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我が家のヒミツ
奥田英朗

 正雄の秋

     1

 どうやら次期局長の内示が河島にあったらしい。その情報を耳にした夜、植村正雄は帝国ホテルのバーで一人で酒を飲んだ。会社の誰にも会いたくなかったし、馴染みの店でマスターや常連客と口を利くのもいやだったので、値段が張っても一人になれる場所を選んだのだ。
 カウンターの隅で、白人のビジネスマンたちがうしろのテーブル席で賑やかに談笑するのを聞きながら、ウイスキーのソーダ割りを飲んだ。三杯飲んだところでロックに切り替えた。そしてロックを三杯飲んで、さらにおかわりしようと空のグラスを掲げて振ったら、白髪のバーテンダーが、もうおよしなさい、とでも言いたげな憂いを含んだ笑みを投げかけて来たので、二秒ほど見つめ合ったのち、「これで最後」と自分から申告して、グラスを差し出した。いい加減、頭が痺れていた。
 正雄と河島義男は会社の同期入社だった。大学を出て大手機械メーカーに就職し、今年の春でちょうど三十年となった。その間、ともに営業畑を歩き、ずっと競わされてきた。課長になったのも、部長になったのも同時期である。そして局次長兼部長という肩書を負ったのが三年前で、これも河島と並んでの昇進だった。いずれどちらかが営業局長になると周囲から言われていて、正雄自身もそうなるだろうと思っていた。だから言ってしまえば、今日は二人の昇進レースに決着がついた日ということになる。河島が勝って、正雄が敗けた。誰だってそう判断する。
 正雄は元々、出世欲の強い人間ではなかった。ジャズとクラリネットが趣味で、一人で何かに没頭するのが性に合っていた。人間関係においても、気の合う者同士静かに語り合うのが好きで、人脈作りに熱心なタイプではなかった。そもそも仕事一途の人間ではなく、昇進に強いこだわりがあったわけでもなかった。しかし河島に敗けたとなると、正直言ってこたえた。
 正雄は河島と反りが合わなかった。何かと言うと派閥を作り、部下に対して兄貴風を吹かせ、上役には自己アピールに余念がない。そんな河島は正雄と正反対の性格と言えた。とりわけ芝居がかった熱血ぶりが、あまりに見え透いていて、好きになれなかった。
 職場の宴席で喧嘩になりかけたこともある。互いの仕事のやり方について、ささいな意見の食い違いから口論になり、酔いもあってつかみかかる寸前までいった。それ以来二人は犬猿の仲だと社内に広まり、余計にやりにくくなった。
 いざ敗けたとなると、いろいろな思いが頭をよぎった。結局、役員たちは河島を選んだのである。これが一番のショックだ。正雄は業績では河島を上回っていると思っていた。とりわけ東南アジア市場を開拓したのは正雄の功績である。あのときは海外事業部と連携し、プロジェクトリーダーとして合計三年間、タイやインドネシアに単身赴任し、出張は年二十回を超えた。自身の四十代のハイライトともいえる仕事で、社内表彰も受けた。それが評価されなかったのである。
 そして役員への道も閉ざされた。誰にも言ったことはなかったが、自分は役員にまで上れるのではないかと密かに思っていた。その夢がついえた。
 これまでも周囲が耳を疑う人事は山ほどあった。有能過ぎて嫌われ、閑職に回された人間もいたし、銀行からの天下りに役員のポストをあっさり取られ、子会社に出向させられた人間もいた。会社とはそういうところだ。受け入れるしかない。
 とは言え、やはり納得は出来なかった。今頃は営業局の全員が噂していることだろう。明日はみんなどんな態度で接してくるのか。それを思うと出社するのがいやになる。
 正雄は最後の一杯を飲み干し、席を立った。バーテンダーが「お気をつけて」と微笑んで、軽く会釈した。
「ありがとう」
 礼を言って、会計を済ませ、バーを出る。ホテルのエントランスでは、ドアマンが正雄を見つけ、「タクシーですか」と笑顔で近づいてきた。
 人のやさしさが身に沁みた。今誰かに冷たくされたら、自分はきっと寝込んでしまうだろう。ホテルのバーにしてよかったと思った。
 午前一時過ぎに家に帰ると、家族全員が寝静まっていた。妻の美穂とも口を利きたくないので、起こさないように静かに着替え、隣の布団に潜り込んだ。すっかり酔っているが、なかなか睡魔がやって来なかった。気づけば何度もため息をついていた。寝つくまで二時間ほどかかった。

