書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
まぼろしの維新
西郷隆盛、最期の十年
津本 陽

   第一章 新政府

 西郷隆盛は東京、鹿児島に現存する銅像、軍服を見てもわかる通り、巨大な体格の持主であった。
 いかなる逆境にのぞみ、櫛風沐雨にさいなまれても堪えぬくだけの健康にめぐまれていたと想像しがちであるが、実は常に持病のフィラリアに苦しめられていた。病名は慢性陰嚢水腫である。蚊によって伝染する線虫が人体に寄生し、血液、リンパ液のなかで増殖し、象皮病をおこすのである。
 隆盛の肥大した睾丸は、白木綿で吊りあげ、肩へかけなければ軍装ができなかったといわれる。
 隆盛は第十一代薩摩藩主島津斉彬の股肱としてはたらいたが、君主急死ののち、国父となった島津久光の命によって、安政の大獄による幕府の追及を逃れるため奄美大島に安政五年(一八五八)十二月末から三年余、潜居していた。このときフィラリアに感染した。三十二歳(満三十一歳)の頃である。
 吉之助をあらため隆盛という名を用いたのは、明治三年(一八七〇)五月から後である。彼は明治二年六月二日の太政官令で王政復古、戊辰戦争で勝利を得て維新の大業をなし遂げた功績の賞賜、賞典禄として在世の間、年二千石を下されることとなった。さらに九月二十六日に正三位に叙せられた。
 隆盛はただちに賞典禄、叙位の返上を奏上したが、正三位の返上だけを受け入れられたので、賞典禄は鹿児島県庁に預け、私学校建設などの資金に充てることになった。
 隆盛は賞典禄、叙位を将官たちが受けるのは不当であると見ていた。それらは戦場で活躍し命を落した士卒に与えるべきである。上司が栄典をうけるのは、今後の政府において私利私欲をはかって行動する弊風を招きかねないというのである。
 フィラリアによる陰嚢水腫は二貫五百匁(約九・四キロ)に肥大して、踵に届く者もあったという。隆盛の病状はそれほどひどいものではなかったが、鳥羽伏見の戦ののち東征大総督府参謀として江戸無血開城に成功するまで悪化する体調をこらえた。
 戊辰戦争後、庄内藩降伏に際し寛大な措置を講じたのち、十月に京都へ戻り、十一月にすべての地位、栄誉を捨て鹿児島に帰郷した。
 新政府軍隊の最高指導者として、戦場においては「死に癖」といわれるほど、危険な最前線に身をさらすことを望んだ隆盛は、旧主斉彬の腹違いの弟久光が、わが息子忠義(茂久)を藩主として、自ら国父と称し、旧幕府解体のあとをつぎ島津幕府を出現させるのを怖れていた。
 幕府を倒し天皇をおしたてた政府をつくるため、命を捨ててきた志士たちの行動は「人間役」ではなかったと隆盛はいう。人間とは物欲に汚れた俗世間のことであった。
 隆盛は旧主斉彬のもと命がけではたらいたが、久光は俗世を好む固陋な人物として嫌っていた。
 このため、帰郷ののち朝廷の徴士になるのを辞退しつづけたのである。新政府は薩摩藩の戦力によって支えられていたので、隆盛がいなければ久光、忠義父子は徳川幕府のあとを継ぐ、島津幕府を成立させる方針をとりかねない情勢だった。
 隆盛が薩摩藩主父子とその一族を新政府の重職に就かせれば、諸大藩もまたそれを見ならい、廃藩置県体制は遠い夢想にすぎないことになり、日本はやがて他の東洋諸国と同様に、ヨーロッパの属国となりさがったであろう。
 隆盛は先君斉彬が「一心一和」という挙国一致体制をとらねば、日本が独立国として今後存在しえないという遺訓を忘れてはいなかった。
 彼の病状は治療をおこなわねばならないまでに悪化していた。当時フィラリアの治療をするには、温泉の湯治しかなかった。
 そのため、鹿児島から九里(約三十五キロ)離れた、霧島山麓の日当山温泉に滞在し、湯治するようになった。
 体調のいいときは愛犬の「ツン」という雌の薩摩犬を牽き銃猟に出歩く。日が暮れると読書をする。だが、明治二年二月十三日、大久保利通が勅使柳原前光を案内して鹿児島に帰ってきた。
 彼らの用務は戊辰戦争から凱旋してきた兵士らが藩政改革を藩庁に要求し、倒幕になんの働きもしなかった藩内門閥と上士らを退職させようとして、騒動をおこすのを鎮圧するためであった。
 戦場ではたらいた兵士らは、おおかたが小姓与、郷士らの下士で、彼らは功績にふさわしい藩の役職に就くのを望んでいた。
 島津久光は二月二十日頃、日当山の隆盛のもとへ書状を送ってきた。
「兵隊どもの門閥廃止の意見は、世情に沿うものであるとはいえ、上士らの世襲の制度は先祖の手柄によってできたもので、簡単に無視できない。そのほうの意見はどんなものであろうか」
 隆盛は返答を拒み藩庁へ出向こうとはせず、湯治をつづけていた。
 二月二十五日に藩主忠義が隆盛との交情があつい村田新八らを連れて、日当山温泉をおとずれ、藩政に協力して現在の窮状を助けてもらいたいと頼んだ。
 隆盛はこのうえ辞退はできないと思い、忠義に従い鹿児島に帰り、藩参政(家老)に就任した。
 藩政改革は隆盛の指揮のもとで施行され、なんとかまとまりはついたが、上士と下士の所得の不公正をただすことはまだ困難であった。
 隆盛は明治三年一月に参政を辞任し相談役となり、同年七月に家老筆頭にあたる大参事に任じられた。
 明治二年五月一日、彼は久光の指示により旧幕府海軍奉行榎本武揚らを征討する、箱館戦争の応援に出向く。藩の軍艦三邦丸で歩兵半大隊、山砲三門をそなえる半砲隊を率い、東京を経由して同月二十五日に箱館に着いた。だが旧幕軍はすでに降伏していたので浦賀港へひきかえし、東京の政府に事情を報告したのち六月五日に浦賀港を出帆して、十二日に鹿児島へ帰還した。
 四十日ほどを薩摩軍艦で航海するうちに、隆盛の病状はきわめて悪化しており、帰郷ののち日向吉田(宮崎県えびの市)の温泉で湯治をしなければならなかった。
 何事もうちあけあう仲であった藩執政の桂久武へ送った書状には、重篤な症状について記されている。
「高熱を発し、腹痛がはげしく昼夜二十四、五回下痢して血尿、血便もある。これまで体をいためつけてきた疾患が猛り狂っている」

トップページへ戻る