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手がかりは一皿の中に
八木圭一

   プロローグ

「ちょっと、聞いてるの? 人が真面目に相談しているのに、まったく……」
 姉の冷たい声が聞こえてきて、そこでハッと我に返った。すっかり心は先ほど食べた絶品の熟成鮨に向いていたのだ。口元に手をやったが、涎は垂れていなかったので顎を撫でて何事もなかったかのようにやり過ごす。
「あなたは、あっちの世界に行くとなかなか帰ってこないからね。まるで、本当に戻ってこなかった平吉じいちゃんみたい……」
 目の前には黒ビール“ギネス”を片手に姉の鶴乃が鎮座している。一つ歳上だが、精神年齢は十歳以上離れているのではないかと思われる。黒い細身のスーツを身に纏っているが、ジャケットの襟には検事のバッジがその輝きを放っている。
「中田屋がサイバーテロ攻撃を受けたのよ。おばあちゃんが先祖代々受け継いだ暖簾を守り続けている大切なお店なんだから、もっと、当事者意識を持ってよ」
 たった一度、サィトが改ざんされただけだ。心配していないわけではないが、この時代、それほど目くじらを立てるような出来事だろうか。
「サイバーテロって、そんな大げさな。別に実害もなかったんだろ……。サイトを運用していた会社がポンコツだったってことだよ」
「でも、外国からの不正アクセスだったというのも、ちょっと気味が悪いでしょ」
 鶴乃がスマートフォンで、スクリーンショットの画像を再び見せてきた。すでに、ページは元どおりになっているが、当時の様子を保存したものだ。
 改ざんされたホームページの真ん中に、赤い文字が英語で浮かんでいる。
 それは、イギリスの自然科学者であるチャールズ・ダーウィンが人類に遺した名言と呼ばれる一文だった。彼の科学的発見は、現代生物学における基盤となっているだけでなく、社会学的に見ても多くの示唆に富んでいる。
 亀助は大学時代、文学部で文化人類学を中心とした社会学を専攻しただけに、気になるメッセージではある。だから、日本の伝統的な料亭の公式サイトを改ざんしてこんなことを書く人間の心理は、推理できないこともないのではないか。中田屋は、英語表記もしているので、外国人ハッカーのちょっとした悪戯かもしれない。
「あなた、おばあちゃんのコネで大手出版社に入れてもらったのに勝手に辞めて、大学のお遊びサークルの延長みたいなことして……。食べ歩いては、マリアージュがどうだかこうだかって、どうせ暇なんでしょ? ネットのプロなら、こういう時くらい、中田屋に貢献したらどうなのよ」
 相変わらず上から目線の物言いだ。書き込みをよくチェックされているのが辛い。
「いや、暇ってそんな……。グルメサイトを作る仕事なんだよ。社長はリスペクトできるし、業界でも注目されている。それにこの時代、僕のレシピが正しければ──」
 つい、口癖が出て、言った瞬間にしまった、と口を押さえそうになった。だが、もう遅い。
 鶴乃がグラスをテーブルに叩きつけた。
「いい歳して、結婚の酸いも甘いも知らないで、偉そうに、何がマリアージュよ。何が、僕のレシピなのよ。あなたのレシピが正しいわけないでしょ。親の気も知らないで!」
 よく研いだ三枚おろし用の出刃包丁でグサリと胸を抉られるような一言だった。反論したいが、鶴乃と言い合っても子供の頃から勝ったためしは一度もない。
「銀座の一等地を守ってきた中田家には、過去にいろいろあったから。ほら、もしかしたら、平吉じいちゃんの死や安吉おじさんの消息に辿り着けるかもしれないでしょ」
 沈黙が訪れた。亀助の幼少期、中田屋の経営危機をもたらした平吉の突然の死は何者かによる他殺説のほか、自殺説もある。一方、平吉の死からほどなく、経費の横領で中田屋を追われた大叔父、安吉の行方は誰も知らない。このふたつは、父方の北大路家をはじめ、親戚の中ではタブー視されている。
 真実を掘り起こしたいというのはいかにも鶴乃らしい。
「あんた、平吉じいちゃんの口癖、忘れたの?」
「そんな大切なこと、忘れるかよ!」と、亀助は言い返した。
 最高の美食を楽しみたかったら、最高の人助けをしてからだ──。
 心の拠り所を忘れるわけがない。そのために生きていると言っても過言ではないのだ。
 ふと亀助のジヤケットの胸の奥でiPhoneが震えた。取り出すと、見たことのない番号からの着信だ。こんな時間に、いったい誰だろうか。
「どうしたの、出ないの?」
 鶴乃が怪訝そうな顔で聞いてきた。
「東京03からだけど、知らない番号だし、迷惑電話かな」
「もしかして、彼女じゃないよね?」
 鶴乃が嬉しそうに身を乗り出してきた。
「いや、そんなわけないだろ。いないし」
「まあ、今の時代、03から携帯に電話するのは色気のある相手ではないか」
 鶴乃が冷やかしてくる。やがて着信は切れてしまったが、間をおかずに再び震え出す。
「出なさい」という言葉に促され、亀助は仕方なく通話ボタンを押し耳に当てた。


