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棋翁戦てんまつ記
逢坂 剛 大沢在昌 北方謙三 黒川博行
志水辰夫 船戸与一 宮部みゆき 夢枕 獏

序の戦 筆戦・相撲を見に行く

面白うてやがて悲しき……
                    志水辰夫

 はっきり言って相撲は嫌いである。元虚弱児。二十代を通じて体重は一度も四十五キロを超えたことがなかった。フライ級の下のモスキート級なのだ。だから身体の大きさがものをいうスポーツは大の苦手で、相撲はその最たるものだった。二十をだいぶすぎてからのことだったと思うが、遊び半分に中学校の相撲部員と取っ組んでみて、これは百回やったって勝てないと、愕然としたことがあるのをよく覚えている。
 大相撲は子どものころから比較的見てきたほうだ。といっても田舎に住んでいたから地方巡業しか見る機会はなかったわけだが、はじめて連れて行ってもらったのは双葉山の時代だといえば、その古さがわかっていただけるだろう。
 昔は場所数が少なかったせいもあってか、地方巡業が頻繁にあり、それほど大都市でなくても数年に一回ぐらいの割合で大相撲がやって来たものだ。テレビはもちろんマスコミも発達していなかったため田舎の人間が実際に力士を見る機会はそのときしかなく、地方巡業の意義はいまよりはるかに大きかった。
 思い出してみると巡業はまず、町のあちこちに貼り出される予告のビラによってはじまった。芝居や浪曲の興行もそうだったが、たった一枚のビラが、単調なふだんの生活になにがしか浮き浮きするような、華やかな気分をかきたててくれたものだ。
 当日が迫ってくると土俵づくりや小屋掛けがはじまる。場所はたいてい町の広場と相場が決まっていて、といって何千人も収容できる場所が田舎でもそうあるわけはなく、刈り入れの終わった田んぼがにわかづくりの会場になったこともあった。
 小屋掛けといってもいたって簡素なものだ。杭で仕切って蓆を掛けるだけ。要は只見客を締め出すためのカーテンにすぎなかったから、取組み後半になると監視の目もゆるみ、隙間から場内に潜り込むことが簡単にできた。田舎の少年たちはもっぱらそうやって相撲というものを見たものである。
 サーカスの興行がテント張りだったのに対し、なぜか相撲はいつまでも蓆張りだった。下が軟らかいところとか滑りやすいところには必ず蓆が敷いてあったし、座席ももちろん蓆敷き。大相撲の巡業というと、即座にあの日向くさい、ちょっといがらっぽい蓆の匂いが蘇ってくる。
 それともうひとつ思い出すのがトイレの臭気。仮設トイレは穴を掘って周囲を囲った程度のものか、汲み取り用のコエ桶、つまり小便タゴをじかに据えてあるかのどっちかだったから、快適性、防臭性は皆無、場内どこにいてもかなり強烈に臭ってきたものだった。相撲に歓声を上げ、弁当を食い、酒を飲んでいる最中でさえ、この馥郁たる香りから逃れることはできない。考えてみると排泄物の臭いというのはほんのこの間まで、盛り場、祭り、市、行楽、この国では人の出てくるところというと必ず漂ってくる臭いだった。
 どうも周辺の印象ばかり鮮明で、肝心の相撲のほうはとんと記憶がない。地方巡業で歴史に残るような名勝負があったという話は聞いたことがないから、これはこちらの責任ではなかろう。子ども心に焼きついているイメージそのものが、通常のスポーツとはだいぶちがうおどろおどろしたものだった。それは祭りのときのろくろ首の見せ物だとか、のぞきからくりの口上とかに代表される非日常の世界であり、自分の身体の何倍もある大きな男がのっしのっしと歩き回っている光景は、不思議の国に迷い込んだアリスさながらの異様な雰囲気に浸らせてくれた。一度場内の稽古場で、はるか年下の力士に稽古でいじめられて涙をぽろぽろ流しているふんどしかつぎを見たことがある。その光景もさることながら、他の力士がそれを平然と見ていることに、なにより自分の所属している世界との隔たりを感じたのだった。
 興行が終わると力士たちはさっさと荷物をまとめてつぎの巡業地へ旅立って行く。あとに残された気だるいような倦怠感と、適度の満足感、不満足感。満足感というのは贔屓力士の相撲をこの目で見たことだったろうし、不満足感というのは楽しみがあっけなく終わってしまったことへの物足りなさだったろうか。祭りのあとの感覚はいつだって軽い虚脱感を伴った。つぎの祭りまでまた何年か待たなければならない。
 あれはけっして国技の観賞なんてものではなかった。しばしの間われを忘れ、歓声を上げ、日ごろの鬱憤を晴らすための相撲見物だった。サーカスや芝居を見に行くのと同じ。その日の催しがより面白く、より過激で、より楽しければそれでよい。その意味ではコロシアムに押しかけるローマ市民と同じだったといってよい。存在理由がよくわからない横綱審議委員会のジイさんだとか、置屋のやりてババアみたいな協会の役員だとかはさしずめ元老院のお偉方、そういえばみんなナントカニウス、ナントカシウスそっくりの顔をしている。しかし年六場所はいかにも多すぎやしないか。ローマの剣闘士たちだってこんなハードスケジュールでこき使われていたかどうか。もうちょっと問題にしていいと思う。
