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隠密絵師事件帖
池 寒魚

   第一話 遊里の用心棒

 安政六年(一八五九)といえば、明治元年(一八六八)まであと九年……。
 このとき品川法禅寺長屋に住む絵師──司誠之進は二十四歳、つまり三十三歳には世の中がひっくり返るわけだが、本人はまだ知らない。もっともそれまで生きていられればの話ではある。
 絵師だけで食えない誠之進にはもう一つ、危(ヤバ)い顔があった。

     一

 いやな絵だ──ひと目見るなり誠之進は思った。
 描かれているのは中年の男、面長で鼻が高く、きちんと髷を結っている。木炭で描かれており、顎の輪郭などは幾重にもなぞってあるところから下絵のようだ。しかも一度は反古にして、くちゃくちゃっと丸めた紙を広げたらしくしわしわになっていた。
 わきあがる嫌悪の根を探るべくあらためてじいっと見つめた。
 かすかに寄せられた眉、結ばれ、両端の下がった唇、何より宙に据えられたうつろな双眸が男の心情を表している。
 不安、憂悶……、否、怯懦だ。
 描かれた男の心情が誠之進に伝わり、見ているだけで胸が重くふさがる。
「よく描けているか」
 対座する父に訊ねられ、誠之進は顔を上げた。絵はたった今、父から渡されたものだ。
 よく描けているかと訊かれたのには理由がある。誠之進は父の許しを得て、八歳の頃から絵の修行をしてきた。今では絵師の看板を掲げているが、残念ながら絵師だけで食えるまでには至っていない。
「はい。きちんと絵の修行をした者が描いております。それだけでなく……、何と申しますか」
 誠之進は唸り、言葉を切った。
「忌憚なく申せ」
「は」誠之進はふたたび絵に視線を落とした。「描かれている御仁の心持ちまでが表れているように思います」
「そうか」
 父がつぶやき、深いため息を吐いた。誠之進ははっとして父を見やった。息子の前とはいえ、滅多にため息など吐かない。
 隠居してからというもの、ずぼらを決めこむのだといって月代どころかろくに髭も剃らなくなった。白髪もさっと櫛を通し、頭の後ろで無造作にまとめているだけだ。だが、七十近くなった今でも眼光、肉体ともに衰えは見えない。
「殿だ」
「は?」
 父は目を上げ、誠之進が手にしている絵を顎で指した。
 殿──磐城平藩主安藤対馬守のことだ。父はかつて江戸詰の御側用人を務めており、藩主を間近に見ている。今は隠居し、役目は兄が継いでいた。
 一方、誠之進は各家の次、三男と数十人といっしょに御目見得が一度あったきりで、そのときは顔を伏せたまま、二言三言声を聞いた。最後に面を上げよといわれたが、ぐるりと一同を見まわした殿はさっさと席を立たれた。あとは行事のおりに望見したことがあるだけなのだ。
 父が苦い顔をして吐きすてた。
「殿にそっくりでな」
 絵が手元に来た経緯を父が淡々と語るのに耳をかたむける。持ってきたのは御納戸役小野仁右衛門の長男だが、もっともその男が持ちこんだ先は父ではなく、現役で御側用人を務める兄のところだ。
 小野の長男は四歳の頃から登城し、藩主が側室に生ませた四男の相手をしてきた。十二歳で近習の一人に取り立てられている。つまり幼いうちから出世の道が開けているわけだ。学問にも秀でており、二年前、江戸への留学が許されたという。
 それなら反古にされた絵を見ただけで殿の肖像だとわかるだろう。
「どのようにしてこの絵を手に入れたのでしょう」
