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明星に歌え
関口 尚

   第一章 旅の始まり


     1

 鈴の音が高らかに響いている。金剛杖に結ばれた鈴が一歩踏み出すたびにりんと鳴る。相楽玲は菅笠を押し上げて空を見た。四国の空は東京と違って遮るものがなにもない。大きな青い空がぽかんと広がっていた。
「いよいよ始まっちまったな」
 玲の隣を歩く三上太陽が興奮気味に語りかけてくる。玲もその興奮はわからないでもない。けれど、小声でおずおずと返した。
「そ、そうだね」
「これから千二百キロも歩くなんて信じられねえよな」
 昨夜の説明会には全国から四十八人もの応募者が参加した。そのなかでいちばん目立っていたのがいま玲の隣を歩く太陽だ。
 太陽が自己紹介で語っていたところによると、身長は百八十三センチ、体重は百二キロ。しかし、体脂肪率は十二パーセントしかないという。一番札所である霊山寺の山門は仁王門となっていて、左右の仁王像が参拝者である玲たちへ睨みを利かせていたけれど、太陽はそれら仁王像たちよりも立派な体躯をしている。Tシャツの上からでも上半身が岩のように鍛え抜かれていることがわかるし、腕は丸太のように太いのだ。
 威圧感があってこわいな。関わりたくないな。玲が説明会で最初に太陽を見たときの感想だ。それなのに同じ七班に振り分けられてしまった。
「たしか玲って東京から来たんだよな」
 太陽は昨日の玲の自己紹介を覚えていたようだ。それはそれでうれしい。けれど、いきなり玲と呼び捨てにされてどぎまぎする。会ったばかりの人間に距離を縮められるのは苦手だ。苦笑いが浮かびそうになるのをこらえ、愛想笑いで答えた。
「ええと、三上君も東京から来たんだよね」
「おいおい、他人行儀はやめようぜ」
 そう言って太陽は大きな声で「がははは」と笑った。
「あのな、玲。おれは昨日の班の顔合わせのときに提案したじゃないか。せっかく同じ班になったんだから、同学年のメンバーは気軽に下の名前を呼び合おうって」
「じゃあ、太陽」と切り出したものの、馴れ馴れしすぎるように思えて「君」をつけてしまう。
「太陽君も東京から来たんだよね」
「おう、そうだぜ」
 ご機嫌な様子で太陽は答え、通っている大学の名前を教えてくれた。東京六大学のうちのひとつで玲が入りたくても入れなかった大学だ。体ばかり鍛えている体育会系かと思ったら、頭もいいんじゃないか。
「と言ってもおれさ、出身は山梨なんだ。甲府なの。いまは石神井に住んでるから昨日は東京からって言ったけどさ。玲は東京生まれの東京育ちなのか」
「そうだけど」
「東京のどこ」
「三鷹」
「そっか。おれ、荻窪に親戚がいるんだよ。小さいころ井の頭公園によく連れていってもらったな。懐かしいぜ」
 玲はどきりとして足を止めてしまいそうになった。幼少期の話題はまずい。できることなら避けたい。
「そう言えば、井の頭公園って心霊スポットとして有名だよな。ガキのころあの手の話が苦手であそこに行くのこわかったんだよ。バラバラ殺人事件があってその霊が出るとかって話だったよな。たしかあれって未解決事件じゃなかったっけ」
「未解決事件?」
「知らないのか。玲の地元の話だろ」
「あ、でも、ぼくんちは三鷹って言っても外れのほうで吉祥寺から遠いから」
「ふうん、有名な話だと思ってたけどな」
 太陽は納得がいかないのか、首を傾げたあと前を向いた。
 井の頭公園の話題はまだ続くだろうか。玲は身構えつつ太陽の横を歩いた。ともかく幼いころの話題はよくない。ほころびが出てきてしまう。
「それにしても大集団だな。見ろよ、玲」
 はしゃいだように言って太陽が前方を指差す。話題が変わるようだ。玲はほっとして太陽が指差した前方を見た。県道に沿って延びる歩道は、次の札所を目指して歩くお遍路であふれ返っている。お遍路とは四国に八十八ヶ所ある札所を参拝して回る行為のことだ。札所とは弘法大師空海にゆかりのお寺のこと。札所を参拝して回るその人自身もお遍路と呼ばれる。
 玲たちの前にはお遍路が長く列を作って歩いていた。お遍路の正装である白衣と呼ばれる白装束を全身まとっている人もいれば、上半身だけ着ている人もいる。菅笠と金剛杖がなければお遍路には見えないジャージ姿の人もいる。彼らはみんなお遍路プロジェクト88の参加者だ。
 お遍路プロジェクト88は愛媛県の四国中央大学のお遍路サークルが、四国独特の文化であり、かつ風習でもあるお遍路を、全国の大学生に体験してもらおうと立ち上げたイベントだ。徳島県、高知県、愛媛県、香川県と四国四県を時計回りに、八十八ヶ所の札所をすべて歩いて参拝する。その距離は約千二百キロ。途方もない距離となる。
「夏休みを潰して歩き続けるなんて、おかしな連中が集まったもんだぜ。ま、おれたちもだけどな」
 太陽がにやりと笑いかけてくる。玲は無言で同意の苦笑いを返した。彼がまだどういった人間かわからない。でも、とにかくなんでも同意しておく。その場の空気にひたすら合わせ、適当な嘘をついてでも雰囲気を壊さないように努める。玲が日ごろから心がけていることだった。

 一番札所から二番札所までは一・四キロしかない。歩き始めたと思ったら、もう二番
札所へ到着した。山門は朱塗りの仁王門で、またもや仁王像とご対面だ。やはり、太陽のほうがいい体をしている。
 山門をくぐって境内に入った。中はお遍路でごった返していた。年配のお遍路が圧倒的に多い。団体のバスツアーで回るお遍路だろう。札所に隣接する駐車場にはたくさんの大型バスが止まっていた。
 境内には家族で回っているらしいお遍路もいた。祖父母からよちよち歩きの孫まで、みんなそろって白衣を着ていた。また、バックパッカーのような外国人のお遍路もいる。自転車で回っているらしいヘルメットをかぶったお遍路もいたし、犬連れのお遍路もいた。
 老若男女を問わず、国内外を問わず、交通手段を問わず、犬までが参拝して回る。八十八ヶ所の札所を回るこのお遍路という行為が、どこか熱に浮かされてのものに感じられた。
「こりゃあ、すげえ人出だな」と太陽が呆れ声を上げる。「まるでデパートのバーゲン会場だ」
 昨夜の説明会によれば、お遍路で四国を訪れる人は年間三十万人。そのうち歩いて参拝する歩き遍路は三千人もいるという。自然と触れ合いたい人や、ウォーキングなどの健康志向ブームに乗って歩いて参拝する人が、年々増えているそうだ。
「まずは参拝してください。山門で立ち止まると混み合うので奥へ進んでください!」
 玲たち七班のコーディネーターである木戸が、大きな声で誘導していた。お遍路プロジェクトでは班の引率者をコーディネーターと呼ぶ。コーディネーターはルートの選択や、宿の確保、札所での参拝方法や、班のメンバーの健康状態まで、すべて面倒を見てくれるという。木戸は四国中央大学の四年生で、お遍路プロジェクトを計画したお遍路サークルの一員でもあるそうだ。
「おーい、太陽君。こっちこっち」
 木戸が太陽に向かって手を振っている。大きな太陽は人ごみの中でいい目印となるのだろう。
「すげえ混雑っすね、木戸さん」と太陽が手を振りながら近づいていく。
「うちら七班の集合場所は山門を出て右のところだから。ぼくも参拝したら行くから」
