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眠狂四郎独歩行 上
柴田錬三郎

   黒い爪

     一

「は、はっ、はっくしょいっ!」
 大川をゆっくりと漕ぎのぼっている屋形船の艫で、途方もなく大きなくしゃみをした船頭が、水っ洟をすすりあげてから、
「旦那──」
 と、中の客へ声をかけた。
「降って来やしたぜ、白いのが……」
 返辞はなかった。炬燵が設けてあり、それに、寝そべって、うたた寝でもしているのであろう。
 年が明けて、もう初卯が来ていた。げんに、この屋形の廂にも、柳の小枝に縁起品をつるした繭玉が、とりつけてある。
 大晦日から、ずうっと、つめたい曇空がつづいていて、江戸の人々は、畳の目ひとつずつのびて来る明るい陽ざしを、心待ちにしていたのであったが……。
 旧を除き万戸あらたまった街を、おさえつけるように、ひくくさがっていた灰色の曇空が、幾日も、何もおとさずに、動かずにいるのが、ふしぎなくらいであった。
 ……雪片は、この屋形船を、追いかけるように、沖の方から、ひらひらと、舞って来た。
「こん畜生、どうせ銀世界にしやがるなら、明後日の藪入りにしてもらいてえや……。明後日は、懸想文をくれた石町の呉服屋の女中の下紐を、柳橋の舟宿で、解いてやる約束が、できているんだ。花のおもいは雪の中、ほんのり見ゆるふくみ紅、とくらあ。あだとなさけを白梅に、恋にはめげぬ水仙も、まだ春をひと重の笠やどり──、正真正銘の処女だあ。へへ……そのつぼみのひらかせ加減が、むつかしいや」
 もうひとつ、くしゃみをしてから、
「相棒野郎ども、どこかで、そねんでやがる。……旦那、どっちへ、着けやす? 御厩河岸に来やしたぜ。東ですかい、西ですかい?」
 と、訊ねた。
 返辞のかわりに、屋形の障子が開かれ、彫のふかい、蒼白な貌が、空を仰いだ。
「……今日は、散るかな?」
 ひくく、独語をもらした。
 眠狂四郎は、仰臥して、目蓋をとじているあいだ、一枚の木ノ葉のことを、想っていたのである。
 冬至がすぎて、江戸へ、戻って来て、借りた家の、猫の額ほどの庭に、あまり高くない朴の樹が、一本だけ植えられていた。狂四郎が、入った時、あらかた葉がふるわれていたが、それでも、十数葉が、散りのこっていた。
 それが、日に二、三葉ずつ、舞い落ちて、四、五日前から、たった一枚だけ、梢にのこって、ふしぎに、散ろうとしないのであった。
 朝、起き出た時とか、夕にふらりと帰って来た時に、まだそこにあるのを、眺めると、なんとなしに、ほっとする──そんな無為なくらしを、狂四郎は、していたのである。
 人は誰しも、独居の静かな気分で、物と向いあえば、なぜか、その物と心の通いあう思いがするものである。
 朝夕、その残り葉を眺めやって、狂四郎は、おのが罪業深い身にひきくらべていたのである。

 御厩河岸の渡しで、屋形船をすてて、河岸道を、ゆっくりとひろい出した時、雪は、急に、はげしく舞いはじめて、視界を包んだ。
 川面も、もやい舟も、石崖も、そして両岸にならんだ建物も、みるみる、音のない、白い、冷たい、無数の雪片の中に、溶け込んだ。御米蔵が、棟をならべている河岸道は、平常でも、昏れかけると、人影が絶える。雪を迎えて、もうここには、辿って行く狂四郎の孤影があるばかりであった。
 御米蔵の五番堀をこえて、俗謡によく出て来る首尾の松のかたわらを過ぎようとした時──。
 急に、狂四郎の神経が、冴えた。
 気配を感じたのでもなければ、殺気をあびたわけでもないが、無数の死地をくぐり抜けた者のみが持っている独特の本能の働きが、狂四郎の身うちにあったのである。
 ──来るぞ!
 これは、それほど何気なく、無心の状態で、足をはこんでいたおのれに、突如として、下している霊感的な警告であり、同時に、全身に襲撃に対する備えができていた。
 歩調もかえず、ふところ手のままで、静かに、濡れた道をふんで行く不敵さは、この男でなければ、できぬことであった。
 そのまま……十歩ばかり歩いて、不意に、狂四郎の五体が、旋風のように翻転した。
 二間を奔って、ぴたりと立ち停った時、すでに、右手には、一颯の刃風を起し了えた無想正宗が、携げられていた。
 冷たい双眸は、霏々として舞い散る雪片を透して、河岸道の、遠くへ据えられていた。
 迫っていた者は、機先を制して襲いかえした狂四郎に、一合も白刃を交えることなく、音もなく遁れ去っていた。狂四郎の網膜に、映像ものこさぬくらいの素迅さで──。
 対手が、襲撃して来るまで、こちらからは、絶対に先に斬らぬ──それが、これまで、まもられた狂四郎の作法であった。
 そのならわしを敢えてやぶったのは、十歩をあゆむあいだに、なぜか、脳裡に、迫って来る者が、人間ではなく、奇怪な化生のように、ふっと、感じられたからである。
 狂四郎は、視線を、一間ばかりさきの地面へおとした。そして、歩み寄って、ひろいあげてみた。
 小指であった。微かな手ごたえがあったが、斬り落したのは、これであった。
 ──やはり、人間様であったか。
 しかし、人間のものに相違はなかったが、その爪が、漆黒であったのは、不審を起すに足りた。
 のみならず、わが家に戻って、あらためて燈火の中で検べてみると、あかりを吸って、珠玉のように、きらと、光を反射させたのである。

