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沖縄コンフィデンシャル
楽園の涙
高嶋哲夫

 第一章 真実の行方

      1

 心地よい音。さらに眠りに引き込もうとする音。
 静かな子守唄にも似た波の音だ。こんな音をスマホの呼び出し音にするのはバカだと言ったのは、ノエルだ。
 反町は目を閉じたまま手を伸ばし、枕元を探ってスマホをつかんだ。
〈今、どこにいるの〉
 ノエルの声が飛び込んでくる。
「家だ。俺は今、爆睡中だ」
〈一課は暇でいいね。何時だと思ってるの〉
「昨日の夕方から張り込みをやって、日付が変わってからコンビニ強盗を二人逮捕した。タレコミがあった。報告書を書いて帰宅したのが──」
 目を開けると強い陽光が脳の奥まで流れ込んでくる。
 デスクのデジタル時計に目をやると午後一時だ。まだ一時間も寝ていない。
〈今、那覇中央病院。頭から血を流した女性が病院に運び込まれた。かなりひどい傷。新都心のショッピングセンターの駐車場で襲われた。ハンドバッグを取られそうになって、抵抗したら殴られて車止めに頭をぶつけた。犯人はそのまま逃走〉
「引ったくりか。おまえとどういう関係がある」
〈第一発見者がアメリカ人の老夫婦。だから私が呼ばれた〉
「引ったくりだろ。所轄の刑事が行ってるはずだ。なんで、わざわざ俺に知らせる。具志堅さんからの呼び出しもない」
〈来れば分かる。私に言えるのはそれだけ〉
 病院名を繰り返して、電話は切れた。
 スマホを置くと同時に、また波の音が聞こえる。やはり、この着信音は正解だった。サーファーの反町には、意識の切り替えができる。さあ、次のウェイブだ。
〈那覇中央病院だ。そっちで会おう〉
 それだけで電話は切れた。具志堅からだ。彼は反町の相棒であり、大先輩のベテラン刑事だ。彼から電話があるということは、ただの引ったくりではないのか。
 反町は勢いをつけて上半身を起こした。
 眠気の大部分は具志堅からの電話で消し飛んでいたが、全身がだるい。身体は正直で、まだ睡眠を求めている。
 遅れると無言の制裁を受ける。刑事としての自覚の薄い奴は俺の視野から消えろ、と具志堅の目は言っている。
 冷たいシャワーで身体から倦怠感を追い出し、自転車に飛び乗った。
 反町雄太は二十九歳、巡査部長。沖縄県警刑事部捜査一課の刑事だ。
 与那原町の宮良よし枝というお婆さんの家に下宿していて、県警本部まで自転車で通っている。自転車は本土から持ってきたロードバイクだ。