「了解っす」
 太陽が手をひらひらさせつつ先へ進んだ。玲もあとに続く。太陽が歩くとその大きな体に驚いた人たちが道を譲ってくれる。まるで高村光太郎の『道程』だ。太陽の前に道はない。太陽の後ろに道はできる。玲はできたその道を歩けばいいのだから楽ちんだった。
「よお、早いな。もう参拝し終わったのか」
 前を行く太陽が誰かに話しかけた。玲は太陽の背中から顔を出し、話しかけた相手を確かめた。しかし、顔を出したことをすぐに後悔した。その相手が同じ七班の二宮花凛だったからだ。
 花凛はちらりと太陽を見ただけで、無言で通りすぎていった。玲になんて一瞥もくれない。ほっとしたのが半分、残念なのが半分。花凛はとてもきれいな子だ。もし目が合ったとしても、玲はきっと赤面して目をそらすことしかできないだろう。
 彼女は昨日の説明会でも注目を浴びていた。肌は剥き立ての桃みたいに白く透明で、腰まで届く長い黒髪はつややかであり、涼やかな切れ長の瞳が印象的。和風の顔立ちをしていて、お遍路の白衣がよく似合った。ミスお遍路なんてものがあったら優勝間違いなしだ。説明会の会場で彼女が歩くと、男子の参加者の視線が次々と吸い寄せられていった。それがさざ波のように伝わってきて気持ち悪いくらいだった。
 しかしながら、花凛はそうした男子の視線などどこ吹く風なのだ。というよりも、男女問わずほかの参加者などまるで眼中にないように見えた。愛想もまったくない。顔を常に伏せがちで、長い髪で表情を隠してしまっている。なにより、話しかけないでオーラがすごい。その強烈なオーラなど意に介さずに話しかける強者の男子もいたけれど、花凛は小さくうなずくばかりで返事の声を聞かせてくれなかった。イエスかノーかで答えられる質問でさえ、うなずいたり首を振ったりで済ませてしまう。鉄壁という言葉が彼女を見ていると思い浮かぶ。
 説明会のあとに行われた七班の顔合わせでも、花凛の印象は芳しくなかった。彼女が話した言葉は「二宮花凛です。大学三年生です」のみ。班内での自己紹介だったので、もう少し自分について語るのではと玲もほかのメンバーも言葉を待って身構えたけれど、彼女はそのまま黙った。おかしな間が空き、白けた雰囲気が漂った。自分だったら耐えられない空気だ、と玲は戦々恐々としたものだった。
「無視されちゃったよ。同じ班のメンバーなのにさ」
 太陽が流してもいない涙を拭くふりをして悲しがる。慰めの言葉を求められているように思えて玲は言った。
「別に太陽君が悪いわけじゃないと思うけど」
「きれいな女子に冷たくされるとダメージが倍になるよな。つうか花凛くらい美人な子だと三倍のダメージがあるな。いや、悔しいから二・五倍ってことにしておこうか」
 数値の根拠はよくわからない。けれど、ともかく同意しておく。
「そうだね」
「あの子って誰に対しても冷たいもんな」
「そうだね」
「冷たい感じのせいも込みで、冬の化身みたいなイメージがあるよな」
 その点については積極的に同意した。
「そうだね」
 肌が白くて無表情の花凛は、しんとした冬の印象があった。そして、冬の化身という繊細なたとえをした太陽に拍手を送りたかった。的確できれいな表現だ。太陽は見た目がマッチョで暑苦しいけれど、もしかしたら中身は意外と繊細なやつなのかもしれない。

 お遍路の参拝は手順としてまず本堂へ行き、次に大師堂へ行く。玲と太陽が本堂の前へたどり着くと、そこは読経するお遍路でいっぱいになっていた。お遍路が唱えるのは般若心経だという。玲は経を唱えることができない。なので参拝は賽銭を入れ、手を合わせるだけで終わりとなる。それは太陽も同じだった。
 大師堂へ移動する。札所には必ず弘法大師空海を祀った大師堂がある。玲と太陽は大師堂でも賽銭を入れ、手を合わせた。
 参拝後は納経所へ向かう。納経所は持参した納経帳に、参拝したしるしを書き入れてくれるところだ。納経所には郵便局のようなカウンターがあり、向こう側に記帳してくれる人が座っている。座っているのは住職だったり、その家族だったり、アルバイトだったりと様々だそうだ。
「よろしくお願いいたします」
 玲は自分の納経帳を差し出した。納経帳はお遍路に来る前に買っておいたもので、装丁に金の糸で鳳凰があしらわれている。納経料である三百円を支払い、毛筆で「納経」という文字と、その札所の本尊を表す梵字と、寺の名前を書いてもらう。最後に札所の番号などが彫られた朱印を捺してもらって終了だ。
 山門の外で七班のメンバーと合流した。木戸が点呼を取り、三番札所を目指して出発となる。玲が所属する七班は全員で七名。コーディネーターの木戸が先頭を歩き、一列になって進んでいく。
 お遍路は四国を時計回りに一周する。時計回りなのでスタート後は南下して高知県へ向かいたいところだ。しかし、札所は十番まで西の方角に向かって横一列に並んでいる。つまり、南下したいのにまずは西へ向かわなければならなかった。
 先頭の木戸が班のメンバーを振り返り、大きな声で指示を出した。
「水分はこまめに補給してくださいね! 気温が三十度を超えてるって知らせが来てるから」
 玲は指示通りにペットボトルの水を飲んだ。いまはまだ朝の八時だ。それなのにもう三十度を超えているなんて、午後はどれだけ温度が上昇するのだろう。そもそも七月の二十日はこんなにも暑かっただろうか。首にかけたタオルで流れる汗をぬぐった。
 お遍路プロジェクトの運営委員会が立てたスケジュールでは、全行程を五十日で歩き終えるようになっていた。そのあいだの荷物はすべて個人で持参。雨具、薬類、バスタオル、寝巻き、石鹸、シャンプー、メモ帳、懐中電灯、スマートフォンの充電器などなど。玲の五十リットルのリュックはあっという間にいっぱいになった。これがまた重くて汗をかく。
 女子の参加者は化粧品や日焼け止めやドライヤーなど、荷物はさらに多いようだ。ぱんぱんに膨れたリュックを背負ってよたよたと歩く女子の参加者を何人も見かけた。
 そんななか、花凛はただひとり小さめの三十リットルのリュックを背負っている。しかも容量に余裕がまだありそうだ。荷物が少ない。軽そうでうらやましい。金剛杖を突いて歩く姿も軽やかで、もともと涼しげな顔をしていることもあって余裕綽々に見える。
「荷物の多さはその人の欲に比例するらしいですよ」
 説明会では荷物をできるだけ減らすように指示されたあと、そんなひと言をつけ加えられた。
 荷物の少ない子、二宮花凛。真夏なのに冬の印象のある子。なんだか不思議で気にかかる。

 次の三番札所金泉寺まで二・六キロの距離だという。いままで歩いてきた県道沿いの歩道から逸れて、いよいよ細い遍路道に入った。道が分かれる際、木戸がメンバーを集めて言った。
「これからの道中、こういった道しるべがあるので見落とさないようにしてくださいね」
 白く塗られたアルミ製のプレートが電柱にくくりつけられていた。赤いペンキでお遍路の姿を模したマークと矢印が描かれている。矢印の示している方向へ進めということのようだ。
 見渡してみると、こうした道しるべは街路樹や塀にも設置されていた。プレート看板をそのままシールにしたものもあり、ガードレールや道路標識のポールに貼られている。お遍路に対して至れり尽くせりだな、と玲が感心していると木戸が言う。