「詳しいことは二、三日うちに本人から聞けるだろう。千代松がここへ連れてまいる」
 千代松とは兄の幼名であり、こことは父の隠居所を指した。隠居所は磐城平藩の下屋敷にあった。
 目を上げた父が誠之進を見る。
「お前に来てもらったのはほかでもない。この絵を描いたのは亀太郎といって西国の出らしい。そして品川宿に出入りしておる、と」
「品川でございますか」
 品川宿は東海道最初の宿場町でもあるが、江戸に至近の遊興の地でもある。旅人ばかりでなく、市中の者たちもよく遊びに来ていた。大名や家臣たちも例外ではない。品川湊での網打ちや川崎での狩りなどと理由をつけては、紅灯つらなる品川宿で一泊、酒色を楽しむのである。そのため昼も夜も賑わっていた。
 誠之進は首をかしげ、思わずつぶやいた。
「それにしても亀太郎とは何者でございましょう。御目見得でもしないかぎり殿のお顔など描けようはずもありませんが」
 声を低くし、父がいう。
「実はわが殿におかれては御老中にという声が出ておるそうだ」
「まことでございますか」
 安藤対馬守信睦は安藤家十代目当主、磐城平藩の藩主としては五代目にあたる。もとは美濃加納藩を治めていたのだが、四代前に移封された。これは加納藩において先代の乱行をとがめられた結果で加納藩六万五千石が磐城平藩五万石に減らされている。
 もっとも初代の磐城平藩主信成は優秀な人物だったらしく幕閣において寺社奉行、若年寄を経て、最高位である老中に昇りつめた。老中の上に大老があるが、常時置かれているわけではなく、非常時のみの特別な役職だった。
「掃部頭のお引き立てもあれば……」
 井伊掃部頭こそ、今の大老であり、今こそが非常時という意味でもある。
 磐城平藩主で老中まで出世したのは初代だけで、現藩主が老中就任となれば、初代以来ということになるはずだが、父の表情は冴えなかった。
「たしかに難しい時節ではあるが、わが殿におかれては、よもや御辞退など念頭にもござるまい」
 六年前──嘉永六年(一八五三)に亜米利加のペルリが黒船を従えて浦賀に姿を現して以来、江戸にかぎらず全国津々浦々で騒ぎが起こっていた。
 父が言葉を継いだ。
「そこに出てきたのがこの絵だ」
「どういうことですか」
「さきほどお前は何と申した?」
「御目見得でもしないかぎり……」
 いいかけてはっとした。
 父が顎を引くように重々しくうなずく。
「今や人心とみに乱れ、御公儀に楯突こうという不逞の輩が跋扈している。中には重役を付け狙うなどと公言する不埓千万な輩まで現れておる。それはお前もよくわかっておろう」
「はい」
 現藩主は十年ほど前に家督を継ぎ、磐城平藩主となると同時に幕府において奏者番に就任した。その後、寺社奉行となった頃から井伊掃部頭に目をかけられ、昨年、若年寄に昇進していた。
 一方、誠之進が品川に往むようになったのは二年前で、父の指示による。側用人時代から品川宿に出入りしており、品川宿のある一面を知り抜いていたためだ。
 品川宿は江戸ではない。しかし、目と鼻の先にある遊興の里であるため、各藩の重役や旗本たちが多数出入りしていた。そうした面々と旅籠や茶屋で偶然行き合わせ、顔なじみになることも少なくない。目的はあくまでも遊興ながら密室で酒を酌めば、互いに情報を交換し、取り組んでいる政策についてすり合わせ、根回しをすることもあった。
 つまり外交の場なのである。
 同時に品川宿にどのような輩が入りこんでいるかをも自然と知ることになる。ペルリ来航以来、幕府からすれば不逞の輩がさかんに出入りしていた。そこで父が誠之進に対し、品川に流れついた売れない絵師の役を振ったのだった。