 だれがなんと言おうと相撲は見せ物である。飲み食いしながら見るもの、一杯機嫌で囃し立てたり野次ったりしながら見物するものである。その証拠にというか、この日われわれが観戦した枡席では、席に着くなり以下のような酒肴が運ばれてきた。酒二本、ビール五本、お茶、やきとり、あられ、チーズ鱈、力豆、オードブルセット、幕の内弁当。これは帰るときくれる大量のお土産とは別で、あくまでも相撲見物のさいお食べください、お飲みくださいという主旨で茶屋から提供される酒肴である。枡席の料金システムがそれらの代金込みになっている。それにしてもなんという量、オレたちゃ小錦か。必死で飲み食いしたけど大半は残して持って帰らざるを得なかった。ちなみにわれわれ三人と編集者のY、合わせて四人の体重がほぼ小錦に等しい。
 なにもここで茶屋制度を論じようというつもりはない。大相撲が茶屋というこの独特の制度をつくりあげてきたこと、つまり相撲というものが本来このように飲み食いしながら、気楽に見物するものだったことを強調したいだけだ。
 社会生活がいまほど多様化していなかった時代には、生活の中に晴れとけというものが厳然と存在していた。日々の生活が単調で禁欲的だったから、晴れの日には羽目を外して思い切り楽しむ。そのための場所、行けばすべてを忘れることのできる施設が都市には機能として備わっていた。相撲もそのひとつ。もっとも手軽な晴れの場の見せ物だった。とくに貶める必要もなければ美化する必要もない、需要と供給のバランスがつくりだした特異なスポーツなのである。貴花田、若花田がいるから人気が盛り上がっているのではない。世の中が貴花田、若花田を必要としているのだ。
 国技館という名がどうも好きになれない。それを嵩に妙な精神主義を振り回されるのはもっと好きになれない。大相撲に講釈は不要。面白い話題に事欠かず、つぎつぎと新しいヒーローが生まれ、そのときどきの期待を満たしてくれたらそれで十分なのだ。
 と、ことさらわめかなくても観客のほうはとっくに目一杯相撲を楽しんでいるようで、それは国技館に行くとじつによくわかる。アルコールが入っているせいもあるだろうが、ほかのどのスポーツより観客と選手の間、つまり力士との距離が近い。絶え間ない野次と歓声。惜しみない賞賛と拍手。それは猥雑で、粗野で、闊達で、村祭りの素人芝居を取り巻いている雰囲気とまったく同じなのである。
 ところがテレビで放映される実況となると、画面が小さすぎるうえ場内の音響をわざとしぼっているのか、会場の雰囲気を十分の一も伝えていない。テレビ画面ではどうあがいてもあの全方位的な場内の雰囲気はとらえられないのだ。勢い、勝負に焦点を合わせ、結果だけを小さく切り取って見せることになる。決まり手の詳細はわかるにしても、あれは実物と似て非なる映像でしかない。テレビが大相撲に対する偏見と誤解をつくりだすうえでどんなに貢献していることか、もしお疑いならぜひ一度国技館へ足を運び、自分の目で確かめてごらんになるといい。
 何度でも言うが相撲は見せ物である。肉体を使った自己表現、パフォーマンスそのものであり、まがまがしくて、いかがわしくて、キッチュで、非日常的な世界である。七勝七敗の力士が千秋楽に全員勝ち越そうが、小錦の横綱昇進が時間の問題だろうが、そんなことは周知の事実であり暗黙の了解として許されている。それで大相撲の面白さや権威が損われるものではけっしてないのだ。相撲取りになるしか能のない人間や、それが成功のいちばんの近道だと信じている人間が懸命に努力するところであって、その結果が大関、横綱の誕生となる。これは作家が慢性的運動不足でブヨブヨに下腹を出して小説を書いていることや、営業マンが何足も靴を履きつぶしてノルマを果たしていることと、基本的に同じことなのである。
 この日、いかにも大相撲を象徴していると思われる光景が終盤に見られた。若貴の取組みが終わり、最大の呼びものだった小錦と曙の一戦が終わると、観客がぞろぞろと帰りはじめたのだ。あとに大関霧島と、横綱旭富士の出番、いわばメインイベントの取組み二番が残っていたにもかかわらずである。旭富士、安芸ノ島戦など世が世ならそれだけで客の呼べた組み合わせだったはずなのに。
 花道を入ってきた横綱の身体は素人目にも痛々しいくらい淋しかった。週刊誌の見出しに『出るも地獄、休むも地獄……』とあったがまさにその通り、気力体力の衰えは隠しようがなく、その日の勝負に不安を抱かせた。結果は申すまでもなく横綱が一方的に土俵を割り、今日にも引退必至を思わせた。結果的には翌日若花田に敗れるまでもう一日延びたわけだが、観客のほうはとっくに知っていたのである。だからこの勝負は見るまでもないと、さっさと帰って行った。自分の出番を前に、ぞろぞろ引き揚げて行く観客を見なければならなかった横綱の心中いかばかり。旭富士、今年まだ三十一歳である。客を引き止められなくなった力士、若さや新鮮さや未知の期待をなくしてしまった力士は、こうして土俵から去らなければならない。いつの時代でもそうだった。大相撲の真髄がここにある。土俵では今日もまた新しいヒーローが誕生している。