「いまは道しるべはたくさんあるけれど、山の中とか、お遍路の後半になると、見かけなくなるので気をつけてください」
 なるほど、スタートしてすぐはサービスも充実しているようだった。
 車一台がやっと通れるほどの細い遍路道を歩いた。進めば進むほど住宅がまばらになっていく。田畑や雑木林はどんどん増えていく。田舎道といった様相を呈してきた。
 玲が住んでいるアパートがあるのは三鷹市の外れだ。最寄り駅は新小金井駅で三鷹の西の端っことなる。とはいえ周辺には大学や専門学校があるため、飲食店も多くてなかなかのにぎわいを見せている。
 あの街の生活感たっぷりの喧騒が急に遠のいていく。わびしい遍路道を歩き、見知らぬ遠い土地へやってきたのだという実感を得たからだろう。
 三番札所の金泉寺にたどり着く。札所もみっつめともなると参拝をスムーズにこなせるようになってくる。本堂、大師堂の順で手を合わせ、納経所へ向かう。
「これでみっつめのしるし、ゲットだぜ」
 納経所を出るなり、太陽がガッツポーズで得意げに言ってきた。
「しるしをこうやって集めていくのってスタンプラリーみたいで楽しいよな」
 太陽に同意を求められ、玲は「楽しいね」と当たり障りのない返事をしておく。
「このしるしをもらう感じ、ほかにも似ているもんがあった気がするなあ」
「似ているもの?」
「しるしをもらって褒められている感じになるやつだよ」
 玲はわからなくて首をひねった。
「あ、そうだ。ラジオ体操の出席カードだよ」
「出席カード?」
「夏休みにさ、ちゃんと早起きして頑張りましたねって出席カードにスタンプをもらったじゃないか。あれに似ている感じがしないか? おれ、ラジオ体操のスタンプがうれしくて、六年生まで皆勤賞だったんだぜ」
「なるほど、似ているね」
 間に合わせで玲は答え、笑顔を浮かべた。
 四番札所の大日寺へと歩き出しながら、玲は心配でそっと太陽の横顔を窺った。うまく話を合わせられただろうか。ほころびを感じさせることはなかっただろうか。ラジオ体操の出席カードとはなんのことだろう。六年生まで皆勤賞と太陽は言っていた。ということは、小学校の行事なのだろうか。でも、夏休みに行われていたようなことも言っていた。あとで調べなくては。やはり、幼いころのことはわからない。特に小学校の六年生なんてほとんど学校に通えていなかった。
 大日寺までは五キロの距離だった。いっとき進路を南に取り、徳島自動車道の下をくぐってさらに進んだ。道は次第に上り坂となっていき、気づけば前傾姿勢となって歩いていた。
 歩くスピードはひとりひとり違う。そのため班のメンバー同士の距離は自然と開いた。玲の前を行く木戸とのあいだに、五百メートルほどの距離が空いてしまっている。太陽は上りが苦手であるらしく、どんどん後退していった。いま玲の後ろを歩くのは花凛だ。その彼女との距離も百メートルほどある。でも、こうしたばらばらの状態でいいのだそうだ。説明会では推奨さえされた。
 本来、お遍路は仏道修行である。ひとりで歩くものなのだそうだ。だから、メンバー同士が離れてしまってもかまわないという。また、班できっちりとまとまって千二百キロという長い距離を歩くのは困難だ。他人のペースに合わせて歩いていると疲弊してしまう。札所や分かれ道で合流し、そのほかはゆるやかなまとまりとして移動していくほうがいいらしい。
 ばらばらで歩いていい。玲にとってはありがたいことだった。もともと他人との距離感がつかめない。会話をするにもそのきっかけがわからないし、いったん会話が始まってしまうといつまで話していていいのか不安になり、会話の内容が頭に入ってこない。会話が途切れたら途切れたで、自分が気分を害することを口にしたのでは、話が面白くなかったのでは、と心配になって落ちこむ。中学校でも高校でも班行動がなにより苦手だった。
 ばらばらでありがたがっているのは、玲だけではなさそうだった。後ろを歩く花凛もひとりのほうが気楽そうに見える。彼女は誰にも話しかけず、誰とも目を合わさない。鉄壁の彼女。太陽といい、花凛といい、七班は不思議なメンバーが多い。たぶん、自分もそう思われているのかもしれないけれど。
 大日寺は山間の奥まったところにあった。ここまで歩いてきて気づいたことがある。札所には商売っけがあるところと、そうではないところがあった。お遍路グッズやキーホルダーなど、観光地のみやげもの屋かと見まがう納経所もあったけれど、大日寺はそうしたものがいっさいなかった。落ち着きがあり、さっぱりしていて、玲には好ましい札所だった。
 参拝後、のぼってきた坂を今度は下っていく。五番札所の地蔵寺までは二キロ。大日寺からまっすぐ南に下ったところにあるため、やってきた道をそのま戻っていく。これから大日寺へ向かうお遍路とすれ違うことになる。
「こんにちは!」
 向かいから来た年配のお遍路が、玲に快活な挨拶をしてくれた。聞いた話ではお遍路へ二度も三度もやってくる人がいるそうだ。挨拶をしてくれたお遍路もそうしたベテランお遍路のように見えて、玲は勝手に恐縮してしまった。
「こ、こんにちは」
 まだ自分がお遍路であることに慣れていない。着ている白衣が汚れひとつなく真っ白であることが、自動車免許取りたての若葉マークのように思えて気恥ずかしかった。

 午後になり、日はどんどん高くなっていった。足元の影が短くなっていく。菅笠をかぶっているため、足元に落ちる影は丸い。日差しが強いせいでその影は濃く、くっきりとした輪郭を伴っている。
 視線を上げるとアスファルトが陽光でまばゆいくらいに輝いていた。耳に入ってくるのはうわんうわんとうねりを帯びて聞こえるほどの蝉の大合唱だ。夏というものを全身で浴びているような心地がした。
 水分を補給するために足を止める。額から流れ出た汗の粒が、鼻を伝って地面に落ちた。アスファルトに小さな汗のしみを作る。しかし、そのしみも一瞬で蒸発した。
 真夏にお遍路なんて無茶だったのかも。後悔が頭をよぎる。普段の運動不足がたたって、早くも膝が痛くなってきている。ふくらはぎが張ってつらい。本当に五十日間も歩けるのだろうか。
 五番札所の地蔵寺から六番札所の安楽寺までは五キロの距離だった。そこで昼休憩を取り、七番札所の十楽寺まで一キロ歩いて初日は終了となった。
 助かった、とうなだれる玲の横で、太陽が拍子抜けとばかりに木戸に尋ねる。
「もう少し歩かなくていいんすか」
 日はまだ高い。納経所の受けつけ時間は十七時までであり、次の札所まで歩く時間はじゅうぶんある。玲としてはもう一メートルも歩きたくないけれど、太陽が拍子抜けするのもわからないでもない。
「いや、今日はもう終わりだよ」
 木戸が澄まし顔で返した。太陽から出た疑問は想定内だったのか、それからよどみなくすらすらと答えた。
「お遍路の歩き始めはね、体が歩くことにまだ慣れていないから無理は禁物なんだよ。それに十一番札所から十二番札所までは丸一日かけての山越えなんだ。その手前の行程をうまく二日に分けておく必要があって、今日はここまでなのさ」
「そうなんすね」
 太陽は納得というふうに引き下がった。
