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パーフェクトワールド 上
馳 星周

     1

 鎌倉といえども、さすがにこの時期はまだ肌寒い。葉を散らした枝が寒風に顫えあがっている。左手には茶色く染まった山の稜線が広がり、山腹にある古寺が侘びしく佇んでいる。
「そろそろだな」
 先を歩いていた山崎警視監がコートの袖を捲って腕時計を覗きこんだ。金無垢のロレックスが朝陽を反射して目に染みる。
「はっ」
 大城一郎は短く応じた。警視監と直に口をきくことなど滅多にない。なにしろ、警視監といえば警察庁長官、警視総監に次ぐ三番目の地位にまで登りつめた超エリートだ。数年後には山崎が警視総監や警察庁長官の地位についていてもおかしくはない。どう対応すればいいのかがよくわからなかった。
「君は鎌倉は初めてか、警部補」
「はっ。子供のころ、親に連れられて何度か来たことがあります」
「そうじゃない。総理の別荘を訪れたことはあるのかと訊いてるんだ」
 山崎の冷たい声に、大城は首をすくめた。頬が熱い。おそらく、顔全体が赤らんでいることだろう。
「もちろん、初めてです」
「そうか──」山崎の口調が緩んだ。「意外と気さくな方だ。緊張しすぎないようにな」
 山崎の肩越しに“鎌倉”が見えてきた。警察に限らず、省庁関係者が好んで口にする隠語で、現自民党総裁兼内閣総理大臣の別荘を指していう。総理は週末をこの別荘で過ごすのが常だった。
「しかし、山崎警視監、どうしてわたしが……?」
「その理由は総理が自ら君に説明することになっている。不安はわかるが、先走りしすぎんようにな」
 山崎の声はどこまでも素っ気ない。内々に警視監と会うようにと指示された時は、出世の道が開けたのかと有頂天になったが、山崎の態度と週末に“鎌倉”ヘ一緒に行くという指示ともつかない指示に、大城の喜びは不安へとすぐに変わった。
 一介の警部補に時の総理大臣がなんの用があるというのだろう。それも入庁以来、一貫して公安畑を歩いてきた自分に。
 “鎌倉”はすぐ目の前に迫ってきていた。警視庁から派遣されているはずのSPが門の手前にふたりいて、山崎と大城に探るような視線を向けてきている。そのうちのひとりが山崎に気づいて直立不動の姿勢を取った。
「おや?」山崎が立ち止まり、掌をかざして空を見上げた。「雪だな」
 その声につられて大城も空を見上げた。分厚い雲に覆われた空から細かくちぎった綿のような雪がひらひらと落ちてくる。
「雪ですね」
 大城は機械のように応じ、目の前に降りてきた雪片を手の中に握りこんだ。ほんのりと冷たい感触が掌に広がっていく。
 雪が見たくてな、だからうちなーを捨ててやまとぅに出てきたんだ──三年前に死んだ父親の声が耳の奥でよみがえった。
「行くぞ、警部補」
 山崎の声が幾分緊張していた。その声に幻聴がかき消される。軋んだ音をたてて、“鎌倉”の門がゆっくり開きはじめた。

 通されたのは書斎だった。三期連続で総理大臣を務めている権力者の別荘とは思えないほど“鎌倉”の造りは質素だった。八畳ほどの広さの書斎を暖める暖房設備も、部屋の隅にある石炭ストーブだけだった。
 山崎と共に応接用の肘掛け椅子に座り、居心地の悪さに空咳を繰り返していると和服姿の総理がやって来た。
 大城は反射的に直立し、敬礼の姿勢を取った。
「まあまあ、そんなに肩肘張らないで楽にしたまえ──」
「大城警部補です」
 大城の名前を思い出せずにいる総理に山崎が助け船を出した。
「おお、そうだ、そうだ。大城警部補。今日はわざわざこんな田舎まで出向いてもらってご苦労だったな」
「とんでもありません。自分は警察官として当然の──」
「だから、そんなに肩肘張るなといっているだろう。とにかく、座りなさい」
 また頬が熱くなる。大城は目を伏せたまま着席した。
「山崎君もご苦労だったな。どうだ、最近の連中の動向は?」
 総理は好々爺のような笑みを浮かべて山崎と向き合った。山崎は総理の質問によどみなく答えていく。連中というのは過激派のことだった。ここ数ヶ月、革マル派と中核派の衝突が各地で頻繁に起きている。日米安保の自動延長は終わったが、まだ予断は許さない状況だった。大城も、この数年は過激派学生の監視、情報入手のために寝る間も惜しんで働いていた。