   第一話 「熟成された殺意!? 弁護士不審死事件」

     1

 銀座八丁目。資生堂ビル三階の“資生堂パーラー・サロン・ド・カフェ”は、いつ訪れても、古き良き銀座の空気を留めているようだ。客が帰ると必ず、真っさらなテーブルクロスをスタッフが丁寧かつ素早いしぐさで取り替える。そんな洗練された上質空間に老若男女の笑顔が溢れている。今日も、パフェやケーキ、フルーツサンド、あるいは、店発祥のクリームソーダ、別名 “ソーダファウンテン”を楽しむ客たちで席は全て埋まっていた。
 落ち着いた薄いピンクを基調としたカフェの店内を見渡してみる。この数年でアジア系観光客が増えたが、隣の親子連れは見るからに東京在住のセレブだ。ベージュの上品なワンピースを纏った母親がプリン・アラモードを、黒いスカートに白のニットを合わせた学生らしき娘がチョコレートパフェを前に、雑談に興じている。時折、二人の視線が亀助に向いているように感じていた。
 心地よいこの雰囲気の中で季節のパフェを楽しむのが亀助のルーティンで、一人でもよく足を運んでいる。
 いつからか、食欲には勝てず、一人でどんな店にでも入れるようになった。どんなにコストパフォーマンスのいい店で食べても、デートでご馳走すれば二倍かかる。だったら、男と行くか、一人でいいじゃないか。別に笑われてもいい。食こそが人生の愉しみなのだ。
 美食と美酒さえあれば、一人で生きていける──。

 父親や姉が公務員を選ぶなか、大学卒業後、亀助が就職したのは老舗の大手出版社だった。大学院への進学も検討したこともあり、家族には「研究者を目指すんじゃないのか」と反対されたが、ミステリー小説が好きだったこともあり、編集者として本を作る夢を捨てきれなかった。最終的に祖母が人脈を使って根回しをしてくれた。
 入社後は希望通り、文芸編集部に配属されたまではよかったのだが、大物作家の怒りを買って総務部に異動になった。随分と暇になり、食べ歩いては、学生時代と同様に、グルメサイトヘの書き込みにのめり込むようになった。
 それというのも、大学時代に所属していたサークルの創設者・島田雄輝がグルメサイト“ワンプ”を立ち上げたからだ。創設メンバーに漫画『ワンピース』のファンが多かったこともあり、伝説の秘宝グルメを求めて冒険するというコンセプトだった。正式名称は“ワンプレート”で、通称が“ワンプ”。投稿数や評価に応じてレベルアップしていく“1UP”の意味もあり、店全体というよりは一皿に特化して食レポートを書く。グルメの種類は特に問わないが、当時は大学生ということもあり、B級グルメが中心だった。そのコンセプトや遊び心、センスに亀助は惹かれ、大学時代から食べては書き込み続けたのだ。
 その後、ワンプは島田の方針で、サークルのメンバーだけではなく、全ての人が参加できるサイトとして公開され、徐々にユーザー数が拡大していった。サークル外のヘビーユーザーも多数現れたが、数年前からのアドバンテージもあり、亀助が誰よりも高いレベルに到達している。
 ミステリー好きの亀助は、探偵風にレシピの謎解きをしてみせる工夫をオリジナリティにしている。実際には後でシェフに裏を取ってから書くのだがそこはご愛嬌だ。サイトでは話題性も必要なため、「僕のレシピが正しければ」からの「また罪深いシェフの魔法を暴いてしまった」という決め台詞があり、そのことを誰かにいじられると赤面してしまう……。
 サイトの仕掛け人である島田は、起業家を目指してコンサル会社に入ったのだが、大手IT企業からの出資を受けて、ついに一年前、株式会社ワンプとして事業化した。そんな中、亀助の境遇を聞きつけた島田本人から「一緒に働かないか。食欲と才能を持て余したまま、くすぶっている君にぴったりだべ」と誘われたのだ。
 老舗出版社を辞めることに対する未練はあったが、島田の熱烈な誘いを受けて、亀助は設立間もないベンチャー企業にジョインすることになったのだ。
 転職から一年ほど経ち、現在は編集・広告部門の統括責任者として、各担当者をマネジメントしながら亀助自身も広告案件のライティングを行っている。アップした記事にどれだけの人が訪れて滞在したか、評価したかは即座に可視化される。
 サイトのユーザー数を増やして飲食店などから広告収入を得るのが基本的なビジネスモデルだ。サイトの情報価値を高めることがユーザー数増加に直結するため、ライターは実名で食レポを行う。下手なことを書けば評価に跳ね返る。ユーザー数は着実に増えているが、競合は“ぐるなび”や“ホットペッパー”“食ベログ”など大手各社だけではない。最近は“Retty”にも勢いがある。
 スマホの普及が進む中、グルメサイト、アプリが次々にできては消えていき、まさに戦国時代を迎えている。それでも、新規参入が相次ぐのは、食が全ての人にとって欠かせないものだからだろう。

