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鴻池の猫合わせ
浮世奉行と三悪人
田中啓文

     一

 十徳を着た総髪の若者が西国路を歩いている。腰には短い脇差を差し、手には薬箱を持っているから、おそらく医者であろう。供も連れず、急ぎ足で闊歩している。途上に寺があり、紅摺り提灯などが掲げられ、ぶっちゃけ商人が店を並べて賑わっている。
「ほう……団子か」
 腹が減ったのか、若者はそのなかの団子屋に目をとめ、門をくぐった。米の屑で拵えたような餅に焼き目をつけ、甘くもなさそうな醤油餡をかけたしろものだが、
「一本くれ」
「へえ、どうぞ……」
 煮しめたような色の手拭いで頬かむりをした親爺は、熱そうに団子を手渡した。若者は串団子を頬張ると、
「なんだ、このひと出は。秋祭りにはまだ早いだろう」
「へえ、お江戸の名高いお寺のご本尊の出開帳だす。霊験あらたかな観音さまだそうですわ」
「なんだ、開帳か。高い拝観料を取るのだろうな」
「そらまあ、ありがたーいお仏像らしいからしかたないわな。せっかくやからあんたも拝んだらどうじゃ」
「ふん、木でできたものになんの力があるか。くだらぬ迷信だ」
「あ、あんた……ここでそんなこと言うたらどつかれるで。ここだけの話じゃが、ほんまにご利益があるらしい」
「馬鹿馬鹿しい。十文か二十文の賽銭と引き換えにご利益をもらえるはずがなかろう」
 親爺はまわりをきょろきょろと見回し、声を低めると、
「そらそうじゃ。うどんも買えんような十文ぐらいのはした金ではご利益はない。けどな……ほんまに信心する気があって、それなりの金を積んだらな、夜中にその観音さんが……」
 そこまで言ったとき、
「おっさん、団子くれ」
 男の子が握り締めた銭を親爺に示した。それをきっかけに若者は団子屋に背を向けた。後ろから、
「あ、あんた、ほんまじゃで。わしは聞いたんじゃ」
「はははは、聞いただけか。俺は、おのれが見たことしか信じぬ。それに、高い金を払えばご利益をくれるような神仏はクソではないか」
「な、なんじゃ、この罰当たりが!」
 罵声を背中で受け流すと、若者は寺を去った。空にはそろそろ鰯雲が連なりだしていた。

