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日本人はなぜ存在するか
與那覇 潤

introduction グローバル時代の「教養」とはなにか

グローバル化と「教養」の復権?

 本書は、愛知県立大学の教養科目として、2009年から〔14年まで〕私が担当していた「日本の歴史・文化」の授業を講義録にしたものです。もっとも科目名の印象に反して、日本史の概説書や伝統芸能のガイドブックではなく、むしろ人文系のさまざまな方法論についてひとつずつ、その特徴や切り口を紹介しながら日本文化を考える「文系学問オードブル」のような内容になっています。まずは、なぜそうなるのかを、少し説明しましょう。
 教養科目とは、大学生が自分の所属する学部・学科で学ぶ「専門科目」──法学とか経済学とか医学とか──に対する用語で、さまざまな専攻の学生が、学部や学科の枠を超えて共通に履修する科目を指します。そのため教養科目というと、それぞれの学生がそれを学びたくて大学に入った専門科目に比べて、「ワンランク下の科目」「入門的な話ばかりで、レベルの低い科目」とみなされることもあります。実際にそういう認識が強かったので、20世紀の終わりには多くの日本の大学が、もっぱらこの教養科目のみを担当する先生たちを集めて作っていた「教養学部」や「教養課程」を解体しました。
 ところがどういう風の吹き回しか、21世紀、特に2010年代に入ってから、大学行政ではふたたび「教養教育」の重視が言われるようになりました。どうやら、世間で「グローバル化への対応」が、大学に求められるようになったことに即した動きらしい。特定の学問しか知らない「専門バカ」は、自分が専攻した領域に引きこもりがちで、得た知識も社会に出てから役に立たない。グローバル化した世界で求められる人材とは、むしろ将来いかなる国、いかなる分野に進もうと通用する「教養」を備えた存在なのだ──。なんだか、そういう雰囲気があるようです。2004年に秋田県で開校した「国際教養大学」が、当初の予想を上回る好評を博したのも、影響しているみたいです。
 結果として、いろいろな大学が教養科目のテコ入れを図るようになり、なかには一度は廃止した教養学部を、実質的に復活させるというところもあります。なにせ、グローバル化に対応するための復活ですから、(日本人を減らして)外国人の教員を増やしたり、(日本語を使わずに)英語で教える講義を設けたりすることが、よりよい教養科目の設置法なのだと、思っている人たちもいるようです。それも、けっこう「偉い」人たちに。

教養とは「特定の文脈を超える力」のこと

 しかし、そもそもグローバル化とは、またその下で必要とされる教養とは、いったいなんでしょうか。日本人でもみんなが英語を使って、しかしやっぱり母語ではない分のハンディキャップは残りますから、日本語で行うときよりは一段レベルを落とした議論をする。それが、グローバル化する世界で、日本の大学に求められることなのでしょうか。
 文化人類学の概念に、「ハイコンテクスト/ローコンテクスト」という、社会の二分法があります。コンテクスト(context)とは「文脈」のこと。ハイコンテクストな社会とは、人々があらかじめ文脈を共有している度合いが高い、つまりいちいちことばにして説明しなくても、「あうんの呼吸」や「ツーカー」で話が通じる状態を指します。たとえば、みんなが同じ土地に先祖代々定住している農村集落とか、メンバー全員が特定の信仰を最初から共有している宗教集団などは、きわめてハイコンテクストな社会ですね。
 一方、ローコンテクストな社会では、人々の帰属が流動化して出入りが激しかったり、多種多様な価値観のメンバーが集まったりしていますから、相互に文脈を共有している度合いが低い。したがって「空気読め」では話が通じないので、いったい自分はなにを前提として、いかなることを伝えたいのかを、逐一言語化して説明しなければいけません。
 ここまででおわかりのとおり、グローバル化とは実は、「ハイコンテクストだった社会が、ローコンテクストな状態に移行してゆくこと」の一環なのです。つまり、そこでは単に「英語ができるから」通用する人材になれるということはありません。むしろ求められるのは、何語であれ、自分の側の文脈(前提とする知識や価値観)を自明視せずに、自分とはまったく違う前提や背景を持っている人たちにも理解できるかたちで、自分の考えていることを表現する能力です。
 いわば、従来はハイコンテクストだったものを、ローコンテクストに翻訳することで、特定の文脈を超えてゆく力。たとえば「日本人なら、誰もが『あるある』と思うこと」を、この「日本人なら」という前提を外しても相手に通じるように、なにがどう「ある」のかを説明できる技量を養う教育が、本当は必要です。
 そして実は、それこそがまさに従来から、専門科目とは別個の「教養科目」に求められてきたことなのです。当然ですが、日本史学にせよ機械工学にせよ、同じ専門を共有している教員・学生どうしの方が、ハイコンテクストな集団になりますよね。だからこそお互いに自明の前提は解説をスキップすることで、高いレベルの議論を効率的に展開できる。もちろん、それ自体はすばらしいことです。しかし、それとは逆方向の能力もつちかう必要があるからこそ、大学には教養科目というものが設けられているのです。

「日本人」をローコンテクスト化する

 私たちは「日本人なら、こうだよね」と言われたときに、つい「うんうん」とうなずきがちな社会を作ってきました。それこそアメリカ人なら「ごめん、君が言っているのは米国本土の人のこと? それとも、君が日本で会ったアメリカ人? 他にも人種や宗教によってもだいぶ違うんだけど、どのアメリカ人を想定して話をしてるの?」とツッコまれそうなところでも、「まぁ、みんな日本人だしね」で通ってきた。つまり日本人は、これまで相対的にハイコンテクストな社会を生きてきたので、そのことが、グローバル社会という究極のローコンテクスト状況への対応を、難しくしているところがあります。
 だとすれば、まず私たちがやるべきは、そうした日本人を可能なかぎり「ローコンテクスト化」することです。その作業は、特定の専門を共有していないことを前提にさまざまな学問に触れてゆく教養科目の現場と、実に親和性が高い。だから私の授業では、毎回異なる方法論を取り上げながら、私たちがなんとなく(=ハイコンテクストに)自明視してきた「日本人」とは、実際のところどういう存在なのかを考えてきました。結果として本書も、哲学や文芸批評から、心理学、社会学、地域研究などまで、多様な文系学問のセンスが身につく内容にできたのではないかと、(ちょっとだけ)自負しています。
 そしてこういう、私たち自身の思考の前提や、アイデンティティの根幹に関わることをいったん解きほぐし、新しいかたちに再編しなおす試みは、「自分がもっとも得意とする言語」でなければ、できないものだと思います。たとえば英語で考えろと言われたら、多くの日本人は日本語よりも、語彙が乏しくなる。その少ない語彙にむりやり自分の言いたいことを詰め込もうとすると、かえって「海外へ行ってわかったのは、やっぱり日本人には日本の個性があるということです」式の、ハイコンテクストなままの日本人像ができてしまう。本書が、それとは違う道を示すことになっていればと、願っています。
 本書は編集者の松川えみさん、田中伊織さんを相手に出版社で行った出張講義を、ライターの岡田仁志さんにまとめていただいた草稿をもとに、全面的に手を入れたものです。第3章については、畏友・吉川美華さんの校閲を経ました。記して、御礼申し上げます。
 そしてなにより、原型になった2005年の学習院女子大学での「日本人論」の講義も含めて、いままで私の授業を熱心に聞いてくれた、学生さんたちに感謝を。本当に、ありがとう。みなさんのおかげで、ここまでこれました。

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