 資生堂ビルを出た後、亀助は八丁堀の人気ビストロ“ガール・ド・リヨン”へと向かった。店に到着し、約束の相手の河口仁が来ていないか店内を見渡したが、まだのようだ。店内は赤を基調とした洒落た内装でいつも満席だ。男同士で入るのは野暮と思わせる雰囲気だが、美味しい料理とそれに合うワインをグラスいっぱいに注いでくれる。
 着席しているとほどなく、「やあ」と河口が現れた。いつも必ずスリーピースのスーツだ。亀助が大学一年時の三年生で、グルメサークルの会長だった。弁護士になった現在は、東銀座にオフィスを構える《銀座やなぎ法律事務所》で働いている。事務所は特に離婚調停など、夫婦間トラブルの和解に向けた法律サポートなどを多く手がける。夫婦間の不仲は永遠のテーマなのか、業績は好調らしい。残念ながら、結婚の気配すらない亀助がお世話になることはなさそうだ。亀助には結婚が墓場としか思えない。一方の河口は結婚して、すでに二児の父親だ。外食やお酒、特にワインが好きでワインエキスパートの資格も取ったほどだ。
 すぐに乾杯用のシャンパン、“クリストフ・ルフェーヴル”が到着した。
「とりあえず、店のオススメのメニューにしようか」
 白レバーのパテ、エスカルゴのムニエル、牛頬肉のワイン煮……。河口が次々にオーダーする。食の好みも合うのがいい。亀助はあっという間にシャンパンを飲み干すと、「もう一杯」と店員に向かって、グラスを掲げた。そうして、河口に向き直った。
「先輩、例の会はどうでした? 早く様子を聞かせてくださいよ」
 亀助が、呼吸を整えてから正面を向くと、河口がグラスを置いた。
「ああ、それなら、今日、ゆっくりと聞かせてやるよ」
「いつ“G5”に呼んでくれるんですか? 僕が糸口を見つけたんですからね」
 河口が仰け反って髪をかき上げると、ゆっくりとグラスを掴んだ。
 亀助はライター仲間から聞いて、その活動を知った“G5”というグルメサークルを追いかけていた。なんでも銀座周辺で働く個性豊かな食通メンバーで構成されているという。店選びのセンスが光る彼らに、ワンプでの執筆を依頼したいと考えていた。予約が取りづらい店との接点を持っているのは魅力的だ。
 そして、そのメンバーにかねてから年配の弁護士がいるのはわかっていたが、亀助はSNSを辿って河口の事務所のボスだと突き止めた。すぐに紹介を希望したが、先方は警戒したのか、まずは河口だけその会に招待されることになった。
「まあ、そう焦るなよ。こういうのはタイミングが重要でさ……。様子を見ながら、近いうちに必ず君を誘うから」
「頼みますよ……。それで、次はどこに?」
「あ、君だったら、例の熟成鮨の店はもう行ったか? 銀座の外れに一カ月前にオープンした、会員制の話題店」
 すぐに亀助の脳裏にある店の名前がすっと浮かび上がった。「武蔵、ですか」と聞くと、「そう、それ!」と即答された。店名は《鮨 武蔵》だ。一日、昼と夜で各二回転するらしい。それでもたった六席なので、一日二十四席の狭き枠だ。
 店主の井上武蔵は三十代前半だが、鮨や日本酒に懸ける思いは並々ならぬものがあるという。喋りが達者で、さながらエンターテイナーのように振る舞い、夜の部では“鮨喜劇”が披露されるという。ただ、どんな余興かは、ネタバレ厳禁で謎に包まれている。大学院を出て、システムエンジニアをしていたという井上は、釣り好きが昂じてエンジニア時代から鮨職人を養成する学校に半年通い、どこかの鮨屋で修業することもなく、いきなり新橋に自分の店を構えた。二坪の立ち食い鮨の店では、日月火は自分で漁に出て、週に四日だけ夜の営業を行ったそうだ。昼間は海鮮丼を提供する店を別のオーナーが営業し、その食材を井上が卸して収益をあげ、開業資金を稼いでいたという。
 銀座に新しい店を出すにあたり、今度は、自ら漁に出るのはやめて週六日の営業を行い、一本買いするマグロを看板食材にして、勝負をかけるという。
「新橋で二坪の立ち食い鮨を流行らせてから“クラウドファンディング”で二千万円以上集めて、たった三年で銀座に会員制の店を出したという、あの人ですよね」
 ワイングラスを回した後、香りを楽しみながら、河口がゆっくりと頷いた。
「賛否両論あるけど、すごいよな。うまく時流に乗ったよ」
 クラウドファンディングとは、起業家や自治体、クリエイターなど、何らかの目的を持った人間がネット上で出資者を募り、資金を集める手法だ。「ちょっと、すみません」と、亀助はiPhoneで調べた。

 《終了案件・飲食部門の支援総額 第一位》
 ・目標達成
  支援総額23,350,000円(目標5,000,000円)

 ・発起人
  井上武蔵(Sushi Musashi inc. CEO)

 ・コンセプト
日本が誇る、江戸前の鮨文化を新たな座標軸で再興する──。現在は設備のスペックや資金力の点で限界がありますが、最新の冷蔵システムで、マグロの一本買い付けや最高の熟成鮨を可能にします。江戸時代、ファストフードとして誕生した江戸前鮨。冷凍技術も漁法・輸送技術も未発達の時代、鮨職人はその腕一本で本物の鮨を提供したのです。井上は失われつつある食文化と、現代の技術力を融合させ、最高のおもてなしを提供する会員制の鮨店を銀座に出店します。今回の出資金で鮮度、熟成、解凍を完璧に管理できる冷蔵庫を購入予定です。

 ・リターン
50,000円《ワカシ会員権(ランチタイムに予約可能)》
100,000円《イナダ会員権(ディナータイムに予約可能)》
300,000円《ワラサ会員権(ランチ、ディナータイムに予約可能)》
500,000円《ブリ会員権(ランチ、ディナータイムにファストパス予約可能。さらに、プレオープンのプレミアム試食会にご招待)》
 ※一般のお客様の予約は、当面、お受けしない予定です。