     二

 翌朝、起き出て、手水を使いおわって、何気なく、顔を擡げると、あたかも、それを待っていたように、朴の梢から、その最後の一葉が、はなれて、ふっくらと白い冷たい綿を敷いた地上へ、ひらひらと、落ちて来た。
 降りしきった夜のあいだ、じっと、梢にすがっていて、雪を落して雲が去った今朝、まぶしいくらい明るい陽ざしが満ちた、澄んだ空気の中を、音もなくはなれた一葉に、狂四郎は、微笑を送った。
 しかし、その微笑は、すぐに、おさめられなければならなかった。
 ふんわりと、雪の上に横たわったそれには、墨くろぐろと、何か書いてあるようであった。
 足駄をつッかけて、近より、ひろいあげてみると──。
「右手円を描き、左手方を画けば、両乍ら成る能わざるものを、放埒の所業を積みて猶その剣の衰えざるは、三嘆すべし。あらためて、雌雄を決せん。時、本日申下刻。処、猿江村金勢明神境内」
 細字で、達筆にしたためてある。
 昨夜の曲者の挑戦状であった。
 狂四郎の面上を、鋭い色が掠めた。
 これまで、果し状をつきつけられた経験は一再ならず持っている狂四郎であった。それだけならば、対手が何者であろうが、「またか──」と、思うだけのことである。応じてやらねばならぬ義理がなければ、すてておくまでのことであった。武士道の吟味をふんで生きてはいないのである。また、真剣の立合いをもって開眼をめざす兵法一途の志があるわけではなかった。卑怯とののしられることには、一向に苦痛をおぼえぬ男であった。
 狂四郎が対手を許せぬと、思ったのは、おのれの孤独な感慨の中に土足でふみ込んで来た無礼であった。
 朴の梢に、ふるいのこされた一枚の葉に、ふと感慨を託したのを、対手は、物蔭から、
気配をひそめて、見とどけていたのである。
 その葉に、挑戦状をしたためて、面前で散らせてみせた小細工は、断じて、許せなかった。
 また、こうすれば、必ず、こちらが憤って、挑戦に応ずると、北叟笑んだ対手を悪まずにはいられなかった。
 胸中に蔵する一片の冰心を、こちらからあらわす場合は別として、対手に見透され、そして、それを利用されるのは、堪え難かった。
 ……策に乗せられる、と知りつつ、狂四郎の心は、きまった。

 猿江村のはずれの森の中にある金勢明神は、いつの頃に、建立されたものか、さだかではない。
 明暦の頃とも、元禄の頃とも、称われている。陸中岩手郡から、飢饉のために、逃散して来た百姓が、運よく、江戸で大金持になり、故郷にある金勢明神を、移し祭ったらしい、と伝えられていた。
 たしかに、岩手県巻堀には、今でもなお、それが在る。「東山誌」に、「巻堀村左の方松の大木八本あり。其処の民家に惣七金勢明神を祭れり。この神いつの頃より祀れるということを知らず。神体は唐金をもって造れる男根にて、土俗伝えて謂う、この村の少女十三、四歳になれば、一夜夢中におそわるる事あり、これ金勢神の淫瀆なすが故なり、という。中古、一霊人、この犯罪を悪みて、鉄の鎖をもって繋ぎたりと雖も、なおその淫瀆を輟めず、時に遊行をなす」とある。
 一時は、この金勢明神も、大いに祭祀をさかんにしたようであったが、近時は殆ど廃れて、詣でる人も稀であった。
 決闘の場所として、淫祠をえらんだ対手の意を、怪しみながら、狂四郎は、雪の重さによろめいたように傾いた古鳥居をくぐった。陽がさしたのは朝のうちだけで、午後から、また雪空になり、狂四郎が家を出る時には、白片が、せっかく溶けかけた地上へ舞い落ちて来ていた。
 人の詣でたけはいのない境内の一端に立ちどまった狂四郎は、急に、眉宇をひそめた。
 微かな戦慄が、ふいに、背すじを匐い下りたのである。
 そこに、何かをみとめた次第ではなかった。百坪あまりの境内は、ただ、いちめん、白一色に掩われているにすぎなかった。にも拘わらず、とぎすまされた狂四郎の神経が、ものさびしい雪景色の中に凄まじい殺気が、凍りついているのを、さとったのである。
 自分の到着する直前に、血みどろの闘いが、演じられた!
 直感したのは、そのことであった。
 昏れなずむたたずまいがたもっている静寂は、死の世界である。雪は、その上へ、さかんに音もなく降りつもっている。
 狂四郎の視線は、白い地面を動いた。あきらかに、それは、ふみ荒された跡を、一刻小やみなく降りつづいている雪が掩ったものである。足跡とおぼしい、あるかないかの凹みに近寄って、雪を蹴ちらしてみると、はたして、黒く凝結した血潮が、その下から、あらわれた。
 あらためて、ていねいに点検した狂四郎は、決闘が、数人ずつの達人たちによって、行われた、と判断した。
 そのうち、二人や三人は、仆れたに相違ない。それぞれが、その屍体をかつぎ去って、何ひとつ、証拠をのこしてはいないのであった。
 ──おれに果し状をつきつけた徒党に、別の徒党が襲撃したというのか? それとも、仲間割れか?
 いずれにしても、わけのわからぬ事態に対して、狂四郎は、永い時間をさくことの無駄を知っていた。こちらを、おびき寄せる何かの仔細があった以上、このまま、対手がたで、ひきさがる道理がないのである。こちらは、待って居ればよいのである。
 狂四郎は、立ち去ろうとしかけて、ふと、思いかえして、かたちばかり建ちのこっている社殿へ、近づいて行った。

