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逢魔が時に会いましょう
荻原 浩

   座敷わらしの右手

     一

 やっぱり、やめとこうか、な。
 文学部の研究室棟の陰気臭い廊下を歩きながら、真矢は早くも後悔しはじめていた。
 でも、いまさら就活を再開するってのもなぁ。鼠の毛皮みたいなリクルートスーツを着て面接官たちの前で「御社の企業姿勢に感動しました」なんてネットのマニュアルどおりのせりふを口にしている自分を思い浮かべてから、ぶるりと首を横に振った。
 今日だっていつもどおりジーパン。レア物のダメージジーンズじゃなくて、普通に古びたやつ。これから会う人のことを考えると、スカートのほうがよかったか。もう遅いか。
 大学には四年間遊びに来ていたようなものだから、研究室棟に入ったことは数えるほどしかない。これからは頻繁にここに通うことになるんだろうけど、なんかキッツィなここ、生理的に。剥き出しのダクトがアナコンダのように天井を這っている研究室棟の三階は、薄暗くて蒸し暑かった。出口のないトンネルみたいだ。その光景が自分の未来を暗示しているように思えて、真矢のただでさえ重い足どりはさらに重くなる。
 指定された部屋に着いてしまった。ショートヘアの前髪を軽くすきあげる。就活にはセミロングが有利、なぜなら面接官は男ばっかりだから、という噂をばっさり文字どおり断ち切ったのだ。もう取り返しはつかない。頭悪いくせに大学院に進もうなんて考えた自分が馬鹿だったかもしれない。バカバカバカとドアをノックした。
 返事はない。ドアを開けてみた。間違えて物置を開けてしまったのかと思った。
 視界いっぱいに本と紙束とダンボール箱が山積みになっている。真矢の六・五畳のワンルームマンションより狭そうな部屋だ。相部屋らしく机が二つ並んでいるが、どちらにも布目准教授の姿はなかった。
「民俗学の布目くんがフィールドワークのスタッフを探してるの。力になってあげてくれない」
 ゼミの安永教授からそう言われたのは、おとといだった。
「ビデオの撮影に慣れてて、体力のあるヒトがいいって言ってた。今度の日曜日。高橋さん、あなた、力ありそうだし、確か映画研究会だったよね。ぴったりじゃない」
 水晶玉の占い師みたいなクレオパトラカットの、あなたの将来をのぞいてみましょうとでも言い出しそうな厚化粧で見上げられたら、嫌とは言えない。安永先生は国文科主任教授だ。大学院の入試の面接のことを考えるとなおさら。
 民俗学は選択していないし、国立大学から移ってきたばかりだという布目准教授には会ったことがないが、どうやら安永先生のお気に入りのようだった。
「いいコよ、布目くん。優秀。ちょっと変わってるけど。ハンサムだし」
 最後のフレーズには正直心ひかれるものがあった。それだけが唯一のモチベーションとも言えた。ハンサムな大学教授! この四年間で一度もお目にかかったことはない。真矢は『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインに似た日本人を想像していた。
 約束の時間を過ぎても、レッドメインは現われない。座って待つことにする。少しでも触れれば雪崩を起こしそうな本の山脈を避けながら椅子を探したら、何かにつまずいた。
 床にボロ毛布がころがっている。毛布がもそりと動いてうめき声をあげた。
「ふぅむむ」
 毛布から顔が飛び出した。山羊みたいな間のびした細長い顔に無精髭が伸びている。まだ若い男だ。徹夜していた院生か助手か。布目准教授は人づかいが荒いようだ。
「あのぉ、布目先生は……」
 助手は片手で床をまさぐっていた。眼鏡を探しているらしい。探っているのとは反対方向だったから、拾って渡してやり、もう一度尋ねた。
「布目先生はどちらに? ここへ来るように言われたのですが」
「ふぁう」
 助手がぼりぼりぼりと頭を掻く。飛び散るフケに真矢は後ずさる。細長い顔に必要不可欠な部品みたいに眼鏡を装着してから男が立ち上がった。
「布目はぼくだけど」
 嘘っ。准とはいえ教授なのに、留年を繰り返している学生ぐらいの齢にしか見えなかった。第一──
 どこがハンサムだ。盛大に寝癖がついた髪はまるで、ベタなコントの爆発頭だ。分厚いレンズ越しに見える目はしじみ貝みたいに小さい。無精髭はちゃんとカットしている無精髭風ではなく、リアルな無精髭。真矢の頭の中でエディ・レッドメインが寂しげに笑って背中を向けた。
「何か用?」
 布目があくびのついでに言う。ちょっと待て。それが、人を、呼んでおいて、言う、せりふ、か? 真矢は怒りを奥歯で噛み殺して答える。
「国文科四年の高橋です。安永先生の紹介でフィールドワークのお手伝いを……」
「え」眼鏡の奥のしじみ貝の蓋が開いてまた閉じた。「君がタカハシ……君?」
「はい」
「えーと、タカハシシンヤ君?」
「マヤです」
「ああ」またぼりぼりぼりとフケを飛ばしてから天井を見上げた。「てっきり男だと思ってたから」
 真矢のこめかみがぴくんと脈打った。
「女じゃだめなんですか」
「いや、別に、そんなことは……」
「ムービー撮影は得意ですし、体力もあります。空手初段です」
 真矢は百六十九・八センチの背筋をぴんと伸ばしてみせる。そうすると布目とたいして目線は変わらなくなった。
「ああ、じゃあ  よろしく」

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