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無名時代
阿久 悠

   会社へ行ったら月光仮面がいた

      一

 改札口の雑踏の彼方に、鳩村圭子がいるのが見えた。二十歳の彼女は、駅のコンクリートの柱に凭れかかるようにして、煙草を喫っていた。
 それが不良少女に見えないところが鳩村圭子の特徴で、どちらかというと、小生意気な文学少女に思えた。
 彼女の背景は、街並として全く整理のついていない有楽町の駅前で、春四月、どんよりと曇った空の下に、不ぞろいなパッチワークに見えた。
 昭和三十四年四月一日、M大を卒業したばかりの芥洋介の、株式会社宣友への初出社の日であった。
 彼は、仕立ておろしの紺の背広を着、如何にも新入社員らしい初々しさと緊張を漂わせていた。気負いはなかったが、不馴れな道を歩く用心深さのようなものは、彼の顔からうかがわれた。
 全く迂闊といおうか、横着といおうか、彼は、入社することに決っている会社を、まだ一度も訪れていなかった。
 筆記試験は、築地の方にある何かの業界の会館で行われ、面接試験は、新橋のホテルであった。
 それが十二月のことで、暮近くになって合格通知を受け取り、そのまま三カ月が過ぎていた。せめて、どういう会社なのか、この目で確かめる必要があるなと思いながらも、ついつい時間が流れて今日になった。
 今更、会社に対する不安はどうしようもなかった。よほどひどいところでない限り、一万五百円の初任給のために我慢するつもりだった。彼には、他に生活費を得る手だては全くなかった。
 それより、指定された出社時間に遅れないことが肝心で、そのために一時間の余裕を見て出て来ていた。もしかしたら、会社の所在地がなかなか見つからないということも考えられた。
 四月一日午前九時までに出社されたし、というのが株式会社宣友から届いた、邦文タイプの連絡書であった。
 アパートのある駒込を七時ちょっと過ぎの山手線に乗ったから、まだ時間はたっぷりで、これなら、どんなに探しあぐねても、遅刻することはあるまいと思えた。
 それにしても、鳩村圭子の出現は意外だった。
 女連れで初出社ということもあり得ないので、待ち合せの約束など当然のことにしていなかった。もしかしたら、彼女は別用で、全くの偶然の出会いかとも考えたが、鳩村圭子は、芥洋介の姿を見かけると、意味ありげに躰を揺らしながら近づいて来た。

