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鬼平梅安 江戸暮らし
池波正太郎

   一章 鬼平の花見

  散歩

 四十余年もの間、フランス映画の第一線で活躍して来た老優ジャン・ギャバンが十年ほど前に、レジオン・ドヌール勲章をフランス政府から授与されたとき、ギャバンは折しも〔水門の男爵〕の撮影中であったが、エピーネ撮影所のセットの中で、お祝いのパーティが、ささやかにおこなわれた。
「もっと、盛大に……」
 という声も大きかったのだが、ジャン・ギャバンは、
「いや、これは、ごく個人的な祝い事なのだから……」
 と、辞退をし、若いころのギャバンを手塩にかけて育てたジュリアン・デュビビエ監督など、ごく親しい人びとのみを招き、なごやかなパーティだったという。
 その席上で、ギャバンが、
「人間、欲を出したりしたらダメだね。いつまでも欲を捨てない人は不幸だよ。ことに、女に目うつりをするのが、その中でも、いちばん不幸だね」
 と、もらした。
 ジャン・ギャバンは、若いころに、女優ガビ・バッセと結婚し、間もなく離婚。その後、レヴュー・ダンサーのドリアーヌと再婚したが、これまた別れ、十七年後の四十五歳になってから、ファッションモデルのドミニク・フールニエと結婚し、一男二女をもうけて今日に至った。三度目の正直で、ギャバンは、やっと糟糠の妻を得たことになる。
 私は、彼が若いころに演じた〔白き処女地〕の純朴の猟師・フランソワから、兵士・労働者・盗賊の親分・ギャング・医学博士・探偵・刑事など、さまざまの役柄を一流のリアリティをもって演じつくし、近作〔暗黒街のふたり〕で白髪の保護司に扮した彼までを見つづけて来たが、なるほど、
「女に目うつりするのが、もっとも不幸……」
 だと、さりげなく述懐したギャバンの言葉に、結婚に二度も失敗した彼の、過去の苦い経験が察せられて、苦笑を禁じ得なかった。他の俳優なら、これほどの共感は得られなかったろう。ギャバンなればこそである。むかしから彼の映画を見つづけ、彼の演技を愛しつづけてきたものなら、だれしも、そうおもうにちがいない。
 ところで……。
 ジャン・ギャバンは、このときのパーティで、つぎのような言葉を吐いている。
「……役者は勲章をもらっても、まさか、胸にブラ下げて映画へ出るわけにはいかないしね。いままでと同じに、私の中身はすこしも変っちゃいませんよ。一週間に一度はカンシャクを起して女房子供にきらわれる男なんだ。ただ、私が勲章をもらえるようなことをしたと自分でおもえるのは、約束を破らなかったこと。金のない相手に金をくれといわなかったこと。酔っぱらわなかったこと。それに浮気をしなかったこと。あとは自分の商売を長くつづけて飽きがこなかった根気でしょうかね」
 さらに、また、
「むずかしいことは、その道の商売人が考えてくれる。人間はね、今日のスープの味がどうだったとか、今日は三時間ばかり、一人きりになって、フラフラ歩いてみようとか……そんな他愛のないことをしながら、自分の商売で食っていければ、それがいちばん、いいんだよ」
 と、この最後の言葉が、私は大好きである。
 散歩の醍醐味は、これにつきるのだ。

 同じ散歩でも、
「今日はひとつ、一人きりでフラフラ歩いてみよう」
 という散歩と、日課の散歩とでは、だいぶんにちがう。
 私は、夜ふけから朝にかけて仕事をし、目ざめるのが正午近くなる。起きて、しばらくは頭も躰も、よく、はたらいてくれない。食事をしてから、家の近所を散歩するうちに、すこしずつ、頭もはっきりしてくるのである。
 こういう状態の散歩だから、車輛の往来が激しい道は、まことに危険なのだ。
 さいわいに、近くの商店街はアーケードがついていて、車輛の通行を禁止している。
 その商店街を端から端まで歩き、帰宅すると、四、五十分にはなろうか。
 このときの散歩中に、
「今日は、どの仕事からはじめようか……」
 という気持が、しだいに、かたまってくるのだ。
 週刊誌の小説にするか、または月刊誌の小説を、たとえ二、三枚でも書き出しておこうか……などと、その日の気分によって、仕事の種類をえらんでゆく。だから、原稿の締切りが迫っていては、ダメなのである。私は、そのように仕事をすすめているし、仕事によって、締切りの日の一カ月前を、
「自分自身の締切り……」
 に、しておくこともある。
 そして、今日やろうとする仕事が決まると、歩いているうちに、今日の仕事の分量だけのシチュエーションやシークエンスや、登場する人間たちの声などが、断片的に脳裡へ浮びあがってくる。これが浮ばぬときは、別の小説に取りかかったほうがよいのである。
 何も彼も、浮びあがって来ないときは、帰宅して着替えをし、外へ出て映画を見るとか、買物をするとか、気分を変えることにつとめる。こういうときの散歩は、それほどに、たのしいものではない。
 散歩が、いちばん、たのしいときは、仕事のことを忘れてしまわなくてはならない。

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