 出世魚を生かしたネーミングが功を奏したのか、ブリ会員券に出資した人が二十人以上いたという。井上の夢にかけたいと思った人が多いというべきか。それにしても、このページを見て、苦虫を噛み潰した同業者は多いだろう。
 鮨職人の世界で、“飯炊き三年、握り八年”とは、使い古された言葉だ。店に入った職人はまず、洗い場や出前の担当から始まり、三年目に飯炊きやまかないの担当を任される。そしてカウンターに入って巻物や軍艦を担当し、八年目にやっと握りを任され、 一人前に認められるには十年以上の歳月を要する。この修業の長い道のり、厳しさを表す言葉だ。最初は給料も低いだろうし、自分の店を持つとなると大変だ。井上はその時間を大幅にショートカットしたわけだ。プロデュース能力は相当なものがある。サイトの価格に目がとまった。
「コースは“お任せ”のひとつだけ。消費税とサービス料込みで、昼が二万円、夜が飲み放題付きで三万五千円か」
 銀座で大トロや中トロも入った熟成鮨と、上等な酒を楽しめるなら、高すぎることはない。飲み放題を考慮すると、むしろ安いとさえいえる。
 一方で、井上は店内や料理の撮影、グルメサイトに口コミを書き込むこと、さらには私語まで厳禁という、いまの時代に珍しい規制をかけている。それが店を訪れた人にしか知り得ない特別な体験という付加価値につながっているのだろう。いったいどんな男か、亀助は取材したい思いに駆られていた。
「君なら、てっきり行ったと思っていたけどな」
「いえ、まだです。出資してないし、会員でも予約が数カ月待ちだと聞きましたから」
 亀助は大声を張り上げていた。隣の席の女性たちが眉をひそめている。頭を下げた。
「G5のメンバー数人が、武蔵の会員権を持っているんだ」
「先輩、どうにか同席させてもらえませんか。ワンプのことを考えたら僕が行くべきだ。代わりに取材してくれるなら文句は言いませんが」
 河口は真顔で面倒くさそうにワイングラスを見つめた。
「取材は一切お断りらしい。勝手に書いたりしたら、出入り禁止になるな」
「じゃあ、書きませんから、ここはひとつ」
「いや、六席なんだ。メンバーは五人だけど、その日の空席の一枠は他の出資者で埋まったそうだ」
「そこをなんとか!」
「いや、難しいな。基本的にギブ&テイクみたいでさ、みなそれぞれ行きつけの人気店の店主と仲良くて、特別枠をもっているんだよ……」
「じゃ、じゃあ、中田屋に招待するのはどうでしょうか」
 こんなチャンス、簡単に引き下がるわけにはいかない。躊躇われたが、母親・綾の実家が営む料亭の名前を出すと河口が思案顔を浮かべた。綾の兄、つまり、亀助の伯父が四代目の社長を務めていて、祖母は三代目の名物大女将だ。
「日本三大料亭のひとつ、中田屋に招待してもらえるのか。それは、みんな興味を持ちそうだけど。わかった。もし誰かがキャンセルになったとか、その時は……」

 そんなことはありえないように思われた。だから、《鮨 武蔵》は縁がなかったのだと自分に言い聞かせて、忘却の彼方に追いやったのだ。
 だが、その数日後に小さな奇跡が起きた。その前兆はあって、昼間、お茶の水の山の上ホテルで海老天丼を食べていた時に、湯のみを二度見したら茶柱が立っていたのだ。そして、その夜、河口から着信があった。
〈亀助くん、急だけど、明後日の夜は空いてる?〉
「はい、空いていますが──」
〈鮨だよ、熟成鮨! みんな、中田屋に行けるなら、特別枠を開けるべきだって、他の出資者の一枠を君のために交渉してこじ開けたんだ〉
 亀助は快哉を叫んで、右手で小さくガッツポーズをした。