 品川宿で耳にした噂、目にした事件について誠之進は手紙にまとめ、時おり訪ねてくる父の中間に託したし、ごくたまに父自身が品川の茶屋にやって来ることもあった。
 東海道第一の宿場でなおかつ遊興の里である品川宿は昼夜を問わず人の出入り、往来が激しい。人を隠すなら人の中というのは当を得ており、さまざまな連中が紛れこんでいるのであった。
「亀太郎なる者は品川宿で人待ちをしている様子らしい」
 西国の出という亀太郎が品川宿で接触するとなれば、水戸、長州、薩摩……、それこそ枚挙にいとまがなく、いずれも政府や井伊掃部頭に遺恨の一つも抱いていようという輩が考えられ……。

「たいへん、たいへん」
 甲高い叫び声で誠之進は浅い眠りから引き戻された。
 声のする足元をひょいと見やってぎょっとする。闇の中に女の顔がぼんやり浮かびあがっていた。弥生三月、幽霊の季節には少し早い。
 手にした提灯にぼうっと浮かびあがっている白い顔はきわだ。
 誠之進は薄っぺらな夜具の上に身を起こした。
「何だ、こんな夜中に」
「うちの前で大蛸が暴れてる」
「タコぉ」
 くり返したとたん、大あくびが出た。ついでに顔をつるりと撫でる。
「そう。身の丈六尺の蛸」
 きわは旅籠〈大戸屋〉で下働きをしている若い娘だ。品川宿では客に食事を運び、給仕をするという名目で食売女を置いているものの実体は娼妓である。
 京へ向かう東海道第一の宿場であり、江戸に近いこともあって遊里としても隆盛を極めていた。ゆえに落ちる金も大きく、幕府に入る冥加金も馬鹿にならないので黙認され、準遊廓の扱いを受けていた。
「とにかくすぐ来てちょうだい」
 まだ十三とはいえ、娼妓たちにすっかり馴染んで立ち働いているきわはいっぱしの口を利いた。
 行儀見習いというが、大戸屋でどのような作法が身につくものか見当もつかない。ふっくらした丸顔はまだ子供こどもしているが、目元はきりりと涼しく、鼻筋が通っていた。
「しようがねえなぁ」
 ぼやきつつのろのろと夜具から這いだした。
 誠之進は絵師を生業としているが、食っていけるほどの注文はない。技倆は悪くないと自惚れているが、この自惚れが災いして、版元にちょっとでもけちをつけられるとたちまち大喧嘩になってしまう。
 三和土に降り、くたびれた雪駄をつっかけるともう一度大あくびをした。
「ほらぁ、急いで」
 そういうなりきわが誠之進の手首をつかんで引っぱった。引かれるままに長屋を出て、路地を歩きだした。自分の手さえ見えない真っ暗闇できわの持つ提灯だけが頼りではある。
 せわしなく歩きながらきわが早口にまくし立てる。
「蛸のくせに汀さんにご執心で……」
 汀は大戸屋の板頭、一番の売れっ子である。顔立ちが美しいだけでなく、頭がよく人をそらさぬ応対ができる。品川にはもったいない、吉原でも立派にお職がとれると評判なのだが、当人がさらりという。
『吉原で客を取るにぁ人が好すぎるんでね、あたしは』
 品川は吉原ほど格式張らず人情を重んじる傾向があった。
「今夜は客がついてるから汀さんはダメだっていったのに、待つといって無理矢理あがりこんで、酒だ酒だって。何だかんだで二升は平らげちまった」
「酔っ払いかよ」
 引かれるままに歩きながら誠之進はぼやいた。もっとも大戸屋から呼び出しがあるときはたいがい手の悪い客の相手ではある。
 法禅寺裏の長屋を出て、路地を右に曲がってちょっと歩けば、東海道に出る。すぐ左に大戸屋はあった。