「これからたくさん歩いて経験していけばわかると思うんだけど、お遍路っていうのは時間の許すかぎり歩けばいいわけじゃないんだよ。宿があるか、昼食にありつける食堂やコンビニがあるか、体力をいかに温存するか、そうしたことの兼ね合いでスケジュールが決まっていくんだ。歩くだけ歩いて、そこで果てるわけにはいかないんだよ」
 初日のお遍路はスタートした興奮を味わうだけで終わりとなった。お遍路というものにやっと触れただけ。そんな感じだった。

 宿は十楽寺から歩いてすぐの民宿だった。玄関を上がってすぐのところで、玲はリュックを下ろした。重さから解放されたというのに、体が重みに耐える形で凝り固まってしまっている。ゆっくりと背を伸ばし、二本の足で直立する。やっと普通の人間に戻れたかのような感覚があった。
 風呂に入ったあと自由行動となり、男子部屋の畳に倒れて昼寝をとった。その後、このあたりの名物だという盥うどんを班でそろって食べに行った。夜の八時からはミーティング。男子部屋に集まって車座となった。
 木戸から明日の行程についての説明があり、それから各メンバーの体調の確認が行われた。ミーティングがお開きになったあとは交流会となり、缶ビールを手にくつろいだ。
 疲れているために酔いはすぐに回った。玲はもともとアルコールに強いほうではない。飲んですぐ眠気との戦いに突入した。ほかのメンバーも疲れているようでけだるげだ。そうしたなか、麻耶ひとりがはしゃいだ声を上げていた。
「ああ、なんかわくわくしちゃって、あたし今日は寝られない気がする。こういう合宿みたいな雰囲気もたまらないよね」
 麻耶は北海道から来た子だ。玲と同じ大学三年生で、趣味はマラソンに自転車レースに登山とアクティブであり、先週もハーフマラソンの大会に出ていたのだとか。
「麻耶はほんと元気だなあ」
 太陽が呆れ顔で隣に座る麻耶を見やった。
「元気に決まってるじゃん。今日なんて十五キロくらいしか歩いていないんだよ。走ったらあっという間だよ。ていうか太陽はなんでそんな疲れてんのよ。そんながっちがちに鍛えた体してるくせにさ」
「長時間の運動は苦手なんだよ。一瞬の力仕事なら任せてくれって感じなんだけど」
「筋肉で重い分、長々と歩くお遍路はしんどいってわけね」
「ご明察」
 力ない拍手を太陽は麻耶に送った。
「じゃあさ、太陽はなんのためにこんな体してんの。なんのために鍛えてんのよ」
 麻耶は太陽の腕を遠慮なしにばしばしと平手で叩いた。
「おれさ、高校のとき野球部だったんだよ。けど悲しいかな自分でもおそろしいくらい野球の才能がなかったんだよな。ボールに触る機会すらほとんどなくて、悔しくて筋トレばっかりしてたらこんな体になってたってわけ。バットを握る時間よりもダンベルを握ってる時間のほうが長かったからな」
「あははは!」
 けたたましく麻耶が笑う。酔っているのかもしれない。
「大学に入っておれを最初に勧誘してきたサークルはプロレス同好会だからね」
「え、入ったの?」
「入らないよ。おれ、争うの嫌いだもん」
「そのせりふ、その体に似合わないねえ。マッチョに似合わなさすぎる」
「そういうせりふなら、いくらでもあるからな。彼女に甘えたいときなんて天変だよ。筋肉たっぷりつけている人間だって慰めてほしい夜はあるってのに」
「あははは! 笑わせないでよ。想像しただけで面白い!」
「事実だもん。しかたないだろう」
「だったらさ、日常生活でその筋肉むきむきのメリットはなんなの。あ、力仕事以外でだよ」
「そんなもんないよ。いや、ひとつだけあるな」
「なによ」
「脱ぐと笑いが取れる」
「え、ばかじゃないの」
「けっこう便利なんだぜ。サークルの忘年会とかで一発芸やらなくちゃいけないときとかさ」
「やだなあ、もう。破廉恥。三流お笑い芸人の笑いの取り方じゃん」
「芸人じゃないんだからいいだろう。手っ取り早いんだってば」
 太陽はすねたのか唇を尖らせた。
「そういや太陽って大学でなんのサークルに入ってんの」
「旅のサークルだよ。『渡り人』って言うんだ。肉体労働系の短期アルバイトでたっぷり稼いで、その金をつぎこんでみんなで旅行に行くんだよ。国内だったら佐渡とか屋久島とか、海外だったらインドとかニュージーランドの僻地とか」
「へえ、楽しそうだね。で、肉体系のバイトをやってるから、また筋肉がついちゃうわけだ」
「その通り。あと大学のトレーニングルームにも入り浸ってるからな」
「トレーニングルーム?」
「うちの大学のトレーニングルームってさ、マシンもエアロバイクもなんでもそろってんだよ」
「わ、うらやましい! あたしなんてわざわざお金払ってスポーツジム通ってるのにさ。あ、わかった」
 唐突に麻耶が手を叩いた。
「太陽ってナルシストでしょう」
「どうしてそういう話になるんだよ」
「あたしが通ってるスポーツジムにいるマッチョってみんなナルシストだもん。どうせ太陽も鏡の前でポージングして、筋肉の仕上がり具合を見てにたにた笑っているんでしょう。気持ち悪いわ。ねえ、玲もそう思うよね?」
「え」
 玲は急に話を振られて硬直した。息をひそめ、気配を消し、ただただ太陽と麻耶の会話を楽しんでいたのに。参加はしているけれども積極的に関わりもしない。そうした絶妙の距離感を保っていたところへ発言のバトンを渡された。玲はいきなりのことで頭が真っ白になった。
 大慌てでいままでくり広げられていた会話を振り返る。ええと、結局は太陽がナルシストかどうか、を尋ねられているわけだよな。それに同意するかどうかを麻耶に問われているわけだよな。だけど、同意してもいいのだろうか。
 同意したら、ナルシストの太陽を気持ち悪いと玲も表明することになるのでは。けれど、同意しなかったら麻耶に詰め寄られるかもしれない。「気持ち悪いに決まってんじゃん。あんたなに言ってんのよ」なんて。
 玲はごくりと唾を飲んだ。
 同意すべきか、やめておくべきか。
 七班のメンバーの視線が玲に注がれている。どっと焦りの汗が出た。早く答えなくちゃ。イエスかノーかを表明しなくちゃ。
 迷ったのは一瞬のことだ。でも、長いあいだ迷い、みんなに見つめられている気がした。悩んだが答えは出ず、玲は困惑の笑みを浮かべて首をひねった。麻耶からどんな言葉を浴びせられるだろう。びくびくしながら身構えた。しかし、彼女はなんにも言わずに太陽に向き直った。
「そう言えばさ、太陽はどうしてお遍路に来たの」
 麻耶の興味はすでに太陽のお遍路の動機へと移ってしまっていた。玲はがっくりと肩を落とした。たぶん、麻耶は玲がイエスと言おうがノーと言おうが、どっちだってかまわなかったのだ。それなのにあんなに悩みまくってしまった。しかもひと言も返せなかった。
 玲はうつむいて緊張を逃すための息を吐いた。冷静になって考える。先ほどの麻耶からの問いかけに、正解も不正解もなかったはずだ。なのに自分は必死にひとつの答えを出そうとして硬直してしまった。
 ああした場面で求められているのは、適当でもなんでもいいからタイミングのいい合いの手みたいな答えだ。会話のテンポや流れを寸断しない、ちょっとした返事だ。それは玲もわかっていたはずだった。たとえば、「どうだろうねえ」とお茶を濁したり、「あはは」と笑ってやりすごしたりしてもよかったはずなのだ。