      三

 唖然としたことであった。
 祝言の夜の新牀が、社殿の内に設けられてあったのである。
 華やかな松竹梅の模様の褥が、天一生万物始と表わす作法通りに北枕に敷きのべられ、鴛鴦の屏風が、枕もとにめぐらされ、鶺鴒の島台、若松の肴台が据えられ、褥の裾には、犬張子まで置かれ、万端ととのって、これは、士分でもよほどの高い身分の家のしつらいであった。
 屏風わきのぼんぼりに燧石をきって、このしつらいをあかるく浮きあげた狂四郎が、──狂気の沙汰でない以上、これには、何か大きな陰謀がめぐらされている。
 と、予感したおり──。
 鳥居をくぐって来る行列があった。
 花嫁の輿入れであった。
 狂四郎は、それを、大きな商家の豪気な行粧と見てとって、屏風の蔭に、身を沈めた。行列は、黙々として、社殿の前に到着すると、輿と幾棹かの長持を、雪の上に据えておいて、無言裡に、あとへさがった。利運を願う婿がわの輿請取りの式の用意がない以上、輿入れがわが、悄然として、怯気をしめしているのは当然であったろう。
 一斉に、柏手を打って、拝礼した一行は、一人として口をひらく者もなく、ひきかえして行った。
 狂四郎は、階を降りて、無造作に、輿の扉をひらいた。
 綿帽子を被り、千代重ねの白無垢をつけた花嫁が、その中に、いた。
 狂四郎は、黙って、その片手を把った。花嫁は、なんのためらいもみせず、すなおに、輿を出ると、おぼつかなげな足どりで、階をのぼった。但し、狂四郎にあずけた細い指は、絶えずわなわなと顫えていた。
 狂四郎は、花嫁を、島台わきに坐らせると、
「そなたは、人身御供の覚悟はできているようだな?」
 と、訊ねた。
「はい──」
 花嫁は、うなずいた。
 青年が久しく、安逸に狎れ、惰弱に傾けば傾くほど、人間の惑信は、いよいよ多きを加えるが、人身を犠牲にするような残酷な振舞いだけは、全く跡を絶ったはずであった。辺僻の地ならいざ知らず、この江戸の市中に、人身御供が、ものものしく、行われていようとは!
 この廃社の中に、邪神と詐った何者かがひそんで、この人身御供の到着を待っていた。すると、突如、これを襲撃して来た者たちがあった。凄絶の闘いののち、双方とも、仆れ、傷ついて、去った。そのあとに、おびき寄せられて、この眠狂四郎が来て、はしなくも、人身御供を渡されたのである。
 ここまで、筋は読めた。
 ──邪神の婿になりすましてみるのも、わるくはない。ふと、冷やかな心が、うごいた。
「ここには、祝言の座は設けられておらぬ。献酬の式もない。寝所として、床盃の儀のみがある」
 狂四郎が言うと、花嫁は、微かにうなずいて、そろりと立った。
 狂四郎は、女が、むこう向きになって、綿帽子をぬぎ、白無垢を肩からすべりおとして、目もあやな紅小袖すがたになるさまを、じっと見まもっていたが、
「そなた、盲目か?」
 と、訊ねた。
「はい──」
 むきなおって、坐った女の双眸は、かたくとじられていた。
 眉も鼻すじも唇も、あまりに繊細につくられていて、ふれれば、くだけそうな、影うすい貌であった。透るように白い、こまやかな肌理も、むしろ儚なげであった。
 狂四郎は、つと、片腕をのばして、ほっそりとしたからだを抱きとると、掛具をはねて、かるがると、仰臥させた。
 次で、なんのためらいもなく、その裾を剥いだ。
 緋縮緬の二布を、するすると、捲りあげるや、裂くように、ぐいと、片膝を立てさせて、おし拡げると、鋭い眸子を、内腿へあてた。
 そこに──。
 物ごころついて以来、やわらかな生絹や練絹で掩われて、処女の羞恥をその奥に秘かに息づかせて来た、ふっくらとした餅肌に、あざやかな、小判大の朱の痣が、浮きたっていた。
 いや、それは、痣ではなく、刺青であった。
 のみならず、将軍家の家紋である葵であったとは!
 ──これか!
 狂四郎も、流石に、息をのんで、凝視した。
 狂四郎をして、この無頼の振舞いをさせたのは、女が立居のたびに、ほのかにただよわせた、えもいわれぬ香のゆえであった。
 それが、女の裳裾からもれ出るとさとって、容赦なく、剥いでみたのである。
 香は、葵の刺青から、ただよい出ていた。
 狂四郎は、裳裾を合せてやった。
 盲目の哀しさで、両手を顔にあてることも知らずに、女は、堪え入りたげな風情を、白い貌に刷いて、全くの無抵抗であった。
「そなた、どこの娘だ?」
 狂四郎は、冷たい語気で、問うた。
 女は、三十三間堂町に、大きな店を構えた材木問屋木曽屋の養女であった。田鶴、といった。
「そなたの家に、近時、何かの祟りとしか思われぬ不幸な変事がひきつづいた。飯綱つかいか巫女口寄せのたぐいを招いて、祖先の犯した罪をあばいてみたか、それとも売卜者に八卦を見させたか。この金勢明神に、養女のそなたを人身御供に上げれば、たちどころに、運が転換する、と出た。そうだな?」
「は、はい。この金勢様を建立いたしましたのは、うちの先祖で、ございましたので……」
「ふむ。祭祀をおこたっていた祟りだ、と占われたか」
 狂四郎は、冷笑した。
 もとより、数百人も人足を使う大商人のことであった。たった一人の養女を、人身御供にするなど、世間ていをはばかるし、飯綱つかいも、巫女も、売卜者も、招いた連中が、ことごとく同じ占いを出しても、頑として、承知しなかった。ところが、かねて懇意にしている心学者布勢鳩翁という人物に、向島の別邸を講筵に貸して、店の者たちに聴かせた際、このことを打ち明けたところ、
「輿入れは、ただの形式で、一夜、置いて、もらいさげてくれば、田鶴さんの目もひらくかも知れんぞ。一石二鳥、ということも考えられるではないか」
 という返答に、木曽屋も、ついに決意して、世間のものわらいを承知の上で、こうして、行列をねって来たのだ、という。
「そなたは、わたしを、まことの金勢明神の化身と、思ったのか?」
「はい──」
「からだもきれいなように、心も無垢のようだ……。股のいれずみは、いつ、彫られた?」
 その尋問に対して、田鶴は、当惑の表情をしめした。
「おぼえがないというのか?」
「…………」
「物心がついた時には、すでに、彫られていたのか?」
「はい──」
 田鶴は、木曽の山中の、木樵の娘として生れた。十二歳の春、立木の買いつけに来た木曽屋に、その器量を愛でられ、盲目をふびんがられて、思いがけぬ幸運を与えられたのであった。葵の刺青は、木樵小屋に、父と二人きりで住んでいた頃、十日あまり、神かくしに遭ったあいだに、されていたのである。どこに、どうやって、つれ去られて、すごしたか、田鶴自身も、記憶がなかった。われにかえった時には、小屋にもどされていたのである。盲目には、そのおりになっていた。
 刺青は、昂奮して、肌が無くなると、匂うた。
 この秘密は、実父が知っているばかりで、木曽屋では、養父をはじめ、だれ一人、気づいていない、という。
 その芳香をかいで、きょろついた者はいたが、よもや、田鶴の股間から、ただよい出ようとは、想像だにしなかったのである。