 その前に七、八人ばかりが集まってぐるりと輪になっていた。真ん中に突っ立っている男は頭一つ飛びだしているが、つるっ禿げで、おまけに頭の天辺まで真っ赤に染めていた。
「なるほど茹であがった蛸だ」
「感心してる場合じゃないよ」
 そういってきわがつかんでいた手首を放した。誠之進は人垣を割って入り、背中を向けている蛸入道に近づいた。身の丈は楽に六尺を超え、目方も三十貫目はありそうだ。
 目を上げると三階の窓際にもたれ、とうの汀がまったくの無表情で見下ろしていた。
 誠之進は男の背に声をかけた。
「ちょいと兄さん」
 中天にかかる月が周囲を青く照らしていた。男がふり返る。大きいのは躰ばかりではない。顔もでかけりゃ、目も鼻も口も相応にでかかった。
 赤く濁った目を剥き、眉根をぐいと寄せた。しかし、ちゃんと誠之進を見ているかは怪しい、焦点の定まらない目をしている。
 顔をぐいと近づけてきた。
「何でえ、お前は」
 胴間声とともに酒の匂いが吐きつけられる。誠之進は平然と見上げていた。
「ずいぶんご機嫌のようだが、野暮はいけないよ。ここは美味しく酒を飲んで、楽しく遊ぶところだ」
「そうだよ」
 男が吠え、顔に飛沫がかかったが、誠之進は拭いもしなかった。
「楽しく遊ぶところだ。それなのに何でえ、布団部屋なんぞに押しこめやがって。手酌でやったってうまくも何ともねえ。おれは汀に会いに来ただけだ」
「汀さんには先客があって今夜は無理だといわれなかったかい」
 男がさらに顔を近づけてきた。
「てめえ、汀の情夫か」
 すぐ上で汀が見下ろしていることにもまるで気づいてない様子だ。おまけに躰がゆっくりと右へ左へ揺れている。
「そんなんじゃねえが、野暮をしてる野郎がいるってからさ」
「野暮野暮って、この野郎。おれはこう見えても絵師だ。野暮といわれて引っこんでられるか」
 おや、同業かとちらりと思う。
 そのとき男がいきなり右手を飛ばして誠之進の襟をつかもうとした。誠之進は反射的に左手で男の手をつかみ、親指を手首にあてがうと手のひらに残り四本の指をあて、ぐいと反らした。同時に肘の内側に右の親指を食いこませ、足払いをかける。
 巨体が宙でもんどり打つ。
 見物しているうちの誰かが声をかけた。
「たーまーやー」
 それほど見事に飛びあがった。そして空中で反転して、背中から落ちた。
「ぐおっ」
 目を剥き、湿った音とともに大きく息を吐きだしたかと思うと両の目玉がひっくり返って白目となり、そのまま動かなくなった。
 きわが寄ってきて、仰向けに転がっている男のわきにしゃがみ込むと懐に手を突っこんで巾着を抜いた。
「ええっ、冗談じゃないよ」
 大声でわめきだしたきわは手早く紐を解き、巾着を開けると逆さにした。何も出てこない。誠之進を見上げた。
「こいつ、文無しだ」
「やれやれ」
 誠之進はぼやき、首を振る。きわが男を見下ろした。いつの間にか目を閉じた男だったが、代わりに口を開けたかと思うと太いいびきをほとばしらせた。

     二

 巨漢入道の名は鮫次といった。文無しである以上、誰かが付け馬となって代金を取り立てなくてはならないのだが、昨日の今日で誰も行きたがらない。またしても誠之進にお鉢が回ってきた。
 鮫次には少々不思議なところがあった。
 金もないくせに舟に乗るといいだし、ついてこいと大いばりで大戸屋を出た。店の裏にかかる鳥海橋をわたると洲崎の漁師町になる。舫い綱を解こうとしていた押送舟に近づいた鮫次が船頭とおぼしき男に声をかけ、ふた言三言話をしたかと思うと誠之進ともども日本橋北詰の魚河岸まで乗せてもらえるよう話をまとめてしまった。
