書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
フーテンのマハ
原田マハ

    1 奇跡のリンゴと出会う

 人生で失くしたら途方に暮れるものは何か? そんなふうに誰かに訊かれたら、私は迷わず答えるだろう。
 それは旅。
 旅が好きだ。「移動」が好きなのだ。移動している私は、なんだかとてもなごんでいる。頭も心もからっぽで、心地よい風が吹き抜けていく。
 旅する私の移動のルールは、簡単だ。
 まず、公共の交通機関を使う。電車でもバスでもフェリーでも、ときには飛行機でも。レンタカーや自転車には乗らない。ぼんやりできないから。タクシーは、場合によっては。地元のおいしい店を探し当てるには、タクシー運転手は主要な情報源になってくれるから。本を読んだり、ガイドブックを広げたり、音楽を聴いたり、おしゃべりをしたりしない。ただひたすらに、ぼんやり、のんびり。車窓に移りゆく風景を眺め、ときに隣の席のおばあちゃんや女子高生の噂話に耳をそばだてる。
 目的地は、あってないようなものだ。そこへ行こうと決めても、何も調べない。どんなところかも知らず、まっさらな頭とすっぴんの心で訪れる。
 それが、旅する私の移動のルール。

 なあんて、ちょっとセンチメンタルに始めてみたが、なんのことはない、単純に「移動フェチ」なんです、私。
「旅」と呼べるほどの極端な移動はもちろん、日常的にも移動が好き。近所のスーパーやバス停までの移動も楽しい。ふと気づいたのだが、毎日、家の中でも椅子やクッションの位置をけっこうまめに移動している。これもフェチゆえの性かもしれない。
 東京郊外に住んでいるのだが、週に一度くらい、都心への「移動」を楽しむ。車中では、本を読んだり居眠りしたりなど絶対にしない。電車やバスの中は、たくさんの人々の日常を垣間見る絶好のチャンス。車両を見渡して人間観察をする。実にさまざまな人がいる。ヘンなおじさんや不倫カップルをみつけるのも得意だ。ちなみに電車内の不倫カップル観察はかなりおもしろい。人目を避け、時間を惜しんで密会するふたりにとって電車はもはや自分たちの部屋。いい歳をした女性が、「やだぁ〜もっと一緒にいたいんだもんっ!」とか言って、もっといい歳をしたおっさんの耳たぶをぎゅうっと引っ張ってるのを見たこともある。こういう場面に遭遇すると、やっぱ移動って奥深いよなあ……と、つい感慨に耽ってしまう。
 私の移動フェチは会社勤めの頃にはすでに露見していた。あるとき後輩の男子に、いきなり「原田さんってマグロっぽいですよね」と言われたことがある。当時、社内きってのファッショニスタ(と自分で言うのもなんだが)だった私は、最新かつ奇抜な服装を好み、「Mビルのイメルダ夫人」とか「ファッションで人を嚇かす」などと言われたことはあったが、「マグロっぽい」と言われたのは初めてで面食らった。それはこのグッチのスーツの照り加減が黒マグロに似てるのか、それとも真っ赤なブーツが赤身に近いのか、そしてそれはトロじゃないのか……などと考えを巡らせたが、彼いわく「だって止まったら死んじゃうでしょ」とのことだった。そのとき生まれて初めてマグロというのは生きるために泳ぎ続け、移動し続ける種であることを知った。
 会社勤めの頃は、出張や営業や打ち合わせなど目的のある移動がほとんどだった。三日にあげず出張し、嬉々としてあちこち飛び回る私を見て、どうやら周囲の人々はイケてるキャリアウーマンではなくマグロをイメージしていたようである。その数年後、物書きになって、本格的なぶらぶら旅が始まってからは、いっそうマグロに近づいた気がしている。ちなみに、デビュー後、私のペンネームについて「マッハで移動するからですか?」と訊かれたこともある。以来、ペンネームの由来を訊かれればこの一言を用いることにしている。
             ◆
 去年くらいから「フーテンのマハ」を自称するようになった。もちろん由来は『男はつらいよ』の車寅次郎、フーテンの寅さんだ。小学二年生のとき、その第一作目を父に連れられて映画館で観て以来、寅さんは私の憧れである。あてもなくぶらぶらして、いつのまにか地元の人たちとなごみ、狙ったわけでもないのに美人が現れる。この展開に小学二年生の時点で憧れたのだから、フーテンとしての素質は天性のものではないかと思ってもいる。
 とはいえ、大学生の頃は貧乏で旅行に行けなかったし、会社勤めの頃はそれまでの金欠生活にリベンジするぞとばかりに、旅先では忙しく観光したりショッピングにいそしんだりした。そういうことをしない旅、何も決めずに出かける旅、地元の人々と会話を楽しむ旅ができるようになったのは、ごく最近のことだ。気がつけばシリーズ何作目かの寅さんの年齢にとっくに達していた。
 あまりにも東京を不在にすることが多く、編集者も知人も連絡をしてくるときは「いまどこにいるんですか」が枕詞のようになっていた。「自宅ですよ」と答えたら「どうしてですか」と言われたこともある。なんで自宅にいるんだ? と訊かれるようになって、これは本格的に「フーテン」を名乗るときがきたようだと悟ったのである。
