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勝ち過ぎた監督
駒大苫小牧 幻の三連覇
中村 計

   プロローグ

 こけろ──。
 二〇〇四年八月二二日、駒澤大学附属苫小牧高校が全国高校野球選手権大会で優勝した日の深夜。大阪市内のホテルのベッドでアテネ五輪の女子マラソン中継を見ながら、私は、そう念じずにはいられなかった。日本の野口みずきがトップを独走していたからだ。このままでは明日の新聞の一面を野口に奪われてしまう。それが悔しくて仕方なかったのだ。
 一九九八年に松坂大輔を擁する横浜高校が春夏連覇を達成して以来、甲子園の優勝校がスポーツ紙の一面を飾るほどのニュースになることなど、久しくなかった。優勝校は資金と選手の豊富な都市圏の一部の強豪私学に限定されるようになり、大衆に訴えるドラマ性を失っていた。
 そこへ行くと、駒大苫小牧の優勝は、これ以上ないほどにドラマチックだった。通説を覆し、雪国の、それも国内最北の地の代表校が勝ったのだ。私はこのニュースをできる限り大々的に報じて欲しかった。
 私はその頃、朝日新聞出版が『週刊朝日』の増刊として大会後に刊行していた『甲子園ヒーローズ』という雑誌の記者として毎年、大会を取材していた。ただ年々雑誌の売り上げは下降線を辿り、毎年のように「もうやらないかも」との噂が飛び交っていた(二〇一三年を最後に刊行休止)。それだけに、話題となることで一人でも多くの人の関心を引き、雑誌の売り上げにつながればとも願っていた。
 ただ、当たり前だが、野口はこけなかった。そのぶん、スポーツ紙等の駒大苫小牧の扱いはやや小さくなった。それでも、どの媒体も高校野球ネタとしては破格の扱いだった。
 特にすごかったのが地元・北海道である。一般紙の一面は野口と駒大苫小牧の両ネタ掲載が多かったが、スポーツ紙はほぼすべて駒大苫小牧一色。NHKテレビで放送された決勝戦の札幌地区における瞬間最高視聴率は四六・二%を記録し、雑誌も北海道を中心に久々によく売れ、我々関係者は「救世主だ!」と快哉を叫んだ。
 当時、報知新聞社の記者で、駒大苫小牧を担当していたのは中尾肇だった。一九八九年に他紙から移籍し、それからはアマチュア野球一筋。春夏合わせて計二九回、甲子園で取材し、駒大苫小牧の試合はほぼすべて観ているという中尾が道民の熱狂振りを思い起こす。
「とてつもない駅売りの数字だったと思いますよ。一般紙も、スポーツ紙も、北海道中、全部すっからかん。取り置きぶんも全部売店に回したけどぜんぜん足りなかった」
『日刊スポーツ』は昼過ぎから再び輪転機を回し、翌日も、コンビニや駅売店で〈昨日のスポーツ紙あります〉という貼り紙を出し、一日遅れの「新聞」を売った。新聞の増刷など聞いたことがない。『日刊スポーツ』の担当記者だった本郷昌幸は興奮気味に思い出す。本郷は苫小牧出身で、二〇〇四年に営業から編集に異動になったばかりだった。
「一日遅れでも売れたんですよ。もちろん、前代未聞のことです。日本ハムだろうが何だろうが、一日遅れの新聞を売るなんてことは、今後もあり得ないでしょう」
 決勝の日、札幌競馬場では場内のターフビジョンの映像がたびたび甲子園中継に切り替えられ、そのたびに約二万九〇〇〇人の競馬ファンが一喜一憂したという。また、優勝した瞬間、網走─札幌間を走る特急「オホーツク」では、車内アナウンスで車掌がその快挙を震える声で乗客に伝え、車内は歓声と拍手が沸き上がったそうだ。あるいは甲子園から約一万四〇〇〇キロ離れた南極の昭和基地では、隊員の四二人中一一人までもが北海道出身者だったため、衛星回線を使って中継に見入っていた。私の知り合いでたまたま帰省した日に新千歳空港のテレビで駒大苫小牧の優勝の瞬間を目撃し、勢い東京の会社を辞め、郷土の会社に再就職したという人もいた。
 あの日、あの瞬間、道民はいろいろな場所で、いろいろな形で「おらが故郷」の代表校の快挙に心を震わせていた。

 駒大苫小牧が優勝を決める六日前の、八月一六日。私は第一試合が終わった頃、午前一一時過ぎに阪神甲子園球場へ到着した。関係者入り口を通り抜けると、すぐに異変に気がついた。何か、おかしい──。
 そこでは試合を終えた西東京代表の日本大学第三高校と、南北海道代表の駒大苫小牧の選手たちが、大会スタッフの指示に従いストレッチ体操を行っていた。
 アイボリーのユニフォームに身を包んだ日大三の選手たちの表情が、心なしか暗い。目蓋が腫れ上がっている選手もいた。そんなはずがない……。
 私はスタンドに駆け上がり、スコアボードに目をやった。
 そこには、球場に到着するまで、ちらりとも考えなかった結果が表示されていた。
 6-7.