 魚臭いのには閉口したが、細身で七丁櫓、帆まで立てた押送舟は、それこそあっという間に魚河岸に着いてしまった。
 北に向かって歩きだした鮫次に誠之進はあらためて訊ねた。
「どこまで行くんだ?」
「神田明神下」
 腕組みし、しきりに首をかしげている鮫次はふり返りもしないで答えた。
「住処はそこなのか」
「師匠の家だ。自慢じゃねえが、おれの長屋に帰ったところで一文もありゃしねえ」
 たしかに自慢にはならない。
 誠之進はちらりと魚河岸を見やった。
「さっきの船頭は知り合いか」
「いや、初めて会った」鮫次がふり返って、誠之進を見るとにやりとした。「おれは房州の漁師の倅でね。事情を話せば、魚河岸までなら乗せてくれる。海人のつながりは広くて深い」
「あま?」
「漁師、船頭、船問屋……、海で生計をたててる連中さ。板子一枚下は地獄なんて陸の連中はわかったようなことをいうが、本当のところなんぞ知りやしねえ。だけど海人同士は通じる。ちょいと困ってるといやぁ、さっと助けてくれる」
「昨夜は絵師といってたが」
 そういうと決まり悪そうな顔をした鮫次が鼻をつまんで引っぱり、苦笑した。
「十四ンときに実家ぃ飛びだしてそれっきりだ。あっちこっちとほっつき歩いて、今じゃ師匠んとこでくすぶってる」
 どうやらちゃんとした絵師というわけではなさそうだ。
「食えるか」
 思わず訊いてしまった。誠之進自身、浮世絵の下絵を描いたり、高名で売れている絵師の手伝いをするくらいでとうてい生活できない。
 鮫次が怪訝そうな顔をしながら答えた。
「師匠が稼いでるからね。まあ、何のかんのと小遣い稼ぎのクチもあるし」
 自分と同じだと思いながらも誠之進は何となく目を逸らしてしまった。鮫次がかまわずつづけた。
「それにしても二朱ってのはひどかないか。登楼れば、二朱って決まりはわかっちゃいるけど、昨夜、汀は来なかったんだぜ」
 誠之進は鮫次に顔を向けた。
「あんたは二升も飲んだ。肴もそれなりに出したんだ。妓が来なくたってそれくらいにはなる」
「二升ぉ?」
 目を剥いた鮫次だったが、目の前に手を出すと指を折りはじめた。
「ひい、ふう、みい……」
 ふたたび腕組みし、首をかしげる。
「いわれてみたらそれくらい飲んだかも知れないな」
「それにしてもあんたもいい度胸だ。一文ももたずに登楼ったんだから」
 鮫次が顔をしかめる。
「それをいわれると面目ねえ。勢いがついちまったんだ。師匠のひいき筋が酒を買ってやるっていうもんで、ほいほい付いてった。おれにとっちゃ灘の酒よりただの酒だ」
「下手なしゃれだ」
「そうだな」
 すんなりうなずいた。酔いが覚めると案外と素直な男だ。ふいに鮫次が誠之進の足元を見るとにやっとした。
 雪駄がやわらかなものを踏んづけ、思わず目をやった。つぶれた犬の糞が足の左からはみ出ている。鮫次がうれしそうにいう。
「踏みそうだと思ったんだ」
「思ったんならいえ」
「どうして? 付け馬に親切にするこたぁねえや。それに踏んだ方が面白い」
 鮫次の方が頭ひとつ分、背が高い。並んで歩いていれば、自然と顔を上げる格好となり、どうしても足元がおろそかになる。
 鮫次が笑みを引っこめ、ため息混じりにいう。
「やっぱり二升は飲んでるな」
「合点がいったか」
「ひいき筋が飲め飲めってすすめるもんだからついつい調子に乗っちまった」
