燃える野というのは、どうも不穏な印象がつきまとう。
(美しいことは美しいのだけど……)
 急に湧き起こった不吉な予感めいたものを追い出そうと、夏樹は頭を強く振った。そのとき急に、背後から若い女の声が聞こえてきた。
「摘むのは構いませんが、気をつけないと。壱師の花の根には毒があるそうですよ」
 近くには誰もいないものと思っていただけに、夏樹は驚いて振り返る。
 そこにいたのは、見知らぬ十六、七の少女だった。両手いっぱいに、壱師の花をかかえ、夏樹をまっすぐにみつめている。
 かと思うと、彼女は一転、顔を伏せた。
「ごめんなさい。つい……」
「あ、いえ」
 夏樹は掘り起こした壱師の花をパッと手から離した。
「根に毒があるとは知りませんでした。教えてくださってありがとうございます」
「いいえ。わたくしこそ余計な真似を……」
「余計だなんて全然。危うく乳母に毒を盛るところでしたよ」
「まあ」
 少女は顔を上げ、くすくすと笑った。
 夕日の赤、壱師の花の朱、少女の着ている蘇芳(紫がかった赤)の袿が、夏樹の目に鮮烈に映った。
 何より衝撃的だったのは、彼女の美しさだ。華やかな顔立ちでいながら、落ち着いた物腰。その優雅さは、絵巻物から抜け出したかぐや姫のよう。どこか寂しげな風情が、まさしく、月を見上げて憂いに沈むかぐや姫を連想させた。
 どういう素性の者なのか、供もつけずにこんなところにひとりでいるなど、深窓の姫君ならばあり得ない。かといって、それほど低い身分の者にも見えない。
 こういう場合、さては狐狸妖怪の類いかと疑うのが普通だろう。おりしも、〈誰そ彼時〉──あるいは、〈彼は誰時〉とも呼ばれる時刻。昼と夜が、この世とあの世が混じり合うときだ。
 だが、夏樹はそのようなことは思いつきもせず、ただ目を丸くして少女をみつめていた。
 何か話さないと、と思ったが、悲しいかな、こういう場面で彼が気のきいた台詞を言えた例など一度もなかった。もちろん、今度もそうだ。
 それでも、なんとかしないと、少女がすぐにも去ってしまいそうな気がして、
「壱師の花が……お好きなんですね」
 必死になって言の葉を絞り出した。少女は浅くうなずき、
「形が面白いですし、色もきれいなので」
 それに対してどう言葉を返すべきか、夏樹はまた迷ってしまった。顔を見るまでは普通に話せたくせにと、自分で自分が情けなくなる。
 このまま会話を続け、流れに乗ったところで、さりげなく彼女の名前や素性を聞き出さないと、この場限りの出逢いで終わってしまいかねない。そうとわかっているのに、焦れば焦るほど頭の中はぐしゃぐしゃになる。
「でも、毒があるんでしょう? おそろしくはないのですか」
 またもや必死に絞り出した問いに、少女は幻のごとく微かに笑った。
「おそろしいもののほうが、より美しいとは思いません?」
 少女は少しためらってから、思い切ったように数歩進み出てきて、夏樹との距離を縮めた。相手が装束に焚きしめている香の薫りを感じ取って、夏樹はたちまち赤面する。おそらく、彼のそんな初々しさが好印象をいだかせたのだろう、
「半分差しあげますわ。わたくしも摘みすぎてしまって」
 そう言って、少女は壱師の花をひと束差し出した。こういう場合、断るよりも受け取ったほうがいいのは明らかだろう。
「あ……ありがとう……」
 礼を言い、そこからさらに会話を発展させていければ上出来だ。だが──
 花を受け取ったとき、互いの指先が触れ合った。冷たい指だった。それだけで、夏樹はすっかり舞いあがってしまった。会話を発展させるどころではない。
 少女は軽く会釈すると、夏樹に背を向けた。静かに立ち去ろうとする。ここで何か言わないと、彼女は自分のことなど、ただのゆきずりとばかりに忘れてしまうだろう。
「あ、あの……!」
 聞こえなかったのか、彼女は振り返りもしない。
 夏樹もそれ以上の言葉が出せない。秋の野に消えていく後ろ姿を見送ることしかできない。
「あ……」
 茂る草の彼方に少女の姿が小さくなる。完全に見えなくなってしまうと、夏樹はがっくりと肩を落として、震える吐息を洩らした。
 突然で、短いけれども印象的な出逢い。まるで夢を見ていたような心地がする。あんな相手に逢えるなんて──それとも、本当に夢幻だったのだろうか。
 夏樹は腕の中に咲く壱師の花をぎゅっと抱きしめた。細い花弁がゆらゆらと揺れる。牛車で待っている桂のことも忘れて、夏樹は壱師の花に顔をうずめ、かの女の漂わせていた香りを偲んだ。
 両手いっぱいの花だけが、これが夢でないことの確かな証しだった。

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