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笑う猫には、福来る
猫の手屋繁盛記
かたやま和華

     琴の手、貸します

     一

 炬燵開き、という言葉がある。
 江戸では毎年、炬燵を出す日が決まっていた。亥の子の日、つまり、亥の月の最初の亥の日だ。亥の月とは十月のことを言い、まずはこの日に武家が、十二日後の二番目の亥の日に町方が炬燵を出した。
 これを炬燵開きと言った。亥の子の日までは、どれだけ隙間風が冷たかろうと、どこの家屋敷でも辛抱して炬燵を出さない。亥は陰陽五行説では水であり、火に強いと信じられていたので、亥の月の亥の日に火を使い出すようにすれば、火難除けになると考えたのだ。
「炬燵は人を骨抜きにする」
 近山宗太郎は、三日月長屋で炬燵を抱えこんで独りごちた。
「と、よく爺が言っていたが、それは真であるな」
 宗太郎の祖父の代から近山家に仕える用人、爺こと日下部喜八の口癖だった。
 亥の子の日が来るたび、喜八は炬燵がいかに軟弱な器物であるかを宗太郎に言って聞かせた。武士の家に生まれたからには、
『炬燵で暖を取るのではなく、木刀を振るって汗をかきなさい』
 というのが、有平糖みたいに頭の固い喜八の教えだったのだ。
 それなので、宗太郎は三日月長屋へやって来るまで炬燵に入ったことがなかった。
 去年の冬は踏ん切りがつかなかったが、今年は思いきって損料屋で櫓と火鉢と炬燵布団の一式を借りてみた。
「骨抜きどころか、炬燵は人に根を生やす」
 宗太郎は炬燵に入れた両足をもぞもぞと動かして、金色の目を細めた。
 長屋の屋根の上では、雀たちが元気よくさえずっていた。
 空はからりと晴れ渡り、風も雲もない。ついでに、今日は猫の手屋で請け負った仕事もないので、宗太郎は寝起きに一度厠へ行ったきり、四畳半に引きこもってひたすら炬燵を抱えこんでいた。
「寒くて動けんのだ」
 昨日から、妙に背中がぞくぞくした。寒くて震えが止まらなかったので、その日のうちに損料屋へ炬燵を借りに走った。
「借りに走って正解だった」
 宗太郎の全身を覆う泡雪の毛皮は一見あったかそうに見えるが、まぁ、実際あったかいことはあったかいのだが、それ以上に猫は寒がりなのである。
「それがしは猫ではないが」
 話せば長い事情があって、限りなく猫に近い風体をしていた。
 口もとには松葉に似たひげをたくわえ、頭のてっぺんにほど近いところには三つ鱗の形をした耳が生えており、さらに小袖の背縫いをたどれば、尻の上に長くひんなりしたしっぽがうごめいている。炬燵を抱えこんでいる両の手のひらには、あずき色をした肉球まであった。
 奇妙奇天烈な白猫姿の、もののけなのである。
「いやいや、奇妙奇天烈な白猫姿の、もののふなのである」
 一字違いで、月とすっぽんだ。
「それにしても寒い……、はっくしょん」
 くさめ、くさめ。大きなくしゃみをひとつして、宗太郎はぶるりと震えた。
 と、そこへ。
「もうし」
 という、少し鼻にかかったかわいらしい声に続けて、ほとほとと腰高障子を叩く音が聞こえた。
「猫の手屋猫太郎さま、生きていらっしゃいまして?」
「むう、この声は」
 宗太郎は弾かれたように炬燵から飛び出して、土間へ下りた。
 今、『いらっしゃいまして』ではなく『生きていらっしゃいまして』と聞こえたような気がしたが、
「はいはい、おりますとも」
 返事をして腰高障子を開くと、思ったとおり、仕立てのいい振袖に身を包んだかぐや姫が立っていた。
 左のこめかみあたりに挿したびらびら簪の繊細な錺が、初冬の日差しを受けてきらきらと輝いて見えた。それ以上に、宗太郎と顔を合わせて満面の笑みを浮かべるかんばせは、得も言われぬまばゆさだった。
「お琴ど……、いえ、琴姫さま」
