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グレイ
堂場瞬一

   第1章 見えない明日

 くたくたで、体が薄汚れた感じがする。床下にどれだけ埃が溜まっているか、普通の人は知らないだろうな、と波田憲司は溜息をついた。マスクはしていたのだが、暑さに負けて途中から外してしまった。そのせいか、仕事を終えた後には、咳が止まらなくなった。冗談じゃない、肺炎にでもなったらおしまいだよ……そうでなくても、暑くてバテてるのに。だいたいあのビル、どうして空調が止まるんだろう。日曜日とはいえ、作業が入るのは分かっているんだから、きちんと空調を入れておくべきなんだ。もっとも明日以降、オフィスコンピュータが動き始めると、空調はずっと切られることはないはずだ。コンピュータが動いている部屋は、熱でやたらと暑くなる。
 それにしても七月……七月って、こんなに暑かったっけ? ついこの前まで梅雨寒の日々が続いていたのに、このところ、連日三十度を超える猛暑だ。部屋の中も暑いと思っていたけど、外に出れば出たで、頭を焼かれるような暑さに目がくらむ。故郷の岐阜も暑いが、東京の場合は人工的で凶暴な感じだ。東京では二度目の夏だが、まだ慣れそうにない。
 そう、二度目の夏なんだとぼんやりと思う。自分が二十歳になった、記念すべき一九八三年の夏。それなのに、何だか冴えない。
 新宿駅までの道程が、はるか遠くに感じられる。高層ビルが建ち並ぶこの辺は、いつも不規則に強いビル風が吹くのだが、風が欲しい時に限って、ほぼ無風状態だ。犬じゃないけど、舌でも出したい気分だよ、と波田は泣き言を言いたくなった。とにかく、喉が渇く。自販機で……いやいや、駄目だ。コカ・コーラ、百円。今はその百円さえ惜しい。というか、百円を取っておかないと、明日、今日のバイト代を受け取るための電車
代もない。
「何だよ、しけた面して」
 背中を思い切り叩かれ、思わずよろけてしまう。このところあまり食べていないのと暑さのせいもあって、体重が減ってきている。銭湯へ行って、体重計に乗るのが怖いぐらいだ。それにしても、後ろから来たんだから「しけた面」なんか見ていないだろうと思って振り向くと、同じ学部の先輩の富樫が、にやにや笑いながら立っている。背は低いががっしりした体型で、Tシャツの肩がぐっと盛り上がっていた。先ほどまでの作業中には、黒いTシャツを着ていたのに、いつの間にか白いTシャツに着替えている。そのせいか、たっぷり汗をかいたはずなのに、やけにさっぱりした顔をしていた。
「ずいぶん疲れてるじゃないか」
「富樫さんは何で疲れてないんですか」
「慣れだよ、慣れ。俺はあのバイトを半年もやってるから、体の方で勝手に慣れたんだ」
 言葉を切り、頭の天辺から爪先まで波田を眺め回す。相当くたびれた感じだろうな、と情けない気持ちになった。Tシャツもジーンズも汗で濡れたままで気持ちが悪い。つくづく、冷房が恋しくなった。そうだ、ちょっとこの先輩に甘えて──。
「富樫さん、急ぎます?」
「いや。もうバイトは終わりだから」
「喉、渇きませんか?」
「そうねえ」富樫が顎を撫でた。
「何か、ビールでも呑みたいですよね。富樫さんの呑みっぷり、見たいな」
「悪くないな」
 富樫がにやりと笑い、波田も笑い返した。この男は、持ち上げられると途端に機嫌をよくする。分かりやすい男だ。
「ビアガーデンかどこかで、こう、大ジョッキを……」波田はジョッキを傾ける真似をした。
「分かった、分かった」富樫が苦笑する。「でも、ビールは駄目だ。喉が渇いているなら、喫茶店にでも行こうぜ。アイスコーヒー、奢ってやる」
「ごちそうさまです」ビールではなくアイスコーヒー……まあ、いいか。とにかく冷房を浴びるのが第一の目的なのだから。
「まったく、お前の調子のよさには参るよ。何だか、いつも俺が奢ってないか?」
「そんなこともないですよ」すぐに否定した。いくら何でも、会う度にたかるわけにはいかない。
 近くの喫茶店に入ると、途端に体が息を吹き返す。しっかり冷房が入っており、熱くなっていた体が一気に冷やされた。運ばれてきた水をすぐに飲み干し、体を内側からも冷やす。氷を口に含み、ゆっくり舐めると、かすかな頭痛がしてきた。こめかみを押さえる仕草を見て、富樫がまた笑う。
「実際、喉は渇いたよな」
「そうですよ。だいたい、あんな暑い現場だったら、飲み物ぐらい差し入れてくれてもいいんじゃないですか」
「そこまで気の利く会社じゃないよ」