相撲今昔
                    逢坂剛

 昭和四十年の秋であったか、大相撲のテレビ中継がNHKだけでなく、民間局でも放映されていたころ、それもかなり末期の話である。
 当時わたしは大学四年生だった。
 就職も決まってほっとしているところへ、NTVにいる大学の先輩から、アルバイトの口がかかった。大相撲中継のアルバイトだった。放送席の前にすわって、外の中継車から伝えられる指示を、アナウンサーに知らせる仕事だという。
 最初のうち、ヘッドフォンを通じて中継車から「サブアナさん、サブアナさん」と呼びかけられ、だれのことか分からなかったので返事をせずにいたら、大目玉を食らった。サブアナとは《サブアナウンサー》のことで、まさにそれがわたしの役目だったのだ。仕事の内容に比べて、呼び方がものものしすぎるので、自分のこととは思わなかった。要するに仕事の中身は、中継車から「ここでコマーシャルはいります」とか「時間一杯です」などと連絡がはいると、それを紙に書いて放送中のアナウンサーの目の前に掲げる、それだけのことだった。
 当時の相撲中継のアナウンス担当は、現在CNNのキャスターをしている本多当一郎氏で、行き帰りのバスの中でもスタッフとよくしゃべる、おもしろい人だった。わたしが博報堂に就職が決まったと言うと、「きみは広告業界に行くには、おとなしすぎる」と意見された。本多アナと比べると、だれでもおとなしく見えてしまうし、そうでなくてもテレビ局はにぎやかな人が多いので、ふだんはよくしゃべるわたしも、そのときは借りてきた猫のようだったらしい。
 場所中は毎日放送席にゲストを呼び、本多アナと掛け合いで相撲を楽しむことになっていた。その中で、なぜか今でも覚えているのは、田中角栄だけである。扇子をぱたぱたやりながら「ま、このぅ」を連発していたのが印象的だった。
 そんなわけで十五日間というもの、毎日わたしは正面の放送席から、土俵上の熱戦を眺めることになった。文壇広しといえども、単なるアルバイトで毎日相撲を見た作家は、ほかにいないだろう(自慢するほどのことでもないが)。そのころは大鵬、柏戸の全盛期で、栃錦、若乃花の時代に比べて力士がすっかり大型化し、技を楽しむ相撲が少なくなっていた。特徴のある力士もあまりいなかった。
 当時わたしがひいきにしていたのは、明武谷である。この力士は身長こそあったが、土俵に上がるとかなり痩せて見えた。ところがどうして、国技館の廊下で実物とすれ違ったら、これはもう筋骨隆々、見上げるような偉丈夫だったのには驚いた。あんこ型の力士が多いために、土俵の上では痩せて見えただけなのだ。浅草寺の仁王像のモデルになったという話を聞いて、なるほどとうなずいてしまった。ソ連へ巡業に行ったときも、あちらの女性にいちばんもてたのは明武谷だった、と聞いたことがある。
 人間起重機と異名を取っただけあって、明武谷の得意技は吊りだった。四つに組んでまわしをつかんだら、相手が大鵬だろうと柏戸だろうと、何がなんでも吊り上げてしまう。対戦相手が、ふところに潜り込んで双差しになったりすると、明武谷は相手の肩越しに猿臂を伸ばして、両の上手を取る。ここまでくると、観客の方もよく承知しているから、どっと歓声を上げる。明武谷もその期待にこたえるべく、がむしゃらに相手を吊り上げる。そこに力士と観客の一体感が生まれ、相撲観戦の楽しみが倍増した。
 かつてはこのように、自分の得意技や独特の癖を持った力士が、たくさんいた。揺りもどし(呼びもどし)の初代若乃花、双差しの信夫山、内掛けの琴ケ浜、やぐら投げの羽島山、四股のきれいな清水川、じわじわ仕切りの鳴門海、まわしのきつい輝昇、といった具合である。
 ことに琴ケ浜の内掛けは、名人芸というほかはない切れ味を見せた。ただし三役にあがってからは、対戦相手もそれを承知して警戒するので、なかなか仕掛けられなかった。ところが、あれは引退寸前のころであったか、消える前のロウソクがひときわ輝くように、内掛けを連発して勝ち進んだことがある。そのころは琴ケ浜も、めったに内掛けを見せなくなっていたので、相手も警戒心が薄れていたのだろう。当時の横綱栃錦までが、みごとにこの内掛けで切ってとられた。琴ケ浜の足はいわゆるタコ足で、相手のふくらはぎの内側に巻きついた足の爪先が、甲の方までぐるりと回って引っかかり、一度かかったらはずれないといわれた。
 若乃花の揺りもどしもすごかった。おそらく見ている人は、この技をどうやってかけるのか知らず、またかけられた方がどうして倒れるのか分からなかっただろう。わたしは高校時代、まだビデオもない時代にこの技を日夜研究し、ついに自家薬籠中のものにした。
 実は揺りもどしは、上手出し投げと密接に関連した、一種の合わせ技なのである。上手出し投げは、若乃花のもう一つの得意技でもあったし、揺りもどしはその工夫から生まれたものに違いないのだ。
 かりに右四つの場合、上手出し投げをかけるときは、まず相手の左上手を切る。自分も右の下手を放し、右腕をあおって寄り身を見せながら、相手の体を起こす。相手がはっとして、押し返そうとするその瞬間に体を開き、左から投げを打つのである。しかし何度もやると、相手も警戒するから、だんだんかかりにくくなる。そこでわたしは考えた。たぶん若乃花も考えただろう。
 今述べたように右から起こし、つぎに上手出し投げをかけるように、左から小さく呼び込む。その手は食わぬと、相手が重心を後ろにもどそうとする瞬間、右腕を下手からあおり、同時に左足を大きく踏み込んで、相手を仰向けざまに倒す。つまり上手出し投げを見せ技にして、揺りもどしを仕掛けるわけである。うまくタイミングが合ったときは、ほとんど力を入れることなく、空気投げのようにきれいに決めることができる。
 まず下手からあおり、次いで上手から呼び込み、もう一度下手から大きくあおる。これが揺りもどし、ないしは呼びもどしの極意で、揺すって(呼んで)おいてもどすから、この名がついたのである。
 まずい。うっかり、手の内を見せてしまった。
 わたしと船戸与一は、いずれどこかで相撲を取ろう、と約束している。いつだったか、相撲のことならおれに任せろと言って互いに譲らず、一丁やるかという話になったのである。行司は、志水辰夫に頼むことになるだろう。たまたま土俵が見つからないため、まだ実現していないが、これでおそらく船戸を揺りもどしで倒すことは、むずかしくなった。しかしわたしにはまだ、もう一つ隠し技がある。それはここでは書かない。内無双? いやいや。外無双? まだまだ。とったり? なかなか。
 話がそれてしまった。
 要するに最近の相撲は、そうした得意技を持った力士が少なくなった、ということである。もちろん若花田や舞の海のように、多彩な技を披露する力士もいる。しかしこの力士にはこの技、という定番のようなものがない。貴闘力の張り手だけでは、いかにも寂しい。
 わたしはもともと、明武谷を別にすれば、栃錦、若乃花、千代の富士といった小兵軽量の力士が好きだった。しかし栃錦も千代の富士も、横綱になったとたんに肉がつき、軽量級のイメージがなくなったので、ひいきにするのをやめた。最後まで応援しつづけたのは、いっこうに体重のふえなかった若乃花ただ一人だった。
 今の力士で肩入れしたくなるのは、やはり舞の海、旭道山、寺尾、若花田といったクラスだろうか。寺尾や若花田は小兵とはいえないが、他の大型力士とくらべるとハンディがある。まして舞の海、旭道山となると、幕内にいるのが不思議なくらい華奢である。
 舞の海は、あの体からすればあっぱれ、善戦健闘しているといえよう。相撲のおもしろさと、ある種のスリルを味わわせてくれる力士は、彼にとどめをさすだろう。この初場所二日目に観戦したときも、巨漢大翔山にまっこうから勝負を挑み、土俵際での投げの打ち合いを再三しのいだあと、寄り切りで勝った。大翔山が何度もねじ伏せようとするのを、両足を踏ん張ってこらえ抜いた。相手の方が根負けした一番だった。
 しかしこの舞の海も、やがて取り口を覚えられたときには、壁にぶつかるだろう。他の力士と比べて、基礎体力が違いすぎる。かつて小兵といわれた岩風、鷲羽山あたりと比べても、はるかに小さい。毎日大翔山戦のような力相撲を取っていたら、とても体が持たない。ここ一、二年が勝負どころで、その間にせめて小結、できれば関脇まで昇進してほしいが、かなりむずかしい気がする。それだけに応援してやりたい。
 旭道山は、上背でだいぶ劣るが、明武谷とよく似た筋肉質の体をしている。あれでもう少し肉がつけば、千代の富士や霧島のような力士に化ける可能性がある。筋肉質の力士は概して体が固く、臨機応変に技を繰り出す器用さに欠けるといわれる。旭道山も足技に磨きをかければ、関脇、大関も夢ではないと思う。
 ここのところテレビ観戦に慣れてしまったが、久しぶりに両国国技館に足を運んで、やはり大相撲の醍醐味は実際に自分の目で見るところにある、と痛感した。四人用のマス席は相変わらず狭いが、中入り後の二時間くらいはなんとかがまんできる。飲み食いしながら取り組みを論評していると、仕切り直しの時間などすぐに過ぎてしまい、あれよあれよという間に結びの一番を迎える。テレビ観戦のときに感じる、あの妙ないらいらはまったくない。
 志水辰夫を立ち会い人として、船戸与一とわたしが決着をつけなければいけないのは、相撲ばかりではない。実はもう一つ、将棋の勝負がある。昨年船戸宅で駒を戦わせ、そのときは一勝一敗の五分に終わった。いずれ雌雄を決するときには、志水名人(らしい)が立ち会い、観戦記を書くことになっている。
 小説で勝負しなさい! という声も聞こえるが、男には男の意地があるのである。