     2

 店の予約は十九時半だが、亀助は十八時には近くのカフェに入った。豆乳ラテをオーダーし、四人がけのテーブル席を確保する。G5の五人のうち、河口の気遣いで若手メンバーの二人と早めに合流することになったのだ。その河口は刑事事件の国選弁護人の仕事が入り、店に直接行くという連絡が来た。
 エステサロン経営者の荒木奈央と、個人投資家の高桑啓介は十八時半に集まれるという。連絡先も聞いていた。弁護士の緒方義男と、不動産業の澤田宏美とは直接、店の前で十分前合流だ。なにせ遅刻厳禁と聞かされている。
 Macを立ち上げて、検索サイトで、〈鮨 武蔵 マナー〉と打ち込むと、〈私語厳禁〉〈撮影厳禁〉〈提供後三秒以内に必食〉という文言が浮かび上がった。撮影禁止の店は聞くが、三秒ルールは初耳だ。せっかくの注目店に入れるのに、写真も撮れず、ワンプに書き込めないのは残念だが致し方ない。
「あの、すみません──」
 見知らぬ若い女性が声をかけてきた。返事をする前から椅子に半分腰かけてくる。巻き髪のロングヘアーにメイクも服装も華やかで、バッグは黒の“エルメス”の“バーキン”だ。
「失礼ですが、もしかして、北大路さんですか」
「はい、北大路亀助です。あなたは、もしかしてG5の──」
 恐らく、荒木だ。満面の笑顔を見せ、「はい、荒木です」と返事があり、亀助は「あれ、もうそんな時間ですか?」と腕時計に目をやったが、約束の時間には三十分以上ある。荒木が対面の椅子に腰を下ろして隣の席に荷物を置く。「よろしく」と、名刺を差し出された。
《リラクゼーションエステ「salon de a la ki」代表オーナー 荒木奈央》
 フランス語で、よく店名に使用される“サロン・ド”に、○○風を意味する“ア・ラ”と荒木の名字をかけている。「ユニークな店名ですね」と言うと、「さすが、わかってる」と荒木が前かがみになり、距離を縮めてきた。香水の甘い香りが鼻を掠めた。
「亀助さんは本当にラッキーな方ね。でも、これって運命だと思う。つまり、わたしたちが出会うことって最初から決まっていたの」
 まるで、占い師みたいなことを言う女性だと亀助は感じた。一分も経たずにラストネームからファーストネームに呼び方が変わっていることに遅れて気づいた。
「確かに、先輩に絶対行きたいと伝えました。それが、運を引き寄せたんですかね?」
「ほら、絶対そうよ。あなたは、自分の意志で、チャンスを掴み取った」
 荒木は目をキラキラさせながら、G5メンバーのことを語り始めた。あだ名はそれぞれの特徴を表したものだ。例えば、新メンバーとなったワイン好きの河口は“ソムリエ”だ。わからなかったのは河口の知り合いの弁護士、緒方だ。あだ名は“上級者”だという。
「緒方さんは最年長と聞いていますが、人生の達人、上級者ということかな」
「さて、どういう意味でしょう? あ、そうだ、あなたって“ワンプ”のグルメ探偵・亀助さんなのよね? わたし、結構見ているのよ。僕のレシピが正しければ! でしょ」
 亀助は頬が火照るのを感じた。
「お恥ずかしい……。でも嬉しいですね。サイトの使い勝手はどうですか」
 荒木がスマホを取り出して、サイトを開こうとしている。アプリをダウンロードしていないということは、ヘビーユーザーではない。やや間が空いた。
「正直、“食ベログ”の方が登録されている店が多いし、鵜呑みにするわけじゃないけど、見る機会は多いかな」
 図星な意見が返ってきて、亀助は苦笑いをした。
「そうですよね。店の数が違いますからね。僕も食ベログはよく見ます」
 荒木が「うん、うん」と頷きながら、「それよりマリアージュがっていつも言っているけど、本当に独身なの?」と切り込まれた。亀助はたじろぎつつ「ご縁がなくて」と、はぐらかす。しかし、「ウソでしょ。モテるくせに」と返された。
「いえ、小学校から高校まではずっと男子校で、“だから、あんたは女心がわからないのよ”って、母と姉によく言われますよ」
「結婚願望は? 素敵な女性をいくらでも紹介できるけど」
「焦ってはいないので……」と返す。コスパの悪い結婚にメリットを感じないと本音を言うのは得策ではないだろう。ここはやりすごしたいが、荒木がさらに距離を詰めてきた。
「ねえ、ところで、亀助さんは最後の晩餐的なやつ、何が食べたい? あ、店でもいいわ」
 亀助は腕を組んで目を閉じた。こんな重要な問題にいままで向き合っていなかったとは……。
「うーん、そうだな、大好きなものはたくさんあるけど、僕は肝系が好きで、白子ポン酢とか、あん肝とか、あと、ふぐの白子焼きとか……。子供の頃は親が食べさせてくれなくて、その反動もあって。冬は食べすぎてしまうので、尿酸値の未来が不安だな」
「そう。今日は、あなたの大先輩がいるわ。それが上級者の緒方さんよ」
「そうか、緒方さんは尿酸値が高いということか。上級者って痛風のことなんですね?」
 荒木が頷く。そういえば河口から緒方の病気のことは少しだけ耳にしていた。糖尿病にもかかわらず、緒方は食事制限をするつもりがないという。すごい猛者がいるものだ。
「荒木さんの最後の晩餐は?」
「わたしも迷うけど、お豆腐かな。わたしね、お豆腐をごはんに載せた人に、ノーベル賞をあげたい。《お多幸》の“とうめし”は最高! しあわせになれるから、ノーベル平和賞ね」
 日本橋のお多幸には、おでんのだしが染み込んだ豆腐をご飯の上に載せた名物がある。
「わかりますよ! 僕もノーベルグルメ賞を創設するべきだと、ずっと思ってきました」
 荒木が「だよね!」と言って、表情を緩めた。意気投合というやつだ。
 そうこうしている間に、荒木が視線を移したエントランスに、グレーのパーカーにヴィンテージらしきデニム姿の若者が立っているのが視界に入った。「あ、啓くん、こっち!」と荒木が立ち上がり、右手を上げた。すぐに気づいて近づいてくる。ラフな格好だが、“クロムハーツ”のネックレスと指輪、ごつい腕時計は、“カルティエ”の“パシャ”だ。