 ヘルメットが風を切る感触が心地よかった。
 五月の沖縄。
 強い日差しが全身を包み、一分で汗が噴き出してくる。
 梅雨に入る前の蒸し暑い日々だ。今年は梅雨入りが遅れ、一気に夏が来たような晴れた暑い日が続いている。湿度は高く、息苦しいほどだ。これも地球温暖化のせいかと、マスコミは連日騒いでいる。
 サングラスを通した強い陽が目の奥に沁み込んでくる。
 ノエルの言葉がよみがえった。「来れば分かる」とはどういう意味だ。
 那覇中央病院は新都心にある。ノエルと具志堅の電話は、おそらく同じ事件だ。
 那覇新都心とは、那覇市北部の再開発地区のことだ。
 米軍牧港住宅地区が返還されたとき、その跡地を含む二百十四ヘクタールが再開発された。広くて近代的な大型ショッピングセンターを中心に、高級ブランド品の大型免税店、県立博物館や総合運動公園などの公共施設群が集まっている。
 さらに、高層の商業ビルやマンション、モノレールの駅が並ぶ。南部の県庁地区とともに那覇の新しい顔となる場所だ。
 那覇中央病院に駆け込み、看護師に告げられた集中治療室に行くと、若い制服警官が廊下の椅子に座っている。
 赤いハイビスカス柄のアロハにくたびれたジーンズ、スニーカー姿の反町を見て、顔をしかめて立ち上がった。
 警察手帳を見せると姿勢を正して敬礼した。
 手の平を返したような態度には慣れている。鏡を見ると文句は言えない。異様に色が黒いのは、サーフィン焼けだ。反町も背筋を伸ばし返礼したところで、エレベーターが開き、ノエルと二人の男が出てきた。
 男は比嘉という、反町も知っている五十代半ばの那覇署の刑事だ。彼の相棒は親泊、反町の一歳下の刑事だ。何度か一緒にサーフィンをしたことがある。彼らは沖縄生まれ、沖縄育ちの生粋のウチナーンチュだ。比嘉は白のカッターシャツ、親泊は赤いハイビスカス模様のかりゆしウェアを着ている。かりゆしウェアは沖縄では正装として通るが、赤は勤務中に着るには派手すぎる。親泊も所轄の跳ね返り者か。
 二人が怪訝そうな顔で反町を見た。ノエルを見ると顔を背けている。
「女が襲われて大怪我をしたっていうから来てみた」
「引ったくり、物取りでしょう。わざわざ県警本部の刑事さんが来る必要はないですよ」
 比嘉の言葉は皮肉にも取れる言い方だ。トゲを含んでいる。
「反町さんは、天久警部補が呼んだんです。二人は同期ですから。引ったくりといっても傷害事件です」
 親泊が取り繕うように言う。
 反町はノエルの腕をつかんで二人から離れ、声を潜めた。
「なんで俺を呼んだ。那覇署の奴らに嫌味を言われた」
「手術が終わって集中治療室に運ばれたところ。担当医に会ってきた。頭を打ったことによる脳挫傷だけど軽い部類。手術で血腫を取り除いた。処置が早かったので命に別状はない。けど、意識は戻ってない。現場はショッピングセンターの駐車場」
 ノエルは反町の言葉を無視して要点だけを一気に言った。
「女の身元は? もう分かってるんだろ」
 ノエルが目で集中治療室を指した。
 反町は窓ガラス越しに覗き込んだ。
「あれは──」
 出かかった言葉を呑み込んだ。
 頭に包帯を巻いた女性が横たわっている。色白で整った顔。美しい女性だった。まるで眠っているように穏やかな表情だ。だが、右目の下と唇の横にできた青アザが異形だった。殴られた痕か。
「儀部優子。知り合いでしょ」
 優子の夫、儀部誠次は沖縄の有力者だ。軍用地の大地主で、サトウキビ畑と製糖工場を待っている。何ヶ所か所有している軍用地の賃料だけで年に億単位の収入がある。
 現在、沖縄県の面積の約一割が米軍基地となっていて、地代は年間約一千億円に達する。これらは思いやり予算として日本政府から支払われている。
 軍用地を新たに購入すれば、国との賃貸借契約は最長で二十年続く。地代は毎年一パーセントずつ上昇しており、持っているだけで安定した収入が入り、地価も上がる。管理費も修繕費もいらない。軍用地だという証明書があれば、沖縄の銀行は地代の七割程度はすぐにも融資してくれる。軍用地が金融商品と言われる所以だ。
「発見者のアメリカ人夫婦はどうした」
「現場で帰ってもらった。話はショッピングセンターの駐車場で聞いた。二人は事件とは関係ない。免税店で買い物をして駐車場に戻ると、女性が強盗に襲われ、揉み合っていた。鼻血で血まみれになってね。男がハンドバッグを取ろうとして顔を殴ったのよ。女性は倒れて車止めのコンクリートに頭をぶつけた。奥さんが悲鳴を上げたので、犯人は逃げていった」
 ノエルが反町に事件のあらましを話した。それに、と言って改めて反町を見た。
「彼女、ハンドバッグに三百万円入りの封筒を持っていた。百万円の束が三つ。帯封に銀行名が入っていない札束」
「赤堀も呼んだほうがよさそうだ」
「それは待ったほうがいいんじゃないの」
 ノエルの目がエレベーターに向いている。開いたドアから、具志堅が出てきた。
「えい、反町。ちゅーや早かったな」
 具志堅の声が響く。彼の沖縄言葉が違和感なく耳に入るようになったのは、最近になってからだ。ちゅーやは今日は、の意味だ。
 具志堅正治は五十八歳で反町の相棒だ。沖縄生まれの沖縄育ち。ウチナーンチュを絵に描いたように小柄でずんぐりして、大き目の顔に太い眉がドンとある。一見のんびりした男だが、沖縄古武道の達人だ。警察官になって三十六年のたたき上げの刑事、警部補だ。
「被害者は儀部優子、三十二歳──」
 反町はノエルから聞いた事件の概要を具志堅に説明した。具志堅は平然とした顔で聞いている。
「そうなんだろ」
 横で聞いていた所轄の二人に同意を求めると、慌てて頷いている。
「女の意識が戻れば、犯人の識別は可能ということか」
「揉み合っていますから、顔は見ていると思われます」
「他の目撃者はいないのか」
「アメリカ人の老夫婦だけです。犯人が逃げる後ろ姿を見ていますが、ほんの一瞬で顔は見ていないようです。すでに帰ってもらっています」
「特徴は聞いたか」
 続けて質問する具志堅から沖縄言葉が消えている。
「背の高い痩せた男。ライトブルーのポロシャツを着て、若い感じだったと言っています。その他は不明です。ほんの一瞬、後ろ姿を見ただけです。引ったくり未遂事件と思われます」
 具志堅が考え込んでいる。
「被害者は儀部誠次の奥さんです」
「だから、おまえに電話した。俺は様子を見にきただけだ」
 反町の言葉に具志堅が平然とした顔で言う。
 しかし、と言って反町と所轄の二人を見すえた。
「初動捜査では先入観は入れるな。誰の女房であろうと関係ない。白紙で当たれ。すべての状況を把握した後で、様々な事情を当てはめて考えろ」
 反町の思いを察してか、淡々とした口調で言うとエレベーターのほうに歩いていく。

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