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陽 炎
中谷航太郎

   第 一 章

      一

 浅草寺に参詣がてら、江戸きっての盛り場──奥山へ向かう人々で、きょうも仲見世通りはごった返していた。
 人混みを掻き分けるようにして歩いていた流山数馬に、
「旦那さま」
 不安そうな声で呼びかけてきたのは、後ろを歩いていた妻の若狭だった。
 数馬は歩みを緩めて、若狭が隣に並ぶのを待った。
 若狭が怖がっているのが、芋を洗うような雑踏ではないと察していた数馬は、前を向いたまま訊ねた。
「さっきの連中ですか?」
 少し前に、二人連れの男たちとすれ違っていた。ひとりは三十過ぎの痩せた男で、頬に刃物で斬られた古傷があり、長楊枝を咥えていた。
 もうひとりは十七、八の若造で、相撲取りに勝るとも劣らぬ巨体の持ち主だった。赤子をそのまま大きくしたような童顔に箔をつけるためだろう。眉毛を剃り落としていた。
 やくざの兄弟分にしか見えない二人は、若狭に目を留めると、わざわざ進路を変えて近寄ってきた。俯き加減で歩いていた若狭の顔を、腰を屈めて覗き込みすらした。
 そのときから、悪い予感がしていた。
「ちゃんと見てはいませんけど、あとをつけられているようでした」
 浅草寺の裏手にある、妙僧寺という寺に向かっているところだった。これまでに何度か訪れているので、寺の周辺は日中でも人通りが少ない場所だと知っていた。
 昼までまだ半刻(約一時間)はあったが、
「墓参りをする前に、なにか食べていきましょうか?」
「はい」
 夫婦になって三年目になる。阿吽の呼吸で応じた若狭は、数馬の意図を読み取っていた。
 数馬は、近くで一膳飯屋を見かけたことを思い出した。記憶が正しければ、次の角を左に折れてすぐだった。
 若狭の腕を引いて路地に入った。一膳飯屋はなかったが、蕎麦屋があった。暖簾が下がっており、四月上旬の陽気に入口も開け放たれている。
「あの店で待ってて下さい」
 若狭を先に行かせて、路地の角から通りを覗いた。男たちは、きょろきょろしながら歩いていた。
 急いで暖簾を潜った。開店して間もないのか、間口一間半(約二百七十三センチメートル)、奥行き二間の店内は、がらんとしている。厨房には捻り鉢巻をした親父がいたが、一人で切り盛りしているのか、ほかには店の者はいなかった。
 若狭は薄暗い店の奥の席に座っていた。向かいに腰を下ろした。二人で外の様子を窺っていると、男たちが店の前を通り過ぎていくのが、暖簾越しに見えた。
「ああ、よかった」
 若狭が胸に手を当て、安堵の息をついた。
「面倒なことにならなくて済みましたね」
 数馬は穏やかな声で応じたが、内心は憂鬱だった。
 若狭と外出すると、男が視線を向けてくることがたびたびあった。若狭の容姿がそうさせるのだが、なかには口を半開きにして見蕩れる者もいる。
 そうしたくなる気持ちがわからないでもない。見て見ぬふりをしてきたが、面倒が起きたことはなかった。危険を感じたのは、今回が初めてだった。
 数馬はいまでこそ御家人だが、若狭と夫婦になるまでは、近江国坂田郡国友村の鉄炮鍛冶として生きていた。名も佐助といった。
 砲術は身につけていたが、御家人になってからも剣術を学んだことはなく、刀を差した案山子も同然だった。
 今回は幸いにも事なきを得たが、また同じようなことが起きたら、どうすればいいのか。
 腕っぷしが弱く、喧嘩もできない自分に、はたして妻を護れるのか。
 考えれば考えるほど、気分が落ち込んできた。
「どうかなさいました?」
「いえ、べつに」
 数馬は手を振った。
「そういわれると、ますます気になります」
「そんなことより、早く注文したほうがよさそうですよ」
 店の親父が、手持ち無沙汰にしていた。
「旦那さまは、なにを召し上がります?」
「月見にしようかと」
「わたしもそれにします」
 数馬は厨房に顔を向けて、月見蕎麦を二つ注文した。視線を戻すと、若狭が頬杖をついていた。ものいいたげな顔で、じっと見つめている。
「なんの話でしたっけ?」
 数馬が惚けると、上目使いで睨みつけられた。
「降参です」
 観念した数馬は正直に打ち明けた。すると若狭が、納得したようにいった。
「やはり、そのことだったんですね」
「がっかりしたでしょうね」
「そんなこと、わたしはちっとも気にしてません」
 若狭が大きくかぶりを振った。
「本当ですか?」
「君子、危うきに近寄らず、というではありませんか。ああいう人たちは避ければいいのです」
「どうしても避けられないときが、あるかもしれませんよ」
「そんなときは、鉄炮で脅せばいいじゃないですか」
「持ってもいない鉄炮で、どうやって脅すんですか?」
「さあ、どうしたらいいでしょうね」
 小首を傾げた若狭は、口を一文字に結んでいた。それは若狭が笑いを堪えるときの仕草だった。
「もしかして、冗談ですか?」
「町中で鉄炮を持ち歩けないことくらい、わたしだって知ってますよ」
「なんだか、どうでもよくなってきました」
 気持ちが軽くなった。数馬は両手を上げて伸びをした。するとなぜか、若狭が真剣な眼差しになった。
「それはそれとして、心配なことがあります」
「なんですか?」
「一緒に歩いていると、たいていの女の人が旦那さまに振り向きます。さっきも、とても綺麗な方が、流し目を送ってました」
「それも冗談ですよね?」
「いいえ、真面目な話です」
「ぜんぜん気づいていませんでした。でも、余計な心配はしなくていいです」
「どうしてですか?」
「そんなことはいわなくても、わかってるでしょう」
「さっぱりわかりません。どうしてですか?」
 若狭が問いを繰り返した。
「お願いですから、勘弁して下さい」
 ほとほと困り果てたとき、天の助けが現れた。
「へい、お待ち」
 店の親父が、湯気の立つ丼を二人の前に置いた。
「わあ、おいしそう」
 若狭が無邪気に歓声を上げた。
「いただきます」
 数馬は手を合わせてから箸を取った。丼を持ち上げ、まず出汁を啜る。
「うまい!」
 思わず口に出たほど美味だった。
「麺もおいしいですよ」
 若狭がいうと、厨房に引き揚げようとしていた親父が、にやりと笑った。

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