大江戸相撲乱想酒気
                    船戸与一

 蔵前のころに比べすこしは広くしたそうだが、それでも両国国技館のマス席はいかにも狭い。余の体重が七五キロ、逢坂剛が七四キロ、志水辰夫五七キロ、Y編集者六四キロ。しかも初場所だからだれもが着ぶくれしてる。それが一平米くらいのところにむりやり収まるのだ。そのうえ食い物が来る。酒が来る。煙草の灰皿が来る。そういう状態で平成四年一月の相撲見物ははじまった。余は近い将来、逢坂剛と相撲を取り、どちらが強いかという積年の問題に決着をつけることになってる。そのときの行司役は志水辰夫。このはなしを聞きつけた早耳小僧のY編集者が三人を両国国技館に招待したのだ。何とか対決を早めようという魂胆らしい。へなちょこ横綱・旭富士の弱々しい不知火型土俵入りが行われたあと、余は古今の力士のうちいずれが最強であったかという時間潰し以外にはまったく無意味かつ不毛な論議、しかも困ったことに実に愉しい話題、それに打ち興じようとした。だが、逢坂剛が乗ってこない。やたらと余から眼を逸らしはじめた。むりもない。余には逢坂剛の胸の裡がよおっくわかる。対決を早めようとしたY編集者の思惑にこころが顫えだしたのだ。余の仏壇返しが怖いのである。掴み投げにも怯えているのだろう。それだけじゃない。眼の逸らしかたで逢坂のそのときの取り口までが余にははっきりわかった。立ちあがってすぐに猫騙し。はっとした瞬間に蹴たぐり。これしかない。だが、こんなことに引っかかるのは人の好い佐々木譲くらいのものだろう。夢枕獏なら張り手に似せたラリアートで仕留めるはずだ。騙しのテクニックについては余も学生時代から西木正明によってさんざん鍛えられてきた。いずれにせよ、その手は桑名の焼き蛤。余は勝ち誇った気分で薄笑いを浮かべてやった。すると、逢坂剛は茶屋の持ってきた焼きとりやら幕内弁当をがつがつと食いはじめた。さっきY編集者と神田のレストランでステーキを食ったばかりだというのにである。余は薄笑いを高笑いに変えた。逢坂剛の気持がもっともっとわかったからである。百舌にでも狙われている心境なのだろう。この一流サスペンス作家は哀れにも自らの想像力がゆえに身もだえしているのだ。余にぶん投げられて土俵の砂を噛む。砂によって味覚に変化が生じたらどうしよう? そうなるまえにいろんな物を食って物の味を確かめておこう。逢坂剛のやけ食いはせまりくる恐怖がこういう単純な心的回路を辿った当然の結果なのだ。余はぬはははと笑いながらあぐらの脚を組み替えた。そのとき、志水辰夫があの白色レグホンのような眼を瞬かせてコケ……と言った。余はそっちに注意を集中した。コケコココ……と志水辰夫。逢坂剛もちらりとそっちに眼を向けたが、すぐにまた幕内弁当を食いつづけた。実を言うと、余は国技館にはいるまえに志水辰夫のポケットに千円札を二枚滑りこませといたのである。つまり、買収。逢坂剛の取り口を聞きだし、余に告げる。その情報料だ。ちなみに志水辰夫の買収値段は一時間一万円、業者間特別価格は八割引き。余は聞き耳を立てた。志水辰夫が言う。コケコタコグコリコジコヤコナコイコ……。志水辰夫は日本における代表的なハードボイルド作家のひとりである。したがって余とちがい、風俗にたいする観察眼は実に鋭い。渋谷とか原宿では若者たちは陰語を使う。その陰語の使いかたのなかにすべての会話を一音一音刻みわけ、ルとかコとかいう音を挟みこむ方法があるらしいのだ。逢坂剛の取り口に関する情報提供はそのように行われた。志水辰夫がつづける。コネコココダコマコシコノコアコトコ、コアコシコトコリコ……。なるほど、わかった、志水辰夫はこう報せてくれたのである。蹴タグリジャナイ、猫騙シノアト足取リ。もう万全だ、ここまで知ってしまえば余が逢坂剛に負ける気遣いはもはや万にひとつもない。いやはや大いに愉快。余は実にゆったりした気分で日本酒をぐびりぐびりやりながら土俵上を眺めつづけることにしたのである。
 勝負検査役の交代が終わったときだ、余は右肩をちょんちょんと突つかれた。そっちに眼を向けると、マス席に五十半ばの男がひとり脚を伸ばしてビールを飲んでる。下品だが愛嬌のある面だ。眼がやけに細く顔全体がぷくっと膨れてる。伸ばした脚は極端に短い。要するに、風貌も体躯も森詠そっくりだと考えてくれればいい。余談だが、森詠はいまオートバイに夢中になっている。こないだもオーストラリア大陸を疾走してきた。シドニーに住んでる余の友人からの情報によれば、砂漠を走る森詠を見てアボリジニーのひとりが心臓発作を起こしかけた。コアラがオートバイでドライヴしてると錯覚したらしいのだ。それはともかくとして、森詠そっくりなそいつは余を見てにっと笑った。そのマス席はさっきからずっと空席だったのだ。こっちは大の大人が四人、窮屈にあぐらをかいてる。脚も腰も痛かった。だから、三役の取組がはじまっても空席のままだったら、何かの都合で客は来れなくなったのだと踏み、勝手に隣に移動してやろうと思ってたのだ。そのマス席を五十半ばの短躯が独占し悠然とビールを飲んでる。そいつが余に話しかけてきた。ふしぎな日本語だ。肥後弁と待つ山弁と駿河弁が入り混じってる。そうなれば余も生まれ育った長州弁が出てしまう。会話は次のようにはじまった。
「どぎゃんば相撲取りを贔屓にしとるたいね、もし」「わしゃべつにだれっちゅうことはないんじゃがのう、ま、強いて挙げえちゅうんじゃったら舞の海じゃのう。で、おんしゃだれを贔屓にしちょるんじゃ?」「武蔵丸に決まっとるずら、もし」「おかしな日本語を使いよるが、おんしゃどこの生まれじゃ?」「当ててみんしゃい」「熊本かいのう?」「ちがうぞな」「愛媛?」「ちがうずら」「静岡じゃろう?」「ちゃう」「どこなんじゃ?」「オアフたい」「オアフちゅうとハワイのあのオアフ?」「イギリスにオアフがあるか? フランスにオアフがあるか? 中華人民共和国にオアフがあるか? オアフ言うたらハワイのオアフに決まっとろうもん! 何ば考えとるとね、こん大馬鹿もんが!」
