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最期
小杉健治

   第一章 裁判員指名

     1

 あまり世間の注目を浴びない事件だった。新聞の社会面に小さく載ったが、被害者と加害者の名前を誰も記憶していないだろう。
 社会的弱者の視点に立つひとたちは看過できない社会の歪みの象徴のようにとらえるかもしれないが、多くの人々にとってこの事件は快速電車が通過する途中駅のように見過ごすもので、そんな事件があったなと思うだけであった。
 貝原茂樹もそんな人間のひとりだった。そういう点では気が楽だと、裁判員に選ばれた貝原は余裕があった。
 控室になっている評議室で開廷を待っている他の裁判員の表情にも緊張感はあるが、総じて落ち着いていた。
「では、参りましょうか」
 黒縁の眼鏡をかけた裁判長が立ち上がって声をかけた。
 さすがにこれから法廷に向かうとなって心が騒いで思わず深呼吸をしたが、貝原はすぐ落ち着きを取り戻した。
 貝原ら裁判員は裁判官のあとに従って法廷に向かった。
 まさか自分が裁判員に選ばれるとは思っていなかった。今年還暦を迎える貝原は三年前に妻を亡くし、子どもがいなかったので、今は気ままなひとり暮らしだ。
 裁判員の候補通知が来たときは、かえって退屈凌ぎにいいと思った程度で、ほんとうに自分が選ばれるとは思わなかった。
 裁判所からの呼出し状が届いて、東京地裁に赴いたときも、裁判員候補者の待合室となった会議室には大勢の候補者がいた。裁判員に選ばれる確率は低いと思いながら、担当する事件の概要を聞いた。
 岩田貞夫という七十七歳のホームレスが二十七歳の馬淵将也という青年を鉄パイプで殴り殺したというものだった。馬淵将也は派遣社員としての契約を打ち切られたあと新たな仕事先が見つからず、ネットカフェなどで過ごしてきたが金が尽き、ホームレスになったということだった。
 当然ながら、事件と関わりのある者は裁判員になることは出来ない。貝原には無縁の加害者と被害者であった。
 七十歳以上のひと、介護が必要な家族がいるなどの理由があるひとは辞退を許されたが、貝原はいずれにも相当せず、また積極的に辞退をしたいとも思わなかった。
 検察官、弁護人はそれぞれ四人まで裁判員を排除出来る。偏った考えの持ち主はその段階で外された。
 貝原は検察官、弁護人双方から簡単な質問を受けたが、排除されることはなかった。
 裁判官に続き、他の裁判員とともに法廷に入った。裁判員は一段高い壇上に、三人の裁判官とともに横一列に並んで座る。
 思ったとおり傍聴席はがらがらで、隅に年寄りの小肥りの男性がひとりいるだけであった。このことも気持ちに余裕をもたらした。
 世間の注目を集める事件で、傍聴人も大勢押しかけてくるような裁判の裁判長にならなくてよかったと、つくづく思うのだった。
 それでも、「開廷いたします」という裁判長の声を聞いたとき、貝原は身の引き締まる思いだった。
「被告人は前へ」
 弁護人と並んで座っていた被告人がゆっくり立ち上がった。
 証言台に向かった被告人は髪はぼさぼさだが髭は剃っていて、身ぎれいにしていた。それでも長年のホームレス暮らしを物語るように歯は抜け、目脂がついていた。
「名前は?」
 裁判長が人定質問をはじめる。
「…………」
 被告人は口を開きかけたが、すぐには声が出ない。
「名前は?」
 裁判長がもう一度訊ねる。
「岩田……貞夫です」
 滑舌が悪く、聞き取りにくい。
「生年月日は?」
「…………」
 被告人はしばらくして、
「今、七十七です」
 と、年齢を答えた。
 続いて、本籍、住所、職業の順にきかれたが、満足に答えられなかった。ホームレスだから住所不定、職業は無職である。
 弁護人の助けを借り、型通りの質問に答えて、被告人は被告人席に戻った。
 座ったあと、被告人は耳たぶを手の指の背ではさんでもみはじめた。そのとき、おやっと思った。
「検察官、起訴状の朗読を」
 裁判長が声をかけた。
 検察官が起訴状を持って立ち上がった。
「平成二十八年十月十二日午後八時三十分ごろ、被告人は葛飾区四つ木一丁目の荒川河川敷で馬淵将也に対し日頃の恨みを晴らそうと……」
 貝原はさっきから胸の辺りに違和感があった。耳たぶを手の指の背ではさんでもむ癖を持つ男を知っていた。
 同じ癖の持ち主だと思った。
「被告人は前へ」
 被告人が再び証言台に立った。よく見ると違うようだ。やはり、思い違いか。
 裁判長は被告人の陳述に先立って、黙秘権や供述拒否権について説明してから、問いかけた。
「では、訊ねます。さきほど検察官が読み上げた公訴事実は間違いありませんか。それとも被告人にとって何か異論がありますか」
「違います。私は殺していません」
 聞き取りづらかったが、意志の籠もった力強い口調だった。
「弁護人はいかがですか」
 裁判長が弁護人に声をかけた。
 弁護士の鶴見京介がすっくと立ち上がり、
「被告人は無実です」
 と、起訴状の事実を否定した。
 言い方に気負いや衒いはなく、静かな物言いにこれが真実だと思わせるような重みがあった。
 三十過ぎぐらいで、まだ学生っぽい若さにあふれているが、自信から来る風格のようなものが漂っている。
「それでは検察官、冒頭陳述をお願いします」
 裁判長が検察官に声をかけた。
 検察官が立ち上がった。
 検察官は被告人の生い立ちから話しはじめた。
「被告人は昭和十五年四月二日に、秋田県大館市××にて岩田竹蔵とかねの次男として……。昭和三十一年に××中学校を卒業して集団就職で東京都足立区……」
 貝原は被告人を見ていた。検察官の声に耳を塞ぐように両手を耳に当てて俯いている。
 経歴を聞きながら、貝原はますます被告人の様子に目を凝らした。
 昭和四十七年、被告人は勤め先の足立区にある千住モータースの倒産後、解体業や運送会社などに勤務したが、人間関係に躓いて会社勤めをやめ、四十歳のときから山谷に住み、日雇い労働者としてその日暮らしをしてきた。五十歳のときに体を壊して働けなくなり、それからは路上生活者になったと検察官は言う。
 秋田県の実家に家族はもういない。実家は兄の子どもが継いでいるが、五十年以上音信不通の岩田はもはや赤の他人だったという。
 ホームレスになって二十七年。そして、五年前から葛飾区四つ木一丁目の荒川河川敷でブルーシートのテント暮らしをしてきた。
 まるで、貝原の視線に気づいたように岩田が顔を上げる。
 その瞬間、深い皺が刻まれた岩田の顔に若い日のある男の顔が重なった。老いて眉や目尻が垂れ、頬もこけているが、顔の輪郭がまさに一致した。いや、正確にはそんな感じがしただけだ。

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