     四

 次の朝、狂四郎は一人で、木曽屋におもむいた。
 木曽屋に、重大な異変が起った、と判ったのは、その店さきに立つまでもなかった。
 十数町もはなれた仙台堀を辿っている時、仕事師らしい男が二人、血相変えて、追い越して行き乍ら、
「木の葉が沈んで、石が浮く世の中よ。木曽屋の旦那が、いってえ、どんな恨みを買ったってんだ。畜生っ!」
「まったくだ。あんな立派な人柄は、お釈迦さんと孔子様が、三年相談してつくったって、容易にできあがるものじゃねえ」
「下手人の野郎、とっ捕まえたら、獄門首にするだけじゃ、腹の虫がおさまらねえや。日本橋の晒場で、鋸鎌の一寸きざみ五分だめしにしてやらざあ!」
 と、言い交わしているのを、きいたのである。
 行ってみると──。
 十間間口の大きな構えの店の前は、荒縄がはりめぐらされ、ものものしい与力同心の捕物出役の光景であった。
 木曽屋の主人夫婦をはじめ、店の者二十余人が、昨夜のうちに、無慚にも、鏖殺にされていた、という。
 いずれも、ただの一太刀で斬られていて、救いを外にもとめるいとまもなかった、と判断された。事実、近隣の家では、異変の物音らしいものを、全くきいていなかった。
 狂四郎は、それだけ知れば、店の中を覗いてみる興味もなく、黒山に蝟集した群衆から、はなれた。

