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砂の王宮
楡 周平

   プロローグ

 凄まじい豪雨だった。
 世田谷の岡本は、都内有数の高級住宅地だ。その中にあってひときわ目を惹く豪邸がある。白いタイルで覆われた外壁。特にリビングは普通の家屋の二階分に相当する高さがあり、庭に面した南側は全面がガラス張りとなっている。その窓際の椅子に座り、外の様子を眺めるひとりの老人の姿があった。
 時は平成二十二年八月──。齢八十五歳を迎えた塙太吉である。
 庭を覆う芝が飛沫に煙る。雨水が浮きはじめ、ところどころに水たまりをつくる。まだ二時半だというのに外は薄暗くなり、閃光と同時に雷鳴がひっきりなしに轟く。
 しかし、鉄筋コンクリート二階建ての屋敷の中は至って静かなもので、雷鳴以外に聞こえるものは、時折窓に吹きつける雨音だけだ。
 降りはじめはいつも突然だが、止むのもまた突然だ。二十分程で雨は上がり、外界は再び眩いばかりの夏の日差しに満たされる。
 芝の緑が一層鮮やかだ。敷地を取り囲む高い植栽の葉から、無数の水滴が煌めきを放ちながら滴り落ちる。
 日々の変化は、気づかぬほどに小さなものだが、振り返って見れば、社会も自然環境すらも大きく変化している。ひと昔前まで夕立は夏の風物詩といえるものだったのが、今ではゲリラ豪雨だ。『記録的』、『観測史上最大級』、豪雨の度に繰り返される言葉を聞くにつけ、塙は時の変化を、積み重ねてきた年月の長さを、突きつけられた思いに駆られる。
 事実、老いは確実に肉体に現れている。
 その最たる部分が膝だ。
 八十を迎えた辺りから痛みはじめ、いまでは杖を使わなければ体を支えられぬ。主治医は「他に大きな問題は見当たらない」というが、それも歳相応。この年齢になれば、誰しもがある程度の持病を抱えて当然だといわんばかりの口ぶりだ。幸い頭脳は今もって明晰で、事業への意欲も衰える気配はない。いや、むしろ老いてなお高まるばかりだ。
 いまや誠実屋は関連企業百五十社、スーパー、ショッピングモール、コンビニを含めると、全国に二千を超える店舗を抱える流通業界日本一の座を揺るぎないものとしている。その間にホテル事業に進出し、複合化も図ってきた。
 四年前に誠実屋ホールディングス社長の座に長男を、ホテル運営会社の社長に次男を据え、会長に退きはしたものの、代表取締役として実権を握っていることに変わりはない。グループは完全に塙の掌握下にある。
 しかし、それもいつまで続くか──。
 杖が車椅子へと変わり、徐々に体の自由が奪われていく──。それが、老いの方程式なら、行動の制約は思考能力を低下させ、事業どころか生きる気力をも奪っていくものだ。
 傍から見れば、恵まれた人生だ。これ以上、何を望むものがあるのかと思うだろう。
 確かに、紛れもない成功者だ。莫大な富も手にした。だからこそ人生の集大成に相応しい大事業を是が非でもものにせねばならないのだ。たとえ、生きて実現の日を迎えることができずとも──。
「ええ具合に、雨が上がってくれはった」
 リビングに入ってきた妻の八重子の声で、塙は我に返った。「良かったわあ。あない雷はんが鳴ってたら、恐ろしゅうてよう出かけませんわ」
 八重子は老いてますます活発である。観劇に、音楽会にと、頻繁に外出する。
 今日も、これから歌舞伎に出かける予定になっている。涼やかな和服を身に着け、髪もすでに整え終えた体からは、着物に薫き込めた白檀の香りが漂ってくる。
「支倉さんの奥さんによろしゅういうとってや」
 誠実屋のメインバンク、東都銀行頭取の妻が今日の観劇の伴だ。「頻繁に年寄りのお守りをしてもろうて、塙が感謝申し上げとるとな」
 塙は椅子に腰掛けたままいった。
「いわれんでも、みなさんには感謝してます。こない大事にしていただいてるんやもの」
 八重子は歌うようにいい、「ほな、行ってきます」
 玄関へと消えていった。
 八重子が頻繁に外出するのは、政財界の重鎮の奥方から頻繁に声がかかることもあるが、もうひとつ別の理由がある。
 長男は旧伯爵家の、次男は旧財閥の創業家の令嬢をそれぞれ娶った。その点からいえば、満願成就。塙は富と名声だけでなく、閨閥をも手にしたのだが、言葉遣いも違えば生活習慣、作法と、何もかもが異なる。ふたりの息子の家庭内に、これといった問題があるわけではないが、ただでさえも難しいのが嫁姑の仲だ。決して埋まらぬ溝ができて当然というものだ。