 どうしてなにも言えなかったのだろう。またやってしまった。緊張で言葉が出てこなくなる。いつもの玲の悪いパターンだった。
「いまの麻耶の質問ってさ、おれがお遍路に来た動機はなにかってことだよな」
 誰も玲のことなど気にも留めず、会話は続いていた。
「そうそう。動機とか理由ね」
「それは、ないしょだな」
 むふふ、と太陽は笑った。
「なんでよ。教えてくれたっていいじゃない」
「言いたくなったら言うさ」
「太陽のけち」
「おいおい、けちはないだろう。お遍路の動機はむやみやたらに尋ねるもんじゃないって言われたじゃないか。忘れたのかよ」
 昨日の説明会で話があった。お遍路の中には重い理由を抱えて巡拝している人もいるので、気軽に尋ねる前に少し考えましょう、と。お遍路は不治の病を治してほしくて願掛けのために歩いている人もいるし、大切な人の供養のために歩いている人もいるからだそうだ。
「忘れてないよ。あたしだってちゃんと空気を読んで、訊いてもよさそうな人に訊いてんじゃん。筋肉がっちがちの太陽なら能天気そうな理由で来ていそうだな、と思ったから訊いたんじゃん」
「失礼な言われようだなあ。おれ、こう見えても傷つきやすいんだぞ。体は鋼鉄、心はガラスなの」
 太陽は胸に手を当てて傷つくポーズをした。
「なにがガラスよ。きっと防弾ガラスとかのかっちかちに硬いガラスでしょ」
 麻耶は取り合わず、冷たく言って突き放した。
「だったらさ、麻耶はどうなんだよ」
「あたし?」
「なんでお遍路に来たんだよ」
「あたしはチャレンジだよ。千二百キロを自分の足で歩いてみたかったから。別にひとりで歩いてもいいんだけど仲間と歩いたほうが楽しいじゃん。それで今回のお遍路プロジェクトに申しこんだの」
「なんか普通だな」
 太陽が面白くなさそうにつぶやく。
「普通で悪かったね、それじゃあ、玲はどうなの」
 またもや麻耶が玲に話を振ってきた。
「え」
「玲はなんでお遍路に来たの」
 再びメンバーの視線が玲に注がれた。先ほど反省したばかりなのに、玲はまた一瞬にして緊張し、硬直してしまった。適当な会話でやりすごせばいい。理由なんてでっち上げればいい。そうわかっているのに注目を浴びると余裕がなくなり、頭が真っ白になる。
 また汗がどっと出た。誰もが玲の返答を待って見守っている。ただひとり、花凛は壁に背中を預けてうつむいていることに気づく。玲になどまったく興味がないのだろう。
それはそれで動揺の種となった。
「ねえ、お遍路の動機はなんなのかって質問してるんだけど」
 麻耶がせっついてくる。玲は覚悟を決めて口を開いた。
「ええと、動機って言われても、ぼくの場合なんて言ったらいいのか、うまく言えなくて」
「あたしみたいにチャレンジ?」
「そういう側面もあるけれど」
「側面ってなによ。ずばり言ってよ。女の子にふられて心を癒す旅に来たとか、自分探しのために歩いてみることにしたとかさ」
「ふられたとかはないよ。けれど、自分探しと言われれば、そう言えないこともないのかも」
「煮えきらないねえ」
 いらいらとした口調で麻耶が睨んでくる。
「あ、でも、供養のためと言えば、供養のために来たとも言えるんだけど」
 へどもどしながら玲が言うと、それまで静かに話へ耳を傾けていた吉田が急に会話に入ってきた。
「え、供養ですか」
 吉田は長野からやってきた大学院の一年生だ。髪型はサイドから流すスタイリッシュなもので、眼鏡はおしゃれなスクエアのデザイン。それなのになぜか吉田の見た目は昭和のサラリーマンを彷彿とさせる野暮ったさがある。
「あ、ですけど、ぼくの場合は供養と言っても、ちゃんとした供養をできるようになりたくて、そのためにお遍路に来たって言ったほうがしっくりするから、正確に言ったら供養ではないんですけれど」
「あのね」と麻耶が聞いていられないとばかりに口をはさんできた。「あたしは玲がなにを言おうとしているのかさっぱりわからないんだけど」
「ご、ごめん。ややこしい話なんで」
「ややこしいのはあんたの説明でしょう。なんであんたの話はそんなとっ散らかっているのよ。頭の中で整理してからしゃべりなさいよ」
「そ、それはわかってるんだけど」
 核心部分に触れずに、お遍路に来た理由を話してみようと思ったけれど無理だったのだ。玲はうつむいて畳の目を見つめた。やっぱりきちんと打ち明けるべきなのだろう。正直に話しても、いいことなんてないのだけれど。
「で、結局あんたの動機ってなに?」
 麻耶が畳を手のひらで二度叩いた。叩き方で彼女のいら立ちが伝わってきた。
 いったいどうしたらいいのだろう。本当のことを打ち明ければ、この場は収まる。でも、七班のメンバーはきっとみんな驚き、好奇の目を向けてくるに違いない。今後、和やかに車座になってビールを飲む機会は、二度と訪れないかもしれない。
 玲が迷ってぐずぐずしていると、ふすまが外からノックされた。木戸が代表して「どうぞ」と答える。違慮気味にふすまが開き、頭を短く刈りこんだ青年が入ってきた。
「失礼します。おれ、三班の原田って言うんですけれど」
 原田と名乗ったその青年はぺこりと頭を下げた。今夜はどの班も七番札所近辺の宿に泊まっているという。
「うちの七班になにか用かな」
 木戸が尋ねると、原田は室内をきょろきょろと見渡した。
「参加者名簿の中に相楽玲君の名前を見つけて、もしかしたらと思って会いに来たんですよ」
 いきなり自分の名前が出て玲は驚いた。しかし、それ以上に困惑した。この原田という青年が誰なのかさっぱりわからないからだ。もしかしたら、と不安がよぎる。
 原田と目が合う。原田は満面の笑みとなって近づいてきた。
「おお、相楽君、久しぶり! 全然変わっていないね」
 玲も笑顔で応じようと試みた。けれど、曖昧な笑みしか作れなかった。反応に困ってなにも言えないまま、必死に原田を観察する。この青年が誰なのか思い出そうとして。その原田も玲の様子がおかしいことに気づいたようだった。
「あれ? 覚えていないかな。同じ小学校だった原田だよ。相楽君の一学年上で、いっしょにミニバスに入っていたじゃないか」
「ミニバス?」
「善通寺市のミニバスケットボールクラブだよ」
「ああ」と間に合わせで答える。きっと自分はそのミニバスに入っていたのだろう。
「県の新人大会で優勝したときは超うれしかったよなあ。坂出の市立体育館から帰るとき、相楽君がはしゃぎすぎて電車に乗り遅れてさ、ホームでぽつんと残されちゃって、あのときの遠藤先生めちゃめちゃ怒ってたもんな」
 原田は楽しそうに思い出を語った。でも、玲にはなんのことだかさっぱりわからない。四国へ来たのだから、こうした事態が起こる可能性を考えていなかったわけじゃなかった。玲を知る人物がいてもおかしくはない土地なのだ。
 せっかく相楽玲を知る人物と出会えた。原田に投げかけたい質問が次々と浮かんでくる。善通寺市のミニバスケットボールクラブとはなんのことなのか。遠藤先生とはいったい誰なのか。しかし、横からねちねちとした声が飛んできた。
「おいおいおいおい、うちの班にはとんだ嘘つきがいるみてえだな」
 声の主は窓際で胡坐をかいていた剣也だった。愛媛の出身で玲と同じ大学三年生。ただ、二浪しているらしく、年上であることを自己紹介でことさら強調していた。太陽から剣也と呼び捨てされたことが面白くなかったようで、二浪していることをカミングアウトしたのだ。