「ああ、よかったわ。猫太郎さま、生きていらっしゃったわ」
「それがしは猫太郎ではなく、宗太……」
「はい?」
「いえ、猫太郎です。猫の手屋猫太郎です。生きているとかいないとか、藪から棒にずいぶんと物騒ですな」
「だって、三日月長屋のみなさんが、今日は朝から猫太郎さまがちっとも姿を見せないってお話しされていたものですから」
「はぁ。いや、その……、少々、疲れが出たのかもしれません」
 数日前まで、宗太郎は浅草田んぼで根を詰めたお節介を焼いていた。
 労咳病みの羽鳥晋次郎が五匹の烏猫たちと共に西方浄土へ旅立って行くのを、この金色の目で、しかと見届けたばかりだった。
 あの晩のことを思い出すと、今もまだ目頭が熱くなる。
「猫太郎さま……?」
「あー、いやいや。ところで、お琴ど……、いえ、琴姫さま。今日はまた、いかがなさいましたかな?」
「猫太郎さまのお顔を見に来たんです」
「それがしの顔に何か付いておりますかな」
「ええ、泡雪の毛皮がびっしり」
「これは付いているのではなく、生えているのです」
 宗太郎がひょこひょこと松葉に似たひげを動かすと、お琴が大きな目をくるりと回して顔を寄せてきた。
「お顔を見に来てはいけなくて?」
「いけなくは……ありませんが、お旗本の姫君がこのような狭苦しい裏長屋に出入りなさっていると、その、世間体というものが……」
「わたくし、芝愛宕下大名小路から日本橋長谷川町まで歩いて疲れてしまいました」
「そうでしょうな。ですから、今後はこちらへは足を運ばれませんよう……」
「あら、おこたがあるわ。上がってもよろしくて?」
「はい、どうぞ。って、いやいやいや」
 流れで『どうぞ』と言ってしまったが、ここはお引き取り願うべきではないかと思い直して、宗太郎は両腕を広げてお琴の前に立ちはだかった。
 それを難なくくぐり抜けて、お琴がちゃっかり四畳半に上がりこんだ。
 呆気に取られている間にも、
「失礼いたします」
 と、お琴付きの婆やの松風までが履物を脱いでおり、宗太郎はなすすべもなく両腕を下ろした。
 琴姫は宗太郎よりも六つ年下の、さる大身旗本の姫君だ。
 宗太郎の許婚でもある。
 宗太郎は今でこそ九尺二間の裏長屋に暮らす一介の浪人風情だが、本来は芝愛宕下大名小路に拝領屋敷がある歴とした旗本の惣領息子なのだ。月の美しい晩に飲めない酒を過ごしていなかったら、ニヤニヤと笑う黒猫に出会っていなければ、今ごろはお琴と夫婦になっていたはずだった。
 などと、たらればを語っても詮無きこと。
 すったもんだあって奇妙奇天烈な白猫姿になってから早一年、宗太郎はいまだに人の姿に戻ることはかなわず、猫の手屋宗太郎として生きていた。
「猫の手屋猫太郎さん、このおこたに入ってもよろしくて?」
 いけません、と言っても、お琴のことだから聞く耳持たずに入るのだろう。言い出したら聞かない性分なのは、よくわかっている。
 それに、武士の家に生まれたのであっても婦女は足腰を冷やしてはいけない、というのも喜八の教えだった。近山家でも、母はよく炬燵に足を伸ばし入れていた。母がいないときは、父がこっそり入っていた。
「どうぞ、身体が冷えてはいけませんので」
 宗太郎はお琴と松風に炬燵を譲り、自分は土間際であぐらを掻いた。
「うふふ、ありがとうございます。今日はぽかぽか陽気で、それほど寒くはありませんけれどもね」
「そうなのですか? それがしは雪の中にいるかのように寒く、背中あたりもぞくぞくして……」
「あら、なんですって?」
「……はっくしょん」
「あらあら、猫太郎さま! ごめんあそばせ!」
 お琴が炬燵から飛び出して、宗太郎の猫の額におでこをくっつけてくる。
「ギョッ!」
 後ろに飛び退こうとしたが、しっかりと袖をつかまれていた。
「猫太郎さま、ひょっとしてお熱があるのではありませんか?」
「なぬ?」
