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真昼の心中
坂東眞砂子

   火の華お七

 熱いのです。軀のすべてが。肌の底から、じりじり、とろとろと熱が沸いてまいります。首筋も乳房も、脇腹も下腹も、太腿の芯から放たれる熱に溶けて、崩れてしまいそうなのです。ああ、どうにかしてください。疼いて疼いて、狂いそうです。

 師走にあがった火の手が森川宿まで迫ってくると、白川屋は大騒ぎになった。灰色の煙がもうもうと流れてくるなか、父は奉公人を怒鳴りつけ、雨戸や屋根に飛びついてくる火の粉を叩き潰そうと躍起になっている。熊手や鎌や鉞、店の中にある使えそうなものは何でもひっつかんで、丁稚や手代も奮闘している。父の片腕として家業を手伝っている兄は、斧を手にして、土蔵の周りにある植木を切り倒している。江戸は先月も火事に見舞われて、芝の札の辻から東海道を越えた海辺まで焼け野原となってしまったばかりだ。そこにまた、今日の火事が襲ったのだった。
 妾は奥の座敷の縁に立ち、中庭に顔を突きだして、俄に暗くなった空を見上げていた。巣鴨村のある戌亥の方角から、風に乗って火の粉混じりの煙が流れてくる。泥のように溶け崩れた形だったかと思うと、拳の形になり、化け物の顔のようにもなったりと、刻々と姿を変えながら、頭上を通りすぎていく。
 火事はすぐそこまで来ているのだ。何もかも焼けてしまうかもしれない。そう思うと、足が震え、背筋がぞくぞくした。
 妾が生まれるずっと前に、明暦の大火事というのがあった。市中の町家だけでなく、大名屋敷も旗本屋敷も、江戸城の天守閣までも焼け落ちたという。幕府の命で、寺も武家屋敷もあちこちに場所を移ることになり、江戸はがらりと姿を変えた。加賀藩の足軽として江戸に来ていた父は、その機にお役目を解いてもらい、八百屋を始めた。本郷に新たに普請された加賀藩の上屋敷の近くで店を開き、長い間のご奉公のおかげで、屋敷に出入りを許され、今では、そこそこ羽振りのいい青物問屋の旦那だ。
 わしの人生は、明暦の大火事で変わったのだ。
 父は口癖のようにいっている。
 この火事で、妾の人生も変わるだろうか。
 そんなことを、ちらりと思った。
 十五で嫁いだ神田の金物問屋の若旦那は、外では真面目で誠実な顔をしていたが、酒が入ると、がらりと人が変わった。乱暴な口をきき、むらむらと欲情が沸きたつと、妾を閨に引きずりこんだ。女の軀を板と間違えているのではないかと思うほど、金槌で釘を打つように、男の鉾でどんどんと突いてくる。痛くて痛くて、今宵は勘弁してくださいと泣きながら頼んでも、俺に逆らうのかと、殴られるだけだった。
 一年で、実家に逃げ帰った。
 すぐさま婚家から、辛抱の足りない嫁だと離縁状が届いたのを幸い、それからは、嫁ぐ前と同じく、お稽古事をしたり、物見遊山に出かけたりしている。しかし、父は半年も過ぎると、今度は川越の木綿問屋の旦那はどうかとか、日本橋の呉服屋の旦那は後添えを探しているが、どうだね、などとしきりに縁談を持ってくる。母は母で、おまえはまだ十七だけど、二十歳までに次の嫁入り先を見つけないと、貰い手はなくなってしまうよ、と脅すようなことをいう。先々を案じてのことだろうが、もう嫁ぐなんて懲り懲
りだ。ずっとこの家にいたいのだが、父の跡取りの兄は二年前に妻を娶り、半年前に男の子も生まれた。両親が死んでしまったら、この家に居づらくなるのはわかっている。
「お七、そんなところで、なにをぼやっとしてるの。早く荷物をまとめなさいっ」