 孫ができても、育て方も違えば、教育に関しての考え方も違う。世話を焼きたいのは山々だろうが、それも叶わぬ。八重子が頻繁に外出するのは、その寂しさ、悲しさを埋める唯一の方法なのだ。
 ひとりになった塙は、リモコンを使ってテレビをつけた。
 当てがあったわけではない。チャンネルを切り替えるうちに、集中豪雨の画像が映った。
 先ほどの雨は北に進んだらしい。都心は酷い豪雨である。
 八重子には専用車をあてがってある。それでもやはり気になって中継リポートに見入るうち、画像はスタジオに戻った。
「それでは次です。たったいま、入ったニュースです」
 司会者が告げた。
 ワイドショーもどきのニュース番組に興味はない。
 塙はリモコンに手を伸ばした。
 電源を切るより早く司会者がいった。
「四十一年前、赤坂のホテルで起きた殺人事件。いわゆる江原事件ですが、東京地裁で再審請求を認める決定が先ほど出ました。検察は決定を不服として、即時抗告しました」
 司会者の姿が映し出されたのは冒頭部分だけで、画像はすぐに当時のニュース映像に変わった。
 ホテル二階のフロアだ。
 規制線のロープをくぐり抜け、警察官が奥の通路に向かって行く。その先には、深町信介が絶命したトイレがある。
 映像は残酷なものだ。
 久しく封印してきた当時の記憶が、塙の脳裏に鮮明に蘇ってきた。
 深町の死体が清掃員によって発見されたのは、事件の翌朝のことだ。
 警察の動きは早かった。
 深町に身寄りはいない。所持していた運転免許証と名刺から身元が特定されると、その日の夕刻、雇用主である塙の下に身元確認の要請が入った。
 赤坂署の遺体安置室で対面した深町の姿は、もちろん忘れられない。
 全身を覆った白い布を捜査官が僅かにめくり上げると、顔が現れた。
 遺体は例外なく肌の色が白黄色になり、質感も蝋細工のようになる。既に目は閉じられており、頬の肉が弛緩したのか絶命時の様相とは異なって、穏やかな死に顔だった。半開きになった口元から覗く黄ばんだ歯。脂気の抜けた頭髪。洒落者だった、深町の生前の姿とは似ても似つかぬ風貌──。
「このボケ! まんまと嵌められよって!」
 塙は罵りの言葉を胸中で叫ぶ一方で、これからの捜査の行方に思いが行くと、絶望的な気持ちに襲われた。
「どないしてくれんねん。わしが殺したいうことになったら、何もかも終わりや。会社はどないなんねん。家族かて人殺しと呼ばれて、一生日陰者の道を歩まなならんことになってまう。あり得へん。そないなこと、わしの人生には絶対起こってはならんことや。そやけど──」
 深町に対する怒り、これまで築き上げてきた全てを失うことへの恐怖。もはや、自分では制御できない感情が一気に噴出してきた。
 塙は号泣し、その場に崩れ落ちた。
「深町さんに間違いありませんか」
 捜査官の問い掛けに、塙は無言のまま頷いた。
 遺体の確認を終えると、事情聴取がはじまった。
 深町の死の真相は話せない。白を切り通すしかない──。
「再審決定の決め手になったのは、凶器の柄に巻かれたハンカチについた僅かな血液だったといいます。確かに血液型は江原死刑囚と一致した。ところが最新のDNA鑑定にかけたところ、江原死刑囚の型とは違うことが分かった。ハンカチの存在は、最初から一貫して江原死刑囚が知らないと否認してきたことですが、それが事実であることが証明された。つまり致命傷を与えたのは江原死刑囚ではない。他の誰かだ、ということになるわけです」
 司会者がいった。
 そやったら、なんやっちゅうねん。
 塙はリモコンのボタンを押した。
 画面が消え、室内は静謐に包まれた。
 いまさら再捜査をはじめたところで、当時の捜査官はとっくに現役を退いている。それに検察は即時抗告したのだ。再審が確定するまでの道のりは長い。第一、事件はとうの昔に時効だ。警察が再捜査に着手するとは思えない。
 だが、やはり動揺は抑え切れない。心臓の鼓動が速くなり、背筋に嫌な汗が滲み出す。鮮やかだった庭の緑もどこかくすんだように見える。
 あれから四十一年も経つのか──。
 珍しく、酷い疲れを感じた。
 少し休もう──。
 塙はゆっくりと瞼を閉じ、背凭れに体を預けた。
 フカシンと呼び、いまに至る成功の道をあの日まで共に歩んできた男との時が浮かび上がってきた。

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