 盲目の養女に、その不幸を告げるべきかどうか、まよい乍ら、まっすぐに、わが家へ戻って来た狂四郎は、木戸をくぐろうとして屋内に、悲鳴をきいた。
 どんな悽惨な修羅場裡に在っても、冷静な判断力を喪ったことのないこの男が、珍しく、憤然となって、身を躍らせたことだった。
 田鶴を拉致しようとしていたのは、下級武士の装をした、覆面の人物であった。
 躍り入って来た狂四郎にむかって、田鶴をつきとばしておいて、一刀を青眼にとるまでの一動作に、なみなみならぬ腕前を示しつつ、
「待て! 眠狂四郎、話が……」
 ある、とまできかずに、狂四郎は、無想正宗を、抜きつけに、対手の胴へ、送っていた。
 よろめいて、床柱に凭りかかった対手は、かぶりをふって、
「ちがう!………ちがう!………敵は、ほかに、ある。……誤算だ!………お、お主でなければ、斬れぬ敵、とみて、行かせたが……お、おそかった。誤算だ──誤算……」
 呟くように、言って、ずるずると、崩れ落ちた。狂四郎の視線は、畳へ置かれた右手の小指へ吸い寄せられた。
 その小指の爪は、昨日の黄昏どき、雪の中で斬り落した小指のそれと同じく、光沢のある漆黒であった。
 狂四郎は、謎の渦の中にまき込まれた微かな不快感を、おぼえつつ、しばらく、じっと、その黒い爪を見下ろしていた。

 

   第一の死

      一

 古風な燭台が、ひとつ──。
 黙然として端坐した五名の人物の正面で、ひそやかなまたたきを、つづけている。燈心が、じじ……と焼ける音が、はっきりと、ひびくくらい、部屋の静寂は、ふかいのであった。
 五名の人物は、もう四半刻も、こうして、おし黙って、坐りつづけているのであった。ささやきも交わさぬばかりか、身じろぎさえもせぬ。
 燭台の乏しい灯のまたたきにつれて、うしろの壁に映った五つの巨きな影法師が、ゆらゆらとゆらめくさまが、微動だにせぬ実体と、対蹠的であった。これは、いっそ、陰惨な静寂なのであった。
 どの風貌も、凡庸であった。一瞥しただけでは、なんの印象ものこらぬ──その特長のない、ぼやけた造作が、共通したものであった。
 共通したもの、と言えば──。
 その膝に置いている右手の、小指の爪が、ただ一人を除いて、光沢のある漆黒であることだった。
 左端の者だけが、小指に黒い布を巻いていた。
 この重苦しい沈黙は、彼らが、何かを待っているのを意味した。待たせているものが、彼らを、そうさせているのであった。
 やがて──。
 遠く、廊下を近づいて来る跫音に、彼らの面上が、等しく、微かな色をうごかした。
 入って来たのは、黒い布で、顔を包んだ武士であった。武士といっても、熨斗目や紋服をつけているわけではなく、きわめて粗末な鼠色の木綿ものを着て、たっつけをはいていた。
 上座に就く。
 しかし、双方に挨拶はなかった。五名は、ただ、その人物に、視線を聚めただけである。
 覆面の蔭から吐かれた声音は、ひくく、冷たかった。
「わが党の闘いは、第一の挫折をみた。第二、第三の挫折も、覚悟せねばならぬ。お主たちが、力足らぬのではない。敵が、ただの敵にあらざる所以だ。……木曽屋の養女を、金勢明神に人身御供としてさし出させ、祝言を挙行せんとする企てを、さぐりあてたのは、すでに半月も前であった。これを襲って、敵を拿捕する手筈に、遺漏なきを期するに充分ではあった。然るに、お主ら一騎当千の士が、八名で、襲って、捕えることはおろか、討ち取ることも叶わず、味方二名が殪された。敵は、ただの二名にすぎなかったにも拘わらず、わずかな手傷を負わせるにとどまったとは、腑甲斐ないと申すもおろかであろう。のみならず、敵は、木曽屋が、わが党にすがったと憤って、これを鏖殺にするの凶行を敢えてした。……われら黒指党は、傾ける幕政の支柱たるべく、白河楽翁公によって、ひそかに組織され、隠密裡に、二十余年の習練を積んだ。お主らは、旗本八万騎の子弟の間から、特にえらばれて、元服とともに組み入れられ、甲賀、伊賀の里で、十年の修業を重ねた挙句、日本全土をひと巡りした後、正式に党員に加えられた御仁たちである。党規に則って、身を処すに、これほど厳しい組織は古今にその比を見ず、また、一糸みだれざる秩序と統率の下に、わが党が、公儀に尽したかげの働きは、ひそかに記録して、後世に伝えるに足りる。……然るに、このたび、人面獣のごとき曲者どもが御府内に出現し、跳梁するにおよんで、わが党は、はじめて、結集せる力をもってしてなお、およばざる敵が、この世に存在したのを思い知らされた」
 ここで、覆面の人物は、いったん口をつぐんだ。五士は、殆どなんの感情もおもてに示さずに、統率者を、見まもっているばかりである。
 黒指党。
 この秘密組織を知る者は、公儀の中でもごく尠ない。いや、党員たちですらも、どれだけの頭数をもって組織されているか知らなかった。ひとつの目的を遂行するために集められる場合、常に、きわめて限られた頭数であり、互いにその姓名さえも知らず、十指のうち、同じ指の爪を黒く染めているのを看て、同じ任務を命じられた、とさとるばかりであった。
 すなわち。
 時には、母指を染めて集まり、また別の場合には、中指を染めていた。母指を染めた者と中指を染めた者が、たまたま何処かで行き会うたとしても、これは、なんのつながりもない、そ知らぬ他人でしかなかった。
 このたび、小指の爪を染めて、集まったのは、十二名であった。
 そのうち、すでに、七名が、仆されていた。
 その敵とは──。
 誰人もまだ、その正体を知らなかった。いわば、惑信上の化生が、堂々と市中を横行しはじめた、としか受けとれないほど、奇怪な敵であった。
 幾名かが、かたく結集した徒党と推測されるが、その面貌をしかと見とどけた者はなく、また、なんの目的をもって跳梁するのか、不明であった。
 あるいは、黒指党を指揮する人々には、おぼろげながら、その正体が判っているのかも知れなかったが、党員たちには知らせていなかった。
 党員たちにわかっているのは、敵は、決して、二名以上では行動せぬことと、その闘いぶりが、文字通り超人的であることであった。
 げんに、金勢明神境内において、八名をもって包囲しつつ、二名の敵の、目に見えぬ翼でも所有しているかのごとき飛翔の術に、幻惑されて、とっさに、応変の戦法をとることさえ及ばなかったのである。(あとから来た眠狂四郎が、雪の上を点検して、数人ずつの達人によって、決闘が行われた、と判断したのは、狂四郎の未熟ではなく、敵二名が、五名とも六名ともかぞえられる飛翔の術を使ったからであった)
 覆面の統率者は、再び、口をひらいた。
「わが党の結集せる力をもってしてなお、およばざる強敵が、この世に存在する、と率直にみとめることは、よい。さればと申して、これを討つに、他の力を借りようとした者が、党の内にいたことは、断じて、許し難い!」
 厳然として、そう言った時、はじめて、左端の者の無表情が、崩れた。
 雪の中を、眠狂四郎のあとを尾けたのが、この党士であった。もう一人の同志と、ひそかに語らって、狂四郎をして、その奇怪の敵に当らせようと、画策して失敗したのである。もう一人の同志は、木曽屋の養女を拉致しようとして、狂四郎に、斬られた。
「水無月!」
 覆面の統率者は、小指を喪った者を、鋭く呼んだ。
「前へ出い!」
 正面へ進ませて、頭巾の蔭から、刺すように、眸子を据えると、「お主は、眠狂四郎を遣ったおかげで、狂四郎の魔剣を知る敵がひきさがり、木曽屋の養女が犯されずに済んだ、と申したいのであろう?」
「…………」
「たわけっ!」
 一喝とともに、腰の脇差を、抜きうちに、水無月の頸根へ送った。
 のど皮一枚のこして、首は、抱き首にがくりと、膝へ落ちた。

