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世界でただ一つだけの読書
三宮麻由子

  「坊っちゃん」に広がる漱石先生の音世界

 ぶうといって汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。尤もこの熱さでは着物はきられまい。(中略)威勢よく一番に飛び込んだ。(中略)陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧は茫やりして、知らんがの、といった。
(「坊っちゃん」)

 この場面は、「坊っちゃん」が松山にたどり着いたときの衝撃と失望感を表現する例としてよく取り上げられる。しかし私にはそれよりも、「坊っちゃん」のなかで初めて音らしい音が聞こえてくる箇所という印象が強い。そして、このタイミングで初めて音が出てくることこそが、「坊っちゃん」のなかで作者夏目漱石がもっていた音感覚を象徴しているように思える。
 南国のキラキラした日差しのなかで、穏やかな波が船べりや桟橋に当たる音がそちこちから聞こえ、空中には、蒼天で輪を描く鳶の笛や、港に荷揚げされる魚を求めて集まってくる鴎たちの叫びが響いている。遠くでは、磯にいる子供たちの声もしている。漁に出ていた夫を出迎えて作業を引き継ぐ女性たちも言葉を交わしていそうである。松山は市内しか訪れていないが、私にはこの件からそんな風景が思い浮かぶのである。
 行間の音を聞きながら「坊っちゃん」を読んでいくと、歯切れよく区切られた漱石の時間イメージと、音への鋭敏さが、きわめてリアルに伝わってくる。その音は、松山の長閑な風景や地方の学校ののんびりした雰囲気とは裏腹に、なかなか騒々しい。従ってこの作品も、意外に騒々しい。それはとりもなおさず、漱石自身の音の聞き方でもあると思う。そこで、坊っちゃんの耳を通して漱石が表現した音世界と、それが表す時間の感覚を味わう「坊っちゃん」通読法を取り上げてみよう。

 まず、「坊っちゃん」全体に流れる音の騒々しさの源を探ってみる。
 松山到着の場面では、こんなふうに音が聞こえている。汽船がぶうといって止まる。船べりを打つ波がタポン、タポンと憎らしいほど暢気に寄せては返す。そこへ艀がこれまたチャポン、チャポンと櫂をならしてやってくる。赤褌の船頭は、少し粗野な言葉で土地の知り合いと会話していたかもしれない。船から艀へさまざまな足音や荷物を運ぶ音が行き来する。「見詰めていても眼がくらむ」ような水面を跨いで艀に飛び込んだ坊っちゃんの足下では、靴が舟底に当たる音がトンと響いたことだろう。陸に飛び上がるときにも、坊っちゃんの足下はトンと鳴っただろう。作者漱石がここでどの程度音を意識して描写したかは分からないが、素朴に耳を澄ませてこの場面を読むだけでも、持続音、瞬間音合わせてこんなにたくさんの音や声が聞こえてくるのである。
 漱石の描写が見事なのは、この一連の音が「ぶうといって汽船がとまる」という、たった一言からすべて連鎖的に聞こえてくることだ。坊っちゃんには、その音全部が騒々しい。坊っちゃんは数学教師だそうだが、感性は鋭いながら無鉄砲な江戸っ子で、どちらかというと数学より英語の先生に多いタイプに思える。これだけの音が聞こえる描写ができるのは、この鋭い感性の故ではあるまいか。もちろんそれは、坊っちゃんにそのような描写をさせた漱石先生自身が天才的な語学の才能をもち、音に敏感だったからに
ほかなるまい。
 さて、やるせない旅の末に、坊っちゃんは宿へ到着する。ここでも明るい音が恨めしげに描写され、坊っちゃんにとって大変に騒々しく響く。

 膳を下げた下女が台所へ行った時分、大きな笑い声が聞えた。(中略)熱いばかりではない。騒々しい。下宿の五倍位八釜しい。

 人の笑い声というのは、こちらの気分次第で好ましく思えたり苛立たしく思えたりするものである。現実には、長閑な松山よりも生き馬の目を抜く東京のほうがよほど騒々しかったとも想像されるが、坊っちゃんには首都の喧噪より田舎の人たちの高笑いのほうがやかましく聞こえ、癇に障りもしたのだろう。東京なら、往来には始終人力車や人々の忙しない足音が行き交い、金魚売りから焼き薯屋までさまざまな売り声が近付いては遠ざかり、自動車の音も派手派手しく轟いていただろう。そんななか、誰かが高笑いしたところで大して気にはなるまい。一方、東京に比べて人口が少なく、街の騒音も少ない松山の宿で、女たちが弾けるように立てる笑い声は、東京の何倍もの音量で坊っちゃんを苛立たせたのではなかろうか。漱石を通した坊っちゃんの耳は大変鋭い。そんな鋭敏な耳の持ち主にとって、静かな街の静かな宿に響く女性たちの高笑いは、さぞかし悩ましかったことだろう。
 私は、幼稚園入園直前に光とさよならして“sceneless”(“シーンレス”私の造語で全盲者の意味)となり、周囲の様子を主に音から捉えることになった。他の“シーンレス”については分からないが、おそらくあらゆる音に耳を澄ますようになったため、私には騒音の中で自分に必要な音にフォーカスして聞き取る「カクテルパーティー効果」が機能しない。ゆえに、距離などによる音の違いを除けばすべての音が同じボリュームで聞こえてしまう。私が音に敏感だからというよりは、そのように聞かなければ危険かどうかの判断ができないからだろう。幼児期から音楽教育を受けたことも影響しているだろう。とにかく私は、視覚中心の人より音が大量に聞こえているらしいのである。

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