「ちわっす。あ、北大路さんですね。どうも、自分、高桑啓介っていいます」
 右手で握手を求めてきたので握り返す。仮想通貨ですでに億を稼いでいる“億りびと”という情報は河口から得ていた。あだ名は、一番若いこともあり、“ジュニア”だ。
「北大路亀助さんか。名前、超かっこいいすね。歌舞伎役者みたいで、江戸っこな感じ」
「いえいえ、そんな……」
「あ、ねえ、それより、啓くんが最後の晩餐に食べたいものはなに?」
 荒木が強引に会話を巻き戻し、さきほどの質問をぶつける。
「いきなりっすね。んと、俺は、ステーキかな。“銀座うかい亭”のやつ。あれ、やべえ」
 ステーキは王道の答えだが、この若さで名店、“銀座うかい亭”に足を運べる人間はそうそういない。やはり、みんな食通だなと亀助は頬が緩んだ。ほどなく、みな身支度をして移動を始めた。カフェから店まではすぐだ。
 店の前には、緒方と澤田が待機していた。緒方に挨拶すると、「運のいい人だ」と嫌みにも取れる言葉が返ってきた。最年長で確か七十近いはずだ。金バッジのついたジャケットのボタンがはち切れそうなほど腹が出ている。他のメンバーに視線を移すと、グルメサークルというわりに、みなスリムだ。
 鮮やかな桜色のコートを着た澤田は通称“パー子”だ。ピンクが大好きで、家の中はピンク一色だという。緒方と澤田は特別な関係性ではないかと感じるが、そこは立ち入るべきところではないのだろう。
 そんな中、重そうなカバンを肩にかけて河口が走ってきて、「なんとか間に合った」と、息を切らした。六人が勢揃いしたところで、階段を降りていく。エレベーターはない。ついに《鮨 武蔵》の暖簾を潜り、店内に足を踏み入れる。
「へい、いらっしゃい」と、井上が威勢のいい声と、鋭い眼光を放っていた。聞いていた通り、店内は手狭だ。白木のカウンターは六人が詰めあってやっと座れる感じだ。お世辞にも高級感があるとはいえないが清潔感はある。調理白衣を着た三十代半ばと思われる女性が、入り口のそばにたった一人立っているだけだ。助手という印象だが、表情がやや硬い。
「女性陣に一番いい席に座ってもらおうか」
 緒方が提案すると、みな同意して、女性陣を優先して座ることになった。手前から、亀助、河口、荒木、澤田、緒方、高桑という順番だ。背中と壁との距離は近い。全員が着席したところで、一呼吸置いてから、井上が再び口を開いた。
「うちは、私語や撮影はご遠慮いただいていますので接待には向きません」
 聞いていた通りだ。誰もが無言で頷く。
「うちの仕来りにご賛同いただけたようなので、では、始めますか。澤田さん以外、料理に合わせる日本酒は任せてもらっていいかい? 一杯目だけ、熟成ビールで」
 助手の女性がカウンターの中に入り、順々にグラスヘと琥珀色のビールを注いでいく。珍しいそのラベルを見て、亀助は内心ほくそ笑んでいた。熟成鮨と、国産の熟成ビールとはおもしろい。
 熊澤酒造が湘南ビールの発売二十周年を機に始めた数量限定のビールで、確か毎年内容が変わる。澤田はアルコールがダメだと聞いていたが、ビールグラスに炭酸水を注がれている。
「これはウイスキーの木樽で熟成させた湘南ビールの“天狗”です」
 グラスを持ち上げ、匂いをかぐと、モルトウイスキーのアロマに、木樽特有の香り、フルーティーなエステル香、そして、ホップやモルトといったアルコールフレーバーが複雑に絡み合い、鼻孔をくすぐる。誘われるまま口に入れようとした時、荒木の「乾杯」という声が聞こえた。
 常温よりやや高めにも感じる液体が喉を転げ落ちていく。まるでウイスキーを飲んでいるかのような、やや度数高めのビールだが、食前酒として適している。
 今度は、小さなお椀が次々に運ばれてきた。白濁した汁の底に骨が見える。
「マグロのテールを煮詰めて、出汁をギュッと凝縮したやつです」
 鼻に近づけるとネギと生姜の香りが漂う。言われた通り、一口で喉に流し込むと、マグロの旨味が溶け込んだ上品なスープがスーッと喉を走り抜けていった。
「次は、隠岐の岩牡蠣“春香”を一週間寝かせて作った、みぞれ煮です」
 漆器のスプーンを使い、大ぶりの岩牡蠣を一口でほおばった。口の中で噛み潰した途端に、濃厚な旨味が広がっていく。
「平戸で獲れた“ヒラメ”の焼き物です」
 五島灘の荒波に揉まれて身が締まり、歯ごたえのいいヒラメにそそられて酒が進む。それぞれのビールのグラスが空き始めたところで、今度は、日本酒が新しいグラスに提供されていく。再び、荒木の掛け声で乾杯をする。匂いは強くない。一口いくとスッキリとした辛口の純米吟醸酒のようだ。まろやかさも程よい。
「一杯目はね、“磯自慢”という静岡の純米吟醸酒ね」
 なるほど、魚介との相性を考えて作ったお酒であることが名前からも窺える。
「じゃあ、始めるか」と井上が白衣の女性に目配せした。ついに、始まるのか。緊張感が高まる。一種のエンターテインメントとも評される余興とはどんなものなのか。
 店内が水を打ったように静まり返った。井上が、重心を少し下げる。そして、相撲でも始めるかのように勢い良く両手を合わせた。大きな音が狭い店内いっぱいに弾けた。
「時は大正のことでした。神田の秤屋で奉公をしていた一人の小僧・仙吉の耳に、こんな会話が入ってきたのです──。おい、よしさん。そろそろお前の好きな鮪の脂身が食べられるころだネ」
 井上が、緒方に向かって呼びかけた。緒方がなにか答えようとしたその時、先に井上が「ええ」と声のトーンを変えて言った。
「今夜あたり、どうだね」と、今度は、亀助に呼びかけてきたが、応じる間も無く井上はすぐに視線を後ろの壁の方にずらして、「結構ですな」と、自分で答える。演じ分けているのだ。
「あの家のを食っちゃあ、このへんのは食えないからネ」