 余はいささかむっとしたが、我慢した。何しろ相手は森詠にそっくりなのだ。冒険作家クラブの会費を最近、払ってない。それだけでもクラブの事務局長・森詠に似た風貌にたいしては下手に出なきゃならない。余はその顔色を窺いながら訊いた。
「ちゅうことは二世かいのう、おんしゃ」「三世たい」「そいで武蔵丸を贔屓にしちょるんか?」「それだけじゃないぞな、もし」「もしかしたら、武蔵丸がハワイにおるころから知っちょるとか」そいつはそれを聞いてビール瓶を箸でぺんぺんと叩き、急に浪曲調の節まわしになった。「よくぞォ訊いてエくれましたア。おっと、若旦那、憎いね。食いねえ、食いねえ、鮭の焼き物食いねえ」「幕内弁当のおかずなら、わしゃ持っちょる」「こりゃまた失礼。ところで、あんしゃん、堅気の仕事にゃ見えんが、何ばしくさっとるね?」「小説を書いちょるんじゃが」「下手な小説書くじゃない。野暮な都々逸やめておけ。馬鹿の考え休むに似たり。そぎゃんこつより、わしの話ば聞きんしゃい」
 そのとき茶屋の運び役が注文を取りに来た。背が高くひょこひょこした歩きかたは藤田宜永にそっくりだ。見まわしてみると、両国国技館のなかは余と親しい作家に似た顔がいっぱいいる。左のマス席で芸者衆らしいきれいどころを侍べらせるのは北方謙三そっくり。右のマス席で澄ました顔しながらボディコン姐ちゃんの股ぐらに手を突っこんでるのは大沢在昌。うしろのマス席で相撲を観にきてるのに涎を流して眠ってる大人風は伴野朗。その隣の満月すだれ禿げは井家上隆幸。マス席に配られる酒とつまみをくすねようと二階席から降りてきたちょび髭は内山安雄。どれもこれも風貌は実によく似てるのだ。余は錯覚を覚えたくらいである。オアフから来たそいつは藤田宜永に似た運び役にビール十本を追加注文してまた喋りだした。
「わしはオアフにおったころの武蔵丸を知っとるなんてもんじゃない。向かいの家に住んどったぞな、もし」「嘘じゃろ?」「わしは生まれてこのかた嘘と坊主の頭はゆうたことがなかっぺ」「まだ信用できんのう」「聞きんしゃい。わしは武蔵丸をがきんころからよう知っとるばい。それだけじゃなか。おやじもおふくろも知っとるし、爺っちゃん婆っちゃんも。何を隠そう、武蔵丸を相撲取りにせいと言ったんはこのわしぞね。武蔵丸は血筋が血筋じゃからな」「どねえな血筋ちゅうんじゃ?」「雷電為右衛門を知っとるか?」「江戸時代の相撲取りじゃろうが。谷風梶之助よりも実は強かったちゅう。がきんころ、講談本で読んだことがある。それがどうしたちゅうんじゃ?」「武蔵丸はあの雷電為右衛門の血が流れとるぞな、もし」「嘘こけ」「せからしかねえ、わしは嘘ば言うたことないずら。ほれ、ちょうど武蔵丸が土俵にあがってきた。よおっく見んしゃい、あの体つきを。脚が長すぎんずら? 胸板は厚いし、固太り。相撲取りとしちゃ理想的な体つきばしとろうもん」「それはそうじゃが」「日本人の血、それもあの雷電為右衛門の血が流れとるからずら」「与太ばなしはしちゃいけん」「ほんとずら。武蔵丸の家にゃ雷電為右衛門の遺品ば置かれとる。わしはそればこの眼で見とるし、武蔵丸の家に伝わっとる話を爺っちゃん婆っちゃんから聞いとるぞな。言わばルーツたいね」
 余はだんだんばかばかしくなってきたが、何しろそいつは冒険作家クラブ事務局長・森詠そっくりの風貌をしてるのだ。未払いの会費のこともあるし、一応は聞いてやらねばならない。こういう余のやさしさはいずれ身を滅すだろう。
「雷電為右衛門はものすごう強かったけんど横綱にはなれんかった。品格がどうじゃ風格がどうじゃ言いくさって、何ぼう勝っても横綱にはしてくれんじゃった。相撲を辞めてからの雷電がどぎゃんばしたか知っとるとね?」「知らんわい」「横綱になれんかった身ば哀しんで海に飛びこみんさったがや」「自殺したちゅうんか?」「ばってん、死にきれんかったぞな、もし。雷電為右衛門の岩みたいなごつでっかい体は黒潮に流されて南東へ南東へと運ばれていったぞな、もし」「そんで流れついたところがハワイのオアフ島」「だれに聞いたとね?」「聞かんでもわかるんじゃ、そんな筋書き」「オアフ島の浜辺に流れついたんが武蔵丸の婆っちゃんのおふくろのおふくろのおふくろのそのまたおふくろ。いつしかふたりのあいだにラヴが生まれたとよ。そんでファックばするようになりんさった。生まれた子が武蔵丸の婆っちゃんのおふくろのおふくろのおふくろ。つまり、武蔵丸には雷電為右衛門の血ば流れとるというわけだっぺ。ほれ、時間いっぱいたい。立ちあがりんしゃるど。相手は張り手の貴闘力ずら。ほれ、ほれ、ほれ、寄り切った。強かねえ、雷電の血ば流れとる武蔵丸はほんまこつ強かねえ!」
 余は急に悪酔いしてきた。逢坂剛と志水辰夫、それにY編集者はビールを飲んでる。余と隣のマス席のそいつとの会話には何の関心も示してない。余はこの法螺ばなしにとどめを刺すべく言った。
「証拠の遺品があると言うたのう?」「ある、ある、日本に来るんで武蔵丸の爺っちゃんから預こうてきたずら。いま胸のポケットに収まっとるぞな、もし」「何じゃ、それ? 見してみい」「ただじゃ見せられんぞな、もし」「どういうことなんじゃい?」「あんしゃん、小説書いとる言いんさったな」「それがどうしたんじゃい?」「十万円出しんしゃい、いや、五万円でもええ」「何でじゃ?」「証拠の遺品見せるから、それをもとに歴史ミステリーを書きんしゃい。たった五万円で証拠ば見れる。雷電為右衛門の足跡ばきっちり追ってみるずらよ」「けっ、そんな面倒な仕事は井沢元彦に委せとるんじゃ」「あんしゃん、すこしは努力ばせんといかんぜよ。二子山理事長が言うとろうもん、人間辛抱だとね。辛抱する木に花が咲く。人望高きは双葉山珍宝雷電=武蔵丸。こぎゃん簡単な理屈ばわからんとね? こん大馬鹿もんが!」


