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医師たちの独白
渡辺淳一

   四月の風見鶏

 毎年、四月の初めになると、私はかすかな不安に襲われる。
 それは特別心配ごととか、不安といったはっきりしたものではない。ただなんとなく、こんなことをしていていいのかなあといった、漠然とした焦りのようなものである。
 この心のざわめきは、ある時突然、なんの予告もなしに現われてくる。それはたとえば花曇りの午後、静まりかえった屋敷町の石塀に沿って歩いている時とか、南風が頬をかすめていく夜更けのこともある。
 こんな時、私は無意識に、「どうしよう」とか、「帰ろうか」などとつぶやいている自分に気がついて驚く。
 自分の横に、もう一人の自分が歩いているような錯覚にとらわれるのである。
 鬱病ならともかく、そうでもない私が、花時の薄曇りのなかで、こんな不安にとらわれるのは奇妙である。皆が花に誘われ、浮かれ歩く季節に、一人だけ理由もない不安にかられるのは、精神の衛生にもよろしくない。
 だがそうは思いながら、一方で、私はこの心のざわめきを楽しみ、懐かしんでいるようなところもある。
「また出てきたのか」と声をかけ、「今年はいつごろまで続くんだい?」と、自問自答する。
 いつのまにか、四月の不安が私の季節感になり、友達になっているのである。
 考えてみると、この心のざわめきがはっきり私に訪れるようになってから、もうかれこれ五、六年にもなろうか。
 それがきまって花曇りの四月に訪れるのは、一つの理由からではないのかもしれない。小学校の時から何度となく迎えた新しい学級への不安、国家試験を控えた焦り、医局に入る時の怯えなど、さまざまなものがまじっているのかもしれない。だがそれ以上にはっきりしていることは、この季節に、私が三十数年間、住んでいた札幌を離れて、東京へ出てきたという事実である。
 この時、私は長年勤めていた大学病院をやめて、単身で東京に出てきた。
 もちろん、どこに勤めて、どうやって食べていくという当てもなかった。
 東京は学生時代から幾度か来て、インターンの時に一年間もいたのだからまったく未知の土地とはいえないが、ここで住み、生活していくという実感には乏しかった。
 いつも来てすぐ帰るという旅人の眼でしか、東京を見ていなかった。
 それが今度だけは、ここに根をおろそうと思ったのである。はたして、小説なぞ書いて食べていけるのか。皆目わからぬまま、ともかくここに住むより仕方がないと、覚悟をきめてきたのである。
 故郷を捨てて、とか、雄志を抱いて、というのにはほど遠い、なんとなく行きがかり上、札幌にいたたまれず、東京へ出てくることになったまでのことである。
 その時、私はすでに三十の半ばであった。
 自分では納得していたつもりが、いざとなると怖気づいていた。
「これでいいのかなあ」という悔いと、「どうなるのだろう」という不安があった。
 それが四月の花曇りのなかで揺れていた。
 いまに残る四月の不安は、おそらくこの時の私の焦りと無縁ではありえない。

 私が札幌を出るときめた時、周りの者がみな不思議がり、反対したのも無理はない。間違いなく、それは私自身にとっても突飛なことであったのだ。
 そのころ、私は札幌医科大学の整形外科の医師だった。すでに学位をとり、講師であったから、三十半ばにしては順調なほうだった。
 あまり勉強もせず、怠け者だった私が、若くしてそんな地位につけたのは、優秀な先輩が医局を出たという幸運があったうえに、主任教授のK先生が、私をかいかぶってくれたからかもしれない。
 このK先生は詩人で、金子光晴氏の高弟でもあった。すでに全国的にも名がとおり、札幌オリンピック讃歌、「虹と雪のバラード」の作詞者でもある。
 私がこの先生の教室に入ったのには、特別の理由はない。
 ただ、強いてあげれば、私は生来音痴で、歌うほうにはもちろん、聴くほうも自信がなかったので、聴診器をあまり必要としない科に行きたいと思ったのである。
 そう考えると、まず外科系で、それなら詩人のK先生のところということになったのである。
「あの先生の下でなら、たまに小説ぐらい書いても文句はいわれないだろう」
 そんな気軽な気持から整形外科に入ったのだが、結果はほぼ私の予想どおりであった。
 K先生は私が「くりま」という同人雑誌に入り、ごくたまに小説を書いているらしいことは知っていたようだが、それについてはなにもいわなかった。
 それより、自分の主宰されている「核」という雑誌を時たまくださって、「合評会があるから来てみないか」と誘ってくれた。
 私は出席してみたい気持はあったのだが、どうにも詩は苦手であった。一度、校友会雑誌に変名で詩を発表したことがあったが、それはいまみても、つまらないものである。
 ともかく、こうして整形外科の医師になったのだが、入局して六年経った四十年の末に、私の「死化粧」という短篇が新潮同人雑誌賞を受け、それが芥川賞の候補になるという事件が起きた。
 まったくこれは事件というのにふさわしかった。
 この作品は「くりま」に私が三作目に発表したものだが、仲間が、「駄目でもともとだから、出すだけ出してみたら」といわれて応募したものである。
 それが賞を受け、芥川賞候補になったのである。私自身、まるで狐につままれたような気持だった。
 新潮同人雑誌賞のほうはともかく、芥川賞については医局の連中も知っていた。
 私がその賞の候補になったときくと、同期の一人が、
「へえ、芥川賞ってのはずいぶん簡単なものなんだなあ」といった。

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