 山崎の話が一段落したところで、時機を見計らったかのように使用人がお茶と茶菓子を運んできた。この饅頭がいけるんだと総理はふたりにいい、嬉々として頬張った。
「ところで、大城君」饅頭を頬張りながらくぐもった声で総理はいった。「どうしてここに呼ばれたのかと、不思議に思っておるんだろう?」
「はっ。総理直々にお話ししていただけるということで………」
「君は沖縄の出身だったな?」
「はい。しかし、出身といっても、生まれてから三年ほど過ごしただけで、その後は両親の仕事の関係で東京に来たものですから」
「沖縄方言も多少喋れるそうだな?」
 総理は大城の言葉を聞き流しているかのような態度で質問を放ってくる。大城は多少むっとしながら、それが表情に出ないように努めた。
「本当に多少です。両親とも、こちらの言葉より沖縄方言の方に慣れていたとは思うのですが、とにかく生活、文化に馴染まなくてはと常にこちらの言葉を使っていましたから」
「堪能であるに越したことはないんだが、まったくできないよりはいいな……沖縄には親戚や親族は残っているのか?」
「はい。戦後、ああいうことになりまして、滅多に戻ったことはないんですが」
「なるほど」
 総理はそう呟いて腕を組んだ。
「いかがでしょう、総理。大城警部補は仕事上の実績も充分だと彼の直属の上司も太鼓判を押しているほどです。これ以上の人材はいないかと思いますが」
 大城は山崎の横顔を盗み見た。直属の上司──谷村警視からは、そんな話は聞いたこともない。内密に調べられていたとでもいうのだろうか。いや、それ以上に警察のナンバー三と総理大臣が、一介の警部補になにをやらせようとしているのだろう。
「七二年には沖縄は我らが日本に戻ってくる」
 突然、総理が口を開いた。
「潤滑な返還に向けて、日米双方の事務方が沖縄の返還に向けて日々努力しておる。君、わたしの公約をしっておるね?」
「はい」
 総理の問いかけに、大城はうなずいた。なにがなんでも沖縄を返還させる。それが三期目の自民党総裁選挙に立候補した時の総理の公約だった。
「七二年の返還は決まりだ。わたしもニクソンもその点では合意している。合意は成ったが、そこに至るまでは難問が山積しておる。返還後の基地の問題を筆頭に、施政権の円滑な委譲、米ドルから日本円への貨幣交換、沖縄県民の生活の大転換。七二年までにやらなければならぬことは、それこそ腐るほどあるんだ」
 大城は黙って総理の演説じみた言葉に耳を傾けていた。ここに至ってもまだ、自分になにを求められているのかは霧の中だった。
「君も知っているように、沖縄はまた反米、反基地、反戦闘争が盛んな土地柄でもある。こっちの過激派やベ平連の連中なども多数潜入しては、不穏な思想を広めようと躍起になっているらしいし、ごくわずかではあるが、日本復帰などとんでもない、沖縄は独立すべきだなどというろくでもない思想を振り回している輩もいる」
「沖縄は混沌としている。そういうことですね?」
 大城はいった。総理がぎょろりと目を剥いた。口を挟まれたことが不満なのか、沖縄の現状が不満なのか、その表情からは読みとれない。
「そのとおり」総理は口を大きく開けた。「沖縄は混沌としておる。だが、沖縄県民百万人の夢、日本復帰は確実に成し遂げられなければならん。大城君、そのために君の力を借りたいと思っておるんだよ、わたしは」
「本官の、ですか?」
「そう。日本のために──愛する祖国のために君の力を役立ててもらいたいんだ」
 大城は山崎の顔を見た。山崎は小さくうなずく──とりあえず、総理の話を最後まで聞け。従うしかない。
「さっき山崎君もいっておったが、公安警察官としての君の能力は非常に高い。尾行、監視、盗聴その他、ありとあらゆる技術に精通しておる。そうだね?」
