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北の麦酒(ビール)ザムライ
日本初に挑戦した薩摩藩士
池永 陽

   一 箍の外れる男

 明治二十五(一八九二)年──初夏。
 船荷の積みおろし作業を終えた志方源吾は、同じ仲仕仲間で刎頸の友ともいえる、村橋久成と二人で安酒を飲んでいた。
 ちょうど神戸港につづく倉庫群の裏筋にある『さのや』という煮売屋で、むろん客筋は金のない者ばかりである。
「薄いだなし。長岡の味に較べて、やっぱり神戸の味はの」
 大根の煮つけを口に放りこみながら、志方はぼそっという。
「薄いだけじゃねえよ。甘さも、ちいと足りもはん。これもまあ、薩摩の味と較べてのことじゃけんどな」
 久成もぼそっとした調子で答える。
「札幌の味と較べたらどうじゃろなあ、久成さ」
 大ぶりの猪口の酒を、志方はぐいと飲む。
「蝦夷地の味は概して濃いほうじゃの。薄味では、あの寒さは乗りきれんけんの」
 久成の目が宙を泳いだ。
 あれは何かを想い出している目だ。
 おそらくは蝦夷地のホップ畑──今、久成の目の奥は青々と茂った、ホップの葉一色に染まっているに違いない。
「久成さ、札幌には本当にもう、帰らねえつもりなのかなし」
 できる限り優しい声で訊いた。
「帰らねえすな」
 ぽつんと久成はいい、
「札幌にも東京にも薩摩にも、おいには帰る場所などひとつもないけんの」
 自分にいい聞かせるように呟いた。
「だけんじょが、東京には元首相の黒田清隆を始めとする偉いさんもいるかんに。黒田は久成さの幼馴染みで上司だった人じゃろうに。久成さのいる場所ぐらいは、ちゃんと用意してくれるんじゃないだべか」
 いたわるようにいった。
「黒田の了介か──おいは、あの男とは馬が合わん。あの男は権勢欲の権化のようなもんたい。上に立つもんはそうじゃねえと務まらんかもしれんが、おいには理解できん性格じゃけん」
 久成はきっぱりといいきった。
「相変らず、融通がきかんのう、久成さは。不器用じゃのう」
 ほんの少し志方は笑った。
「不器用はお互い様じゃ──おいも源吾さも世の中からは弾き飛ばされた身。今更、戻る場所なんぞ、どこにもなあ。それに……」
 久成の大きな目が、志方の顔をぎょろりと睨んだ。
「おいのこれまでの生き様は、源吾さにすべて話しもした。源吾さは、おいのすべてを知っておりもす。おいは、それで充分じゃ。たった一人でも、おいの生き様を知ってくれている人間がいれば、それでいい。本望ちゅうもんたい」
 一気にいって猪口の酒を喉の奥に流しこむように飲んだ。
「そこまでいわれれば、わしも本望だべ。尾羽打ち枯らした、このわしによ。とはいっても所詮は越後長岡の人斬りだけんじょがのう」
 自嘲するように志方はいい、大根を乱暴に箸で引きちぎって口に入れた。
「慣れたべな、この薄味にも」
 かすかにうなずくと、
「それはそうじゃ。おはんもおいも、この地に流れてきてかなりの年月。食いもんの味にも貧乏の味にも慣れるわさ。何年も一緒にいれば、不倶戴天の仇敵にもな」
 久成がふわっと笑い、つられて志方も両頬を崩す。
「そうそう、長岡藩は北上してくる薩長には酷い目にあわされとるかんの。奥羽越列藩同盟での軍はむろん、わしの場合は箱館戦争での五稜郭においてもな」
 志方は表情を真顔に戻していった。
 大勢の人間が死んでいた。笑いながら口にできることではなかった。
「おいが、加治木砲隊の軍目付で、源吾さが榎本武揚軍の斬込み隊長──どこかで刃を交えていたかもしれん、間柄じゃけんのう。それが今では、刎頸の友……世の中、わからんもんじゃのう」
 久成もしみじみとした口調でいった。
「二人とも、貧乏人そのもんじゃったのが、幸いしたかもしれんべな」
 志方は手酌で猪口に酒を満たす。
「そうたいのう。金も名誉も権威も何にもなし。何もかもがつるんと滑り落ちた、放心状態。よかたいね、これは。放心状態とは正に無欲そのもの、無防備そのものじゃけん、一時は反目していたけんが──」
 久成はぷつんと言葉を切る。
「いつのまにかのう」
 小さな吐息を志方はもらす。
「弱い者同士の負け犬同士じゃ。心に通じるものがあったんじゃろな。しかしじゃ、あの折りの勝負はまだついておらんたいね。分けのままたいね」
「おう、それそれ」
 志方は思わず身を乗り出し、
「そろそろかの、あの折りの結着は」
 静かすぎるほどの声でいって、背筋を伸ばした。

 志方源吾が元薩摩藩士の村橋久成に初めて会ったのは、五年前の冬のことだった。

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