 相槌を打つように「全くですよ」と、井上が大きく頷いた。
「二人の会話に耳をそばだてながら、仙吉は、自分もいつか鮪の鮨を食いたいと切に願うようになりました──」
 独り語りに酔いしれる井上の姿はさながら、落語家か、講談師のようだが……。そうだ、これは、志賀直哉の名作『小僧の神様』の世界だ。
「ああ、おらも、江戸前の鮨が食いてえ。鮪の脂身を、腹いっぱい、食いてえよ」
 今度は小僧、仙吉が登場したようだ。亀助は記憶の糸を辿るが、そんな台詞が作中にあった記憶はない。仙吉はどちらかというとおとなしく控えめな姿に描写されていた印象だ。
「仙吉は店の主人から京橋までお使いに出されたとき、歩いて電車のお代を片道浮かして四銭ばかり貯めました。そうして、ついに勇気を出して、かの屋台を訪れたのです。目の前には夢にまでみた鮪の脂身がのった鮨がある。太った店主が睨み付けてくるが、さあ、取るのか。どうする、仙吉。さあ、取れ。取るんだ。ついに、取った! 鮪を手に取ってみたものの、手を引くとき、妙に躊躇した。なぜって、有り金が足りるのだろうかと、心配になったわけだ。すると、店の主が言った。“一つ六銭だよ”と。さあ、困った。仙吉が、懐の裏隠しに貯めた金は、四銭。二銭、足りないときたもんだ!」
 井上が、大きく開いた自分の震える右手を見て愕然とする。仙吉になりきっているのだ。
「小僧が黙ってその鮨をまた台の上に落とすように置くと、店の主は、言った。一度持ったのを置いちゃあ、しょうがねえな──。さあ、そんな小僧に神様は救いの手を差し伸べました。居合わせた貴族院議員の粋なはからいで食すことができたのが、漬けマグロです」
 井上が布巾でまな板を素早くふき始めた。急に慌ただしさが増す。カウンターの下の冷蔵庫から何かを取り出した。不気味な褐色に変色している肉の塊だ。それをみながよく見える場所に置いた。どこからともなく感嘆の溜め息が漏れる。
「この鮪の塊から召し上がっていただけるのは、たった三分の一です。今や、魚の王様となったマグロもかつては下魚の位置づけで、庶民の食べ物でした。しかし、江戸中期に、醤油が普及すると、漬けにする保存方法が生まれた。うちは十日間寝かせた赤身を特製醤油に一週間漬け込みました。本来、握りは淡白な白身から脂ののった赤身に流れていくのがセオリーですが、脂の少ない漬けだけ、最初にやらせてください」
 頭を下げた井上が冷蔵庫から別の漬けマグロを取り出した。すでに包丁が入った状態だ。シャリの桶も用意された。井上が流れるような動きで握り始める。手際よい、小手返しだ。女性から順に置いていくがみな一瞬で平らげていく。これが三秒ルールか。やがて、亀助のところにもきた。眩しいほどに、美しい輝きを放っている。まるで宝石のようだ。
「さ、どうぞ。時間を置くのは野暮ってもんです」と、井上が表情を緩めた。
 亀助は生唾を飲み込んだ。目の前に、ついに現れたのだ。亀助は小さく「いただきます」と声に出すと、右手を伸ばして口に素早く放り込んだ。目を瞑り、ゆっくりと咀嚼する。濃厚な醤油の香りとともに、赤身の旨味が口いっぱいに広がっていく。
 こ、これは、うまい!
 新鮮なマグロよりもはるかに味わい深い。シャリの温度、お酢──恐らく赤酢だろう、の効き具合も最高の状態だ。そこかしこから感嘆の言葉が漏れてきた。井上が満足気な表情を見せながら、ガリを大盛りで置いていく。さっきの小芝居は恐らく、客がマグロを食べたくなるアドレナリンを極限まで放出させるための演出だったに違いない。
「一口飲めば、相性がわかるはず。新潟の酒蔵から特別に仕入れました」
 スタッフの女性によって、グラスになみなみと注がれていく。今度の酒はノーラベルだ。客同士、目を合わせて乾杯をする。一口飲んで井上の言う意味が理解できた。
 やや辛口の純米酒だ。癖がまったくなく、バランスの取れた味わいだ。
「さて、この先は、お任せでやらせてもらいますが、まずはこのガリ。和歌山産の新生姜を甘酢に漬け込んで、二週間寝かせました。あと、うちは玉を出さないよ。腕がないのがバレるからね──。あ、ここ、笑うところね」
 小さな笑いが起きた。井上の表情と口調がやわらかくなり、さきほどの張り詰めていた糸がほどけたように、和やかな空気に入れ替わった。
「さてと、今日のシャリは北海道産“ななつぼし”。北海道米はレベルが上がっているからね。この艶、見てよ」と、米の桶を持ち上げて、みんなに見せてきた。
「シャリは赤酢と白酢、さらに二つをブレンドした三種で、ネタによって使い分け、流れに緩急をつけています。赤シャリには、エビや煮穴子のような味の強いネタ。イカや赤貝など、味の淡白なものには白シャリね」
 噂に聞いていた情報だが、本人の言葉を聞きながら経験するのとは大きな違いがある。井上がおもむろに包丁を取り出した。よく磨き上げられ輝きを放っている。
「漬けで満足してもらったようなので、今日はトロやめておくか」
「そんなの嫌だ!」と、荒木の悲鳴にも似た声が上がった。釣られて笑いがこぼれる。
「じゃあ、春の旬ネタをどんどんいくね。まずは、石垣島で獲れた“アオリイカ”」
 井上の目が真剣なものに切り替わる。最後の仕上げに一つ一つ時間をかけている様子だ。そして、順番に供されていくが、亀助はラストだ。待ち遠しさが涎となって募る。そして、やってきた。幾重にも隠し包丁が入れられていて、やはり宝石のように美しい。
 おもむろに口に入れると、旨味がとめどなく広がる。飲み込んでしまうのが躊躇われるほどだ。今回も、熟成したネタとシャリの酸味が口の中で調和し、深い余韻を残している。間違いない。この店に入れたことは紛れもなく幸運だ。もうこの二貫で確信した。
 井上の手元につい前のめりになる。井上が取り出した白身の魚のサクは、身がほんのりとピンクがかっている。それを包丁で切り分けていく。
