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東京日記 1+2
卵一個ぶんのお祝い。/ほかに踊りを知らない。
川上弘美

「大福おじさん」を見た。

三月某日 晴
 寒い日。
 両国の江戸東京博物館に行く。
 行きの電車の中で、「大福おじさん」を見る。背広を着て、鞄を持って、姿勢よく立って、混んだ電車の中で大福を食べているおじさんである。
 おじさんはまず、鞄の中から、ゆっくりと大福を取り出す。一個、食べる。二個めに、かかる。三個めも、全部きれいにたいらげる。合間に、缶入りの十六茶も飲む。
 合計六個、おじさんは大福を食べた。食べおわると、ハンカチで口のまわりをはらい、次に停車した駅で降りていった。最後までおじさんの背筋はぴんと伸びていた。
 帰りに両国の駅で「どすこいせんべい」(バラ売り)五枚をおみやげに買う。

三月某日 曇
 百円ショップがこのごろとても充実していると教えてくれた人がいたので、見にいく。
 なるほど、さまざまなものを売っている。広沢虎造のCDを一枚百円で売っていたりして、その安さにしんそこ驚く。
 ツボ押し器を三種類買う。蛙の形のものと、四面体のものと、杖形のもの。蛙の形のものを「タツヤ」と名づける。タツヤという名の人に知り合いがいないので。でもちょっと知り合ってみたい名前なので。
 夜、タツヤに腰と肩のツボ押しをさせたけれど、あまり効かない。

三月某日 晴
 夜中、コンビニに行く。暖かくなってきたが、夜はまだ寒い。パジャマの上にセーターとズボンを着て、その上にコートをひっかける。パジャマを服の下に着ていると、なんだか安らか。
 帰り道、「このへんで誰か知り合いの人に会って、『お茶でも飲んでかない』と誘われて、部屋に上がって話しこんでいるうちに真夜中になって、それなら泊まっていかない? ということになって、その時に服の下にパジャマを着ていることがばれちゃったらどうしよう」と突然考えついて、どきどきする。
 知り合いに会わないよう、なるべく暗い道を選びながら、帰る。

三月某日 晴
 大人計画の劇を下北沢に見にいく。
 松尾スズキの体の動かしかたが、好きなのである。なんというか、残像が残るような感じの動きだ。たとえば松尾スズキが五十センチ舞台上を移動すると、一瞬、元の場所と五十センチ移動した先との両方に、松尾スズキの腰とか腕とかが同時に見える、そんな感じ。
 終わってから生ビールを二杯。後のビールがとてもおいしく感じられる劇でした。


よくあること?

四月某日 晴
 お花見に行く。
「花茣蓙を手に入れたのよ」と友だちが誘ってくれたのである。
「花茣蓙とはまた正統派」と言うと、友だちは自慢そうな顔をした。
 友だちは花茣蓙を持って、わたしはお弁当を作って、善福寺公園に行った。花茣蓙をひろげ、お弁当をひろげ、日本酒の四合瓶の蓋もあけ、しずしずとお花見を始める。近くにある井の頭公園は人がごったがえしているのに、ここの公園にはお花見の人がぜんぜんいない。飲み食いしているわたしたちを、道ゆく人たちがじろじろ見てゆく。
 桜も柳も美しい。お弁当にもお酒にも、たくさん花びらが散りかかる。四合瓶が空くと同時にお弁当もぜんぶ食べ尽くされた。友だちは花茣蓙をくるくるとまるめた。交代で肩に茣蓙をかつぎあって、西荻窪の駅までゆっくりと歩いて帰った。

四月某日 晴
 お茶の水に行く。ひさしぶりの外出。
 女三人で飲むのである。一人が遅れるというので、山の上ホテルのバーでビールを飲みながら待つ。大人の女になった気分。
 三人揃ったところで街に出て、飲んで食べて、また山の上ホテルに戻って、カクテルをたくさん飲んで、みんなでスパゲッティーをわけあって、さらにカクテルを飲む。
 カクテルを頼むとき、「ジントニックにします。あ、ちがった、ブラッディメアリーにします。あ、ちがった、ソルティードッグにします。あ、やっぱりブラッディメアリーにします」と言っている自分に気づいて、やっぱり「大人の女」になんかなっていないよな、と反省する。

四月某日 雨
 仕事の打ち合わせ。
 駅の近くのホテルの一階の喫茶店で待ち合わせていたら、その喫茶店がなくなっていたので驚く。忽然と、喫茶店は消えていた。
 おろおろしながら待っていると、同じようにおろおろした仕事先の人が、走り寄ってきた。二人で世の無常をなげきあう。

四月某日 曇
 仕事の打ち合わせ。
 いつも使っているホテルの一階の喫茶店が忽然と消えてしまったので、そのななめ向かいの道沿いの喫茶店を使う。
 打ち合わせが終わってから外に出て見ると、ホテルの一階にふたたび喫茶店があらわれている。忽然と、喫茶店はあらわれた。
 いやーん、と言いながら家に帰って、布団をかぶって、しばらくぐずぐずする。
 様子を見にきたこどもに訊ねられ、いきさつを話すと、こどもはふうん、と言ったあとに、よくあることだよ、と続けた。
 よくあることなのか?