 鳩村圭子は、身長が百六十五センチもあった。手脚が長く、特に腕の長さは、全体のバランスを崩し、滑稽に見えることさえあった。それを承知しているのか、彼女は、躰の裏側で手を組み合せて歩くことがよくあった。そうすると、今度は、奇妙に躰が揺れる。
 唇には、まだ煙草が銜えられたままで、その立ちのぼる煙に少し顔をしかめながら、そして、手を尻の上で組み合せ、長い脚を大股で運んで来た。
「朝帰りか?」
 芥洋介が言った。
 鳩村圭子は、フンというように鼻先で笑い、そして初めて煙草を捨てると、舌先に残った煙草の葉の切れっ端を指で摘んだ。
「一緒に行こうと思って、待ってたのよ」
「一緒に行くって、会社へか?」
「そうよ」
「馬鹿か」
 芥洋介は、相手にしていられないと言うように、不馴れなネクタイの〆め具合をちょっと確かめ、歩き始めた。
 有楽町の駅から直進の道を取らないで、右に折れ、日劇の前へ出て、銀座四丁目へ向い、そこを直角に曲って、株式会社宣友の所在地の銀座二丁目へ行くつもりだった。
「やっぱりね」
 鳩村圭子が笑った。
「何が?」
「こういうコースを選ぶのじゃないかと思ったの。きっと日劇の前を通って、銀座四丁目へ出るだろうなって」
「いいじゃないか」
「会社のあるところは銀座二丁目でしょう。普通なら、東京駅側の出口を出て真直ぐ行くわ。仮に、今の出口で出ても、わざわざ日劇の方へは来やしない。直進するわよ。だから、どこで待ち伏せしようか、東京駅側にしようかとも考えたんだけど、やっぱりね、思った通りだったわ。あなたのことは何でもわかるんだから」
「日劇の前を通ったら、そんなに変かよ」
「まあね」
 鳩村圭子は嬉しそうに笑い、芥洋介の腕を取った。女にしては大柄の躰の全体重をかけてきたので、洋介は少しよろめいた。
 こんな風に、思いがけなく全体重がかかってしまうところが、圭子の不器用さであり、運動神経のなさであった。
「危いじゃないか」
 洋介は尖った声を出した。
 すると、鳩村圭子は、何のつもりか彼の耳を噛んだ。それも不器用さのあらわれか、かなりきつく、血がにじむのではないかと思える強さになった。
 彼女は、嬌声を上げると、数歩先へ走り、くるりとふり向くと、ちょっと舌を出し、小首を傾げた。
 鳩村圭子は、それが彼女の個性なのだろうが、白と黒で統一されたファッションをしていた。いつも、大体においてそうだった。二十歳の大学生らしいカラフルな物を選ぶということはなかった。黒か、白か、それに近いグレイか、チャコール・グレイに限られていた。
 今日も、黒の、首が埋まるようなタートル襟のスウェーターに、黒のスラックス、おそろしく長いグレイのマフラーをぐるぐる巻きにし、白に近いクリーム色のスプリング・コートを、ベルトを〆めずにはおっている。
 その上に、セシール・カットのように、レザーで切り揃えたショート・ヘヤーの頭があり、美人という形ではないがファニイという言葉が当てはまる、猫のような顔が少し暗めの印象であった。
 フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」とか、原田康子の「挽歌」が評判になったのがここ数年で、そこに登場する、いくぶん病的な感性の主人公の少女たちの個性が、女の子のタイプの一つの典型になっていたが、鳩村圭子も、それに当てはめてみると、はまらないことはないという感じであった。
 魅力といえば魅力だが、バランスの悪さと、エキセントリックな言動は、正直持て余すところもあったが、芥洋介は、何故かこういう、非常識で、非現実的な雰囲気を持った少女に魅かれるところがあった。
 圭子に噛まれた耳たぶをさわると、やはり血が出ていて、指先を赤く染めた。
 新入社員が会社へ初出社するのに、こんな調子でいいのだろうか、もう少し常識的で、厳粛でなければいけないのではないかと、芥洋介は、指先の赤い血の滴を舐めながら思った。
「帰れよ。女連れで初出社ってのは、いくら何でもまずいよ。初日からクビじゃやりきれないや」
「いいじゃないの。会社まではついて行かないわ。どんなところにある、どんな会社かなって見るだけよ。そういう権利は、私にもあるでしょう」
「権利?」
「そうよ。権利だわ。だって、あなたが悪いのよ。大学卒業までに、私とあなたがどうなるのか、ちゃんと答を出すって言ったのよ。なのに出さないじゃないの。だから、私が答を出すの。会社を見て、あなたを見て、未来があるかどうか占うの」
「答って、結婚か?」
「そうじゃないけど、未来よ」
「きみはまだ二年学校があるんだし」
「結婚のことじゃないって。未来だって」
 鳩村圭子は、首を激しく振りながら、声の甲高さはそれほどでないにしても、明らかにヒステリーとわかる抑制のきかない言い方をした。
 圭子は、バッグの中から薄荷煙草のセイラムを取り出して、せかせかと口に銜え、マッチを擦った。
 銀座四丁目を左へ曲った。
 鳩村圭子は、煙草を指に挟んだまま、また、芥洋介の腕を取り、頭の重さを洋介の肩にあずけるようにした。もう耳は噛まなかった。
 銀座通りは、曇天の下の灰色の風景で、わずかだが冬の気配が残っていた。
 通勤のラッシュには、少し間のある時間であったが、それでも、勤め先へ急ぐと思われる人の群れが細い帯状になって横断歩道を渡り、その列がいつ乱れたともわからない感じで、街の中へ紛れていっていた。
 誰もまだ春の匂いを身に付けてはいなかった。重い冬を少しずつ剥がしにかかるといった程度で、大抵の人はコートを脱げないでいた。中には、長い冬の習性か、かじかんだ手に息を吹きかけるしぐさをする人もいた。
「六時に起きたのよ。目覚し時計を二つもかけて」
 と、鳩村圭子が言った。
「有楽町の駅の出口のどっちで待とうかって、二十分も考えていたのよ」
 これは、また、ずいぶんと浮世離れした会話だと、芥洋介は思っていた。
 彼は、無意識に圭子の肩に腕をまわし、手首を曲げてショート・ヘヤーの頭をさわると、軽く愛撫した。
 そして、やはり、もう少し、仕事に対して怖れを抱き、誠実さを示してみせなければならないのではないかと、無理して足を早めていった。

