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中年だって生きている
酒井順子

   はじめに

 久しぶりに向田邦子さんの作品を読み返していたところ、「中年増」という言葉が出てきました。それを見て、「『中年』の語源って、『中年増』なのかしら」と思った私。「年増」にも大中小があるならば、中年増といったら、四十代くらいのことなのか……。と広辞苑を見てみたら、中年増とは「中ぐらいの年増」の意なのだそうで、「二三、四歳から二八、九歳ごろの女」を示すらしいのです。昔の「年増」は、ずいぶん若かったことが、わかります。
 そんな言葉に敏感になるのは、もちろん私が中年真っ盛りの年頃だからです。中年になってから既に長い時が過ぎ、そしてこれからもしばらくは、中年期が続きそう。広辞苑によれば、「青年と老年との中間の年頃」が中年ということですから、今の私は中間の年頃のさらにど真ん中にいる、ど中年ということになります。
 中年達はしばしば、ミッドライフ・クライシスというものに見舞われます。ふと「これでいいのか、自分」と不安になったり、目標を見失ったり。それというのも中年が、「中」ぶらりんのお年頃だから、なのでしょう。もう若者には戻れないけれど、老年の覚悟を決めるには早すぎる。新しいスタートを切るのには遅すぎるのではないか、これ以上現状は変わらないのではないか、身体も容色も明らかに衰えてきた……といった様々な不安も、渦巻きます。
 そこには、「中」であるからこそのストレスもつきまといます。青年世代からは、経済的に頼られる割に「もう終わってるよねあの人達」と、年寄り扱いされる。そして老年世代からは、やはり経済的に頼られると同時に、介護等の労働力としての期待がのしかかる。企業における中間管理職のように、あちらからもこちらからもせっつかれるという、労の多い世代なのです。
 中年も中間管理職もそうですが、「中」がつく立場の人は皆、どっちつかずであるが故の大変さに耐えているのでした。それは、「中」学生にしても同じでしょう。中学生は、学生という立場の中での「中」くらいの年頃の男女を示すわけですが、子供でもなければ大人でもないというその立場が、彼等を常に、モヤモヤさせています。
 身体的にも第二次性徴盛りで、色々なところが膨らんだり毛が生えたりと恥ずかしいことがいっぱいの、中学生。頭の中は色々な妄想ではち切れんばかり、しかし妄想を実現させるほどの度量も経済力も無いし、世間では一人前扱いされないし……と、中ぶらりんであること、この上ありません。そのモヤモヤを忘れさせるために、中学生は無理矢理、部活に熱中させられるのだと思う。
 自分が中学生の頃を思い出しても、日々悶々としながら、部活ばかりしていたものでしたっけ。声がわりしたての声で話しながら、だぶだぶの制服(身長が伸びることを見越して、親は大きめの制服を買っている)で歩く中学生達を見ると、「高校生になったら落ち着くから、もうしばらく頑張れや」と、声をかけたくなるものです。
 中学生というのは、あまり美しい生き物ではありません。子供から大人への過渡期であるため、ホルモンが分泌されまくって、ニキビが噴出したり、男女ともにうっすらとヒゲを生やしていたり。子供の愛らしさは最早無く、高校生の瑞々しさもまだ無いということで、「みにくいアヒルの子」状態なのです。
 子供と大人の中間ということで、何を着ていいかもよくわからない様子も、見てとれます。もう子供服は着られないけれど大人の服も似合わないし、センスも未成熟。混乱気味の私服を着ざるを得ません。
 そんな中学生を見ていると、最近の私は、どことなしにシンパシーを抱いてしまうのです。それというのも「中学生というのは、中年とポジ・ネガ関係にあるのではないか」と思うから。中学生がホルモンの分泌盛りだとしたら、中年はホルモンの減少盛り。中学生はニキビに悩んでいますが、中年の肌はホルモン減によってかさつき、シミが激増。そして中学生が、「性」というものに初めて向き合い始める年頃だとしたら、中年は閉経だのセックスレスだの、性とのお別れを考え始めるお年頃なのです。
 何を着ていいのかわからなくなるというのも、中学生と中年の共通点でしょう。ファッションの業界では、「子供服」「若者服」「おばさん服」「おばあさん服」というのは、それぞれ確立されたジャンルです。子供服は、「子供を愛らしく見せる動きやすい」ファッションであり、若者服はつまるところ「生殖前の若者を、異性にとって魅力的な存在に見せ、より良い生殖へと結びつけるため」のファッションなのではないか。そしておばさん服・おばあさん服となると、ゆったり感、着脱のしやすさ、肌触り等、機能性が求められる服ということになる。
