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恋するソマリア
高野秀行

   はじめに

 イメージでいえばそれは女性だ。背はスラッと高く、腰はキュッとくびれ、波打つような体型である。目は燃えるよう、唇は赤くぽってりとしているが、その情熱が外にこぼれることはめったにない。そう、彼女はクール・ビューティなのだ。
 今まで幾多の男がこの美女に挑んだが、いずれもあえなく敗退した。世界的な富豪やプレイボーイも涙にくれた。彼女はあまりに誇り高く、あまりに強い。誰も彼女の素顔を見たものはいない。ましてや、ベッドでどんな表情をするかなんて……。
 って、一体何の話をしてるんですかと言われそうだが、その女性は、女性でもなんでもなくて、ソマリ人のことである。あるいはソマリ世界と言い換えてもいい。あくまで私のイメージであるが。
 ソマリ人はアフリカ東部、サイの角のように突き出た広大な土地、通称「アフリカの角」に住んでいる。国でいえば、ソマリア、ジブチ、そしてエチオピアとケニアの一部だ。
 中心をなすのはソマリアである。人口の九十五パーセント以上がソマリ人、数にして一千万あまり。だが、そのソマリアが国の体をなしていたのは一九九一年までだ。独裁政権が倒れてからは無数の武装勢力や自称国家が跋扈し、ソマリアは二十年以上無政府状態であった。一度アメリカが介入しようとしたが、完膚無きまでにたたきのめされて撤退した。あとはもうアンタッチャブルの土地と化した。
 その中に独自に内戦を終結させ、あろうことか複数政党制による民主主義を達成した「謎の国」があるという。ただし、国際的には一切認められていない。信用すべき情報もいくらもない。名前は「ソマリランド」という。
 そんな国がほんとうにあるのか。私が半信半疑で彼の地に旅立ったのは二〇〇九年のことだ。
 ソマリランドは実在した。アフリカやアジアの平均以上の平和と安定を享受していた。
 かつてのソマリアは現在、三国時代に突入している。北部のソマリランドのほか、海賊が猛威を振るう東北部の「プントランド」と、イスラム過激派のアル・シャバーブと暫定政府軍の戦闘が続く「南部ソマリア」だ。私は二回目の旅ではプントランドと南部ソマリアの首都モガディショにも出かけ、現地の実情を探った。
 詳しい経緯は『謎の独立国家ソマリランド』に書いたとおりだが、私はこの二回の旅で、ソマリランド独立の謎を解き明かすと同時に、二十一世紀の今も、艶やかな鎧のような独自の伝統を身にまとっているソマリ人に強く魅せられた。
 ソマリ人と彼らの暮らす土地は、驚くほど世界的に知られていない。それは、一つには彼らの伝統社会がひじょうに複雑怪奇かつ排他的であること、彼らの言語ソマリ語が外国人にとっては習得がきわめて困難なこと、そして、何より二十年以上もソマリアが「危険地帯」と認識され、外部の者が立ち入ろうとしないことによる。例えば、日本政府の外務省もソマリア全土を「退避勧告」の赤で塗りつぶしている。日本にはソマリアの専門家はまだ一人もいない。世界的に見ても外国人のソマリ専門家は幾人もいない。
 ソマリ世界は現代における数少ない「秘境」となっている。そして秘境の常として多くの誤解にさらされている。ソマリ人は私利私欲しかもたない野蛮で未開の連中だとか、逆に、飢餓や貧困に苦しみ、欧米の思惑に翻弄されている可哀想な人たちであるとか。
 どれもこれも、実に薄っぺらく、かつ偏った見方でしかない。一見、粗暴な彼らの振る舞いの陰には数学者も顔負けの論理的思考があり、生活苦だらけに見える彼らの土地を少し掘ってみれば豊かな文化と生活の知恵が泉のようにこんこんとわき出てくる。