     二

 株式会社宣友は、探し歩くまでもなく、すぐにわかった。
 銀座通りから東側へ、デパートの横を入った一画に、通りから通りまで占める形で四階建の白い建物があり、その三階が確かに目指す会社であった。
 それは、ビルというイメージでもなく、明らかに戦後に建てられたものらしい一種の軽薄さが漂う建物で、おそろしく横に長く、船を思わせた。
「此処だよ。もうわかっただろ。帰れよ」
 腕にしがみついている女を連れて出社したところなど、誰かに見られてはたまらないと、芥洋介は、鳩村圭子の腕をふりほどき、苛立たしげに言った。
「九時まで、まだ一時間もあるわ。朝食をとりましょう。モーニング・サービスをやっている喫茶店がある筈だわ。いいでしょう? そこから帰るから。今日は、午前中の講義があるの。昼休みに会いたいわ。デパートの屋上で。そこの。様子を聴きたいわ」
「ああ、本当に帰れよ」
 少し歩いて、デパートの真裏の喫茶店へ入った。
 入口に、本日のモーニング・サービス、本日のランチというメニューを書き込む黒板と並んで、本日のテレビ番組というのもあった。
 モーニング・サービスとランチの方は、白墨で、珈琲、トースト、ゆで卵、サラダとか、スパゲッティ・ナポリタン、スープ付などと書き込んであったが、テレビ番組の方はまだ空白だった。
 耳の固いトーストと、ウズラではないかと思えるほど小さいゆで卵の付いたモーニング・サービスを目の前にして、鳩村圭子は溜息をついた。
「何だよ。溜息なんかつくなよ。それでなくたって、どこか気が重いんだからさ」
「あなた、よく見た?」
「何を?」
「環境よ。会社を取り巻く環境。一万五百円ぽっちの給料なんて、この一画から一銭も持ち出せないわ。あの白い建物の地下は全部飲み屋よ。一杯飲み屋と、スタンド・バーが通りみたいに並んでいるのよ。一階は、銀座二丁目から一丁目まで跨がるほど大きいパチンコ屋さん。二階は、有名なキャバレー。三階は、あなたが行く会社だけど、看板を見たら、同じ階に麻雀屋さんがあるみたい。それに、通りの向い側は、競馬の場外馬券売場よ。絶望だわ」
「絶望たってしょうがないだろう」
 芥洋介は苦笑しながら、それにしても、おそるべき観察眼だと妙なことに感心していた。圭子には、そういうところがあった。
「絶望よ。未来なんかないわ」
「俺の未来とは関係ないだろう」
「あるわ。環境って大切よ。人間って、すぐそこに似合いの顔になっていくものよ。一週間もしないうちに、あなた、十年も此処に住んでいた顔になるわ。そして、それでおしまいよ。何よ、こんなところの会社に気に入られようと思って、紺の背広なんか着ちゃって。ずっと厭だったのよ。ずっと、その紺の背広」
 鳩村圭子は上体を少し反らし、遠目で値踏みするような顔をして、首を振った。
「ずっとって何だよ。この紺の背広は、今日初めて着たんだぜ」
「だから、有楽町の駅から、銀座二丁目までの間」
「子供みたいなこと言うな。俺は就職したんだよ。今日から会社員。紺の背広だってしょうがないだろう」
「だったら、紺の背広らしい環境の中にいてよ。私のために」
 鳩村圭子が何を望んでいるのか、日常の彼女からおよそのことは察せられたが、彼女が口にしていることは、ほとんど支離滅裂であった。
 紺の背広と環境と未来が、どこでどう結びつくのか、説明し難いものがあったが、彼女が、何故か、ひどく落胆していることは確かだった。
 芥洋介は、これから会社へ行くんだぜ、きみは何しに来たんだよ、と愚痴りながら、トーストをかじった。
 音楽のなかった喫茶店に、「情熱の花」が流れ始めた。客の誰かのリクエストのようであった。
 ピーナッツ・ハッコーのクラリネットのスイング風のものと、ドイツの美人歌手のカテリーナ・バレンテのものがともに人気であったが、今流れ始めたのは、ピーナッツ・ハッコーの演奏だった。
「“情熱の花”の原曲は、ベートーベンの、“エリーゼのために”なんだぜ」
 洋介は、圭子の身勝手な、エキセントリックな不機嫌を、少しでも晴らそうとするように言い、
「地下が飲み屋街で、一階がパチンコ屋で、二階がキャバレーで、三階に麻雀屋があって、通りの向うが場外馬券売場だなんて、募集要項には書いてなかったからな。しょうがないだろう」
 と嘆いた。
「それから、見た?」
 圭子は、頬杖をつき、レースのカーテン越しの外の景色を見やりながら、わがままに眉を寄せ、厭なの、私と合わないの、何もかも、と言った。
「見たって、何を?」
「道の真中で、犬がセックスしてたのよ。水をかけられても離れなかったわ」
「何処で?」
「気がつかなかったの?」
「俺は、上を見上げて、株式会社宣友って看板を探してたんだぜ」
「馬券売場のところ。厭だわ。雄が夢中で腰を動かして」
「よせよ。馬鹿だな」
「でも、未来が感じられないわ」
「知らないよ。犬のセックスのことなんか。それに、何でそれが未来なんだよ」
 芥洋介は、多少馴れていることとはいえ、いささか辟易して、苦い澱のような珈琲をすすり、煙草のいこいに火をつけた。
 鳩村圭子は、自分のヒステリックな饒舌に悪酔いしたように荒い呼吸を吐き、ゆで卵に食卓塩をふりかけながら、口を閉ざした。どこまで本気の感情かわからなかったが、うっすらと目に涙を浮かべていた。
「まいったな」
 芥洋介は呟いた。
 何にまいったのか、圭子の情緒不安定か、会社の環境か、それとも、彼女の言う彼自身と、二人の未来に対してかわからなかった。
 ただ、晴れ晴れとした希望に満ちた初出社の昂揚とは無縁であることは、確かだった。

