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持たざる者
金原ひとみ

   Shu

 三年前の自分を思い出す。その光景には幾重にもフィルターがかかっていて、既に正確な記憶ではなくなっている。あの頃の自分はと虚空を見つめた瞬間、僕はその鮮やかな記憶に疑いを抱く。別に、そんな明るい人生を僕は歩んでいたわけじゃない。当時だってあらゆる苦悩や困難を抱えていたはずだ。でも同時に、もう僕の人生はどうやっても元には戻らない形に転んでしまったのだと思う。僕の世界はあんなにも光に満ちていた。あんなにも自信に満ちていた。あらゆるものを信じていた。僕は目に見える全てのものを把握し、頭の中に浮上し続けるあらゆる問いや疑問への答えを、容易に練り直しては思い通りの形へと作り上げた。完璧なコントロール感覚があった。世界を粘土のように、自分の手の平で作り替えているような気分だった。
 あの時から、僕の粘土は形作られなくなった。拾い上げようとすればアメーバのように指の隙間から零れ落ち、払おうとすれば手にこびりつき、パンツの裾を濡らし、嘲笑うように飛びかかり僕の顔を緑色に染めた。まだらに緑色に染まった僕を慰める人はもういない。三年前、僕には慰めてくれる人がいたけれど、あの頃は慰めなんていらなかった。慰めの意味すら分からなかった。慰めは、女子供のためにあるものだと思っていた。世界は自分の手にあると思っていた。調子に乗っていたわけじゃない。それは単なるコントロール感覚の問題で、自分一人で完結した世界を生きている僕にとって、他人の慰めや評価など意味がないだけの話だった。
 くだらない話をしている奴らを笑った。くだらない仕事をしている奴らを笑った。くだらない音楽を、本を、映画を、人を笑った。でも今の僕には、くだらないものとくだらなくないものの区別がつかない。あんなにも澄んで見えた世界は霞み、手に触れたものの形すらも把握出来ない。体中、五感が麻痺したように、今自分がどこにいるのかも自信を持って答える事が出来ない。僕に言えるのはただ一つ。僕はどこだか分からないここにいる。という事だ。
 美しいものと美しくないものさえ見分けのつかないこんな自分が生きている意味などあるのだろうか。最初は、時が経てばまた全てがうまく回りだす、これは必要な期間なのだと自分に言い聞かせてきた。でももう二年半だ。二年半、回復すると思っていた視力は全く回復せず、むしろ世界はより曇ったようにさえ感じられる。
 散らかった部屋に寝そべると、背中に痛みが走る。背中の下から書類用のクリップを取り出すと、壁に投げつけた。ぴしんと音がして、クリップは床に落ちた。続けて、背中でがさがさと音をたてるスナック菓子の袋も引っ張り出す。天井を見つめ、ゆっくり目を閉じた。学生時代を思い出す。あの頃、一人暮らししていた部屋も六畳一間の安アパートだった。でも、自分にあったのは全能感と欲望と好奇心だった。今の自分には、不能感と憂鬱しかない。欲しいものもない。知りたい事もない。やりたい事もない。食べたいものもない。何もない。ただ本能に任せて仕方なく食べ物を食べ、排泄し、寝て、頭に不快感を感じるようになったらシャワーを浴びる。オナニーの回数も減った。

