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ひとり白虎
会津から長州へ
植松三十里

   一 謹慎の寺

 冷たい雨でも降り出しそうな曇天の下、護国寺の境内には北風が吹き抜け、落ち葉が音を立てて地面を転がっていく。
 くっきりと年輪が刻まれ、輪切りにされた切り株の上に、飯沼貞吉は太めの薪を立てた。それからせいいっぱい斧を持ち上げて、薪に向かって振り下ろす。
 だが斧は薪の端をかすめただけで、刃の角が台に突き刺さった。薪は墓場の方まで飛んでいってしまった。
 貞吉は拾いに行きがてら、自分の手を見た。木刀や竹刀を握るのとはわけが違い、手のひらは真っ赤で、皮がむけ始めている。
 四百五十石取りの会津藩士の家に生まれ育ち、十五歳の今まで、薪割りなどしたことがない。藩が戊辰戦争に負けて以来、何もかも変わってしまった。
 それに敗戦のひと月前に負った喉の傷口が、会津から江戸に来るまでの長旅で、ふたたび開いてしまった。それが膿んで、ここのところ微熱が続いており、斧を振り上げるのにも力が入らない。
 江戸の北西に位置する護国寺には、今や三百人あまりの会津人が収容されている。大勢いた修行僧や寺男たちは、ほとんどが追い出され、暮らしの雑用は、すべて自分たちで行わなければならない。
 藩から支給された金で、それぞれが出入りの米屋から米を買って自炊する。掃除や風呂焚きの作業は交代で行う。
 その日、貞吉は薪割り担当だった。元々、修行憎が入っていた大風呂を焚くためには、大量の薪が必要で、かなりの重労働だ。
 薪を拾おうと、墓場の前まで進み、だるさをこらえて身をかがめた時だった。いきなり後ろから突き飛ばされ、貞吉は前のめりに地面に転がった。
 背後で大笑いが起きる。振り返ると、数人の若い男たちが手を打って笑っていた。そっと忍び寄って、わざと背中を蹴飛ばしたらしい。
 知らない顔ばかりだが、会津から一緒に護送されてきたような気もするし、違うような気もした。
 ひとりが顎を突き出し、いかにも小馬鹿にしたように言う。
「おめえ、白虎隊の仲間が、大勢、自刃したのに、ひとりだけ死に損なったんだってな。その首の手ぬぐいの下が、ためらい傷か」
 さすがに貞吉は黙っていられずに言い返した。
「ためらい傷ではないッ」
 会津盆地の外れにある飯盛山で、白虎隊の一部が集団自刃し、貞吉も脇差で喉を突いたものの、ひとりだけ蘇生してしまった。それは事実だが、断じて、ためらったわけではなかった。
「そうか。じゃあ見せてもらおうか」
 男は近づいて、いきなり首の手ぬぐいに手を伸ばした。貞吉が取られまいとすると、揉み合いになった。
「死に損ないのくせに、刃向かうつもりかよッ」
 ほかがいっせいに加勢した。たちまち手ぬぐいが引きはがされ、腹を殴られて、貞吉は地面にうずくまった。土埃が上がる中、背中や腰、ところかまわず蹴られる。下駄で踏みつける者もいた。
 貞吉は海老のように背中を丸めながらも、抵抗はせず、されるがままになっていた。こんな仕打ちを受けても当然に思えたし、いっそこのまま死んでしまえば、楽かもしれないとまで思った。
 突然、大声が聞こえた。
「何をしているッ」
 暴行が止み、ひとりが慌てて言った。
「まずい。小倉の役人どもだ」
 そして、いっせいに逃げ出した。
 会津から江戸までの護送を担当したのは、北九州の小倉藩だった。
 もともと小倉は徳川譜代の大藩として、外様の多い九州諸藩に君臨していた。しかし幕末の第二次長州征討の際に、あっけなく城を捨ててしまった。
 それをきっかけに幕府方の旗色は悪くなる一方で、挽回できないまま幕府崩壊に至った。そのため会津人にとっては不愉快な存在だ。
 ばらばらと役人たちが駆け寄ってきた。そして貞吉の顔を見て言った。
「あッ、この者です。父親が、息子と同じ寺に居させてくれと申すのは」
 会津藩士たちは護国寺を含めて、江戸市中七つの謹慎所に振り分けられており、親子や兄弟は、たいがい違う場所に収容されている。
 しかし貞吉の父、飯沼一正は、息子の傷を案じて、自分が世話をしたいからと、同居を願い出ていた。
 一正は、息子が白虎隊で、たったひとり生き残ったと知った当初、当惑顔で言葉もなかった。それでも、いつしか、かばってくれるようになっていた。
 役人たちの中から、ひとりの男が進み出た。黒羅紗の詰め襟服に、朱色の陣羽織を身につけている。見たところ二十代半ばで、日焼けした顎が張り、太い眉の下の目が鋭く、印象の強い顔立ちだった。
 男は貞吉に近づくと、腕をつかんで立ち上がらせ、首の傷をのぞき見た。
「これは、ひどいな」
 そして役人たちを振り返った。
「医者には診せたのか」
 役人たちは当惑顔を横に振る。
「怪我人は別の謹慎所で治療しているので、ここには医者はおりません」
 護送される前に、怪我人は申し出ろと言われたが、貞吉は遠慮してしまった。その時は治りかけていたし、傷の理由を詮索されるのが嫌だったのだ。
 陣羽織の男は、貞吉の腕をつかんだままで言った。
「熱もあるようだし、とりあえず、このまま父親と一緒に居させよ」
 それから台に突き刺さった斧に、鋭い目を向けた。
「こんな病人に薪割りなどさせるな」
 役人のひとりが、貞吉に恩着せがましく言った。
「長州藩の楢崎頼三さまだ。ありがたく承れよ」

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