 喫茶店は、「ナイアガラ」といった。
 店内はかなり広く、ナイアガラ瀑布の大判の写真パネルと、映画「ナイアガラ」に主演した時のマリリン・モンローのカラー・スチールが飾られていた。
 早番のウエイターとウエイトレスが一人ずついて、ウエイターはさほど印象的ではないが、ウエイトレスの方は、ハッと驚かされるほどの大きな乳房を持った女で、彼女はそれが重いのか、それとも、デモンストレーションか、手があくと、カウンターにより掛かり、乳房を休ませているようなポーズを取っていた。
 芥洋介が、ついその方に目を奪われていると、鳩村圭子が、尖った靴先で蹴ってきた。この二十歳の大学生は、どこまでも怒っていた。
「ナイアガラ」は、出勤前のサラリーマンの溜り場になっているようで、みんな、モーニング・サービスの朝食をとりながら、気忙しく新聞を読んでいた。
 近くの席に、痩せて顔色の悪い、おまけに貧乏神のような髭を生やした男がいて、原稿用紙に対ってペンを走らせていた。
 乳房の大きいウエイトレスが、顔馴染みなのか、それ以上の間柄なのか、空になったコップに水をつぎ足しながら、そのついでに、男の肩に手を掛けて原稿を覗き込み、
「へえ、化粧品のコピイね。マックスファクターのローマン・ピンクに負けないようなのを書いてよ。ローマン・ピンクっていいじゃない! それに、グリコが、おまけで小鳥が当るってのをやってるわよ。日本も、小鳥のいる生活が出来るようになったってことよ。矢野さんとこも、もっともっと頑張らなきゃね。ほら、ほら、頑張って」
 と、巨大な乳房を矢野といわれた男の頭に押しつけた。男は、クックッと笑い、たった今、射精したと大笑いした。
 鳩村圭子は、芥洋介の耳に口をつけ、
「同じ会社の人よ。先輩よ、きっと。何だか、とっても悲しい気分だわ」
 と言うと、席を立った。それはもう、此処から帰るという構えだった。
「じゃあ、十二時に、デパートの屋上で」
 芥洋介は、少し腰を浮かしてそう言ったが、それに答えるでもなく、鳩村圭子は、喫茶店「ナイアガラ」を飛び出した。
 芥洋介は追わなかった。
 まだ時間があった。珈琲をもう一杯注文し、新聞に一通り目を通し、その間、五度も六度も欠伸をして、それから、大きく一呼吸すると、もしかして、人生とか、未来とかに関わりを持つことになるかもしれない株式会社宣友に向って、腰を上げた。

