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悪の戴冠式
森村誠一

   置き忘れられた殺人

     1

 銀行を出ると緊張した。小脇にかかえた鞄には二千万円の大金が入っている。細川澄枝は改めてその鞄をしっかりとかかえ直した。それには澄枝の勤め先の従業員約七十人分の夏期のボーナスが入っている。それは吹けば飛ぶような中小企業に働く者のこの半年の汗と脂の“結晶”である。細川澄枝が勤めている「ササキ商会」は、終戦後進駐軍の事務機械の修理から始まり、進駐軍から放出された中古事務機やタイプライターの販売によって徐々に伸長し、西独の電気計算機の輸入代理店となって基礎を固めた。
 その後いろいろと紆余曲折はあったものの、修理から発足した技術と手堅い経営には定評があり小粒ながら業界や金融機関に信用がある。
 現在は固定客のニーズに対応して情報機器の多様化を図っている。
 かつては中小企業が犇き合っていたこの業界にも大企業が割り込んできた。彼らの市場性を重視した強引な拡大戦略に圧迫されて、在来の多くの中小企業が倒産に追い込まれた。
 その中でササキ商会がとにかく今日まで生き残ってこられたのも、頑固なまでの堅実経営のおかげである。
 大企業は飽くことなくスケールメリットを追求するが、多品種少量生産機種は苦手である。ササキ商会は、中古(セコハン)屋、修理屋と蔑まれながらも己の分を守り、「大企業が食指を動かさない分野」に頑なに固執してきた。
 そのおかげで、決して多くはないまでも、この全般的不況の中で平均年齢二十九歳、約二十八万六千円の夏期ボーナスを支給できるのである。
 ササキ商会では、ボーナスの実感をあたえるために、銀行振込みにせず、社長が社員に一人一人手ずから渡すようにしている。それが社長と社員のスキンシップにもなるのである。
 細川澄枝は、ササキ商会の経理課員であり、社員のボーナスを銀行から運んで来る大任を命じられた。いつもは古参の堀口久子が銀行への使いに行っているのであるが、今日は生憎急に熱を発したとかで欠勤したので、澄枝が代理で行くことになったのである。
 それを命じた経理課長は往復必ずタクシーを使うようにと指示しただけであった。大任にはちがいないが、経理課員が現金を持ち運ぶのは珍しいことでもないので、それほど深刻に考えてはいなかったようである。もっと大金を運ぶこともある。だが澄枝がこんな大金を託されたのは、初めてである。
 銀行を出ると、澄枝はタクシーを探した。通行人がすべて彼女の鞄を狙っているような気がした。いまにも引ったくられそうな気がしてしっかりかかえ込んでから、そんな態度はかえって大金をもっているぞと広告していることに気がついて、さりげなく鞄を下げるのだが再び心配になってかかえ込む。
 そんな動作を銀行を出てから何度も繰り返している。早く車に乗らなければと焦るのだが、なかなか「よい」車が来ない。空車が来ないのではなく、信頼できそうな運転手の操る車が来ないのである。
 どの運転手も、人相が悪く、乗車した途端に“雲助”に居直るような気がする。
 よさそうな「個人」が来たとおもうと、先客が乗っていた。ようやく適当なところで妥協して、車に乗り込んだ。ホッとして、運転手が「どちらまで」と聞いた声も、耳に入らない。尋ね直されて、ふっと会社の所在地を告げた。
「どこか具合でも悪いのかね。顔色が悪いよ」
 走り出してしばらくして、運転手が声をかけた。バックミラーから澄枝の様子をじっと観察していたらしい。
「いえ、な、なんでもありません」
 澄枝は慌てて表情を造った。運転手に不審を抱かれるほど緊張していたのである。
「その鞄、邪魔そうだね。こちらへおいたらどうかね」
 運転手は親切に言ってくれたらしいが、澄枝はギクリとした。
「と、とんでもない! いえ、こ、こちらで結構ですから」
 答えた声が不自然にうわずった。
「なんか、えらい大切なもんのようだねえ」
 運転手の声が好奇心を盛り込んだようである。バックミラーの中で二人の目が合った。中年の運転手の目が詮索の光を帯びている。
「いえ、大したものじゃありません」
 澄枝は反射的に言った。運転手に要らざる好奇心を起こさせてはまずいとおもった。
 幸い運転手は深く詮索することもなく、運転に注意を戻した。だが、それがかえって澄枝の不安を促した。
 運転手は鞄の中身を知っているのではないのか。知っていて、それを強奪する機会をうかがっているのではなかろうか。
 澄枝の不安は膨張して運転手がいまにも牙を剥き出すのではないかとおもった。澄枝はバックミラーの死角の中で咄嗟に金包みを鞄の中から取り出した。二千万円の現金は、一束百万円ずつ二十の札束として風呂敷に包んである。
 札束の風呂敷包みを運転手に悟られないように鞄から抜き出すと、空になった鞄を、赤信号の停止時に、
「運転手さん、やっぱり邪魔なので、そちらへおいてもらいますわ」
 と言って前部座席の背もたれ越しに差し出した。
「どうぞ」
 運転手の関心はすでになくなっているようであった。運転手の関心を逸らしたので、澄枝はいくらかホッとした。

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