 そういう彼らの知られざる姿を見ると、たまらない喜びを感じる。そして、数々の誤解を解き、ソマリ世界の本当の魅力を広く世界に(少なくとも日本に)知らしめたい、などと大それた思いにかられる。普通は本一冊分の取材が終われば、その土地や民への関心も一段落するのだが、ソマリの場合だけは、むしろ強くなってしまったのだ。
 だが、話はそう簡単ではなかった。
 なぜなら、当のソマリ人がちっとも、自分たちのことを世界に知ってほしいと思っていないからだ。
 これは意外にもほどがあった。私は今まで、独立を目指すミャンマーの少数民族や西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)の人々を取材してきた。どこでも「あなたがたの状況について書きたい」と言うと、「それはいい」「是非やってくれ!」と歓迎されたものだ。誰でも、世界から忘れられたくないと思うからである。
 なのに、ソマリ世界では、私がソマリランドやソマリ人についての本を書くと言っても、喜ぶ人などいなかった。私が熱心に支持しているソマリランドの人でもそうなのだ。中には「そんな本、誰が読むんだ?」と訊いてきた人もいたくらいだ。
 ソマリ人は誇り高い反面、冷徹なリアリストでもある。世界の先進国がそう簡単にアフリカの一国(もしくは一民族)に関心を持つなどとは考えていない。世の中を動かすのは所詮カネと武力であると正しく理解し、一冊や二冊の本が大勢に影響を及ぼすなどとゆめゆめ思わない。加えて、「あたしのことをそうやすやすとわかられてたまるか」という高慢な美人のように面倒なプライドも持ちあわせている。ましてや、私のような頼りない「小さい目(インダ・ヤル)」(東アジア人のことをソマリ人はそう呼ぶ)が自分たちに小銭以外の利益をもたらすなど想像もできないのだ。
 私は彼らについ言いたくなる。私はたしかに非力だが、あなたがたをこんなにわかっている外国人は他に何人もいないのだよ。本を書いて他人に伝えられる人も他にいないのだ。全く知られないよりずっとマシだろう。それがわかってるのか。というか、ソマリ人よ、みんな私の話を聞いてるのか?
 気づくと、私は、世界にソマリ人を知らしめる以前に、ソマリ人に対して「自分のことをわかってくれ」と叫んでいた。今まで世界のいろいろな土地に行き、いろいろな人々と出会ったが、「認められたい」などと思ったのは初めてだ。
 ソマリの素の姿を知りたい。ソマリに自分のことを認めてもらいたい──。
 ほとんど強迫観念のようにそればかり考え、三度、四度とソマリの土地に舞い戻っていった。
 いつの頃だろうか。ソマリ人が近づきがたい美女とダブって見えるようになってきたのは。すげなくされればされるほど、相手が素晴らしく見えてしまう。いや、そのくらい美化しないと、これほどまでに入れ込んでいる自分を正当化できないのかもしれない。彼女のことが魅力的だから好きなのか、好きだからなんでも魅力的に見えてしまうのか、それすらわからない。
 この気持ち、まるで十代から二十代にかけてさんざん経験した片想いのようだ。
 実際、知り合いには「高野さんの入れ込み方は恋愛みたいですね」と笑われたし、旅の日記を読み返すと、「ソマリランドではこの片想い感が辛い」とか「ソマリ人にいくら尽くしても何にもならない」など、演歌のようなセリフが散見され、痛いったらありゃしない。
 そんな面倒な女ならさっさと手を引けばいいのだが、やはり彼女の魅力は抜群で、離れるに離れられない。秘密のベールをめくるたびに新たな美貌が見え、さらにその下に別のベールが隠されている。しかも他の男はみな敗退しているのだ。口説きがいがあるではないか。
 絶世の美女は果たして振り向いてくれたのか? それとも手厳しい仕打ちが待ち受けていたのか?
 本書は前代未聞にして奇想天外なその愛憎劇の一部始終である。

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