     三

 驚いたことに、四月一日午前九時に出社した新入社員は、芥洋介一人であった。
 他にも新卒の採用者は数人いた筈で、彼らはどうしたのかと遠慮がちに訊ねると、受付の、まだほんの中学生にしか見えない女子社員は、
「あなたが最後です。他の人は、みなさん、二月から出社しています。もうすっかり会社にも馴れて、バリバリやっている人もいますよ」
 と言った。
 頬の赤い、無邪気な顔をしているが、世間を知っているということでは、洋介などよりはるかに老練であるところを見せつけるように、彼女はちょっと唇を歪め、何を呑気なことを、と言いたげな目をした。
 彼女の言うバリバリという言葉が、それこそ何かを噛み砕くように響き、洋介は、バリバリね、と反芻した。
「四月一日からと思い込んでいたものだから。そう言われたし」
 そして、彼女に言っても仕方のないことだが、そんな風に弁解した。
「そりゃあそうだけど」
 受付の女子社員は笑い、それから、すぐに総務の人が来ますからと言って、彼の応対を打ち切り、デスクの下、膝の上に本をひろげて読み始めた。本は週刊誌で、それは、昨年末から出版されて評判になっている女性向けの“女性自身”であることがわかった。
 彼女は、女子社員のお仕着せらしい小豆色のスモックを着ていた。胸に名札が付いていて、木村由美と読めた。
 その発見を口にして、多少打ち解けた気分を作ろうかと考えたが、彼女は、もう何を言っても聞こえないだろうと思えるほど、“女性自身”に夢中になっていた。
 総務からのお迎えは、なかなかやって来なかった。
 芥洋介は立ったままで、受付の前のほんの狭い空間を、足踏みするように歩いていた。
 その間に、人の出入りはあったが、誰も彼のことを気にする者はなく、駈け込む人間も、飛び出す人間も、躰を斜めにして風のようであった。
 受付の木村由美の背後に衝立があり、それが目隠しになって、その先にひろがっている筈の広告代理店の社内風景をうかがえなくしていた。ただ、一瞬の切れ間もなく鳴り響く電話の音と、それに対する怒声に近い話し声が混り合って聞こえて来、この会社の活力を知らしめるには充分であった。
 芥洋介は溜息をついた。ひどく落着かない気持だった。
 正直なところ、少し衝撃を受けていた。それは、少くとも、同時スタートを切る筈だと思っていた同期入社の連中が、既に会社に馴染んでいるということだった。
 とんでもない遅れ、何かの恪印を押されてしまった人間のような気分を味わい、遅れて来たことへの後悔さえあった。
 早い話、彼は、衝立ごしに響いて来る別世界のような騒音にさえ圧倒されていた。しかし、馴染むということは、それらを生理的快感にさえしてしまうことであり、もし、同期入社の数人が、この二カ月でそれを果せているとするなら、追いつくのは容易なことではないと思えた。
 受付の木村由美が、視線は膝の上の女性週刊誌に落したまま、灰皿を洋介の方へ押しやって、笑った。彼は礼を言い、条件反射のように煙草を喫った。
 木村由美が背負うような形で、衝立に月光仮面の写真パネルが飾られていた。
 三日月の紋章の付いた白いターバン、鼻から下を覆っているマスク、白縁のサングラス、ふわりと風に舞うマントに、ぴったりと躰にはりついたタイツ姿の、お馴染みの月光仮面が、オートバイに跨がり、拳銃を構えていた。股間の異様な膨らみが滑稽にさえ思えたが、それも人気の一つだということだった。
 この「月光仮面」は、昨年、昭和三十三年にテレビに登場した。毎日曜日の夕方六時から三十分間放映され、たちまち人気番組になった。
 そのうち、放映時間もゴールデンの七時台に移り、最高視聴率五十パーセントを超える記録を作った。
 月光仮面は、子供たちを熱狂させるヒーローになり、その存在は社会現象にさえなりつつあった。
 子供が集まりそうな場所には、必ず数人の月光仮面がいた。風呂敷を首に巻き、それをはらりと背にひろげると、瞬時にして子供たちは月光仮面になった。
 風呂敷が唐草模様であろうが、寿の文字と家紋を染めぬいた紫の物であろうと関係なく、それは、子供たちの首にさえ巻かれればマントであった。
 大人の目から見ると、風呂敷を首に巻き付けただけの汚いガキであっても、子供自身からは、紛れもなく颯爽たる白いマントの月よりの使者で、それは現代の裸の王様であった。
 ヒーローに変身し、裸の王様になるための儀式は、簡単な方がよかった。月光仮面の場合、それはターバンでも、サングラスでも、タイツでも、ブーツでも、また、拳銃やオートバイでもなく、マントに象徴され、それ一枚でたちまち変身が可能なところに、人気の秘密があった。
 子供たちは月光仮面になりきり、空を飛べると信じ、全国で何人もの怪我人が出た。
 正義の味方は、それによって少し社会的信用を失い、テレビ番組では、決して真似をしないようにと、主演俳優が子供たちに訴えるという騒ぎにまでなった。

   どこの誰かは知らないけれど
   誰もがみんな知っている
   月光仮面のおじさんは
   正義の味方よ よい人よ
   疾風のように現われて
   疾風のように去って行く
   月光仮面は誰でしょう
   月光仮面は誰でしょう

 ところで、芥洋介は、この歌を奇妙な歌だと思っていた。
 どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている、という一見矛盾に思える歌詞が、よく考えてみると、矛盾でも何でもなく当り前の筋の通った言葉だとわかった。それにしても、誰かは知らないけれど、みんな知っているという組合せは、妙なものだと思い、もしかして、これが職業作家の手練かとも感じていた。