 波田がバイトしているオフィスコンピュータの代理店は、社長以下、十人ほどの小さな会社である。大手コンピュータメーカーの下請けで、会社向けにオフコンを搬入してセットアップし、使えるまで社員を指導するというのが主な仕事だ。機械の搬入自体は、会社が休みの日曜日に行われることが多く、そういう時に波田たちアルバイト学生がかき集められてくる。オフコンが相手といっても難しいことをするわけではなく、波田たちは単に機械を搬入して、ケーブルなどをつなぐだけだ。しかし、このケーブル接続が難物である。高価なオフコンを導入するに当たり、わざわざ床を二重にする会社もある。ケーブル類を隠すためだが、床下にケーブルをきちんと這わせる作業は、最初想像していたよりもずっと体力が必要だった。何しろ、ほぼ這いつくばった状態で作業しなければならない。接続は社員たちがするので、波田たちへの指示は、床を這いずり回る汚れ仕事だけ。それでも、数百万円もする機械を扱っているのだと思うと、気も抜けなかった。
「アイスコーヒーでいいな?」
「いいですか?」
「いいよ」
 ちらりとメニューを見ると、二百五十円。高いな……富樫は仕送りをたっぷり貰っているらしく──だからたまに奢ってもらうのだ──バイト代は全部小遣いになるから何とも思わないかもしれないが。こっちは風呂なしのアパートで、月三万五千円の奨学金とアルバイトで何とかやっているというのに。
 波田は、運ばれてきたアイスコーヒーにガムシロップとミルクをたっぷり加えた。甘いのは好きではないのだが、これで多少は腹が膨れて、夕飯まで何とか我慢できるだろう。ストローを強く吸うと、一気に半分がなくなってしまう。氷ばかりのアイスコーヒーでこんなに取るなよ、と思いながら、後はゆっくり味わうことにした。水を飲んだせいもあって、ひどい渇きは収まっている。
「バイト、慣れたか?」
「まあ、何とかですね」
「面白い?」
「別に面白くは……きついだけですよ。だって、重い機械を運んでるだけでしょう。あれがどんな風に動くのかは、全然見てないし」
「ま、そうだよな。そこは社員の人の仕事だし。でも、面白いよ」
「そうですか?」
 富樫も法学部なのに、何故かコンピュータには詳しい。今回のバイトも、彼から紹介してもらった。
「これからはどんな会社でも、コンピュータがないとやっていけないだろうな」
「だけど、あんなもの、個人では買えないでしょう」
「就職すれば、嫌でも使うんだよ。それに最近は、ずっと安いパソコンが出てきてるから。性能は低いけど、無理すれば俺たちでも買えないことはない」
「富樫さん、持ってるんですか?」
「まさか」富樫がまた声を上げて笑う。「でも、買おうかと思ってる」
「幾らぐらいするんですか?」
「だいたい三十万円かな。去年出た、NECのPC‐9801ってやつなんだけど」
 波田はむせそうになった。三十万円って……授業料と家賃は親がかりだが、生活費は奨学金とバイトで賄っている波田からすれば、夢のような金額だ。
「あ、もちろんそれだけじゃ済まないけどな。プリンタやフロッピードライブを揃えると百万を超えると思うよ」
 富樫がまた、さらりと言った。百万といえば、車が買える金額なのに。住む世界が違う、ということもあるんだな。波田は少しだけ皮肉な気分になった。自分はこのまま一生、金に縁のない暮らしをしていくのだろうか。就職などまだ先の話だし、これから自分がどうやって金を稼いでいくか、想像もできない。
 波田は気づくとメモ帳を取り出していた。「PC‐9801、三十万円」と書きつける。こんなことを書いても何にもならないのだが。
「何してるんだ?」富樫が怪訝そうに訊ねる。
「あ、そのコンピュータの値段を……すみません、メモ魔なんで、数字が出てくるとすぐメモしたくなるんですよ」
「変な奴だな……実は俺、コンピュータ関係の仕事をしようかと思ってるんだ」富樫が打ち明けた。
「今の会社で働くんですか?」
「まさか」富樫が苦笑した。「今の会社は、ただの販売の下請けだろう? そうじゃなくて、作る方。プログラムを書いて、コンピュータを動かす」
「はあ」
「何だよ、その気のない返事は。これからはコンピュータだぜ? そこで仕事をしていれば、絶対に食いっぱぐれることはないから。もう、重厚長大産業の時代じゃないんだよ」
 重厚長大産業──造船とか、機械とか。文系的に言えば銀行や証券会社だろうか。
「船や車を作るのだって、コンピュータが頼りになる。こいつがなければ、何もできない時代がくるんだよ」
「そんなものですか」
「そうそう。今はこんな力仕事をしてるけど、これも勉強のうちなんだ。プログラムを書くっていっても、ハードウエアのことが分かってないと駄目だしね。バイト代を貰いながら、勉強させて貰ってるみたいなものだ」
「そうですか……」
 何となく勢いに押されてしまって、会話が続かない。富樫は一学年上だから、そろそろ就職のことも心配しないといけないのだろうが、どう考えても自分には縁のない世界にしか思えなかった。
 そんなことより、目の前の問題を解決しないと。
 問題──金がないこと。単純だが奥が深く、影のように自分にまとわりついている。

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