 しかし今時の中年女性が求める服は、楽なだけのおばさん服ではありません。最近になって、その手の中年向けの洒落たブランドも出てきましたが、それでも「何を着たらいいのか」は、中年にとって思案のしどころ。
 ここで「ちょっと待て」と思う方が、いらっしゃることでしょう。
「中年の女性って、つまりおばさんのことじゃないの? おばさんと中年女って、どこが違うの?」
 と。
 この点は、当の中年女以外にはわかりにくいところかと思いますので、一言解説をしておきましょう。今時の中年女性は、「私は中年ではあるが、おばさんではない」と思っている人が、ほとんどなのです。口では、
「私なんておばさんだからさぁ」
 と言うものの、それは「こう言っておけば、周囲からは常識的な人だと思われるだろう」という思惑のもとになされる、社交辞令的な発言。
 私を含め、自分のことを「中年ではあるがおばさんだとは思っていない」という人は、「中年」は年齢を示す言葉で、「おばさん」は、精神のあり方を示す言葉だと思っています。すなわち、「確かに私は、二十代でもなければ三十代でもなく、立派な中年である。しかし私は、ファッションにも体重にも気を遣っているし、人を押しのけて電車の座席に突進したりもしないはず。つまり、私は決しておばさんなどではないのだ」と、我々は思っているのです。
 この、「中年ではあるがおばさんではない」と自分のことを信じている女性は、新種の生き物として日本では珍しがられているのでした。その手の女性はまず、経済力を持っています。と言うより、消費意欲が高いのです。バブル期に青春時代を過ごした、いわゆるバブル世代であるために、高額消費をすることへの抵抗感、罪悪感が無い。
 そんな我々世代は、常に「消費の先導役」と言われてきました。日本の景気が悪い時でも、我々世代だけは消費を厭わないと言われていたのです。そんな我々を見て若者は「バブルって感じ〜」と揶揄しましたが、しかしバブル世代のどんな時も衰えぬ消費意欲は、どんよりと沈んだ日本に、一灯をともし続けたのではないか。
 今になっても、我々の消費意欲には期待が集中しています。若者達が、車に乗らず海外にも行かずお洒落なレストランにも行かず、家でまったりと過ごしているのを横目に、中年達は遊び、買い、移動している。
 そんな中年に対する冷たい視線も、理解はしております。
「あの人達、いつまでチャラチャラしているのだ」
「バブル世代って、派手なだけで会社でぜんぜん使えない」
「バブルがいかにすごかったかとかいう話をされると、『お前らのせいで我々は苦労させられたのだ』ってイラつく」
 と、下の世代はシラッと見ている。
 しかしそんな下の世代に言いたいのは、「我々も疲れている」ということなのでした。笛吹けど踊らぬ若い人々を見て、「我々が踊らずしてどうする!」と、発奮して踊る、中年。単純に「踊りたいから」という理由もありますが、時には足腰が痛いのに無理して踊る時も、あるのです。静かなダンスフロアが哀しすぎるからと、ほとんど半泣きの表情で踊っている中年もいることを、若者達は知らないことでしょう。
 そんな我々は、引退が許されない世代でもあります。若い世代が交代してくれないので、いつまでもダンスフロアから退場することができないのです。
 もちろんそこには、自分達の意思も、関係していましょう。結婚しても出産しても仕事を続ける人が多い、我々世代。同時に中年女性達は、結婚しても出産しても、「モテを諦めない」人々でもあります。
 昔の女性は、結婚して出産したら、意識は「おばさん」になっていたのだと言います。子供の友達から、
「おばさーん、こんにちは」
 と言われ、おばさん服を着ることによって、おばさんの自覚を深めていった。
 対して今の中年女性は、前述の通り、中年ではあっても、おばさんではありません。子供を産んでも、「異性から女として見られ続けたい」「いつまでもチヤホヤされたい」という気持ちを捨てることはないのです。
 そんな女性達に、メディアも目をつけています。「いつまでもチヤホヤされたい」という欲求を叶えるにはどうしたらいいのか、という事例を載せた中年女性向け雑誌が、色々と発刊されました。女性の欲望を掘り起こす誌面作りに長けた光文社からは、「VERY」「STORY」といった雑誌が。「美ST」という雑誌では、いつまでも老けずに美しい中年女性を「美魔女」と呼び、「国民的美魔女コンテスト」まで行われています。
 美魔女は、あくまで特殊な人達なのです。私の身の回りにいるのは皆、普通の中年女達なのであり、
「美魔女というのは、一体どこにいるのか?」
「あれはネッシーのように幻の生き物なのではないか。本当に、実在するのか?」