 いささかさらし者のような感じで受付の前に立っていると、やあ、遅かったなと気軽に声をかけられ、ふり向くと、見覚えのある顔が笑っていた。
 名前は思い出せなかったが、確かに同じ場所で最終面接を受けた一人で、長身の二枚目で都会風の雰囲気の男だった。
 彼も、やはり紺の背広を着ていた。しかし、鳩村圭子が何故か毛嫌いしたようなギクシャクした感じはなく、広告代理店の営業マンにはこれしかないだろうと思えるほど身に付き、颯爽としていた。
「出かけるのか」
 芥洋介が訊ねた。
「スポンサー巡り。結構大変でさ」
「俺は今日からだよ」
「いろいろ教えるよ」
「ああ、頼むよ」
 紺の背広にすっかり馴染んだ同期生は、受付の木村由美に一言二言軽口を叩き、それから気合を入れて出て行った。
 それらを優越感と感じてしまうのは、今の洋介としては仕方のないことで、まいったなと笑ってみせた。
「何してるのかしら、総務は。ちょっと待ってね。電話するから」
 木村由美が気の毒そうに言い、受話器を取り上げながら、はい、これと、キャラメルを洋介に投げた。そして、今の新人は、駒井秀樹っていうのよ、なかなか二枚目で評判、と舌を出した。
 芥洋介はキャラメルをしゃぶりながら、結構苦いものを感じていた。

     四

 月光仮面に魅せられたわけでもなく、歌を奇妙な第一印象で受けとめたぐらいのことであったが、彼が、この会社を受験したのは、月光仮面のせいだった。
 ここ一年、二、三年つづいた神武景気が終ってなべ底不況に陥り、就職難の時代になった。
 誰も就職を、将来の夢や希望、自分の理想とつなげて考える者はなく、ただ、月給を保証される会社へ入れればいいという考えになっていた。
 大手企業の募集も少く、あったとしても条件が厳しくて、とても私大の文学部で、非現実な日常を貪っていた洋介たちの手に負えるものではなかった。
 秋も深まり始めると、文学部の学生たちは、突然現実との対面を強いられて呆然としながら、蒼ざめた顔を、学生課の求人の掲示板の前に集めるようになった。
 中には、既に東京での就職を諦めかけている者も半数近くはおり、彼らは、東京で暮せる幸運を宝くじでも買うような気分で、入社試験を受けていた。
 それにしても、諦められるということは、諦める選択が出来ない者に比べたら、まだはるかに幸運で、彼らが、都落ちだとか、田舎暮しだとか嘆いている言葉さえ、芥洋介からは輝いて見えた。
 芥洋介のこれから始まる人生にとって、それは今、何、と説明し難いが、東京が不可欠だった。
 帰るべき絶対の故郷も、親から受け継ぐべき仕事もないというのが最大理由であったが、彼の中にまだ曖昧な姿で眠っている才能のようなものが、もし仮に芽吹くことがあるとするなら、それは、東京にいてのことであると思えた。
 彼は、その程度の模糊とした幻想に近い可能性でも、楽天的に信じてみようと思い、東京にこだわった。
 今年の求人の特徴は、職種として、広告代理店が多いことだった。
 学生課の係員に言わせても、
「ざっと去年の十倍だね。上は、電通、博報堂から、下は電話一本、デスク一つのところまで、さあね、東京に五百社も出来たんじゃないかね。テレビの普及のせいだね。時代向けの企業として買いは買いだけど、実体がなかなか掴めないというのが正直な感想でね。つまり、限りなく電通に近いのか、限りなく電話一本に近いのか」
 というようなことで、安定企業と保証し難いが、将来を見越すならこれも面白い、ただし、幸運に恵まれればだがね、とひどく部外者の言い方をした。
 それ以上の説明は出来ないというのが、現実のようであった。
 将来を見越し、幸運を嗅ぎ取るというのは、簡単な求人票からは難しいことだった。
 第一、誰も、広告代理店が、新聞やテレビの中でどういう役割を果しているのかさえ、理解出来ていないのだから、判断のしようがなかった。
 最も現実的な選択は初任給であるが、どこも、一万円から一万二千円と申し合せたような金額で、大手企業に比べるとかなり低かった。
 芥洋介が広告代理店を志望したのは、不明ながらも、他の製造や販売や金融と違う、例えば、映画とか、出版とか、放送とかに近い、文筆や創造に関わることが期待出来るのではないか、少くとも、そのような雰囲気に近いところにいられるのではないかという思いからであった。
 映画も、出版も、放送も、とてもこの成績では推せん出来ないと宣言されていたから、新職種の広告代理店に、希望をつないでみるより仕方がなかった。
 そして、彼が、株式会社宣友を選択した根拠は、求人票の備考欄の、『現在、国産初のTV映画、“月光仮面”製作中』という一行の文章であった。
 初任給は一万五百円、募集の広告代理店の中でも相当に下の部類であったが、備考欄の一行は、少くとも魅力において、それを超えていた。

