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ばけもの好む中将 七
花鎮めの舞
瀬川貴次

   花ぞ咲きける

 風はまだ冷たいが、梅もほぼ咲き終わり、桜が咲くのももうすぐ──となってきた頃。
 右兵衛佐宗孝は、時の権力者たる右大臣の邸を訪れた。といっても、目的は右大臣そのひとではなく、大臣の子息、左近衛中将宣能に逢うためだった。
 もはや、すっかり顔なじみとなった家人に案内されて、宗孝は邸の奥へと進んでいく。
 宣能と知り合ったのが去年の春頃。その間、この邸にはもう何度も来ている。それでも、いまだに緊張する。
 用があるのは宣能でも、ばったり右大臣そのひとや、大臣の妹の弘徽殿の女御などと出くわさないとも限らないのだ。どちらも、政局に多大な影響力を持つ重要人物であり、若輩者の宗孝にとっては雲の上の存在に等しい。しかも、個人的に彼らは苦手な部類でもある……。
 宗孝が身構えつつ庭に面した簀子縁を渡っていくと、前方から馴染みのある声が聞こえてきた。
「はい、そこでくるりと廻ってくださいませ。そう、そして視線をこちらへ──」
 庭先に背の高い女房が立ち、十歳くらいの少女に舞いの手ほどきをしているところだった。
 少女は今様色(薄紅色)の衵をまとっていた。その小さな手で檜扇を掲げ、女房の指示どおりにくるりと廻ってみせるさまは、まさに稚児桜の精かと見紛うばかりだ。女房の落ち着いた緑系の装束と相まって、いかにも春らしい彩りを演出している。
 宗孝が足を止めて彼女たちを眺めていると、視線に気づいてか、少女が急にこちらを振り返った。
「宗孝さま!」
 驚きと嬉しさとが、声にも表情にもあふれている。
 檜扇を取り落として、少女は宗孝の立つ簀子縁に駆け寄ってきた。宗孝も笑顔になって彼女を迎える。
「これはこれは、初草の君。もうすっかり、お身体の具合もよくなったようですね」
 少女は初草の君と呼ばれていた。宣能の年の離れた妹で、将来、東宮妃になることが約束された深窓の姫君だ。
 この時代、身分の高い女性は通常、親族以外の異性と顔を合わす機会もない。常に屋内に引き籠もり、幾重もの御簾や几帳に守られ過ごしている。
 けれども、初草は宗孝に対して臆せず満面の笑みを向けていた。宣能と知己になると同時に、妹の初草とも親しくさせてもらったおかげだった。
 その初草が、昨年末あたりから熱を出して臥せることが多くなった。季節柄の厳しい寒さに加え、彼女自身の気持ちが弱ってしまったのが原因だった。
 宗孝も心配していたのだが、いま目の前にいる初草はすっかり元気を取り戻しているように見えた。舞っていた直後だけに息ははずみ、うっすらと汗ばんだ頬は健康的な赤みを帯びている。
「九重の……、九の姉君のおかげですわ。臥せってばかりいるよりも、むしろ身体を動かしたほうがいいと教えてくれて」
 初草はそう言って、女房を振り返った。
 初草に持ちあげられ、ちょっと自慢そうにしている彼女は、宗孝の十二人いる異母姉のひとり、九の姉だった。九重の名で、いまは右大臣邸の女房に収まっている。
「宗孝さまの姉君だと知ったときは、わたしも本当に驚きましたわ」
「わたしも九の姉上が、まさか初草の君付きの女房になるとは、夢にも思いませんでしたよ」
 宗孝の口調は、どうしても少々苦々しいものになった。それが聞こえているだろうに、九の姉自身は知らん顔をしている。さっきは初草の発言に反応していたのに、彼女の耳は自分に都合よくできているようだ。
「結果としてはよかったのですね。初草の君がここまでお元気になられるとは」
「はい。最初は全然舞えなかったのですが、そのうちに少しずつ手足が動くようになって。できるようになると、ますます舞うのが面白くなって」
 初草は手を合わせ、屈託なく舞いの楽しさを口にする。宗孝は自然と、かつての自分自身を思い出した。
「その昔、わたしも九の姉上から舞いを習いました」
 おかげで、歌も詠めない、楽も下手っぴい、絵も描けない彼が、舞いだけはそつなくこなせている。
 それを聞いて、初草はますます嬉しそうに目を輝かせた。
「では、宗孝さまはわたしの兄弟子になりますわね」
「そんな、滅相もない」
 右兵衛佐──宮中警固を担う兵衛府の二等官という地位は、低くはないがそう高くもない。同じ武官でも近衛のほうがずっと格上だ。大臣を父に、近衛中将を兄に持つ初草を妹弟子呼ばわりなど、畏れ多くてとてもできない。
「わたしとしたことがお稽古の邪魔をしてしまいましたね。では、中将さまのもとへ行かねばなりませんので」
 狼狽した宗孝が逃げの口実を告げると、初草は途端に寂しそうな顔になった。が、宗孝自身は視線を九の姉のほうへ移していたので、初草の変化に気づいてもいない。
「九の姉上、よろしかったらまたあとで」
 弟の呼びかけに対し、九の姉は曖昧に頭を揺らしただけだった。