「魚に春と書いて鰆と読むよね。瀬戸内海であがった“サワラ”を三週間寝かせたよ」
 次々に客人の目の前に置かれていく。亀助のもとにもやってきた。手で掴み、口に放る。目を瞑る。ゆっくりと、味わいながら咀嚼する。なんとも、上品で嫌みのない味わいだ。これも熟成されたことで旨味が倍増している気がする。
 どれもこれも、食感も味わいも異なるが、旨味が深いことだけは共通している。
 右手が日本酒のグラスに伸びる。空き始めると、スタッフの女性がすぐに注いでくれるのでどんどん進む。他の客も同じ様子で赤ら顔が多い。特に荒木と緒方は真っ赤だ。
 井上の口上も的確だ。言われたとおり、ネタは寝かせた分、シャリとのバランスがとれている。富山湾の“ホタルイカ”を酢橘に塩で出してきたところで、提供される順番が変更された。亀助が繰り上がり、ぺースの落ちた女性陣と、緒方が後に回る。
 口に入れた途端、思わず唸っていた。深いコクがある。日本酒が進む。一気にグラスを呷って空にしていた。再び、女性スタッフが注いでくれる。こんな上等な酒が飲み放題なのだから、飲まなきゃ損だ。続いて、“マカジキ”の漬けに、高知の“初ガツオ”の漬け、“ヒラマサ”の砂擦り、天草の“車海老”……。外れがない。どれもこれも完璧だ。
「魚は、しめてから熟成が始まるんだ。タンパク質からはグルタミン酸、アデノシン三リン酸からはイノシン酸といった旨味成分がって、そんな能書きを語ったところで旨さには関係ないよね。ただ旨けりゃいい」
 客のペースを見て、蘊蓄を挟んでいく。井上と目が合った。頭を下げる。「どう」と問われたので、「最高です」と即答し、「どんな魚が熟成鮨に向きますか」と尋ねた。
「それはやっぱり、基本的には削る訳だから、大きな魚が適していて、小魚は向かないね」
「それでいうと、マグロってことなんですね」
 井上が頷いてニヤリと白い歯を見せた。上機嫌のようだ。
「さて、コースのトリは二週間寝かせた“中トロ”“大トロ”に“ネギトロの巻物”ですが、その前に、今日は特別に、究極のネタを出そうか」
 何かを企む目だ。いったい、どんなネタが出てくるのか。亀助は期待に胸を高鳴らせていた。井上が皿に載せた褐色の食材、いや、加工品をみなが見えるように掲げる。一見すると、明太子の色違いのようだ。何かの魚の肝だろう。否応無しに、全員の視線が集まる。
「こちら、三年以上の熟成もの。なんだと思う?」
 三年間もの熟成だと……。一同から溜め息が漏れた。亀助はじっと対象物に目を凝らす。どこかで見たことがある。喉まで出かかっている。「ヒントは、加賀百万石」と言われ、「フグの卵巣だ」と、亀助は声をあげた。井上が「ご名答!」と微笑むと、荒木が「さすがグルメ探偵」と手を叩く。照れながら、亀助は後頭部を右手で押さえる。
「ご存知の通り、フグの卵巣には“テトロドトキシン”という猛毒が含まれていて、その殺傷能力はなんと青酸カリの四百五十倍だってね」
 笑うに笑えない。それどころか、亀助の胸には複雑な想いが込み上げていた。
「こちらは石川県の一部の地域でしか製造が許されていない。現地で、この目で見てきたけどね、三年以上と大変な手間がかかるんだって。これぞ日本の伝統ある食文化だ」
 みなが頷く一方、亀助は動悸が早まるのをはっきりと感じていた。
「まずは、良質なゴマフグの卵巣を一年間、塩漬けにして、さらに二年間、糠漬けにする。糠、唐辛子、イワシの酒醤など、秘伝の製法でここは企業秘密。すると、なぜか毒が抜けてしまうのだそうだ」
 亀助は生唾をゴクリと飲み込んだ。実は、亀助の母方の祖父・中田平吉は、フグの肝を食べて、食中毒で命を落としているのだ。だから、亀助と姉の鶴乃はしばらく、フグや白子の類を食べさせてもらえなかった……。
 呼吸を整える。その途端、ガラスの割れる音が店内に響いた。亀助の席から離れた場所で粗相があったようだ。詫びる様子から察するに、澤田がグラスを落としたようだ。スタッフの女性が慌てて対応している。「大丈夫かい?」と、井上が鋭い眼光を向けた。
「もしかしたら、フグ毒で、脅かし過ぎたかな」
 井上が不敵な笑みを浮かべると、場がいくらか和んだ。そして、目の前にその逸品が現れた。黄土色の食材が巻物に載っている。
 これが、フグの卵巣か──。
「シャリとの相性は最高だけど、おなかいっぱいの人は無理しないでよ。ネタだけでいくかい、どうだい?」
 亀助と高桑が手を上げて、鮨でいただくことにした。他の人はネタだけで、女性の職人が包丁を入れて小皿に盛りつけていく。先に、亀助のもとに鮨がきた。
 これまでにはなかった緊張感が漂う。亀助も食べないわけがない。手でつまみあげ、一度、鼻先へ運んだ。粕の匂いが強い。口の中に放り込んだ。咀嚼する。カラスミに近いだろうか。表面は粘りつくような弾力があり、中の粒がプチプチと弾ける食感だ。味は見た目や匂いの通り、とにかく濃厚で粕の風味が強い。シャリと絡み合い、旨味が少しずつ広がる。目を瞑る。咀嚼を繰り返してから、飲み込んだ。
「うまいな」と、歓声が次々にあがっていく。亀助には妙な感動もある。
「反応を見て、コースに組み込むか判断しようと思いまして」
 井上の心配ももっともだろう。拒否する人がいてもおかしくはない。
「いやあ、インパクトもあるしね、店のコンセプトにも合っているしすごくいいよ。いやあ、最高だな。いつもの漢方薬をもらえるかな。あのあったまるやつ」
 顔を真っ赤にしながら、緒方が上機嫌で発した。
「ありがとうございます。じゃあ、くらちゃん、みんなに出してあげて。では、本日のトリといきますか」
 亀助は口の中で、涎を塞き止めるダムが決壊しそうになるのを感じていた。その後に起こる悲劇のことなど、つゆも知らずに──。

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