 翌朝は六時に起床した。美穂がいつもその時間に起きるので、同じく布団から出たのだ。「もう起きるの?」と訝る美穂には、「酒が抜けてないからシャワーを浴びる」と答えた。二日酔いのまま会社には行きたくなかった。ゆうべはやけ酒を飲んだのかと部下に思われたくない。
 美穂は夫の様子が少しちがうことに気づいたのか、一瞬何か聞きたそうな顔をしたが、黙って台所へと行った。夫婦も二十五年やっていると互いのことはだいたいわかる。聞かない方がいいと判断したのだろう。
 一晩経って、少しは感情が治まるかと思えばそんなことはなく、余計に揺れていた。大袈裟に言えば、不治の病でも宣告された気分である。河島に敗けた。その言葉が頭の中で渦巻いている。
 シャワーを浴びて居間に行くと、二十四歳の娘がテーブルでトーストをかじっていた。
「なんだ、早いな」正雄が聞く。
「金曜は朝活」娘がぶっきら棒に答えた。
 社会人二年生の娘は、仕事と自分に夢中だ。早朝の異業種ミーティングに参加しているとのことである。立ち上がってジュースを飲み干すと、食器を流しに運び、疾風のように出かけて行った。
 大学四年生の息子はまだ二階で寝ていた。銀行に就職が内定し、今は遊び納めといったところか、家でじっとしていた例がない。いよいよ子供たちが社会に巣立って行く。それと入れ替わるように、自分が会社での立場を失うのだから、人生は皮肉なものである。
 テーブルにつき、新聞を広げたが、活字が目に入って来なかった。頭の中にあるのは、会社に行きたくないなという子供じみた思いばかりである。
 美穂が朝食をテーブルに並べながら、「ゆうべ、誰と飲んでたの?」と聞いた。
「取引先」
 正雄はうそを言った。一人と答えたら、心配されそうである。しかし、この件はいつか言わなければならない。二歳下の美穂は会社の元同僚で、社内結婚だった。だから会社のことは隠せない。
 先送りすると余計に告げにくくなると思い、軽い調子で言うことにした。
「営業の新しい局長な、河島に決まったらしいわ」
 だが口に出して言うと、つい声が上ずった。
「そう……」
 美穂がたちまち顔を曇らせる。次の言葉が出て来ず、沈黙が十秒以上続いた。
「まあ、しょうがない。おれには運がなかった」
「そんなこと……」
「いや、人生はそういうもんだ」
 美穂は動揺した様子で、流しに戻った。何か手を動かしているが、心ここにあらずといった感じである。
「たぶん、今月末の異動で営業から離れることになると思う。もしかしたら出向もあるかな」
 正雄が言った。実際、そうなりそうだ。
「いいんじゃないの。これまで頑張って来たんだし」美穂が背を向けたまま言った。「考え方を変えれば、どうってことないよ」
「うん」
「あまり忙しくない部署がいいね。あなた、少し休んだ方がいいし」
 それには返事をしないで、正雄は食事を始めた。美穂は、いつもならテーブルの向かいに座って一緒に食べるのだが、それをしないでゴミをまとめ始めた。夫の無念が容易に想像出来るのだろう。河島を嫌っていることも知っている。
「資源ゴミの日だから、ちょっと出してくる」
 そう言って勝手口からばたばたと出て行った。正雄は、美穂のうろたえぶりが意外だった。オシドリ夫婦というほどでもないが、これまで支え合ってやって来た。
 食事を終え、身支度をした。いつもの時間になり出かけようとすると、普段は台所から「いってらっしゃい」と言うだけの美穂が玄関まで見送りに来た。
「今夜、遅いの?」
「さあ、わからない」
「メールちょうだい。うちで食べるのなら寄せ鍋にする」
「ああ、いいなあ。だったら定時退社するかな」
 正雄は軽く口の端を持ち上げて言った。今夜もホテルで飲みたい気もするのだが。
 家を出ると空気が冷たかった。いつの間にか秋も本番だ。季節の変化は急にやって来る。

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