      二

 眠狂四郎が、木曽屋の養女田鶴を預けたところは、西丸老中水野越前守忠邦の側頭役武部仙十郎の役宅であった。
 三日間を置いて、様子を見に、狂四郎がおとずれると、五尺足らずの、額と頬骨が異常に突き出した、みにくい風貌の、この老人は、例によって、意外な出来事を告げるのに、にこにこし乍ら、こともなげであった。
「あずかった娘が、昨夜、庭へさまよい出て、縊れようといたしてな」
「…………」
 狂四郎は、眉宇をひそめた。木曽屋が鏖殺にされたことは、まだ教えていなかったのである。
 仙十郎は、皮肉な目つきで、狂四郎を見やり乍ら、
「それが、おもしろいことに、縊れようとした娘を救ったのは、当家の者ではなかった」
「……?」
「一昨夜、曲者めが、忍び込んで参ってな、娘を犯して、立ち去り居った」
「それは!」
「わしを責めてもはじまらぬぞ。曲者めは、通り魔と申してよい奴であった。この目ざとい爺さんに、気配すらも感づかせずに、すうっと忍び入って、また、すうっと、消え居った。夜明けて──つまり、昨朝じゃな、覗いてみると、どうも娘の様子が面妖しい。
問うてみたが、返辞もせぬ。すてておいたところ、宵になって、庭へさまよい出て、手ごろの松を手さぐって縊れようといたした。これを目撃して、救ったのは、いったい何者か、判るのか?」
「再び忍び入って来た、その曲者ですか」
「うまい! 図星じゃ。曲者め、娘を、部屋へ、かかえ戻すと、どうじゃ、またもや、なぐさんで、逃げうせ居った。まことに、ご念が入った痴情沙汰と申すべきではないか」
 狂四郎は、しかし、そのことにあきれるかわりに、別のことを考えていた。
 ──なぜ、田鶴を拉致しようとせずに、ただ犯して、去ったか?
 勿論、再度侵入して来たことも、大きな疑問をのこす。田鶴が自害するかも知れぬ、と懸念して、これをくいとめに来た、とは受けとれぬ。
「どうも、奇妙な因縁を背負っているらしい娘をつれ込んだものだ。白状させるのに、一昼夜つぶしてしもうたぞ」
「老人!」
 狂四郎は、うすら笑みをうかべて、言った。
「お目にかけたいものがある。娘のところへご案内ねがおう」
 奥のその部屋に入った狂四郎は、ただならぬ怯えたそぶりをしめす田鶴へ、冷やかな眼眸をあてた。
 ──恐怖が、まだ去りやらぬ、という風情ではない。この怯えかたは、われわれに対するものだ。
 そう見てとりつつ、
「そなたは、襲うた者が若かったかどうか、わかっているか?」
 まず、それを訊ねてみた。
 うなだれた田鶴は、狂四郎に辛抱づよく待たせる時間を置いてから、かぼそい声音で、
「若い人のように存じました」と、こたえた。
「そなたを扱う態度は、粗暴であったか、それとも、優しかったか?」
「…………」
「こちらは、無駄なことは、尋ねて居らぬ」
 狂四郎は、すこし語気をつよめた。
 田鶴は、哀訴するように狂四郎に顔をむけ、すぐまた、俯向いて、
「……やさしゅう、ございました」
「おのれを、金勢明神の化身と言ったか」
「いえ──」
「そなたは、昨夜、自害しようとしたところをさまたげられて、また、犯された。そのおり、男は、そなたを、叱ったり、なだめたりしたか?」
「は、はい──」
「なんと申した?」
「……前世から、夫婦になるように、さだめられていた、と──」
「さむらいの言葉で、言ったか?」
「はい」
 仙十郎は、遠い座に就いて、この問答をきいていたが、
「女房にする存念ならば、何故に、さらってにげなかったかの」
 と、呟いた。
 狂四郎は、別のことを考えているらしく、しばらく、じっと田鶴を見据えていたが、不意に、すっと、迫った。
 田鶴は、当て落されて、他愛なく、狂四郎の腕の中に、崩れた。
 畳の上へ、仰臥させておいて、狂四郎は、無造作に、裾をはぐった。
 めくりあげられる赤い下着の下から、白い脛が、膝が、太腿が、あらわになった。
 片膝へ手をかけて、ぐいと、押し拡げた狂四郎は、仙十郎に、
「見られい」
 と、促した。
「淫瀆神が犯すと、おもしろい傷痕でものこすかの」