 24時間営業のスーパーの入り口で、買い物カゴを取り上げる。深夜二時、もう客は少ない。一人暮らし風の若い女の子や、くたびれたおじさんがお惣菜コーナーでパックを見比べているのに混ざって、僕も50%オフ、30%オフの張り紙と中身を確認していく。食べたいものがない。結局いつもと同じ、親子丼を手に取る。自分の少し前で惣菜を見比べていた一人暮らし風の若い女が手を伸ばした先を見て、僕は一瞬立ち止まる。呆然としたまま、だらんと下ろした手が持っているカゴにゆっくりと親子丼を入れる。一瞬、喉の奥で音が鳴った。僕は衝動に駆られていた。
 馬鹿らしい。そう思って背を向けようとした瞬間、女が向き直って僕を見つめた。思わず目を逸らして、もう用のない惣菜の棚にまた視線を走らせる。
「あの、もしかして」
 その女性の声に振り返る。胸が痛くなった。
「保田さんですか?」
「あ、はい」
「わ、すごい。私、今美大に通ってて、保田さんのこと、よく雑誌とかで見てて……。この間保田さんのデザインを題材にした講義を受けたばっかりなんです」
「そうなんだ、よく分かったね」
「すみません急に声掛けちゃって。あの、これからも保田さんの作るものを楽しみにしてます」
「ありがとう。君もがんばってね」
 はい、と、彼女は笑顔で答えた。可愛くはないけれど、性格の良さそうな子だ。あか抜けなさを見ると、田舎から出て来たばかりなのかもしれない。
「君さ、それ」
「はい?」
「椎茸の」
「あ、はい。椎茸の肉詰め。夜食です」
「キノコ類は、セシウムを吸収しやすいから気をつけた方がいいよ」
「セシウム? って……あ、放射能?」
「そう。セシウム137の半減期は三十年。筋肉に蓄積する」
 あ、はい、と彼女は戸惑った表情で答え、分かりました気をつけます、と微笑んで小さくお辞儀をすると背を向けてレジに向かって行った。気をつけますって、結局買うんじゃないか。何であんな事言ってしまったんだろう。僕はしばらく立ち尽くしたまま、足を踏み出す事が出来なかった。
 しばらくぼんやりした後、僕はビールとウォッカとナッツ缶をカゴに入れ、レジに向かった。帰り道で我慢できなくなり、ビールを飲み始めた。ごくごくと喉を鳴らして飲みながら、月を見上げる。何も欲しくない、何も楽しくない。でも、この生活の中で煙草と酒だけは、僕の満たされていない部分を僅かに満たしてくれる。僕の未来には、アル中と借金地獄とそれらがツーインワンしている地獄という三つの選択肢しかないように感じる。貯金はあと幾ら残っているんだろう。もうずっとしていない銀行の残高確認。今日も買い忘れたコンディショナー。もうずっと替えていないベッドのシーツ。目の前に立ちはだかるこれらの現実を見るだけで、もう僕は一生まともに生きる事なんて出来ない気がする。
 ベッドに横になり、充電器に差したままだった携帯を手に取る。迷惑メールに埋め尽くされた受信ボックスの中に、代理店の名前を見つけて開くと一気にスクロールした。仕事の内容に目を通すよりも先に、断らなきゃという思いが体中を駆け巡る。仕事が出来ないどころか、仕事の断りのメールすら書けない。今すぐにでも返事をしなければならないメールが数件溜まっているのに、また一つ増えた。メールボックスを開いた事を後悔しながら、LINEを開く。佐野から、この間公開した誰々の新作映画がどうのこうのというメッセージが一件と、友達申請が一件きていた。一瞬誰か分からずにアイコンと名前を凝視する。
「千鶴か」
 呟くと、記憶が蘇った。申請許可をタップすると、Chi-zuという名前のアイコンが友達リストに追加された。最後に会ったのは四年以上前だったはずだ。四年前の自分を思い出そうとしている自分に気づいて、反射的に気を逸らそうと佐野のメッセージを表示させる。昔の事を思い出すと辛くなる。僕はこれまでにも何度もそうして無意識的に昔を思い出し、辛い思いをしてきた。ウォッカをコップに注いで飲む内に、煩雑なあれこれが頭から消えていくのが分かった。

 痛む頭を庇いながら起き上がると、冷蔵庫の中の水を取り出して一気に飲んだ。じんとにじむ冷たさに顔を歪めながら、ベッドに戻って枕の下の携帯を取り出す。「久しぶり。元気?」という千鶴からのメッセージに、「あんまり元気じゃない。千鶴ちゃんはまだフランスにいるの?」と返す。メッセージはすぐに既読になり、「今はシンガポール」と入って来た。シンガポール、と呟きながら、「いいね、君はグローバルで」と返した。「来週から東京に行くの。一時帰国」。海外在住の女の子が、一時帰国直前に、四年ぶりに連絡をしてきた。これは、飲みに誘えという事だろうか。誘う気にもなれずに、携帯を放り出したくなったけれど、今ここでメッセージを止めるのも変に勘ぐらせる気がして、もう一度手に取る。その瞬間、「会わない?」とメッセージが入った。躊躇いを感じ取られない早さでいいよと一言入れると、簡潔に日時と場所についてのやりとりを数回して、じゃあねとメッセージを入れ合った。彼女の迷いのない態度に、僕は四年前も違和感を抱いていたような気がする。

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