「背中がぞくぞくして、くしゃみまで出るなんて、それってお風邪を召されたのではありませんの?」
「風邪……?」
 言われてみれば、身体の芯から寒い気がする。それでいて頭はのぼせているような、カッカッしているような。
「泡雪の毛皮が邪魔で、おでこが熱いかどうかわかりませんわね」
「風邪ならば、うつしてはいけないので」
 顔をそむける宗太郎の正面に、お琴が回りこんでくる。
「もう一回、ごめんあそばせ」
「いやいや、結構」
「おでこでお熱を計るだけです。何も痛いことはいたしません」
 痛いとか、そういうことではない。
「猫太郎さま、お熱を計るのをいやがるなんて子どもですか」
 子どもとか、いやがるとか、そういうことでもなく。
「ほら、動かないの」
 ぐっ、と思いがけず強い力でお琴に両頬を押さえこまれたところで、腰高障子を遠慮会釈なく開く店子が現れた。
「かぐや姫さま、猫先生は生きてましたかい?」
「ぬっ」
「おおっと! こりゃ、お邪魔だったようで!」
 縄暖簾なん八屋つるかめの亭主、三郎太だ。煮物でも和え物でもなんでもひと皿八文という安値で饗するつるかめは、三日月長屋の表店だった。
 月代を青々と剃りあげた遊び人風の三郎太は、両手で目を覆う仕草をしながらも、指の間からしれっと宗太郎とお琴をのぞき見ていた。今のふたりの顔の近さからして、口吸いでもしていそうに見えることだろう。
「三郎太どの、これはその、違いますぞ」
「なんの、なんの。猫先生も男なわけで、違った、雄なわけで」
「そこは違ってはおりませんぞ、それがしは雄ではなく男ですぞ。ついでながら、猫先生でもありませんぞ」
 慌てて誤解を解く宗太郎とはまた別の意味で、お琴も慌てていた。
「つんつるのご亭主さん、大変ですわ! 猫太郎さまがお風邪を召されたかもしれないんです!」
「ご亭主さん……! おいら、そんな風に呼ばれたのは初めてでやんすよ」
 でれでれと鼻の下を長くした三郎太の背中を、遅れてやって来た女将のお軽が力いっぱい張り飛ばした。
「なんだい? 猫太郎さん、風邪ひいたって?」
 このお軽、若いころは評判の小町娘だったらしいが、今となってはずんぐりむっくりした立ち姿から、うずらかめの女将とも揶揄される肝っ玉母さんになっていた。ひょろりとした三郎太の背骨が折れやしまいかというほどの、容赦ない張り手だった。
「あぁ、つくつくの女将さん! 猫太郎さまにお熱があるようなんです! 寒くて、さびしくて、死んでしまいそうなんです!」
「姫さま、落ち着いて。猫ってのは面の皮の千枚張りなんで、さびしいくらいじゃ死にはしませんよ。だけど、風邪となると厄介ですね。猫ってのは一度風邪をひくと、長引くんですよ」
 しばし待たれよ、と宗太郎は心のうちで叫んだ。突っこむべきところが多すぎて、何から突っこめばいいのかわからなかった。
 まず、三郎太どのとお軽どのの表店は『つんつる』でも『つくつく』でもない。それがしは寒いだけでさびしくはないし、死んでしまいそうでもない。そもそも、猫ではないので面の皮の千枚張りでもない。
「みなみな、お静かに」
 宗太郎がやっと口を開くのに被せて、お軽が言った。
「姫さま、猫は肉球で汗をかくんですよ」
「まぁ、そうなんですの?」
「ええ、ですからね、熱を計るならこっちです」
 お軽が宗太郎の手をつかみ上げ、肉球をまさぐった。
「あれま! 猫太郎さん、汗でびっしょりじゃないか!」
「いや、この汗は熱というよりも、心の乱れによるもので」
 いきなり許婚が三日月長屋に現れただけでも驚きなのに、顔を間近に寄せられるわ、頬を押さえこまれるわ、お琴のとんだおきゃんな振る舞いにあてられれば、それはもう汗ぐらい噴き出よう。

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