 あの日大三が、負けた。しかも、南北海道代表の駒大苫小牧に。北海道勢が東京勢に勝つのは五四年振りの出来事でもあった。今にして思えば、あの瞬間から、以降、三年間続くことになる駒大苫小牧フィーバーが始まったのだとも言える。
 日大三は三年前の〇一年、大会新記録となるチーム打率四割二分七厘で全国制覇を成し遂げるなど、豪打で鳴らす全国屈指の強豪校である。この夏も西東京大会では六試合中五試合で二桁得点を記録し、圧倒的な強さで勝ち上がっていた。その上、甲子園の初戦では、西の名門PL学園高校に8-5で打ち勝っていた。
 一方の駒大苫小牧は、当時の正直な気持ちを書けば、「所詮、北海道のチーム」だった。地方大会でどんなに強い勝ち上がり方をしてこようが、北海道代表校というだけで、全国的には一段も二段も低く見られていた。
 野球は手先を器用に使わなければならないスポーツである。そのため気温が低い地域は、それだけで大きなハンディキャップを背負っていると考えられていた。
 過去の戦績も、そのことを如実に表していた。全国高校野球選手権大会、いわゆる「夏の甲子園」は、〇四年で第八六回大会を迎えていた。「春の甲子園」と呼ばれる選抜高校野球大会は、それより一〇回少ない第七六回大会を終えたところだった。
 そこまで春夏合わせ一六一回チャンスがあったにもかかわらず、北海道を含む「雪国勢」は一度も優勝したことがなかった。過疎地域は競争率が低いため全般的にスポーツが弱いものだが、北海道に限っていえば一八九〇年代後半に開拓民が流入してからというもの、全国都道府県人口ランキングは常に一〇位以内をキープしている。したがって、勝てない理由は、やはり気候条件にあると考えられていた。
 二〇〇四年時点で春夏通じ一度も全国制覇を達成したことのない都道府県は全部で一七地域あったが、うち一四地域は日本海側、およびいわゆる雪国と呼ばれる地域だった。中国地方の日本海側二県(鳥取、島根)、滋賀県、北陸地方の日本海側四県(福井、石川、富山、新潟)、東北地方六県、そして北海道だ。残りの三地域は、宮崎、長崎、山梨である。ちなみに〇四年夏に駒大苫小牧が日本一となり、さらに〇九年春に清峰高校(長崎)が、一五年選抜で敦賀気比高校(福井)がそれぞれ優勝し、日本一になったことがない都道府県は今では一四地域に減っている。
 ただし、雪国勃興の兆しはあった。二〇〇〇年代に入り、青森山田高校、光星学院(現八戸学院光星)高校(青森)、東北高校(宮城)など関西圏の選手を多数スカウトしのし上がった青森・宮城勢の躍進が続き、年々、東北勢の初優勝を期待するムードが高まりを見せていた。いわゆる「悲願の(優勝旗の)白河越え」だ。栃木県との県境に位置する福島県白河市は、東北の玄関口であり、かつて関所が設けられていた場所でもある。
 〇四年もダルビッシュ有を擁する東北高校は、断トツの優勝候補と目されていた。そんな中にあって、白河以北の地域で唯一、蚊帳の外に置かれていたのが最北の地・北海道だった。〇四年も北海道勢は、まったくのノーマークだった。
 それだけに駒大苫小牧が日大三を倒したことだけでも相当なインパクトがあった。
 しかし、このあと、さらなる衝撃が、一つどころか、二つも三つも待っていた。
 日大三を破って北海道勢として九年振りとなる八強入りを果たした駒大苫小牧は、続く準々決勝で、関東の雄・横浜と対戦する。横浜のプロ野球選手輩出数は六二名にもおよび(二〇一八年七月時点)、七九名(同)でトップのPL学園に次ぐ。PL学園は二〇一六年夏に休部してしまったが、当時、西随一のブランド校がPL学園であるならば、東のそれは横浜といってよかった。
 横浜は一回戦から報徳学園高校(兵庫)、京都外大西高校、明徳義塾高校(高知)と、西の強豪校を次々と撃破しての八強入り。その立役者となっていたのが、ドラフト一位候補の本格派右腕・涌井秀章(千葉ロッテ)だった。
 大エースがいる横浜の壁は、駒大苫小牧には、さすがに厚いだろうと思われた。ところが、調子を落としていた二年生の七番・林裕也がサイクル安打をマークするなど、駒大苫小牧打線は涌井に14安打を浴びせ、6-1で快勝する。