 株式会社宣友の入社試験は、ユニークなものだった。
 受験勉強らしいことを何一つやっていない芥洋介にとっては、救いの神ともいえる種類のものだった。
 試験官の説明が終ると、定員六名に百五十名も押しかけた学生たちから、一様にどよめきが起ったが、芥洋介はほっとしていた。
 どよめきは、不満であった。
 国語を、英語を、あるいは、時事用語を、完璧に習得して来た人間にしてみると、肩透かしに遭ったようなもので、ブーイングの一つも吐きたくなる気持はわからないでもなかった。
 しかし、芥洋介にとっては、得意が巡り来たというほどの自信ではないまでも、これでやっと対等だという気持だった。
 これが、別の出版社を受けた時のような、全逓中郵事件、バチスカーフ、テトラパック、世界連邦都市宣言、チョゴリザ、地対空誘導弾エリコン、カルテル、などの言葉を説明しろと言われてもお手上げだが、今、求められていることは、何とか出来そうだというのが実感だった。
 試験問題は、いわば、作文だった。
『十二月第一週発売の、“週刊朝日”“アサヒ芸能”“女性自身”を想定して、トップ記事の企画を立案しなさい』
 というものであった。
 広告代理店の入社試験としては実にうまい手を考えたものだと、株式会社宣友にセンスを感じたりしていた。
 これなら、時代感覚、企画力、ジャーナリスティックなセンスから、大衆分析、創作力まで判断することが出来る。制限時間は一時間三十分であった。
 いわゆる学科試験ではなくて、ほっとはしたものの、これはこれで難問であった。
 芥洋介は、原稿用紙とメモ用紙を目の前にひろげて、しばらくぼんやりとしていた。
 試験場内の気配をうかがうと、ほとんどの学生が同様の呆然とした顔で、腕組したり、頬杖ついたりしていた。既に書いているのはほんの数人だった。
 まずここ一カ月、さらに、大雑把にひろげて今年一年、どのような事件や話題があっただろうかと思い出そうとした。そして、思い付くことをメモ用紙に書き出していった。
 次に、“週刊朝日”“アサヒ芸能”“女性自身”を愛読するのは、それぞれどういう人たちであろうかと考えた。
 その分析が終ると、“週刊朝日”をA、“アサヒ芸能”をB、“女性自身”をCとして、先に書き出した今年の事件や話題に、どの週刊誌向きか、A、B、Cを付けていった。
 あとは、何故十二月第一週かなのだが、これは、たぶん、それほどの意味はあるまい、試験日から近い、きりのいいところを選んだのだろうと、深く考えないことにした。
 強いて言えば、今年一年の総括といったことが含まれるかもしれないが、まあ、その程度であろうと思った。
 もう一つ、十二月第一週を設定した理由としては、“女性自身”をかなり重要に捉えているということが考えられた。
 試験日の時点で、“女性自身”は創刊されていなかった。ただ、大きな話題にはなっていた。創刊は確か十二月一日の筈だった。
 芥洋介は、もし重点的に絞るのなら、“女性自身”だなと思い、しばらく、女性向きの話題や、女性の生き方を刺激するモラルはないものかと考えた。しかし、なかなかそうは簡単に思い付かなかった。
 メモ用紙の上に、さまざまな項目や、A、B、Cの記号が書き込まれたが、その先、企画といえるものに組み立てていくには、それだけでは駄目で、面白く感じさせなければならないし、同時に、こちらの特長をデモンストレーション出来なければならないと思い、洋介は、さて、特長とは何かと悩み、結局映画をよく見ているぐらいしかないので、それを活かすことにした。
 彼は、また、メモ用紙に、今年評判になった映画のタイトルを書き出していき、それにも、またA、B、Cの記号を付けた。
 時計を見ると、もう三十分が経過していて、つい先程まで呆然としていた学生たちも、ほとんどが文豪のような顔をしてペンを走らせていた。
 十一月も末日に近かったが、小春日和であった。
 試験会場の半分に陽がさし込み、眠くなりそうな、ひどくのどかな気配が漂っていたが、芥洋介は必死だった。
 何故かこの試験が、ラストチャンスのように思えていた。これをしくじると、東京で生きることも、人生の中で才能にこだわってみることも、また、鳩村圭子も、全て失いそうな気がしていた。
 彼は、大きく息を吸い込むと、ペンを取り上げ、遅れていたランナーが最後の賭けのスパートを試みるように、一気に書き始めた。