 言い乍ら、立って来た老人は、その内腿に、鮮やかに浮きあがった朱色の葵の刺青を発見して、思わず、
「ほう!」
 と、窪んだ目を瞠った。
「これは、異なものだの!」
「血がさわいで、肌が熱くなれば、これから芳しい香を放つしかけになっている、と思われたい」
 そう告げた狂四郎は、老人のみにくい面貌が、何か思いあたるふしがあるらしい表情になるのを、みとめた。
 仙十郎は、猿臂をのばして、その柔らかな刺青を、つまんでみてから、狂四郎を、見かえり、
「謂れを、きいたかな?」
 と、訊ねた。
「幼い頃、神かくしに遭うた時、彫られたということです。当人には、なんの記憶もなく、盲目には、その時、なった由」
「ははあ……これも、似て居る」
「似ている?」
「川越城主の松平大和守の息女のからだに、葵の御紋そっくりの朱痣がある、という噂をきいたことがある。その息女もまた、五、六歳の頃、乳人につれられて、向島の百花園へ遊びに参った時、千種の花の中に、すがたをかくしてしまい、供の者どもの躍起な探索にも拘わらず、ついに、行方不明になってしまったそうな。一月後に、下屋敷の庭に、しょんぼり立っているところを、女中が見つけて、仰天した、という。……似て居るではないか。大和守の息女もまた、神かくしのあいだに、刺青をほどこされたに相違あるまい」
「いまは、芳紀ですな?」
「左様──」
「もしかすれば、いまごろは、どこかの邪神に、人身御供をねだられているかも知れぬ」
「さっそくに、大和守に、問い合せてみようかの」

     三

 闇に、目をあけて、田鶴は、牀にやすんでいた。
 遠く、町から、三更──真夜中を告げる時鐘が、きこえてから、もう四半刻もすぎている。
「明夜も、子の刻に参る」
 曲者は、昨夜、そう言いのこしたのである。
 縊るのをとどめられてから、もはや、田鶴には、自害する気力も失せていた。
 されるがままに、身をまかせている、生きている人形でしかなくなっていた。
 ただ、こうして、その時刻を迎えてみると、いつとなく、恐怖はうすれて、曲者の来るのを待っているじぶんに、ふと、気がついた田鶴であった。
 貞女の羞ずるところは、劫かされて、その節を虧くを羞ずるなり、と古人は教えている。しかし、処女というものの、ふしぎな生理が、たとえそれがおそろしい暴力によるものであっても、二夜をつづけて犯され、三夜を迎えるにおよんで、理性や意志にそむいたとしても、これは、やむを得ぬ仕儀と言わなければならなかったろう。
「夫は再娶の義あり、婦は二適の文無し」──そういう時世だったのである。
 ……田鶴は、襖が開けられ、そして閉められたのも、気づかなかった。
 有明行燈が、しぜんにともるように、ぼうっと、赤い明りを浮かせて、闇を四方へ押しやった。
 田鶴は、やはり、本能的に、恐怖で、目蓋をとざし、四肢をこわばらせた。
 枕もとに立ったのは、全身黒ずくめの男であった。双眸だけをのぞけていたが、その双眸は、異常に切長で、瞳に燐光のような青白い光を湛えていた。闇を見透す目であった。
 掛具をはねると、一刀を背負ったままで、田鶴のかたえに横臥し、無言で、その前を、しずかに、ひらかせた。
 そして、懐中から、とり出した鶉の卵ほどの金の珠で、まず、そろそろと撫でたのは、その朱葵の刺青であった。
 珠の中に何がひそめてあるのか、微かに、鈴虫のように、ちろちろと、鳴りつづけた。
 また、これは、なにかふしぎな魔力をそなえているように、やがて、田鶴の肌に──からだぜんたいに、そこから微妙な快感が、徐々に、ひろがって来た。
 こわばっていた田鶴の五体は、溶けるように、柔らかくなり、肌はあたたまり、すべての脈が、ゆるやかに息づかいはじめた。
 芳香が、ひらかれた股間から、ほのかにただよい出た。
 男は、珠を、柔らかに潤った池塘をすべらせて、その底へ落した。
「……あ!」
 思わず、ちいさな叫びをもらして、田鶴は、膝をあわせた。珠は、微かに鳴りながら、しずかに、沈み、そして、納まった。
 男は、あらためて、優しく、田鶴を抱いた。
「わが妻ぞ──」
 耳もとでささやいた声音は、情愛をこめて、若々しかった。