「品川にくり出す前にはどれくらい飲んだ?」
「一升五合くらいか。三升を超えりゃ酔っぱらうわな」腕を解いた鮫次が片手で腰をさする。「何だか腰が痛え。階段でも踏み外したかな」
「何があったのか憶えてないのか」
 鮫次がうなずく。
「手ひどく酔っぱらったからなぁ」
「あんた、二階の座敷で暴れてな。妓はまだかって飛びだした。帳場にでも行こうとしたんだろ。それで階段から転げおちた」
「座敷だぁ? ありゃ、布団部屋だぜ」声を張った鮫次だったが、すぐにうなずいた。
「それで一階で寝てたのか。なるほど」
 犬の糞の意趣返しでもないが、わざわざ教えてやることはない。
 やがて一軒の家まで来ると開けはなたれた木戸を通って、玄関の戸を開けた。古びてはいたが、なかなか立派な家ではある。師匠という絵師はそこそこ稼ぎがあるようだ。だが、付け馬をともなっているというのに表玄関から堂々と入っていく了見がわからない。
 三和土に立つと、鮫次は大声を発した。
「ごめんください」
 はいと返事がして、若い娘が出てきた。
「あら、鮫さん。こんな朝っぱらから珍しいじゃないか」
「ちょっと何があれでしてね。で、二朱ばかり貸してください」
 娘の表情が見る見るうちに変わった。
「何いってるんだい。二朱っていえば、大金じゃないか」
 くるりと背を向けると奥に向かって駆けだし、大声を発した。
「先生、先生……」
 あわてた鮫次が止めようとしたが、間に合わない。
「あちゃ」
 鮫次が天を仰ぎ、ひたいを叩く。もっともどこまでがひたいでどこからが頭か、境目はよくわからなかったが……。
「今のは誰だ?」
「師匠の親類の娘なんだが、絵の修行に来てる。といっても炊事だ洗濯だ掃除だって、うまいことこき使われてるだけよ」
 奥をうかがったあと、鮫次は肩を寄せてささやいた。
「ここだけの話にしてくれよ。どうもおれに惚れてるらしい。だけど、あの通りのご面相だろ。相手になんかできないよ。そうしたら辛くあたりやがって……」
 だが、どう見ても女が鮫次に惚れてる様子はない。

 こっ、こっ、こっ……。
 一羽の雄鳥が短く声を発しながら一歩、また一歩と庭を歩いていた。踏みだすごとに右、左と顔をふり向けている。庭木の根元、草の間から鼻先をのぞかせているのは黒白ぶちの猫だ。その金色の目が雄鳥が歩くのを追って左から右へ動いていた。
 庭は広くなく、手入れが行き届いているとはお世辞にもいえなかった。そこに雄鳥が一羽、庭の隅では三羽の雌鳥が丸くなっている。そして猫も三匹。庭木の根元にいるほか、縁側にも二匹いた。こちらは虎模様と三毛で、仲良く背中をつけて目をつぶり、腹をふくらませ、しぼませている。
 ふいに庭木の下のぶち猫が雄鳥目がけて飛びだした。
 だが、一瞬早く跳躍した雄鳥が宙で長い首をひねり、ぶち猫を睨みつけて大喝する。びっくりしたぶち猫は庭に爪を立て、急に立ち止まると身を翻して、縁側の下へ飛びこんだ。かなりの大騒ぎだったが、縁側の二匹の猫はゆうゆうと寝息をたてていた。
「あーあ、まただよ」
 となりで鮫次がぼやいた。
「また?」
 誠之進は庭に目をやったまま、訊きかえした。
「猫三はいつも鶏太郎にちょっかいかけちゃ返り討ちにあってる。毎度のことだから猫一も猫二も寝たまんまだ」
「猫は皆、オスなのか」
「知らねえな。猫のオスメスなんぞ興味はねえ」
 誠之進は鮫次をふり返った。座布団もあてず正座しているものの、左手の小指を右の鼻の穴に突っこんで掻きまわしている。付け馬を連れてきて、座敷に通され、これから師匠が来ようというわりには暢気な顔つきだ。