一の戦 誕生・井の頭公園

観戦記 志水辰夫

■因縁対決の前口上
 昨年の冬のことだ。ある作家の家に七、八人集まって盛り上がっていると、例によって自慢話がはじまった。あえて名は明かさないが、相撲を取らせたらおれは人に負けないと誰かがわめきはじめた。するとたちまち「相撲ならぼくだっていささか自信がある」誰かが受けて立った。酔っぱらいはこういうとき引くことを知らないから困る。じゃどっちが強いか黒白をつけようじゃないかということになって、深夜のマンションの一室であわや取っ組み合いがはじまろうとした。
 このときは周囲のものたちが止めた。気持ちばかりは十代でも肉体は正直に五十代を迎えている。運動不足で高血圧で酒浸りの男が本気で取っ組み合いなんかはじめたらろくなことにならないのは目に見えている(注1)。しかし血気に逸った男ふたりはおさまらない。じゃ相撲のつぎに自信のある将棋で決着をつけようということになった。そこで急遽、将棋対決となったのである。
 ふたりの腕前がどの程度のものだったかというと、駒の動かし方くらいしか知らないわたしが見てもそれは目を覆うような将棋だった。ふつうの感覚の持ち主ならこの程度の腕で将棋が指せるとは言わないものだが、謙虚という言葉にも個人差があるということだ。とにかく衆人環視の中、そのときの勝負は一勝一敗で終わった。本当は一番勝負のはずだったのだが、負けたほうが悔しがってもう一番所望し、二回目でなんとか面目を施したというわけ。勝ててよかった。負けていたらあの夜は誰も家へ帰ることができなかったろう。
 しかし一勝一敗というのは満足と不満足が拮抗する玉虫色の決着でしかない。この間はああいう結果に終わったが、本当はおれのほうが強い、ふたりがそう思っていることはその後の言動を見ていてわかった。それなら因縁の対決に決着をつけ、その結果を誌上に載せようじゃないですか、よせばいいのに編集者のYがふたりを焚きつけたからたまらない。得たりやおうということになって、今回かような恥を天下にさらす結果となってしまったのである(注A)。
 ところがしかし……。はからずもこの勝負が行なわれる直前、ある事件が発生した。みなさんもごぞんじだと思うが、船戸与一が山本周五郎賞を受賞したのである。その選者のひとりが、じつは今日対決する相手逢坂剛にほかならなかった。逢坂は今回から選者に加わったもので、彼なかりせば船戸の受賞はなかったこともちろんである(注2)。これまであっちの賞で落ち、こっちの賞で落ち、無明の闇をさまよっていた船戸にとって山本周五郎賞こそは闇夜の提灯、地獄で仏、齢五十にしてやっと認知された庶子みたいに感涙にむせんだこと言うまでもない。逢坂剛こそは真砂町の先生、天下の恩人、足を向けて眠られぬ人となったのだ。
 となるとこの勝負、いくら過去のいわく因縁があるとはいえ、情け容赦もなく恩人を打ち負かしてよいものか。かといっておかしな負け方をすれば、船戸という男は賞をもらって尻尾を振った、わざと勝ちをゆずった、と悪しき風評が広まるかもしれない(わたしが広める)。まさに忠ならんと欲せば孝ならず、孝ならんと欲せば忠ならず、to be,or not to be、さしもの船戸の心境もちぢに乱れたのだった。果たせるかな、当日対決場となった井の頭公園へ現れた船戸はと見ると、昨夜一睡もできなかったのか目は血走って焦点定まらず、気息奄奄、顔面蒼白、足下蹌踉、立っているのもやっとというありさまではないか。立会い人としてはその姿を一目見るなり、「船戸敗れたり」と思わずつぶやいてしまったくらいだった(注3)。

  ※脚注/船戸与一・逢坂 剛
注1
 運動不足というのは当たっているが、小生の場合高血圧でもないし酒浸りでもない。むしろ低血圧であり、おしるこ浸りである。このとき四つに組んだ印象では、船戸はどうやら太寿山タイプであり、旭道山タイプの小生といい勝負になりそうであった(いずれも玄人好みの力士であることに注目していただきたい)。しかしいかにせん、土俵となるべき畳の部屋が狭く(船戸のマンションだ)、縦横無尽に動き回ることができない。したがって、両者談合のうえ勝負預かりとしたのであり、周囲の忠告によって引いたわけではない。いずれこの決着はつけるつもりだから、どこかで懸賞金と土俵の用意をしてもらいたい。(逢)

注A
 沙翁はむかし他人を使嗾し漁夫の利を得ようとするキャラクターにイヤーゴという名を与えた。小説界のイヤーゴと呼ばれてる志水辰夫が本誌編集者Yに何やら焚きつけ、今回の仕儀となる。余は原稿注文が途絶えるのを畏れて引き受けざるをえなかったのだ。しかし、どことなく陰謀の臭いは拭いきれない。余は戦戦兢々としながら荻窪から吉祥寺に向かった。昨夜の酒が抜けない。逢坂剛に勝つことは眼に見えてるが、彼の矜持を傷つけることなく投了させるにはどうしたらいいかを考えながら深酒したからだ。このようにあまりにも他人を慮りすぎる癖が逢坂剛とは対照的に余のこれまでの人生をじめじめと暗いものにしてきた。(船)

注2
 山本周五郎賞および他の選考委員諸先生の名誉のために言っておく。この立ち会い人の見方は、極めて独善的かつ偏見に満ちたものであり、とても万人を納得させられるものではないが、事実を鋭く指摘している。(逢)

注3
 実は小生、この神聖なる一戦を迎えるにあたって、ひそかに過日井の頭公園へ足を運び、戦場となるべき場所を下見したのである。風の吹き回しやら太陽の角度やら、徹底的に分析研究した。ボートに乗り、池の上から岸辺を観察し、どこでアベックがごろにゃんしているかを含め、きっちりと見取り図を作った。怪しまれないように、愛娘を帯同するという、きめ細かい配慮も忘れなかった。しかしそのありさまを、特に名を秘すが、「アサヒグラフ」という某グラフ誌に撮影されてしまったのは、返すがえすも不覚であった。(逢)

 