“週刊朝日”は、「私は貝になりたい」と、電車特急「こだま」の運転開始にAが付けられていて、そのどちらにすべきかで、ちょっと迷った。
「私は貝になりたい」は、ラジオ東京テレビが十月三十一日に放送した、長時間テレビドラマであった。
 脚本、橋本忍。演出、岡本愛彦。主演、フランキー堺で、文部省芸術祭で芸術祭賞を受賞した。
 田舎の平凡で好人物の理髪店主が、召集されて兵士になり、心ならずも上官の命令でアメリカ兵を殺し、戦後、C級戦犯として処刑される物語である。タイトルの「私は貝になりたい」は、戦争の不条理さの中で、加害者となり、被害者となって死んで行く主人公の「生れ変れるなら、深い海の底の貝になりたい」という独白から付けたもので、この、“貝になりたい”は流行語にもなった。
 もう一つの、電車特急「こだま」の運転開始は、十一月一日、東京─大阪─神戸間に、電車特急「こだま」二往復が運転開始したもので、東京─大阪間を六時間五十分で走るということで話題になった。
 国鉄はこれにビジネス特急と名付けたが、それは、七時発に乗ると、東京、大阪それぞれ十三時五十分に着き、二時間十分ビジネスに時間を費しても、十六時発に乗ると、日帰りが可能だというものであった。
 この二つの話題の中で、芥洋介は、“週刊朝日”用として、ビジネス特急の方を選び、松本清張原作で評判の「点と線」を借りて、「サラリーマンの点と線」とした。
 そして、日帰り圏内になった東京─大阪間で、日本のビジネスは、サラリーマンはどう変るかを検証する、と書いた。
“アサヒ芸能”は、何かもう少し、社会風俗的な面白さを盛り込まなければいけないと思い、「女たちに捧げる十戒」というのにした。
「十戒」は、ハリウッドの巨匠、セシル・B・デミルが監督した映画で、例の、神の教えを受けたモーゼが、虐げられたイスラエルの民を連れてエジプトを脱出し、紅海を渡るという物語で、紅海が真っ二つに割れるシーンが評判になっていた。
 しかし、「女たちに捧げる十戒」は、旧約聖書も、モーゼも関係なく、ただ「十戒」という言葉をいただいただけで、今年の世間を騒がせた女性十人を実例に挙げて、その生活とモラルを問うという程度のことだった。
 最後の“女性自身”は、まだ発売されていなかったが、「女性の暮しに合せた型の週刊誌」というのが新聞広告だ、その辺から内容を推測して書くように、と説明された。
 そこでもみんながどよめいた。見たこともない週刊誌の企画だってよ、という声も聞こえた。
 芥洋介は、見たことがあろうがなかろうが同じことだろうが、と思いながら、たぶん、この“女性自身”が試験のポイントになるだろうと感じていた。
 メモ用紙の上の映画のタイトルを見てみると、「愛情の花咲く樹」「熱いトタン屋根の猫」「悲しみよこんにちは」「絹の靴下」「くたばれ! ヤンキース」「手錠のままの脱獄」「めまい」「張込み」「楢山節考」「錆びたナイフ」などが残っていたが、どれも使えそうになかった。
 そして、結局、残念ながら、これは、受験者の大多数が書くだろうなと思いながら、「あなたの恋人の清潔度、誠実度」と書いた。
「ご清潔で、ご誠実で」は、流行語になりそうだった。
 ほんの二日前、十一月二十七日、皇太子妃に正式決定した正田美智子さんが、記者会見の席で、皇太子との初対面の印象を訊ねられて、「とても清潔なお方」と答え、魅力を感じたところはと問われ、「とても誠実なご立派なお方」と返して、たちまち話題になった。
 芥洋介は、とにかく、三つのタイプの異なる週刊誌の、十二月第一週のトップ記事の企画というのをデッチ上げ、提出した。時間は制限時間一杯だった。
 試験場になっていた築地の、何かの業界の会館と称する建物を出ると、小春日和も急激にかげり、やはり十一月も終りだと思わせる風が吹き始めていた。
 洋介は、二時間近く我慢していた煙草を喫った。
 その横を、不機嫌な顔の学生の群れが流れて行き、ひでえ問題出しやがってとか、やっぱり二流のやることはこんなもんだと、吐き出すような声も聞こえたが、彼は別に、ひでえ問題とも、二流のやることとも思っていなかった。
 むしろ、就職を考え始めて以来、初めて、酸素の多い空気を吸った気分にさえなっていた。

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