 師匠の親戚筋だという娘は奥に入ったと思ったらすぐに戻ってきて、どうぞといい、誠之進と鮫次を家にあげると座敷に通したのだった。
 ほどなく足音がして小柄で痩せた男が入ってきて、誠之進の前に正座をした。
「お待たせいたしました」
 一礼して、上げた顔を真正面から見た誠之進はぎょっとした。口が閉じきらないほど前歯がせり出ていた。どうやら師匠らしい。
「失礼しました。私は……」
 誠之進の口上をさえぎって師匠が話しだす。せっかちな性分ではあるらしい。
「わかってます。鮫の馬鹿が連れてきたんだ。おおかた付け馬でござんしょう」
「はあ」
「昨日は紙問屋のご隠居が遊びに来て、こいつを連れて酒を買いに行ったんです。この馬鹿のことだから酒で調子づいて吉原にでもくり込んだんでしょう」
 鮫次が尻を浮かせ、割りこむ。
「いえ、昨日は品川で」
 師匠はぎょろりとした目で鮫次を睨みつける。ふっと黙ったあと、しみじみいった。
「馬鹿」
 あらためて誠之進に向きなおった。
「申し遅れました。河鍋狂斎と申します」
 誠之進はぽかんとして目の前の前歯を……、いや、当代随一の売れっ子絵師を見つめていた。

 ゆるゆる歩きながら誠之進は胸のうちにつぶやいた。
 あれが狂斎か……。
 まだ胸がときめいている。
 帰りは大川を下る舟に乗って芝まで来て、あとは東海道を歩いてきた。すでに北品川にかかっていて長屋は目と鼻の先だ。
 狂斎という名を知ったのは四年前、安政二年の大地震後である。地震といえば、鯰が起こすものと決まっていて鯰絵は地震封じの護符としてもてはやされ、市中に出回った数は二百とも三百ともいわれた。
 中でも評判を呼んだ一作に〈老なまづ〉があった。鯰そのものが描かれていたわけではない。震災後の復興で大儲けをしたお旦が芸者のつまびく三味線で逆立ち踊りをしている図であった。
 人の不幸につけこんだ商人を皮肉ったもので、描いたのが当代一の狂画の名手といわれた河鍋狂斎──暁斎と改めるのは明治四年以降──である。人々がうすうす感じている世情の裏側を一枚の絵でちくりと刺してみせるのが狂画であり、人気を得るには当意即妙の頓知と、見る者を笑わせ、唸らせるだけの技倆を必要とした。
 しかし、誠之進はそれより前に狂斎の絵を見ているが、絵師の号は違っていた。
 誠之進は十歳の頃から駿河台の近くにある画塾に通っていた。駿河台には幕府御用絵師狩野派の本拠があり、師事した師匠は狩野派の傍流を自称していた。もっとも仕事は浮世絵の下絵描きが多く、狩野派らしいところといえば、ごくたまに武家屋敷や寺社の障壁や襖の絵を修復していたくらいである。それでも縁つづきではあったらしく、駿河台狩野派の画塾には時おり出入りしていた。
 あるとき、師の使いで届け物をした画塾で塾頭に年齢を訊かれ、十八と答えた。それならばといって塾頭が一本の掛け軸を出し、畳の上にざっと広げた。幅一尺、高さ三尺ほどの錦絵だったが、誠之進は思わず息をのんだ。
 そこには炎と化した光背を負い、朱の衣に緑の甲冑を重ね、左手に宝塔、右手に宝棒を握る毘沙門天の姿が鮮やかに描かれていた。目に突き刺さるほど強烈な極彩色もさることながら正面から吹きつける烈風に衣と光背の炎がひるがえる様が生き生きと描かれていた。
『洞郁といって、とんでもなく絵のうまい男だ』塾頭はそういったあと、付けくわえた。
『これを描いたとき、お前と同じ十八だった』