銀座のてんぷら。

五月某日 雨
 てんぷらを食べに行く。
 銀座のへんの店である。
 銀座のてんぷら、という言葉にうっとりとする。銀座でてんぷらなんか食べたことは、今までの一生で、三回くらいしかない。
「三越のライオンの前で待ち合わせましょう」と連れの人に言われ、銀座のライオンの前で待つ。「銀座のてんぷら」に興奮しているので、二十分くらい前に行って待っている。
 五分前になっても待ち合わせの相手は来ない。早めに来そうな人なので、ちょっと不安になる。もしや日本橋三越の前だったんじゃないか、と思いはじめると、居ても立ってもいられなくなる。
 遂に地下鉄に飛び乗って、三越前まで行く。息を切らせながら階段を上ると、やはり待ち合わせの人はそこにいた。
「銀座のてんぷらじゃなかったんですか」と、少々落胆しながら聞くと、「広い意味ではここも銀座あたりですよ」と待ち合わせの相手が請け合ってくれたので、安心する。

五月某日 晴
 てんぷらを食べに行く。
 今度も、銀座のへんの店である。
 月に二回ものてんぷらである。それも、今までの一生に三回(前回を入れると四回)しかなかった「銀座のてんぷら」が、突然高頻度でやってきたのである。
 たぶんこの先二十年くらいは、銀座のてんぷらには縁がないに違いない。

五月某日 曇
 吉祥寺の絵本屋さんに行く。
 数冊買ってから外に出ると、そろそろ夕方になろうとしていた。
 荷台に大きな籐のかごをくくりつけた自転車を引いて、おねえさんが歩いてくる。店のすぐ前でおねえさんは止まった。自転車のスタンドを、ゆっくりと立てる。
 おねえさんは、籐のかごを開けて、たたずんだ。しばらくすると並びの店から店員さんたちが出てきて、籐のかごの中にあるクッキーやケーキやキッシュを買っていった。
 おねえさんは、移動ケーキ屋さんなのであった。
「いつもこの時間に来るんですか」と聞くと、おねえさんは「うーん、気が向くとね」と答えてにこにこした。商売ではなく、趣味の移動ケーキ屋さんなのであるらしい。
 かぶのキッシュを二個買う。

五月某日 晴
 どうしようもなくそうめんが食べたくなったので、今年はじめてのそうめんを茹でる。
 今年はじめて食べるそうめんは、汁につけてはならない。薬味を使ってもいけない。正真正銘の素そうめんでなければならない。
 一把きっちりと食べて、満足する。


六月の雨降り。

六月某日 晴
 外苑前に、Y口さんの個展を見にゆく。Y口さんはふしぎな猫の絵を描くひとである。
 図書館の司書をしているらしい猫が本の整理のために台車を押している版画がよかったので、「これがいいですね」というと、Y口さんは笑いながら「今回出した絵の中で、いちばん何も考えてない猫ですよ、こいつは」と答えてくれた。
 会場終了の時刻がきたので、表参道駅まで一緒に歩く。道を歩きながら、お天気から最近の世相から世間の恋愛観の是非までのあれこれを、大きな声で喋りあう。道を横切るときも歩道橋を上っているときも歩道橋を下りているときも人ごみにまぎれてちょっと離れたときも、大声で喋りあっていたら、前を歩いていたカップルが非常に迷惑そうにふりかえったので、ますます大きな声で喋ってやった。

六月某日 雨のち晴
 上野に行く。
 公園をつっきって用を足しに行き、また公園をつっきって美術館に戻り、また公園をつっきって飲み屋に行き、また公園をつっきって駅まで戻る。
 つっきるたびに、屋外生活のひとたちの住む、まっさおな防水シートでできたテントが、目に入る。小さめのテントもあるし、四人家族が住めそうなくらい大きなテントもある。倉庫みたいな付属部屋のついたものもあれば、電化製品を備えているらしいものもある。
 昼間はどのテントもしんとしていたが、最後に公園をつっきった夜中に見たら、全体が少しざわざわとしていた。活動時間帯に入ったのだろうか。

六月某日 晴れのち雨
 夕刻、仕事で六本木に行く。帰途に暗闇坂をのぼっているときに雨がひとつぶふたつぶ頭に落ちてきたと思ったら、暗闇板をのぼりきったところでずどんと雨が降りだした。
 あわてて近くの薬局で傘を買う。駅に戻って地下鉄に乗ろうと思ったが、あんまり雨が激しいので、もっと見ていたくて、アマンドに入る。夜のスコールですね、と言いあいながら、一緒にいた歌人のM原さんと、ガラス越しにじっと雨を見つめる。

六月某日 晴れのち雨
 夕刻、近くのスーパーマーケットに行く。フランスパンを一本とトマトを三個ときゅうりを五本。表通りを歩いているときに雨がひとつぶふたつぶ頭に落ちてきたと思ったら、横道に曲がったところでずどんと雨が降りだした。
 あわてて走ろうかとも思ったが、なんだか面倒で、それまでと同じペースでぺたぺた歩きつづける。家に帰ってから見ると、トマトときゅうりが露をふくんでとてもみずみずしくなっていて、よろこぶ。ただしフランスパンまでもがしっとりしめって露をふくんでいるのには、まいった。

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