■どこまでつづく序盤戦
 対局場がなにゆえ井の頭公園のベンチになったかということについてはいろいろ異説がある。しかし静かな公園の片隅なら、世紀の遺恨試合に決着をつける場としておおむね妥当だろう、というわれわれの思惑はもののみごとに外れた。日曜日の午後という時間帯もあって公園じゅうどこへ行っても人人人、ベンチなんかただのひとつも空いてないのだ。なんという読みの甘さ。これもひとえに編集者のYが悪いと、一同ぶつぶつ言いながら公園の中を四分の三周うろつかされたのだった(注B)。
 ようやく見つけたのが弁天様を祀ってあるお堂の裏。ベンチがあって池のほとり、人影まばらとまことにいい環境だ。
 早速将棋盤が取り出され、駒が並べられた(注4)。さらにYがおもむろに取り出したのは、本日の賞品だという特上の酒。勝者には市価七万円は下らないだろうという陶製容器入り特級ブランデーが贈られる。それを見た途端、いままで煩悶と苦悩に打ちひしがれていた船戸の顔がにわかに妖しく輝きはじめた。この期に及んで勝負に私情を挟むのはやめよう、翻然と悟って恩人もくそもあるものかと闘志をめらめら掻き立てはじめたのだった。
 対局は逢坂の先手ではじまった。彼はまず2筋の歩を交換、飛車の通りをよくしてから陣形の組み立てにかかった。一方の船戸は中飛車で相手の出方をうかがう。序盤戦はごくありふれた展開である。
「どうも勝手がちがうなあ」
「酒飲んでないからなあ」
 ふたりともしきりにぼやく。緊張しているせいか、口数少なく、やたら長考がつづく。まるっきりふたりらしくないのである。戦い方にもふだんの思い切りのよさが全然出てこない。いつまでたっても歩の取りっこばかりやっているのだ。図の1(注C)を見ていただこう。



これが五十四手目。ご覧のように機はまさに熟しており、いよいよちゃんばらがはじまろうかという形勢だ。ところがあにはからんや、そうはならなかったのである。逢坂が4五銀と突き出すと、船戸の銀が尻尾を巻いて4三へ逃げてしまったのだ。しかもそのあとがもっとひどい。4四歩打ち、3二銀。なんだい、これは。4五桂を許すと金と角の面取りになるからそれを嫌ったのはわかるのだが、それによって3二銀がほとんど死に駒になってしまったのだから情けない。ここはやはり同銀と、敢然と取ってゆくべきだった。そうでなきゃ将棋というものはおもしろくないのである。
 だいたい船戸将棋の持ち味は猪突猛進、肉を斬らせて骨を斬るところに真骨頂がある。戦法なんかあってないようなもの、力将棋に持ち込んで相手を自分の土俵に引きずり込んだら勝ち。それが慎重に慎重にと自重するあまり、角を矯めて牛を殺すような将棋を指している。すべてが逢坂ペースになっているのだ。
 呆れ返っていると妙なじいさんがやってきて「お客さん、門を閉めるよ。ここはお終いだから出て行ってくれ」変な言い掛りをつけられた。
 なんだい、お終いってのは。井の頭公園はいつから時間制になったんだ。
「ここは公園じゃないんだ」
 驚いたことにこの弁財天は公園の中にある独立国だったのである。夕方になると坊さんだか持ち主だかがやって来て、入り口の門を閉めてしまうのだ。そういえば周囲にフェンスが張り巡らしてある。おかげで今度は指しかけの将棋盤片手に場所探し(注5)。あれもこれもすべてYが悪いのだった。

注B
 どこかの高級料亭で対局という編集者Yの提案を井の頭公園に変えさせたのは余の念力のせいである。Yの取材費使い過ぎは集英社内で問題になっているらしい。その余得にもっとも与ってるのは北方謙三であるが、余は大沢在昌のようにおれにもまわせとは言わない。将来のためには財務管理をきちんとしろと進言してるのだ。だが、沙翁の予言どおり余のこういう思いやりはかのリヤ王のごとくいずれ裏切られるだろう。(船)

注4
 紙の盤で対局する予定だったが、戸外なので風が吹くと駒が飛んでしまう恐れがある。そこで最終的に、ゴム(?)盤に落ち着いた。情けないことに、榧の五寸盤の使用は、最初から検討されなかった。(逢)

注C
 余の謙虚さを疑う者はだれひとりとしていないだろう。むかしから声は消え入りそうなほど小さいし、往来だって真んなかを歩いたことがない。対局者・逢坂剛や立会人・志水辰夫とは正反対の性格なのだ。3五歩は謙虚さの表われである。(船)

注5
 移動にあたって、盤を両手にささげてうろうろしたのは小生であるが、その間にそっと9六歩を突いておいたとしても、対局者や立ち会い人はもちろん、弁天さまも気がつかなかったであろう。(逢)


■急転直下の終盤戦
 思わぬ水入りがあって中断すること五分。場所を築山の陰に移してふたたび戦闘開始。
 見てわかるようにこの段階ではまだそれほど優劣の差はない。強いていえば船戸の陣形がやや悪いかなという程度。なにしろ角つきあいみたいなジャブの応酬ばかりつづき、いつまでたっても斬り合いがはじまらないのだからお話にならない。なんと九十数手まで歩をのぞく駒の交換がなかったのである。にもかかわらず優劣だけは次第にはっきりしはじめ、船戸の形勢が尻すぼみにジリ貧となってゆくのだ。
 まず2二へ歩を垂らされ、飛車成りを許してしまった。中盤にはがっちりガードされた逢坂の歩が無気味に並び、これがボディブローみたいにじわじわ効きはじめた。図の2(注D)は形勢われに利あらずと見た船戸が反撃に出て、5三にいた角を8六へ進め、強制的に交換を迫ったところ。船戸のもくろみはもちろん、角をただでやる代わり、飛車で6六の金を抜こうという算段。やっと戦闘らしくなってきた。



 ところがところが、さすがは逢坂。この人は流行作家とサラリーマン、二足のわらじを履いていることからわかるように、穏やかそうにみえて半端な神経の持ち主じゃないのだ。昼間は権謀術数の世界に生きている。外面似菩薩内心如夜叉、二重人格の待ち主でもなければ務まるところではないのだ。船戸の目論見なんかいっぺんに見破って、ここは巧みに6五歩と受け流してしまった。かくて見よ。アレキサンダー大王率いるマケドニアの密集長槍歩兵部隊もかくやとばかり、四列に並んだ歩兵が槍先をそろえてひたひたと進撃を開始しようという陣形になってきた。
 この人、どうも今日の対決に備えて会社で猛特訓を積んだ形跡がある(注6)。船戸のほうがぶっつけ本番で臨んだのに対し、逢坂のほうはその気になれば昼休みに会社で秘密練習ができる。作家としての逢坂は潔く実力勝負をすべしと思っても、サラリーマンとしての逢坂は、同じやるなら勝たなきゃ損々と計算したにちがいないのである。すでにこのときの逢坂からは、対巨人戦の九回表、余裕を持って田村をマウンドに送り出した阪神・中村監督みたいにおのが勝利を確信しているふしがありありとうかがえるのだった(注7)。
 口では優るが実力で劣る船戸としては、こういう柳に風みたいな受け流し方をされるのがいちばん困る。しかたなく角交換。ようやく歩以外の駒がはじめて両者の手に入った。待望の大駒を手にした船戸の反撃がはじまるか。勢い込んで8六歩と打った。ところがこれもいやらしく8八歩とかわされてしまった。
 船戸としてはどうにも手の施しようがない。弱り目にたたり目、貧すりゃ鈍する、つぎに信じられないような手を指してしまった。図の3(注E)を見ていただきたい。