 案内の家人とともに、そそくさと退散していく宗孝の背中を、初草はずっと目で追っていた。
「もっと舞いについて話したかったのに……」
 そうはつぶやいたが、正確には違う。舞いの話題にこだわってはいない。なんでもいいから、宗孝の話し声をずっと聞いていたかったのだ。
 宗孝はいつも控えめな物腰で、優しく話しかけてくれる。かといって優しいばかりではなく、いざとなれば身を挺してでも守ってくれる力強さを秘めてもいる。
 パッと見の印象とは裏腹に、実に頼りになる人物なのだと、初草もよく知っていた。そもそも最初の出逢いからして、牛車から転がり落ちかけた初草を受け止めようと宗孝が駆け出してきたのがきっかけだったのだ。
 それからというもの、宣能に頼まれ、初草の話し相手を務めてくれることもしばしばで。こっそり夜中に、ふたりで牛車に乗って出かけたこともあった。
 なのに、いまだに宗孝は遠慮がちに接してくる。奥ゆかしさは彼の美点でもあると知ってはいるのだが……。
 小さくため息をついて、初草は九の姉を振り返った。ちょうど、九の姉が身を屈めて、初草が抛り出した檜扇を拾いあげたところだった。
「あっ、ごめんなさい」
 宗孝に逢えた喜びでいっぱいになり、自分が檜扇を落としたことさえ気づいていなかった。恥ずかしさに身をすくめる初草に、九の姉はにっこりと微笑みかけた。
「どうしましょう? 今日はもう、やめておきますか?」
 初草はすぐさま、首を横に振った。
「いいえ、もう少し。もう少しだけ続けていいかしら」
「やりすぎは、かえってお身体に障る気もいたしますが……。では、先ほどの動きをひと通り、いっしょにやって終わりましょうか」
「ええ。お願い」
 九の姉が差し出した檜扇を受け取って、初草は彼女の隣に立った。かざす手、足運び、息遣いから何から、九の姉を真似て、静かに静かに初草は舞う。
 ゆったりとした動きは、存外に身体の芯を使う。だが、じんわりとにじむ汗は不快ではなく、むしろ心地よいものだった。ひと通り舞って、初草はふうと息をついた。
「宮中でも──このように宗孝さまと舞ったのでしょう?」
「ええ、そうでしたわね。男舞と合わせてでしたので、自然とこれよりもっと動きは大きくなりましたが」
「見てみたかったわ……」
 初草は想像をめぐらせつつ、春に霞む大空を仰いだ。つぶらな瞳に映りこんだのはただの白雲だけだったが、思い描いたのは若く凛々しい男舞の名手だ。彼とともに自分が舞うところを空想して、夢見る表情が幼い顔に浮かぶ。
 あらあらと、九の姉は初草に聞こえないようにつぶやいていた。