「嘘つきってどういうことよ」
 麻耶が剣也に尋ねる。
「玲は昨日の自己紹介で東京出身って言ってたじゃねえか。けど、この原田ってやつは玲のことを、香川の小学校でいっしょだったって言ってやがる。つうことは玲が嘘をついたってことじゃねえか」
「いや、あの、それは嘘をついたわけじゃなくて」と玲は慌てて否定した。しかし、剣也は取り合ってくれない。
「別に嘘をついたってかまやしねえよ。ばか正直に正体を明かさなくてもいいんだもんな、このお遍路プロジェクトってやつは。なあ、コーディネーターの木戸君よ。問題ねえわけだもんな」
 二浪しているということは、剣也のほうが木戸よりも年上のはずだ。そのあたりを強調するために、あえて木戸君なんて呼び方をしたのだろう。木戸は困惑しつつ答えた。
「そうだね、規約上は問題はないね」
 お遍路プロジェクトには特殊な規約がある。参加者本人が希望すれば、名前やプロフィールなどの個人情報を明かさなくてもいいのだ。実名と本当のプロフィールを運営委員会に伝えてさえいれば、年齢も、出身地も、通っている大学も、名前でさえも、伏せることができた。玲が所属する七班にはいないけれども、ほかの班には「田中ドラゴン」だとか「猫たかし」だとか、いかにも匿名とわかる参加者がいた。
 昨今のお遍路はトレッキングやウォーキングなどの、健康志向の延長で挑戦する人が多いという。また、バスに乗って札所を回るお遍路は、団体旅行のようで楽しいらしく、すべての行程を自転車で走破しようと試みる人もいるそうだ。つまるところ、お遍路は観光化が進んでいるらしい。しかし、本来のお遍路は仏道修行。歩き遍路もかつては切実な動機から参拝する人が多かった。
 そうしたかつてのお遍路と同じように、お遍路プロジェクトに深刻な動機で参加する学生がいるかもしれない。そうした学生のために、個人情報を伏せるという特殊な規約が盛りこまれたのだそうだ。今回、通っている大学の名前を明かさない参加者は相当な数にのぼっていた。
「さて玲。おまえどうすんの。東京出身って嘘のプロフィールのままで通すかい? おれはそれでもかまわないぜ」
 剣也が挑発の視線を送ってくる。
「だから、ぼくは嘘をついたわけじゃなくて」
「言い訳は見苦しいって。嘘がばれた第一号なんて、みっともなくて恥ずかしいだろうけどな。ま、ほかにも嘘のプロフィールのやつがいるかもしれねえし、偽名を使って参加しているやつもいるかもしれねえからな」
 うひひ、と剣也はいやらしく笑ってメンバーを見渡した。
 玲は歯を食いしばってうつむいた。けっして騙したわけじゃないのだ。訂正したい。けれど、訂正するとなると、本当のことをすべて打ち明ける必要が出てくる。打ち明けたときメンバーはどんな反応を示すだろう。その反応がこわい。自分が普通の人ではないと告白するも同然だからだ。
 窺うようにそっと玲は顔を上げた。太陽と目が合った。昼間に交わした会話が思い出される。彼には「東京生まれの東京育ち」と告げてしまった。いま太陽の中で、あの言葉は嘘と認定されているのだろうか。嘘をつかれたと傷ついているだろうか。申し訳なさで胸がいっぱいになる。彼はあんなにも親しくなろうとしてくれていたのに。
 玲は目をつぶり、大きく息を吸った。ゆっくりと息を吐きながら目を開け、メンバーひとりひとりの顔を見た。声が震えそうになったので下っ腹に力をこめる。打ち明けるときは明るい口調でなんでもないふうを装ったほうがいい。経験からそう知っている。
「本当のことを話します。ぼくの本当のことを」
「なにが本当のことだよ。いまさらよ」
 剣也が茶々を入れてくる。心がくじけそうになったけれども、ぐっと踏ん張って続けた。
「実はぼくの出身は香川県なんです。いまこちらの原田さんが言っていたミニバスってのも本当なんだと思います。だけど、ぼくは全然覚えていないんです。十歳まで香川にいたその記憶がないんです」
 一瞬、しんとした。
「えええ!」
 麻耶が素っ頓狂な声を上げて膝立ちになった。ほかのメンバーも目を丸くしている。原田はぽかんと口を開けていた。花凛が初めて玲の言葉に反応を示していた。
「ぼくは子供のころの記憶がまったくないんです。出身を香川と言っても自分で覚えていないから、引っ越した先の東京をお遍路プロジェクトに出身地として申請したんです。嘘をつく形になってしまってごめんなさい」
「ちょっと待って」
 膝立ちのまま麻耶がにじり寄ってきた。瞳に好奇の色が浮かんでいた。格好の面白いネタを見つけたというふうだ。
「それって玲が記憶喪失ってこと?」
「正式名称は逆行性健忘症って言うんだけど」
「まったく思い出せないの?」
「こういう健忘症っていうのは、一定期間を置いたら記憶は戻ってくるらしいんだけど、ぼくの場合は十年経っても戻ってこなくて」
「原因はなに」
「善通寺市の捨身ヶ嶽という崖から落ちて頭を打ったって聞いてはいるけど」
「聞いてはいるけどってなによ。他人事みたいに」
「目を覚ましたらぼくは病院のベッドの上にいて、どうして落ちたとかはまったくわからないから」
「ああ、なるほど」
 記憶がないことを打ち明けたときの反応はさまざまだ。麻耶のように好奇心をあらわにして近寄ってくる人もいる。憐れんで黙ってしまう人もいる。やさしい言葉をかけようとしてくれる人もいる。疑って信じない人もいる。
 打ち明ける側の玲としては、同情されるのがいちばん困った。「かわいそう」を連発されると、そんなにも自分はかわいそうなのかと滅入ってくる。卑屈になって虚しさの海に落ちてしまうのだ。そうなるとなかなか這い上がれない。
 だから、同情されないように、打ち明けるときは明るい声で、明るい表情で、記憶がないことなんてたいしたことないんだ、というふうに陽気に話す。それは相手のためでもあった。打ち明けられたほうだって、こんな重たい打ち明け話は返答に困るに違いない。結果、同情するしかなくなる。
 玲は今回も明るさを装った。黙ってしまったメンバーたちを前にして、楽しげに声を弾ませて原田に尋ねた。
「そうだ、原田さん。ぼくの小学校時代を知っているのなら、いろいろと教えてくれませんか。どうしてぼくが捨身ヶ嶽になんて行ったのか、なにか知りませんか」
 原田がうつむいた。その表情には困惑が浮かんでいた。
「ごめん。おれ、相楽君が崖から落ちたなんて知らなくてさ。いま初めて知ったんだよ。そんなことになっていたなんて」
「いやいや、謝らないでくださいよ。たぶん、いいニュースじゃなかったから、うちの親も学校やミニバスなどで大っぴらにしなかったんじゃないですかね」
「おれさ、相楽君と遊んだのはミニバスのときくらいなんだよ。ほら、おれたち学年が違うだろう。先に中学校に進んじゃって、あとから相楽君が転校したって噂を小耳にはさんだくらいなんだよ。ほんとごめんな」
 謝ってほしいわけではないのに。申し訳なさそうな原田を見ていると、玲の心はうつむきかけた。虚しさの海の波音が聞こえた気がした。慌てて明るい声を出す。
「そうだったんですね。原田さんとはあまり交流がなかったんですね。記憶を取り戻すいい手がかりが手に入るかと思ったのですが、残念!」