     四

 男が、起き上がって、はなれようとするや、田鶴は、無言で、とりすがった。つれて行って欲しい、と全身が哀願していた。
 男は、かぶりをふると、そっと、田鶴の双手をもぎはなして、
「良い子を生め!」
 ひと言、言いのこした。
 音もなく、廊下へ、一歩、出た──瞬間、男は、一間を跳んで、退った。
 しんの暗闇の中に、うっそりと、人が立っていたのである。
 息づまる数秒間の対峙があったのち、待っていた者が、さきに、口をひらいた。
「勝負は、夜がよかろう。月もあり、雪中花もある。……燭に背きて共に憐む深夜の月、花を踏んで同じく惜しむ少年の春、か」
 眠狂四郎は、部屋からもれ出る田鶴の嗚咽をきき乍ら、なんの闘志もおぼえていなかった。
 対手を、まだ二十歳前の若者、と看破したからである。
 十六夜の寒月の下に──。
 九尺あまりの距離を置いて、対い立つや、
「貴様が使う円月殺法とやらを、見とどけておく所存であった」
 若者は、生気にみちた声音を、投げた。
「あの世へ、土産話に、か」
「おのれの方が使いじまいであろう?」
 背負うた一刀を、抜きはなつや、そのまま、片手構えに、まっすぐに、さしのべた。
 惚れ惚れとするくらい、美しい動作であった。
 狂四郎は、ふっと、その若さに、羨望さえおぼえた。
 ゆっくりと、無想正宗を鞘走らせて、切先を爪先より三尺前の地面に差す地摺り下段にとりつつ、
「娘に、良い子を生め、と言いのこしたな。それは、どういう意味だ?」
 と、訊ねた。
「…………」
「三度び犯して去るのが、お主の、任務か?」
「…………」
「娘に、子を生ませる目的であったとすれば、お主は、任務をはたした。この世に別れを告げてもよかろう」
「…………」
 狂四郎は、敵の鋭気を吸い寄せる潮合を測るために、地摺り下段を、不動のものにした。
 新しい読者のために、円月殺法について述べる。
 剣の道は、流派の如何を問わず、必ず「それ兵形は水に法る」という意味の教義を立てる。心形一致の水の妙形をもって「流」の極意とするところに、何々流「法形」が成る。この法形の神技を悟るのが、兵法者の悲願である。
 孔子が曰う「それ心は水の如し、水なる哉」という理智の妙諦の会得があってこそ、剣の業は、冴える。
 ところが、狂四郎の剣は、全く、その逆である。
 白刃を、敵につけた刹那、狂四郎の胸中は、一個の人命を断つ、暗然たる業念に、みちる。したがって、剣は、水を法る無念無想剣とはならぬ。依って、剣は、敵の闘魂を奪う働きを示す以外はない。すなわち、敵をして、空白の眠りに陥らしめる殺法を使う。
 いま、潮合きわまって、徐々に、大きく、左から円を描きはじめた無想正宗の動きが、それであった。
 刀尖が、完全な円を描き終るまで、能くふみこたえる敵は、きわめて稀であった。
 黒衣の若者は、すでに、その殺法に就いて心するところがあったのであろう。
 刀尖が、上段──半月のかたちにまでまわった刹那、地を蹴った。
 不吉な夜鳥が、飛び立つに似て──月光の盈ちた空に躍った黒影は、刃風を発しつつ、狂四郎の頭上を、翔けぬけた。
 そして、そのまま、何処かへ、去せた。

 水野邸から、一里ばかりはなれた馬場はずれの林の中で、黒衣の若者は、倒れていた。飛翔の術も、円月殺法を破ることは、叶わなかったのである。
 水漏れの月かげへ、視力のうすれてゆく眸子を送り乍ら、さいごの喘ぎを、つづけていたが、
「……わしの、かたきは、だれかが……必ず、討って、くれる。……わしが、死んでも、六人が……のこって、いる」
 と、呟いた。
 しずかに、とじた目蓋の上へ、月の雫のように、水滴が、ぽとりと落ちた。

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