 大城はうなずきながら、舌の上に嫌な味が広がっていくのを覚えた。日本共産党員およびそのシンパ、日教組や各種労働組合員の尾行、監視による情報収集は大城の所属する警視庁公安総務課の主業務だ。総務課という柔らかい名前のもと、時には非合法な捜査も厭わない。盗聴やスパイを仕立てる情報収集──非人間的で時に嫌悪を催すこともある。それを、仕事だ、お国のためだと自分にいい聞かせてこなしてきた。警察内部で優秀だと褒められるのさえ後ろめたさを覚えるのに、まったくの部外者に褒められても後味の悪さしか感じられなかった。
「おまけに沖縄出身で沖縄方言にも理解力がある」
「まさか、総理──」
 大城は思わず腰を浮かした。
「その、まさか、だ」総理は悦に入ったように微笑んだ。「君に沖縄に潜入してもらいたいと思っておるんだ。沖縄で今、なにが起こっておるのか、なにが起ころうとしているのか、大衆の間にどんな心理が蔓延しているのか、なかんずく、沖縄の日本復帰を喜ばない連中はなにを考え、なにを画策しておるのか。その辺りを調査、報告してもらいたい」
 総理の言葉は耳を素通りした。消えかけていた記憶がゆっくりと静かに浮かびあがってくる。視界一杯に広がるサトウキビ畑と透き通った青い空。静かに打ち寄せる波──陽光を受けて万華鏡のようにきらめく水面。それらすべてを懐かしがった母。それらすべてを切り捨てようと足掻き続けた父。沖縄に戻りたいと思ったことはない。このやまとぅの地から出ようと思ったことはない。
「どうだね、大城君?」
 焦れたように総理が口を開いた。それで、自分がしばらくの間呆然としていたことに大城は気づいた。
「し、しかし、自分は警視庁所属の警察官です。沖縄での捜査権はありません」
「そんなことはこっちだって心得ておるさ。なあ、山崎君」
「ええ」総理の言葉を山崎が引き継いだ。「君も耳には挟んでいると思うが、二年ほど前から、七二年の復帰を念頭に置いて、警視庁と琉球警察は人員の交流を非公式にではあるが行っている」
 研修──そういう名目のはずだった。公安、刑事にかかわらず、毎年、何人かの琉球警察の人間が警視庁に送り込まれてくる。大概は警視以上の階級の人間だが、中には現場クラスの捜査官も混じっている。警視庁側から沖縄に人を送っているという件は初耳だった。
「来月にも、警視庁から理事官クラスの人間と警部、警部補階級の捜査官を若干名、沖縄に派遣することになっているんだ。その中に君を入れる。もちろん、引率する理事官にも、向こうの人間にも君のことは因果を含める。研修期間は三ヶ月ということになっているが、もちろん、君はもっと長く滞在することになる。他の人間と一緒に戻ってきたように装い、現地にとどまって沖縄人として生活してもらうことになるだろう」
「ちょっと待ってください、警視監。総理がおっしゃったような捜査なら、なにも向こうの事情に疎い本官などではなく、琉球警察に協力してもらった方が効率的なのではないでしょうか」
 機械的に喋る山崎を遮って、大城は訴えた。沖縄に行きたくないというよりは、今の仕事を放り出さなければならなくなるのが心残りだった。革マル派と中核派の武力衝突は日に日に激しさを増している。そのうち大惨事が起こる──大方の公安警察官の見方だった。それを未然に防ぐ、あるいは現場に居合わせる。それを目標に、寝る間も惜しんで仕事に励んできたのだ。
「君も現地に行けばわかる。この仕事は、向こうの警察官には無理なんだ」
 山崎は思わせぶりにそういっただけで口を閉じた。雲の上の存在の上司がそれ以上の質問を受け付けないというのなら黙って従うしかない。
「肩肘張らずに気楽に構えてやってくれればいいんだ、大城君」肩肘張るな、というのが総理の口癖のようだった。「向こうは気候もいいし、洋モクや洋酒も信じられんぐらいの安い値段で手に入るらしい。半分休暇のつもりで行ってくればいい」
 しかし──喉元まで出かかった言葉を大城は飲みこんだ。わざわざ総理大臣と警視監が一介の警部補に休暇を味わわせるためにこんな秘密めいた会合を開くはずがない。なにか、裏があるに決まっている。
「どれぐらいの間、沖縄に行っていればいいのでしょうか?」
 大城は肩を落として訊いた。
「半年から一年。場合によってはもう少し延びるかもしれない」
 山崎が平然とした顔でそう答えた。

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