 手拭いを被り、襷掛けした母が血相を変えて座敷に入ってきた。
「荷物をまとめるって……」
 妾はぽかんとして訊き返した。
「逃げるんですよ。もう火は伊東さまのお屋敷まで来ているということです。大切なものだけ持って、表に出るようにと旦那さまが……お雪っ、お七の桐の長持、中二階にあったはずよ。急いで表に運びだしなさい」
 座敷の隅でおろおろとしていた下女の雪は、油虫が逃げるように動きだした。離縁が決まってから、婚家から突き返されてきた嫁入り道具一式の入った長持だ。あんなものは焼けてしまってもいいのにと思いながら、妾は着替えや化粧道具、懐紙など身の回りの品を風呂敷に包んで、見世の間に出ていった。
 大根や蜜柑、芋などが山と積まれた樽がずらりと並ぶ土間には、長持ちや櫃が運びこまれていた。店の外に置いた地車に、手代や丁稚たちが、それらを積みあげている。父と兄は帳場を走りまわり、掛け帳や証文などを掻き集めている。
 妾は風呂敷包みを近くの長持の上にぽんと載せると、下駄を突っかけて、表に出た。日頃は人気の少ない通りなのに、根津権現や谷中から王子道への抜け道になっているせいで、今は大風呂敷や、菰包み、長櫃を背に括りつけた町人でいっぱいだった。
「火は湯島のほうにまで広がっているぞ」
「上野は駄目だ、神田に逃げろ」
「火の元は駒込というぜ、目と鼻の先だようっ」
 逃げてきた人々が怒鳴りあいながら、王子道のほうに流れている。しかし、そちらからも、さらに大きな騒ぎが響いてきていた。祭の時のようだが、囃子の音も笑い声もなく、怒声や悲鳴だけが聞こえてくる。
 ほんとに、みんな焼けてしまうんだ。妾の家が……店が……なにもかも……。
 突然、背中をどやされた気がして、全身に震えがきた。
 火事によって人生が変わるかもしれないなんて、悠長なことはいっていられないのだ。それこそ、人生が終わるかもしれないのに。
 鳥肌の立つ思いで、店の前に停められた三台の地車に、次々に長持や長櫃、蒲団までが積まれていくさまを見つめていると、「白川屋さまはこちらですか」という少し高めの男の声がした。
 気がつくと、すぐ隣に、前髪を垂らした若衆が立っていた。瓜実顔に鼻筋が通った優しげな顔立ちを、きりりとした眉が引き締めている。白の小花模様の散った鴇色の小袖に江戸紫の帯、海老茶の羽織を掛け、歌舞伎役者のように粋に見える。人混みを抜けてきたせいか、着物の襟口や裾が乱れ、前髪のほつれ毛が額にぺたりと張りついていて、それがまた妙に色気があった。
 突然に現れた美しい若衆に、どぎまぎしたまま頷くと、相手は店の中を覗きこみ、「旦那さまは……」とさらに問うてきた。
「父なら……ほら、そこです」
 ちょうど金櫃を抱えて表に出てきた父を指で示した。若衆は妾に会釈して、父に向かって歩いていった。
「白川屋の旦那さまですね。喜照さまの遣いで参りました」
 鉄鋲の打たれた重い木箱をどさっと長持の上に置いて、父は「おう、正仙院の……」と若衆を振り向いた。駒込にある正仙院は、仏門に入った次兄が最初に修行をした寺だ。住持の喜照と父は古くから親しく、仏事のたびに金品を惜しまず寄進していた。
「火の手が迫ってきたなら、院のほうにお越しくださいと、喜照さまはおっしゃっておいでです」
「正仙院は無事なのか」
 父は怪訝な顔をした。
「はい。火は、隣の大円寺の庵室から出たようでございますが、仏さまのご加護か、幸い北風が吹いてきて、正仙院にはまったく被害は及びませんでした」