 などと語られている。
 しかしその手の雑誌を見ていると、気持ちが焦ってきます。世の中の中年女性は皆、美人でモテて幸せな家族と充実した仕事を持っているのであって、美魔女でなければ中年失格、といった気分にすらなってくる。
 四十代でも美しくてモテている女性が台頭する現象は、女性の平均寿命を考えると、自然な流れなのかもしれません。戦後すぐ、日本人女性の平均寿命は、約五十四歳。それから急激に平均寿命は延び、一九六〇年になると、七十歳に到達します。
 ほんの五十年前、日本人女性は「人生、七十年」という感覚を抱いていたわけですが、だとするならば、五十歳が近づいてきた時、「そろそろ、人生の終い支度を始める頃だなぁ」と思ったのではないか。
 しかし今、日本人女性の平均寿命は、どんどん九十歳に近づいているのであり、九十代女性の存在は、珍しくも何ともありません。「人生、九十年」となると、当然ながら感覚も変わってきます。人生が七十年ならば、さっさと子供を産み、育てる必要がある。しかし九十年もあるならば、何も急いでしなくてもいいよね、という感覚にもなりましょう。
 人生は延びたけれど、子宮や卵巣の性質は向上していないというのが、今の問題点でもあります。人生九十年時代に合わせて、排卵も六十代くらいまで行われるならよいけれど、なぜか子宮や卵巣は、人生七十年時代のままの性質。だからこそ、
「えっ、卵子も老化するの!?」
 と、中年期になってやっと子供でも産むかとなった女性が、びっくりしているのです。
 卵子の老化はまだ止められないようですが、しかしその他の部分の老化を、人類は必死になって食い止めようとしています。白髪は染めて、シミはレーザーで除去。シワにはボトックス注射を打ち、歯はホワイトニングで真っ白に。と、お金をかければ、誰でもある程度の美魔女になることができるようになったのです。
 九十年も生きるのであれば、老年期だけ長くなるのではつまらない。できるだけ若く美しい状態で、生きていたいものよ。……と考えるのは、人情というものでしょう。
 美魔女増加の背景にはそんな事情があるのだと思いますが、一般の中年にとっ
ては、それもやっぱり疲労の種。「いつまで、頑張らなくてはいけないの」と、我々は思っている。
 中年はそもそも、美しい存在ではないのです。枯れかけの花は、ついこの前まで満開であったからこそ、生々しい醜さを湛えている。完全に枯れて乾いた花よりも、枯れかけの花の方が醜いように、老年より中年の方が、不吉な醜さを持つような気が、私はしております。
 しかし精神の衰えのカーブは、必ずしも肉体的衰えのカーブとは一致しません。肉体的には急激に衰えていく中、「私はまだ若い」という意識だけはキープしていると、肉体と精神の方向性が違いすぎて、とんちんかんな存在になってしまうことが、しばしば。
 このとんちんかんさは、「私は、おばさん」という意識を皆が持っていた時代には、見られないものでした。「私は、中年ではあるがおばさんではない」とか、「私は、美魔女」といった人々が出現してしまったからこそ、本来なら「おばさん」として安定した人生を送るべき女性達が、外見的にも精神的にも、不安定になってしまった。その不安定さが、醜いのです。
 当然ながら、その醜さを私は、自分の中にたっぷりと感じています。中年女性の姿を端から見ていて、「醜い……」と思うのは、自分の中に同様の醜悪さがあるからであり、つまり私が陥っているのは“ガマの膏”状態に他ならない。
 いつまでも自分のことをおばさんだと認めることができない中年達がたらーりたらーりと流す、醜さと不安。それは、人生九十年時代に中年期を迎えたバブル世代ならではの、新手の分泌物なのだと思います。そんな分泌物など無いかのように美魔女達は爽やかに笑っていますが、私の指はねっとりネバつく自分の汁を、明らかに感じている。
 その分泌物を流し切って、カサカサの「老年」になったら、我々は楽になるのでしょう。しかし、中学生が高校生になる時のように、一気に楽になることは無いのだろうと、私は思っています。「いつまでもモテつつ美しく」という野望を、我々世代がそう簡単に手放すとは思えない。もしかすると我々は、おばさんにもおばあさんにもならないままに九十歳まで生きようとしているのかもしれず、いつまでも半生の自分をもてあまし気味なのです。
 本書では、そんな中年達の半生生活について、綴ってみました。人生七十年時代には考えられなかった、長い生乾き時代を生きなくてはならないからこその苦悩やジタバタを、今ここに……。

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