 何なのだ、この七番打者は。信じられないものを見ているような気分だった。
 準決勝は東海大学付属甲府高校とぶつかった。ここまで駒大苫小牧は小柄な二人の三年生左腕、背番号「1」の岩田聖司と背番号「11」の鈴木康仁の継投で勝ち上がってきていた。先発の岩田が行けるところまで行き、その後を鈴木が継ぐというのがパターンだった。
 当然、東海大甲府戦も同じ戦い方を踏襲するものだとばかり思っていたのだが、先発マウンドに上がったのは、今まで見たことのない背番号「15」の投手だった。二年生の松橋拓也だ。南北海道大会でもわずか一試合、4回と三分の一しか投げていない。そんな下級生ピッチャーに準決勝の先発マウンドを任せることにもたまげたが、その松橋の球威にも度肝を抜かれた。電光掲示板の球速表示は最速で時速一四七キロを示し、球場がどよめいた。
 まだ、こんなピッチャーがいたのか。何なのだ、このチームは。
 松橋は三回途中でノックアウトされたものの、後を鈴木、岩田の順で継ぎ、駒大苫小牧は10-8で打撃戦を制した。
 決勝戦の相手は、春夏連覇がかかる済美高校(愛媛)だった。創部三年目ながら、かつて宇和島東高校(愛媛)を全国優勝に導いた名監督・上甲正典を招へいし、この年の春の選抜大会で初出場初優勝を成し遂げたチームだった。
 愛媛は北海道とは対照的に「野球王国」で、春夏通じて全国制覇は一〇回を数える。「夏将軍」と呼ばれ夏を五回制した古豪・松山商業高校に象徴されるように、夏の甲子園では滅法強く、一四年に大阪に抜かれるまで、じつに六〇年間、甲子園における都道府県別勝率一位の座を守り続けていた。
 決勝に勝ち上がってくるまでに何度も思ったことだが、今度こそ、ここまでだろうと思った。野球どころの、しかも百戦錬磨の監督が率いる春の王者ではさすがに分が悪い。とはいえ、ここまで勝ち上がってきただけでも十分ではないか。
 立ち上がり、その予感は的中する。駒大苫小牧は一回表に2失点、二回表に3失点と、二回を終え、1-5とリードを許す。先発の岩田は二回を持たずにマウンドを鈴木に譲っていた。
 ところが、である。
 駒大苫小牧は三回裏に2点、四回裏に3点を挙げ、6-5と逆転する。夢を見かけたが、甘くはない。五回表にすぐさま追いつかれ、六回表に6-9と突き放される。このときもあきらめかけた。すると、その裏、駒大苫小牧も3点を入れ、再び同点とする。そして終盤、駒大苫小牧は済美を13-10と遂に突き放した。もしや……。
 両チームを通じてノーヒットに終わったイニングは、四回表のわずか1回しかなかった。壮絶な打撃戦の末、13-10で夢は現実のものとなった。
 高校野球を観戦していて、あれほどのカタルシスを覚えたことはなかった。東北・北海道勢として初めての優勝という結果はもちろん、日大三、横浜、済美と優勝経験を持つビッグネームをことごとく破っての優勝だけになお価値があった。
 高校野球史の中で、今も地元の人々が陶然と語るチームがいくつかある。ある人は遠い目をし、ある人は涙ぐみながら、当時を語る。その上位三つを、私は密かに高校野球における「三大カタルシス」と呼んでいる。その三つとは、一九六八年夏に沖縄勢として初めてベスト4入りし、「興南旋風」と言われた興南高校と、翌六九年夏の決勝で延長一八回を戦っても決着が付かず再試合の末に松山商に敗れて準優勝に終わった三沢高校(青森)と、〇四年夏の駒大苫小牧である。
 この三校の地元の共通点は、コンプレックスだ。興南旋風のとき、沖縄はまだ米軍統治下にあり、本土との経済格差は歴然としていた。野球の道具も満足にそろえることができない時代で、沖縄勢は甲子園でまだ一勝しか挙げていなかった。三沢高校の場合は、元祖・甲子園のアイドルと呼ばれる、白系ロシア人とのハーフのエース太田幸司(元近鉄)の存在も大きかったが、ほとんど一、二回戦で負け続けていた本州最北の地・青森の高校だったことが観ている者の心を揺さぶった。駒大苫小牧は、もはや説明するまでもない。

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