 狂斎は九歳で駿河台狩野派に入門したのだが、修行は厳しく、どれほど画才にめぐまれた者でも十二、三年はかかり、脱落していく者も少なくない中、たった九年で洞郁陳之の号を授けられ、修行を終えたという。目の前に広げられた毘沙門天の図こそ狩野塾の品評会に提出され、居並ぶ絵師たちを驚嘆させた一作なのだ。
 ふたたび洞郁の名を聞いたのも地震にからんでいる。地震から一年ほど経つと江戸市中の藩邸や寺社で襖絵などの修復の仕事が増え、師匠も駆りだされ、誠之進もいっしょに行くようになった。
 そのうちの一件に筑前福岡藩の上屋敷があった。
『これが洞郁だ』
 師匠が小鼻をふくらませ、障壁画を示したものである。そこには層をなす雲間に身を横たえ、巨大な目で前に立つ者を射すくめる龍が描かれていた。墨痕は荒々しく、大胆でありながら全体を眺めわたすと何とも優美にして幽玄なのだ。ひと目見るなり誠之進は肝を奪われてしまった。
 そして〈老なまづ〉の絵師狂斎こそ洞郁であると知ってふたたび驚かされたのである。
 品川宿を歩き、法禅寺の前まで来たとき、大戸屋を通りすぎてしまったことに気がついた。毘沙門天や龍の図以上に描いた本人に肝を奪われてしまったためだ。
 狂斎は鮫次の飲み代に色をつけ、きちんと懐紙にくるんで渡してくれた。照れ笑いを浮かべ、口ではさかんに詫びていた鮫次だったが、誠之進の目から見てもまるで反省の色はなかった。
 大戸屋の前にかかったが、頭の中はいまだ狂斎に占められていて、誰かと会うのがひどく億劫に感じられた。
「あとでいいか」
 独りごち、ふたたびゆるゆる歩きだす。ところが、長屋の角を曲がったところにきわがいた。壁にもたれ、誠之進を睨んでいる。
 誠之進は笑顔を向けた。
「ちょうどよかった。頼まれごとをしてくれないか」誠之進は懐紙につつんだ金子を取りだし、差しだした。「ゆうべの蛸入道の飲み代だ。帳場に渡しておいてくれ」
 きわが手を出し、懐紙を受けとった。むっつり黙りこんだままである。
「どうかしたのか」
「これ」襟元に挟んであった紙片を取って差しだす。「汀から」
 おやと思った。きわが汀を呼ぶときには、汀さんか汀姐さんというのがふつうで、呼び捨てにすることはない。
 きわは汀付きの小女になりたいのだが、あたしはおへちゃだからダメと諦めている。小女をつけられるのは妓楼でも二人か三人に過ぎず、小女になれると売れっ子娼妓の世話をし、お座敷にはべることで郭の作法を学び、教養を身につけていく。子供の頃から並の娼妓たちとは扱いが違うのだ。
 折りたたんだ紙片を手にしたまま、誠之進は訊きかえした。
「何だい?」
「知らない」
 吐きすてるようにいうと、きっと誠之進を睨む。もともときりりとした顔立ちではあったが、睨め上げるとなかなか迫力がある。
「さっさと帰ったら? お客が来てるよ」
「客? 誰だろう」
「知らない」
 ふたたび吐きすて、誠之進を突き飛ばして路地を駆けだしていった。
 とりあえず紙片を開く。流れるような汀の文字で、相談したいことがあるので真夜中に大戸屋へ来てくれとあった。
 遊女たちからの相談は時おりあった。たいがいは性悪な客につきまとわれていて困るといった内容だが、汀からとは珍しかった。元来頭のいい女で客あしらいがうまいのだ。ひょっとしたら鮫次のことかとも思ったが、今夜話を聞けばわかることだ。紙片を懐に入れると長屋に向かって歩きだした。

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