 父は店の北方を眺めて頷いた。もう裏手の願行寺の伽藍までも火に包まれている。迷っている暇はなかった。
「喜照さまのお言葉、ありがたく頂戴しよう」
「王子道も中山道も、駒込追分から北はもう火の海です。一旦、菊坂まで南に下ってから、西に回りこんで北上するのがよろしいと思います。私もその道を辿って、ここに参りました」
 若衆はきびきびとした口調で助言した。
 父は大声で兄を呼び、家族や店の者を集めさせた。母、嫂と、乳母に抱かれた兄の子、番頭、手代、丁稚、下女などを合わせると二十人ほどになった。はぐれたら、正仙院で落ち合うようにと手筈を決めて、三台の地車を連ねて、店の前を出発した。
 王子道に出て、少し南に下ったところに一里塚の榎が立っている。そこで道は、中山道とひとつになる。榎の梢が熱風に煽られて、ちりちりに乾いている。火の粉が飛びつけば、あの木も燃えはじめることだろう。その下では、ふたつの道からやってきた人々がぶつかりあい、ひしめきあっていた。
「どけどけーっ」
「お母ちゃあん、どこーっ」
「のろのろするなあっ」
「おひで、おひで」
 怒声や身内を呼ぶ声、突き飛ばされた人の悲鳴、子供の泣き声がひとかたまりになって、響きわたっている。その流れに逆らって、印半纏に腹掛、股引姿の町火消したちが纏を天に突きあげ、長梯子を抱えて火の手のほうに駆けていく。荒々しい町火消しの怒声に、人の流れはふたつに分かれるが、通りすぎるや、また道は塞がれる。
 父と兄は地車の前に張りつき、手代や丁稚は重い地車を牽いたり押したりしている。母と嫂は赤子を抱いた乳母を守るように、両脇にくっついている。妾には、下女の雪が従っていたのに、いつか離れてしまった。
 前も後ろも横も、逃げる人たちでぎゅうぎゅう詰めだ。倒れたところを、次々に踏まれ、起き上がれなくなった者の悲鳴が足許から聞こえてくるが、助けてあげることもできない。人の肩にぶつかり、毒づかれ、突き飛ばされながらも、地車についていこうと、阿鼻叫喚の海を渡っているうちに、ぼうっとしてきた。
 火事で人生が変わるなんて嘘だ。押し合いへしあいして、ただ流されていくだけ。
 うっすらと漂うきな臭い煙のうちに、まわりの騒ぎも人々の声も遠ざかり、足がもつれて転びそうになった。
 はっとした。
 倒れたら、おしまいだ。踏み潰されて死んでしまう。
 その時、妾の二の腕を掴んで、誰かが横から支えてくれた。目の隅に、正仙院の若衆の顔が映った。驚いた顔を向けると、若衆は口許を微かに綻ばせて頷いた。
 妾は若衆の腕にしがみついた。若衆は妾にぴたりと寄り添って歩きだす。
 ありがたく、嬉しくて、若衆に軀を押しつける。着物を通して、じんじんと人の温もりが伝わってくる。
 妾のすぐ横に、若衆のきめ細かな頬があった。前をまっすぐに見る横顔は凛々しかった。襟許から、日なたの湿った土のような若い男の匂いが放たれていた。
 妾の腹のあたりに懐炉を置いたような熱が宿った。その熱は、足を進めるうちに、だんだんと強くなっていく。
 腋の下や背筋に、じっとり汗が浮いてきた。
 冬だというのに、夏のように暑い。
 妾は浅く息をして、若衆の肩に頭を預けた。若衆は妾が倒れそうだとでも思ったか、肩を引き寄せた。妾は若衆の右胸に、すっぽりと包まれた。両手の置き場所に困って、胸の前で絡ませると、指に押された乳房から痺れたような波が生まれて、頭の後ろにまで走った。

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