「右兵衛佐さまがおいでになりました」
 家人の呼びかけに、御簾で仕切られた部屋の中から「どうぞ、入りたまえ」と応えの声があがった。
 では、と入室した宗孝に、文机に向かっていた宣能が振り返る。
 自邸でのこと、宣能がまとっていたのは動きやすさを重視した狩衣だった。文机の上には絵巻物が広げられ、奥では空薫物が薫かれているらしく、ゆかしい香りがほのかに漂っている。
 その環境から何から、まさに絵に描いたような貴公子だなと宗孝は感心する。
「よく来たね。そこにすわりたまえ」
 勧められるまま、宗孝は宣能の近くの円座に腰を下ろした。
「今日はまた、何か」
「うん。年が明けてからずっと忙しかったが、それもどうにか落ち着いてきたので、またそろそろ出かけようかと思って」
「出かける……」
 若い貴族が仲間内で出かけるとなれば、美女との出逢いを求めてと相場は決まっている。しかし、このひとに限ってそれはないなと、宗孝は心の中で独り言ちた。
 宣能は大貴族の子息、近衛中将という華やかな要職に就き、しかも眉目秀麗。すべてにおいて完璧な貴公子だ。でいながら、彼には残念な点がひとつだけあった。
 とにかく化け物が好きなのである。
 この時代、ひとびとは闇にひそむ物の怪の影に常におびえ、何事かあればすぐにも厄落としの加持祈祷を行い、陰陽師に頻繁に吉方を占わせるなどして、怪異からひたすら遠去かろうとした。なのに、宣能はその逆を行く。物の怪が出たと噂に聞けば、喜び勇んで現場を訪れ、怪異出現を熱望するのだ。そんな彼を、ひとはいつしか〈ばけもの好む中将〉と呼ぶようになった。
 しかし、幸か不幸か、宣能はいまだ本物の怪と遭遇できていない。
 話を聞いて行ってみると、大概は何かの見間違い、ひどい場合には生きた人間の仕業だったりもする。それでも、彼はめげず怪を追い続けている。
 宗孝は宣能とは逆に、いたってまともな神経の持ち主だった。むしろ怖がりなほうで、物の怪との遭遇など絶対にお断りだと思っている。
 なのに〈ばけもの好む中将〉に気に入られてしまったものだから、いつも無理やり彼の不思議めぐりに付き合わされているのだった。
「──つまり、また怪異を探しての夜歩きを、ということでしょうか?」
 わかってはいたが、念のため訊いてみる。宣能はうんうんとうなずき、
「そうだね。でも、夜とは限らないよ」
 そう言って、絵巻を文机の上から宗孝の前へと移動させた。
「先日、この絵巻を手に入れたんだ」
「はあ」
「まずは読んでみてくれたまえ」
「はいはい」
 宗孝は絵巻の上におもむろに身を乗り出した。
(大江山絵詞かな? 頼光のように鬼退治に行こう、とか言い出されたらどうしよう)
 そんな心配をひそかにしていたのだが、幸いにして絵巻の内容はそこまで過激なものではなかった。
 たなびく金色の雲の合間に、緑の木々が生い茂る山の風景が描かれ、ふもとの邸内には袿を着た美しい娘の姿が配置されている。そこへ狩衣姿の青年が訪れる。どうやら恋物語の始まりのようだ。
 詞書によると、娘のもとに立派な身なりの若者が通い始めたところから、話は始まっていた。ふたりは相思相愛であったが、ある夜、男がもう今夜を限りにここへは来られないと言い出す。どうしてでしょうと泣いて問う娘に男は、
「実はわたしは人間ではなく、あの山に生うる桜の木の精なのです。明日には、寺の建材として伐り出されることになってしまいました」
 と告げて、姿を消してしまう。
 娘が山に分け入ってみると、桜の木はすでに杣人たちによって伐り倒されたあとだった。が、不思議なことに、いくら大勢で押しても引いても、木はその場から動かない。そこで娘が涙ながらに桜の幹をさすると、木はようやく動き出したのだった──
 絵巻の最後は、桜の木材を使って建立されたとおぼしき寺院の絵で飾られていた。
「……なるほど。悲恋ではありますが、寺の建材として用いられたのなら、桜の木の霊も浮かばれましょう」
「べつに、祟ってくれてもいいのだが」
 不穏な発言に、宗孝は聞こえなかったふりをした。
「で、この由来の寺に詣でたいと、そういうことですね?」
「いいや、真の目的地は寺ではない」
 宣能はにやりと笑い、手にした扇で絵巻物を指し示した。
「この桜の木がもともと生えていた場所、そこに案内してくれるという者がいてね。心がないはずの樹木が、わざわざ人間の男に身を変え、通ってきた。それだけでも怪異譚として成立するのに、大勢で押しても動かなかった木が、娘の涙ひとつでするすると動いたという摩訶不思議。これはぜひとも現地に赴いて、杣人たちの驚き、娘の嘆き、桜の木の無念を体感しなくてはなるまい!」
「……左様で……」
 そう来ましたか、との感慨をこめて、宗孝は脱力気味の声を洩らした。宣能は構わず、桜の木の話を熱く推し続ける。
「洛南の山里だ。割りに近い。桜が咲くにはまだ少し早いかもしれないが、どうせ本命はもう伐られていて、その場にないのだから、花にこだわるつもりもないし」
「ああ、そうですか……、そうですよねえ……」
 怪異第一義で、ほかはまるで気にしていない宣能の弁に、宗孝は遠い目になった。桜の木の精と人間の娘との恋物語に想いをめぐらせていた自分が、なんだか馬鹿らしくなってくる。

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