 さてフーテンの旅はまったく不定期に、突発的に始まる。したがって誰にも予定を知らせることもなく、いつのまにか出かけていつのまにか帰ってくる。わが夫ですら、壁に掛けてあるカレンダーに「この間、旅行」とマジックでなぐり書きしてあるのを見て、私がまもなく出かけることを知る次第。ひとりで出かけることも多いが、旅の道連れがいることもしばしば。私が「ロードマネージャー」と呼んでいる旅仲間、御八屋千鈴(注・旅人ネーム。本名ではありません)については、いずれ誌面を割きたいと思っている。
 そして、ぜひともフーテン旅についていきたい! とけなげにも申し出てくれた女子が二名。編集者のIさんとWさんである。旅先で出会うまでもなく麗しきマドンナが同行してくれるとは。寅さんだったらどういうリアクションをするだろうか(私の場合は、とりあえず旅の七つ道具のひとつ 【フーマハ公式小型バッグ】をプレゼントして歓迎した)。
            ◆
 フーテンの旅が始まる引き金はさまざまにある。確たる目的はない旅ではあっても、訪れてみたい理由はなんとなくいつもある。あるときは「祭り」だったり、あるときは「花」だったり。またあるときは「乗ってみたいローカル線」だったり。「観てみたい絵」というのもよくある。かつては仕事で世界各国・日本全国津々浦々の美術館へ出かけていった。よって、どの美術館にどんな収蔵品があるかはよくわかっている。好きな作品を観に地方を訪れるときなどは、旧知の友人に会いにいくようでわくわくするものだ。
 そしてもっとも頻度の高い引き金となるのは、「ご当地グルメ」である。
 今回の連載を始めるにあたって、まずはどこでもいいから取材にいくことになったのだが(取材なのに「どこでもいい」ということ自体がこの連載の本質を物語っている)、非フーテンの同行女子二名は出張先を(とりあえずどこでもいいから)編集長に報告しなければならないこともあって、漠然と「東北」というデスティネーションが持ち上がった。ちょうど四月末だったので、弘前や角館の桜が見事なはずだと思ったのだ。私は過去二回、同じ頃に弘前城を訪ねて満開の桜を見損ねている。天気やらスケジュールやら宿に空室があることやら、すべてを満開の桜にドンピシャに合わせることがいかに難しいかはすでに実証済みだ。それにあらためて挑戦してみよう、と決意したのは、Iさんがいきなり魅力的なオファーをしてきたからだった。「弘前キュイジーヌ」とかいって、最近かの地には評判のいいフレンチレストランがあるらしい。食いしんぼうのわりには旅先での食事は行き当たりばったりで、店先ののれんのヨレ具合がいいとかでランチ場所を決める私にとって、Iさんの提案は神の声じみて聞こえた。なにしろ「あの木村秋則さんが作ったリンゴのスープが飲めるらしいんです」とフーテン旅先調査結果を報告してくれたのだから。
 木村秋則さんといえば、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」に登場して時の人となったリンゴ農家である。不可能と言われた完全無農薬のリンゴ栽培に成功し、そのリンゴは甘露のごとき味だとか。これはぜひとも行って、どんな味なのか確かめたいではないか。と、実にあっさりと目的地は決定された(そして桜が満開かどうかについては不問となった)。
            ◆
 さあ、記念すべき「フーテンのマハ」第一回目デスティネーション、弘前の「レストラン山崎」へやってきた。ってすでに弘前城はすっかり忘れられてますね。とにかく木村さんのリンゴ。それさえ食べられればいい。旅の趣旨が多少変わってきちゃってるけど、まあいいや。
「レストラン山崎」は東京都心にあるスカしたフレンチレストランとは趣を異にして、地元のちょっとおしゃれなおばさんたちが集うティーサロンの雰囲気。しかし決して狭くはない店内は見事に満席。メニューを広げると「木村秋則さんのリンゴの冷製スープ」「木村秋則さんのリンゴのコンポート」と木村さんの名前を連呼。しかしこっちもそれが目的できたのだから、当然木村シリーズでコースの三品を決定。「待ち遠しいですね〜」と、うまいものに巡り合うと忘我するらしいIさん。彼女はルックスもしゃべり方もキャラもすべてが弁天系なのだが、食べることに向かい合うとき、体内に眠っていたおっさんが覚醒する──という「親父内蔵型」美女である(ということをこの旅の最中に知ることになる)。私たちは最初に運ばれてきたスープをひと口飲んで、
「……………………」
 絶句した。人間、ほんとうにうまいものに行き当たったとき、絶句するものだ。さわやかなリンゴの酸味と甘味がクリームの中で混じり合い、舌の上でとろっ。私たちは言葉を発することなく、木村さんのスープを血に肉に骨にさせていただいた。そして木村さんのリンゴジャムと木村さんのリンゴのかりんとうをきっちりと買った。
 あ、そういえば桜も咲いていた。満開でしたよ、思いっきり。

トップページへ戻る