これは『つぎの一手』という将棋クイズにして船戸がつぎにどういう手を指したか、読者から解答を募ってみたらおもしろいだろうと思う。将棋のわかる人は絶対正解できないと思うのだ。
 なんと彼は2四歩と突いたのである。足元に火がついて4筋の金が丸裸。逢坂がつぎに4四歩と突いてくるのは目に見えているのに、2筋からのこのこ攻撃を仕掛けようというこの悠長さ。つぎの2五桂を狙ったらしいのだが、これでは東京から横浜へ行くのに八王子経由で行くようなものじゃないか。会社で偉いやつがこんな間抜けなことをしたら「殿ご乱心!」と寄ってたかって詰め腹を切らされている。
 すなわちこの一手が船戸の頽勢を決定的なものとした。逢坂は予想通り4四歩と突き、以下4二金、4三歩成り、4五歩打ち、4二と金、同飛、とただで金を取られてしまった。それが図の4(注F)。



こうなると二重人格者は酷薄である。ここから7五歩と突いてきた。その狙いは言わずもがな、桂を追い出して6四角打ちで王手飛車取りをかけようというもの。船戸に言わせるとそれくらいのことはわかっていた(注G)そうだが、それが狙い通りになってしまうのだから救われない。
 それでも必死の反撃に出た船戸は2九の角打ちから5六角成りを狙った。逢坂のほうはいまや余裕しゃくしゃく、そんなものには目もくれず7四歩打ち。それが図の5である。



このあと予定通り5六角成り、6七金、8七銀打ち、同歩、同歩成り、同王、6七馬、7三歩成り、同王、6四角、という展開になった。見ればわかる通り船戸の王はいまや哀れな一人旅。最愛の娘たちに裏切られたリア王さながら、孤独のうちに無残な末路を迎えようとしている。6四角打ちのあと、6二王、5三銀打ち、6三王、4二銀不成り、8五歩打ち、5三飛、で投了となってしまった(注H)。じつに百三十三手目のことであった。



 はっきりいって衣ばっかり大きい天丼を食わされたみたいな胃にもたれる将棋だった(注8)。肝心の役者がいいところを見せようとしてコチンコチンになってしまい、ふだんの実力の片鱗も出せなかったのだからこんな結果に終わってもやむを得ない。しかしこれで双方が果たして納得したかどうか。酒を飲んだ上での勝負でなきゃ本当の決着をつけたことにはならないと、そのうちまた誰かが言い出しそうな不吉な予感がしてならない。あと願わくばそのとき現場に居合わせない幸運を祈るばかりである。
 わたし自身は今日の結果を見てつぎの言葉を座右銘に、これからも謙虚に生きてゆこうと思っている。
『キジも鳴かずば撃たれまい』

注D
 8六角と指して逢坂剛の眼を見る。ぬはははと笑いやがった。同角、6六飛という角金交換に応ずる気配がない。余は腕組みをした。そのとき頭にぺちゃっと何かが落ちてきた。欅の梢のカケスが糞を落としやがったのだ。厭な予感がする。(船)

注6
 この立ち会い人は講釈師も顔負けの、見て来たような嘘を言う人物のようだが、どうも今回だけは実際に見たらしい。そうでなければ、小生が昼休みに会社の同僚を相手に、日ごろ研鑽を積んでいるのを、知るわけがない。もしかして立ち会い人は、わがH社の仕事を裏で請け負い、こっそり出入りしているのではあるまいか。そしてロッカーやキャビネットの隙間から、対局中の小生の後ろ姿をじっと見ているのではあるまいか。怖い。なにせ広告会社の支払うギャラは、出版社の原稿料よりはるかに高いので、十分に考えられることである。(逢)

注7
 この注を書いているまさにそのとき、わが阪神タイガースは中日を破り、二千四百二十日(約七年)ぶりに首位の座に着いた。そしてこれが活字になるころ、阪神はちょうど今回の船戸のように、惜しまれつつ投了しているであろう。(逢)

注E
 8八歩と受けられた。ふつうなら8三歩と急戦に持ちこんでくるだろう。「だよな、やっぱり」と志水辰夫の低い呟き。畜生、ふたりとも何という性格をしてやがるのだ! こういう連中をのさばらせてはならない、叩き潰す必要がある。(船)

注F
 形勢は悪いが逆転するのは簡単だ。だが、編集者Yがじっと余を見る。この男、なぜだか出版界の逆鉾と呼ばれている。週刊P誌の大相撲疑惑キャンペーンと関係があるらしい。注射とか中盆という言葉が脳裏に浮かぶ。余は悪手を指しそうだ。(船)

注G
 余の頭のなかには必殺逆転の一手がすでに想い浮かばれてる。だが、昨夜、森詠と藤田宜永と内山安雄から電話があった。きょうの対局のことを話すと、三人とも声を揃えて負けろ負けろ負けやがれと言うのである。その声がいま鼓膜を顫わせている。おお、カラスどもよ、なぜ死の唄ばかり唄うのだ? どうしてこころ安らかに将棋を指させない? やはり今回の対局にはどす黒い陰謀が隠されているのだろうか? ふたたび欅の梢のカケスがぺちゃっと糞を落とした。沙翁の描くかのマクベスに似て余は何が何だかわからなくなった。こうして必殺逆転の一手が余の脳裏からすっと消えていったのである。(船)

注H
 やむなく投了、この勝負は対局者との性格のちがいが表われたものである。謙虚さだけを旨としてきた余と横暴な人生を送ってきた逢坂剛との差が出たのだ。結局、正義は負ける。あーあ、やってられねえ。日も暮れてきた、酒でも飲も。(船)

注8
 これは立ち会い人の、ふだんの食生活がしのばれる発言であるが、どうしても衣の小さい上品な天丼が食べたいとの催促ならば、今度神田小川町の安くてうまいてんぷら屋、《魚ふじ》にご招待いたします。
(逢)

志水特注
この勝負が終わって一週間後、傷心の船戸を御殿場の別邸に訪ね、その際将棋の駒をプレゼントした。わたしの心づもりとしては、おまえさんの実力はこの通り、吹けば飛ぶような力なのだよ、という言外の意味を込めたつもりだったが、どうもこの男、そのように受け取った形跡がない。うーむ。どうも今後が心配だ。

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