 あくまで明るく悔しがってみせた。
「相楽君のことでなにか知っている人がいないか、小学校の同級生たちに当たってみるよ。情報が出てきたら七班にまた顔を出すからさ。これからお遍路を歩いているあいだまた会おう。それじゃあ」
 そそくさと原田は部屋を出ていった。もう接触してこないだろうな。玲は直感でわかった。でも、これでいい。痛々しい感情をあまり味わわせる前に逃がしてあげられた。それに原田は最後に「また会おう」と言ってくれた。それだけでもありがたかった。
 記憶がない玲を薄気味悪がり、急速に疎遠になった人はいままでたくさんいた。そうした態度は十代のころの玲をひどく傷つけた。しかし、二十歳を越えたいま、しかたのない反応だと納得できるようになった。記憶のない人間なんて、不自然で薄気味悪い。逃げるのは当然の反応なのだ。
 玲が病院のベッドの上で目を覚ましたのは十歳のときのこと。自分が誰かわからないし、ベッドを取り囲む人たちも誰だかわからない。まったくの真っ白。まるで十歳で生まれた赤ん坊のようだった。
 そんな奇妙な人生を玲自身がいまだに受け入れられないのだ。他人にどんな態度を取られようともしかたのないことだ、と観念するようになった。
 原田が出ていったあとの部屋は、重苦しい空気に包まれてしまった。メンバーは憐れみの視線を玲に向け、黙ってしまっている。
 そんな視線は滅入るからやめてほしい。虚しさの海に追いこまないでほしい。せっかく明るく振る舞って原田との再会を乗りきったのに。
 玲は再び笑みを浮かべ、明るく切り出した。
「同じ小学校出身の人と出会えたというのに、記憶が戻る気配がまったくないんだもん。まいっちゃうよね」
 七班のメンバーは玲を見て黙ったままだ。明るく振る舞うことで、空回りしていることは玲もわかっていた。それでも、明るく振る舞い続けなくてはいけない。やめてはいけない。虚無感の波音がすぐそばまで近づいてきている。足元の砂をさらっていく。このままじゃ駄目だ。もっと笑みを浮かべなくちゃ。明るい声を絞り出さなくちゃ。
「ねえ、玲。いま原田さんって人に会っても、本当になんにも感じなかったの? まったく見覚えがない状態なの?」
 麻耶が質問してきた。これ幸いとばかりに玲はからっとした口調で答えた。
「うん、全然わからなかった。実はさ、東京に引っ越したあと、何度か香川に美幸さんと足を運んでいるんだよ。記憶を失う前に住んでいた街を見れば、記憶がよみがえるんじゃないかと期待して。でも、まったく駄目だったんだよね」
「ちょっと待って。いま言った美幸さんって誰よ」
「あ、お母さんのことだよ」
「お母さん? 玲はお母さんを名前で呼ぶんだね。仲がいいんだ」
「違う、違う。崖から落ちて記憶を失った状態で目を覚ましたとき、知らないおばさんがわたしがお母さんだよって言ってきたんだよ。けれど、見覚えはないし、そのおばさんをお母さんと呼びたくなくて、美幸さんと呼んでいたらそのまま定着しちゃったんだ」
 あはは、と玲が笑ってみせたら麻耶は顔をしかめた。
「病院では記憶を取り戻すために写真をたくさん見せられたよ。写真に写っているぼくと美幸さんはそっくりで、どう見たって親子と考えるのが自然なんだけれど、それでもぼくはお母さんと思えなかったんだよね」
 膝立ちだった麻耶が畳に腰をぺたりと落とし、やりきれない表情となってうつむいた。
「その美幸さんが去年の秋に亡くなったんだ。肝臓がんだったんだよ。発覚から三ヶ月であっという間に旅立っていったよ。最初の二ヶ月は元気だったんだ。顔色もよかったし、ごはんもよく食べていたし。けれど、亡くなる一週間前に急に悪くなったんだよね。がんは坂道を下るみたいに悪くなるんじゃなくて、階段状に悪くなるんだ。がくんと一段下がるんだよ。で、下がったらもう悪いまま」
 部屋は静まり返り、メンバーの誰もが沈痛な面持ちとなっている。それでも玲は話を途中でやめるわけにはいかなかった。明るく話し続けなければならなかった。陽気でいなくちゃ。最後まで笑っていなくちゃ。
 もし笑うことをやめたら、そのときはきっと泣いてしまう。
 玲は自分でもよくわからない高揚感に突き動かされつつ、一方的に話し続けた。
「お葬式のときもみんなが泣いているのに、ぼくだけが泣いていないんだ。頭ではわかっているんだよ、母が死んだのに息子のぼくが泣かないのはおかしいって。美幸さんは旦那さん、つまりぼくのお父さんに当たる人とはぼくを産んですぐに離婚していて、美幸さんのお父さんとお母さんも亡くなっていて、兄弟も姉妹もいない。美幸さんにとって家族と呼べるのはぼくだけだったんだ。お葬式で泣いてあげられる家族はぼくだけ。だけど、お棺を覗いたときにぼくが考えたのは、この人はいったい誰なんだろうってことだったんだよ。もちろん、美幸さんは母親としてなにからなにまでやってくれたよ。高校にも行かせてくれた。大学のお金もすべて用意してくれた。昼間はスーパーの総菜屋で働いて、夜は知り合いのスナックの厨房を手伝ってさ。高校の卒業式では泣いてくれた。成人式のときは写真館でいっしょに記念撮影をした。世の中一般のお母さんより、何十倍も何百倍もすばらしいお母さんだった。それなのに、ぼくは一度もお母さんって呼べなかったんだよ。病院でこれが最後の会話になるってわかっていたときでさえ、美幸さんってぼくは呼んだんだ」
 ひと息に話し終えたあと玲はにっと口角を上げて笑った。七班の面々を見渡し、笑顔で問いかけた。
「なんだか、おかしい話でしょう?」
 木戸も麻耶も頭頂部が見えるくらいうつむいていた。剣也はあらぬほうを向いていた。顔を上げているのは太陽と花凛だけだ。
 太陽と視線がぶつかった。太陽は玲を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。
「なあ、玲。玲はいまお母さんと呼べなかったことを、おかしい話でしょうって笑ったよな」
「そうだけど」
「違うよ、玲。それはおかしい話じゃないよ。悲しい話だよ」
 穏やかでやさしい口調だった。その太陽の声を聞きながら、玲はできるかぎり静かな呼吸を試みた。もっと静かに、もっと静かに、と念じながら。そうしないと息を吐き出すタイミングで嗚咽を漏らしてしまいそうだった。
「それからさ、いま玲が話してくれたことって本当は笑いながら話したいことなんかじゃないんだろ? 無理して笑わなくていいよ。今度お母さんの話を聞かせてくれる機会があったら、そのときは笑わないで話してくれよな」
 太陽は見抜いていた。玲が心の奥底に沈め、誰にも触れさせないようにしてきた悲しみを。それは母の死を悲しめない悲しさだった。太陽の言う通り、悲しい話なのだ。舌の根から涙の味が這い上がってくる。目の奥が熱くなってくる。涙の予兆だ。でも、なんとか飲みこんだ。
「ありがとう」
 礼を太陽に述べたら声がかすれた。
「そんな礼を言われるようなことはしていないさ」
 太陽は大きな笑みを浮かべた。太陽というその名の通り、人を温かく照らす笑みだった。
「あらら、ちょっとしんみりとした空気になっちまったかな」
 そう太陽は言ってきょろきょろと見回した。とぼけた調子で続ける。
「もしかしておれの真面目な発言のせいかな。おれ、ときどき真面目すぎちゃうんだよね。こりゃ失敬、失敬」