         ◇

「えらいこっちゃ、喧嘩や喧嘩や!」
 どこかで怒鳴り声がする。鬼御前は布団のなかでうっすらと目を開けた。天王寺の口縄坂に一家を構えているため「口縄の鬼御前」の異名がある女侠客だ。昨夜は遅くまで近くの居酒屋で腰を据えて飲んだ。二升を空けたところまでは覚えているが、そのあとがあいまいである。生来の酒好きで、大酒ではだれにも負けたことがないため、「うわばみの鬼御前」の二つ名もちょうだいしているほどだが、
(さすがに昨日は飲み過ぎたな……)
 だれとどうやって家に帰ったかも覚えていないし、そもそも布団に入った記憶がない。布団を剥いでみると、普段の浴衣を着て、幅広の帯を締め、腰に長脇差を差したままだ。浴衣はほとんどはだけているし、脇差も半ば鞘から抜けかかっていた。おそらく顔の化粧もそのままだろう。
 布団のうえにあぐらをかく。やや太り肉で色白、腕も太股も太い。その太い腕を伸ばして、煙管で一服吸いつけた。頭が痛い。ふと見ると、足に血がついている。
(まさかだれぞと斬り合いでもしたんやろか……)
 血の出ている箇所を探ると、足の裏からだった。古釘を踏み抜いたらしい。履いていた高下駄も脱げて裸足だったようだ。
「あてとしたことが……」
 こんな無様なところを子方連中に見られたら、親方としての沽券にかかわる。鬼御前はあわてて足の血を拭った。
(ああ……なんや心持ちが悪いなあ。迎え酒といこか……)
 そんなことを考えていると、またしても叫び声が聞こえてきた。
「喧嘩や、喧嘩や! 八百屋と大工の大喧嘩やで! だれかとめたってくれ!」
 声は外から聞こえてくるのだ。飯より好きな喧嘩だ。いつもならだれがとめようと脇差を掴んで飛んでいくのに、今朝はそんな気分にならない。もう一服、鉈豆煙管で煙草を吸ったとき、
「姉さん、よろしか」
 豆太という子方の声だ。
「ええで」
 唐紙障子がするすると開き、狸に似た若い衆が顔を出した。鬼御前はいつもの威厳を見せようと落ち着いた声を出した。
「なんや。朝っぱらから騒がしいなあ」
「隣の長屋で、大工の久助の野郎が担ぎの八百屋と喧嘩してまんねん」
「喧嘩のわけはなんや」
「なんでも青菜の値が高いさかいもっと負けろ、それやったら買うていらん、なんやとこのガキ……ゆうて久助が八百屋の荷を皆ひっくり返した、ゆうことらしいですわ」
「しょうもない。ほっといたらええ」
「いやあ、そうもいきまへん。気がうわずってしもた八百屋がめちゃくちゃに朸振り回して、長屋の連中もえらい困っとりまんねん。うちのそばやさかい、近所のやつらも、鬼御前さんがなんとかしてくれるんちゃうか……みたいな顔しとりますし、姉さん、ちょっと仲裁したっとくなはれ」
「はあ? 素人の喧嘩に玄人が出ていけるかい。あんたがなんとかしとき」
「わてでは無理ですわ。兄貴たちも留守ですねん。すんまへんけど、姉さん、ご出馬お願いします。姉さんやったらぼろんちょんだっしゃろ」
「あたりまえや」
 しかたなく鬼御前は、はだけた浴衣を整え、帯を締め直すと、「鬼」という文字と蛇の絵が染め抜かれた暖簾を頭で分け、表へ出た。高下駄で地面を踏ん張ったとき、なぜか視界がぐらりと揺れた。釘を踏み抜いたところに痛みが走り、それをかばおうとすると頭が激しく痛んだ。それでも、豆太の手前、胸を張って歩き出した。本当はすぐにでも横になりたいぐらい気分が悪かったのだ。
「こらあ、出て来い! 朝商いおじゃんにしてしまいよって、こらあ、この棒で頭叩き割ったる!」
 八百屋らしき若者が朸を振りかざし、長屋の奥に向かって怒鳴りまくっている。大工の久助は、あまりの権幕に恐れをなして、どこかに逃げ込んでしまったのだろう。あたりには一面に青菜が散乱しているが、もう商品価値はなさそうだ。怒るのも無理はないが、いつまでも一家の近くで吠えられるとしめしがつかない。鬼御前は一発かますことにした。
「おい、こら、おのれ、朝っぱらからなにをほたえとんねん。近所迷惑やねん。大のおとなが荷ぃひっくり返されたぐらいでわあわあ抜かすな」
 八百屋は、般若の顔を一面にちらした柄の浴衣を着、顔に歌舞伎のような隈取りをして、腰に派手な拵えの脇差をぶちこんだ女が突然現れて啖呵を切ったので、ぎょっとしたようだが、
「な、な、なに言うとんねん。荷ぃひっくり返されたぐらいやと? わてはこれが商売や。損を取り戻すまでは帰れんのじゃ」
「犬みたいにぎゃあぎゃあ言うな。ほな、あてが償うたるわ。全部でなんぼや」
「なんやと。女のくせにえらそうなこと抜かすな。ひっこんどれ」
「ほほう、この長屋に商いに来てるくせに、あてがだれか知らんようやな」
「知らんわい。ずいぶんと肥えた姉ちゃんやさかい、女相撲の力士か」
「な、なんやて!」
 カッとした。近頃、肥えていると言われるのがいちばんこたえるのだ。飯も三杯から二杯に減らしているし、おかずもなるべく少なく摂るようにしている。それでも痩せないのは、酒のせいかと……。
「あては、口縄坂で一家を構える鬼御前ゆうもんや」
「えっ………あ、あんたが鬼御前さ……」
 八百屋の顔に狼狽の色が走った。
「あんたなあ……言うたらあかんことを言うてしもたな。堅気の衆でも許すわけにはいかん。さあ、八百屋、あんたの素っ首、もらいうけたで」
「なななな名高いお方とは知らずご無礼申しました。堪忍しとくなはれ」
 八百屋は棒を放り出して土下座した。
「やかましいわい! だれが女相撲やねん。このか細い柳腰が見えんのか!」
 二、三歩進み、脅すつもりで脇差に手をかけたとき、
(あれ……?)
 視界が半回転した。踏み込む足が体重を支えきれず、ぐらり、と地面に向かって身体が揺らいだ。あたりが黄色くなり、鬼御前は前のめりにゆっくりと倒れていった。
「姉さん! 姉さん! しっかりしとくなはれ!」
 豆太の声が耳の近くで聞こえていたが、それもすぐに遠のいていった。

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