 ぼりぼりと頭を掻いて太陽は笑った。しかし、メンバーからなんの反応もない。玲の打ち明け話に沈みきってしまっていた。
 太陽がちらりと玲に目配せをしてきた。彼の口元はかすかに笑っていた。なにかを企んでいる。そう玲が気づいたとき、太陽が開けられていないビールに手を伸ばした。プルトップを開けるや否や、あっという間に飲み干した。まるでジュースを飲むみたいにごくごくと。
「よし!」
 空き缶を勢いよく置いて太陽が立ち上がる。「それでは、みなさん!」と声を張り上げて両手を広げた。彼は体もでかければ声もでかい。
「これからのお遍路の旅、仲良く楽しく盛り上がってまいりましょう!」
 太陽は叫ぶなりTシャツを脱いだ。脱いだTシャツを丸めて部屋の隅へ放り投げる。誰もが唖然とするなか、太陽は部屋の真ん中で筋肉を誇示するポージングを取った。
 鍛えられた体をしていることは服の上からでもわかっていた。けれど、いざ裸を見ると想像を超えていた。胸板が厚い。腹筋がきれいに六つに分かれている。肌は鈍い光沢を放っていた。ゆるんだ個所がひとつもない。肉体というよりも岩の塊だ。裸という言葉が持つ生々しさからほど遠い体をしていた。
「ぎゃあ! あんた、なに脱いでんのよ!」
 麻耶が絶叫する。太陽が澄まし顔で返した。
「ひとつ気合いを入れようと思ってさ。気合いを入れるならやっぱり裸だろ」
「ばか! なに言ってんのよ。女子がいるんだからやめてよね」
「女子? どこにいるんだよ」
 太陽は次のポージングに移行した。
「目の前にあたしがいるでしょ! 花凛だっているでしょうが。いい加減にしな!」
 そう言うなり麻耶は太陽の腕と言わず背中と言わず、ところかまわず手のひらで叩き出した。赤く手形が残るくらいに本気でばちばちと叩いている。
「痛たたたた。やめろって」
「そんなごつい体してんのに痛がるんじゃないの!」
「鍛えてても痛いもんは痛いんだよ」
「女子がいないなんて言うからだよ」
「悪かった、悪かった。冗談だってば」
「ごめんなさいは?」
 手のひらを高く掲げて麻耶がお仕置きのポーズを取った。
「ごめんなさい」
 手のひらが走って太陽の左腕をばちんと叩く。
「痛えな! 謝ったじゃないか」
「おまけだよ」
「ああああ、いまの一発で腕が折れたぞ。どうしてくれるんだよ。慰謝料払えよ」
 太陽は「痛いよ、痛いよ」と訴えながら腕をぶらぶらさせた。
「あんたの太い腕がそんな簡単に折れるはずないでしょう。ばか言ってないで早く服を着な。じゃないともっと叩くよ」
 麻耶が再び構えを取る。太陽は泣き顔になった。
「わかったよ。もう叩かないでくれよ。乱暴なんだからさ、もう」
 太陽が小さく背を丸め、先ほど投げ捨てたTシャツをすごすごと拾いに行く。部屋の隅でいそいそと着る姿は情けなくて、おかしみを誘った。
「なんだか夫婦漫才みたいですね」と吉田が笑う。そのひと言で場の空気が和んだ。麻耶が慌てて訴える。
「吉田さん、やめてくださいよ。あたしはこんなすぐに裸になる夫は絶対にいやですよ」
 太陽もすぐさま言う。
「おれだってこんな叩く嫁はごめんだよ」
「あんたが裸になるからでしょう。自分が悪いくせに」
「おれは気合いを入れようとしただけじゃないか」
「それをまだ言うの? だったらさ、あたしが手のひらで気合いを注入してあげようか」
「いや、それはごめんだよ。暴力反対。ごめん、許して」
「やっぱり夫婦漫才ですね。ごめん、許して母ちゃんって感じで」
 吉田がうまくまとめると木戸が声を上げて笑った。玲もつい笑ってしまった。剣也はそっぽを向いているが、気づまりな話題から解放されてほっとしているふうに見えた。
 そこではたと玲は気づいた。太陽はわざとふざけたのだ。裸になったり、麻耶と漫才じみたやり取りをして、玲がもたらした重い空気を払拭してみせたのだ。
 すごいやつかも、三上太陽。
 感心というより、感動を覚えて玲は太陽を眺めた。逆行性健忘症を打ち明けたあとで、こんな穏やかな心地でいられたのは初めてのことだ。
 和やかな雰囲気のなか、これにて交流会はお開きとなりかけたときだった。
「わたし、訊きたいことがあるんだけど」
 唐突な低い声に、はっと誰もが固まった。花凛が玲をまっすぐ見つめていた。彼女が自ら人に語りかけるところを初めて見た。
「え、と、訊きたいことってなにかな」
 玲はうろたえつつ尋ねてみた。花凛はなんの表情も浮かべずに口を開いた。
「記憶がないってどういう感じなの」
 花凛は漆黒の瞳をしている。白目の部分は青みがかっている。それは不穏な青白さであって、視線を受け止めきれなくなった玲はやや早口になって返した。
「寂しいよ。すごく寂しい」
 記憶がないせいで母の死を悲しめない。それはこの星にたったひとりで立ち続けているような絶対の寂しさだ。もう息が止まりそうになるほどの寂しさなのだ。しかし、花凛はこともなげに言った。
「寂しいか。じゃあ、いいかな」
 どういう意味で言ったのだろう。寂しいだけなら記憶がなくてもかまわないということだろうか。唖然としてしまった。
 きっと花凛にはわからないのだ。この底のない寂しさが。そして、記憶が普通にあることのありがたみが。
 十歳のときに記憶を失い、相楽玲という人間のデータはリセットされて白紙状態になった。その後、君の名前は相楽玲なんだよ、美幸さんがお母さんだよ、君は十歳で小学生なんだよ、ここが君の家だよ、などと情報を与えられて改めて相楽玲は作り上げられた。
 つまり、いまここにいる相楽玲は、記憶から成り立っている人間ではなく、あとから与えられた情報によってでき上がっているのだ。
 与えられた情報で作り上げられたため、どうしたって自分が継ぎはぎだらけに思えてしかたがない。この心までが寄せ集めなんじゃないだろうかと疑わしくなるときすらある。存在の不確かさに溺れそうになる。自分を自分と言いきれないのだ。
 この存在の不安を花凛は理解していない。記憶とは安心なのだ。自分の存在を保証する根っこと言ってもいい。
 こうしたことを花凛に訴えたかったけれど、うまく言葉にできないように思えて、玲はうつむいた。たとえ言葉にして訴えられたとしても、誰も理解してくれないんじゃないだろうか。そう考えたら心が真っ暗になった。
「なあ、花凛。じゃあ、いいかなってことはないんじゃないかなあ」
 太陽が飄々とした口調で会話に入ってきた。花凛が太陽をきっと睨みつける。太陽は動じずに続けた。
「玲の記憶のないしんどさに、もう少し寄り添ってあげてもいいんじゃないかとおれは思うんだけど。どうだい?」
 花凛がゆらりと立ち上がる。なにも言わずに拒みを漂わせて部屋を出ていった。怒っているように見えた。しかし、なにに怒っているのだろう。さっぱりわからない。
 せっかく場の空気が和んだのに、また荒んだものになってしまった。剣也が「うひひ」といやらしい笑い声を上げる。
「記憶がねえとか、すぐに裸になるやつとか、不愛想で意味不明の女とか、この七班はほんとおかしなやつらばかりだぜ」
 お遍路の初日は気まずいまま終わっていった。

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