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炭鉱町に咲いた原貢野球
三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡
澤宮 優

   プロローグ

 昭和四〇年八月二二日の午後三時過ぎ、甲子園球場では第四七回全国高校野球選手権大会の決勝戦が大詰めを迎えていた。福岡県代表で甲子園初出場の三池工業が、東関東代表の銚子商業を二対〇でリードして、九回二死走者一塁までこぎつけていた。台風一七号が進路を変えたため暴風雨は免れたが、一面の曇り空で、蒸し暑い午後であった。
 観衆は六万人。地方の無名校の優勝を一目見ようと全国の野球ファンがスタンドから見守っていた。三塁側のアルプススタンドでは三池工の故郷で歌われた炭坑節が鳴り響いていた。郷土色豊かな方言が飛び交い、三池工に大きな力を与えていた。
「月が出た出た月が出た 三池炭坑の上に出た……」
 選手の家族や地元の応援団が声を嗄らしながら熱唱している。
 背番号11をつけた二年生の左腕エース上田卓三が、一塁走者を横目で見ると、緊張しがちな気持ちを抑えようと、深く深呼吸をした。上田は捕手の穴見寛のサインを覗き込んだ。穴見のサインは、カーブである。上田の得意とする球であった。
 上田はゆっくりと右足を上げると、右手を大きく振って反動をつける。オーバースローから躍動感のあるフォームでボールが投げられた。彼独特の高めから急速にブレーキの掛かった落差のあるカーブが、打者のベルト付近まで落ちてきた。
 銚子商業五番打者の田中はカーブにタイミングが合わず、打球は一塁への小飛球となって、一塁手林田俊雄のミットに収まり、三池工業の優勝が決定した。ウイニングボールを掴んだ林田がマウンドの上田に駆け寄り、飛びついて抱きしめた。捕手の穴見をはじめ、内野、外野から選手が集まり、上田を取り囲み歓喜の声を上げた。時刻は三時八分。
 春夏合わせ初めての甲子園出場で優勝という快挙。誰しも地方の無名高校が甲子園で勝ち進むとは思わなかった。スター選手は不在で、チームの纏まりで接戦をものにした。大牟田市民はこの奇跡に熱狂し、三池闘争に明け暮れた暗い町も息を吹き返したのである。
 そんな衝撃的な優勝から半世紀以上が経った。

 私が三池工業の甲子園初優勝を知ったのは、小学校四年生の頃であった。昭和四九年に郷里の熊本では「九州この一〇年」といったローカル番組が放送されていた。そのとき三池炭鉱でピケ隊(会社側の入坑を阻止するため出入り口を見張ること)やヘルメットを被ったデモが流されていた。これが三池争議であった。炭塵爆発で遺体が次々と坑内から運び出され、悲嘆にくれる家族たちの姿もあった。これらの光景は一〇歳の私には隣県で起こったという驚きとともに、衝撃的なニュースであった。その暗い話題を吹き飛ばすように、三池工業が甲子園で優勝した映像が放映された。
 同じ炭鉱の町から甲子園に出場した三池工業が、神がかったように勝ち進む。驚いたのは、監督がこのとき東海大相模高校の監督だった原貢であったことだ。昭和五〇年前後の高校野球では東海大相模は全国屈指の強豪校で、毎回優勝候補の筆頭に挙げられていた。原貢の長男でスター選手の原辰徳(前読売ジャイアンツ監督)には女性ファンが熱狂した。原貢と辰徳との親子鷹は高校球界でも話題の的であった。
 三池工の選手と原が大牟田市に凱旋し、オープンカーに乗ってパレードするシーンも
あった。このとき人口二一万人の町に、パレードを見るため三〇万人が集まった。沿道には人々がぎっしりと詰め掛け、市役所の窓や屋根も見ようとする人で一杯だった。
 町は三池闘争と炭塵爆発で徹底的に打ちのめされた。このとき三池工が甲子園に出場し、あろうことか優勝まで成し遂げた。市民は久々の明るい話題に舞い上がった。三池工の活躍を市民は祈る思いで見つめていた。その快挙に、市民たちが熱狂しない筈はなかった。
 取材の過程で、読売ジャイアンツ四番打者として、監督として、またワールド・ベースボール・クラシックの日本代表監督として頂点に立った原辰徳にとって、父親貢と選手たちの晴れ姿こそ、野球を始める原点であり、今も野球人としての根幹になっていることを知った。
 辰徳はそのときの心情を述懐する。
「僕は父親のバイクの後ろに乗せられて、三池工のグラウンドによく行ったんです。それが自然に野球に入るきっかけになりました。全国制覇をしてパレードがあり、大牟田の街道にもの凄い人が集まった。野球はこんなに人を喜ばせるものか、凄いことを三池工のお兄ちゃんたちとお父さんはやったんだ。それが僕の中で大きな出来事として現在も残っています」
 今、大牟田市は静かになり、多くの人たちは三池工の活躍を忘れたかのようである。
 そのとき私は三池工の記録をとどめるには今が最後の機会なのだということを感じた。当時を知る人たちは高齢化しているが健在である。彼らの存在が歴史の中に埋もれてしまわないうちに、ぜひとも記録に残しておきたいと思った。私は重い腰をあげて、大牟田市を訪れる決心を固めた。それが私の三池工の軌跡をたどる旅の始まりであった。


  第一章 大牟田という町

   大牟田へ

 大牟田市は福岡市から南へ七〇キロ離れた福岡県のもっとも南にある市である。人口は一一万五千人ほどで、東には標高三八八メートルの三池山が聳え、西に二キロ行けば有明海に出て、島原半島を見渡すことができる。秋晴れの雲ひとつない天気の日であった。一〇月も近づいたのに、気温は三〇度を超し、真夏を思わせる日であった。
 私は駅の玄関口からロータリーを見回し、それまで抱いていた大牟田市への印象と違っていることを知らされた。そこは三池炭鉱の存続を願うビラや、組合による糾弾の貼り紙などが随所に見られる町だと信じ込んでいた。実際は静かで、一様にこぎれいであったからだ。
 私は炭鉱の跡を見たいという衝動に駆られ、駅前からタクシーに乗り込んだ。
 三池炭鉱が明治政府の石炭政策で官営となって操業を開始したのは、明治六年であった。その後三井財閥に払い下げられ、以来市は三井の企業城下町として栄えてきた。
 昭和三〇年代になると、盛況を誇っていた石炭産業は「エネルギー革命」に伴う政府の政策で、石炭生産が縮小された。これからは石油が重視されるようになったのである。その余波をもろに被ったのが炭鉱の町であった。
 三池争議は昭和三四年一二月二日に従業員一四九七名に指名退職勧告が出されたことに端を発した。
 全国の労働者三七万人が三池に支援に駆けつけ、一年間にわたって激しい闘争が繰り返された。翌年一月に入ると、会社側が首切りを強行し、三池労組に会社側はロックアウトを通告、以後無期限のストが始まった。
 五月に警官隊六〇〇人と二〇〇〇人の組合ピケ隊が激突、流血の惨事となって、双方計一八〇人の負傷者を出した。
 七月に池田勇人内閣が成立し、斡旋案が提示され、就労が再開された。しかし大牟田の町をこれでもかと悲劇が襲う。昭和三八年一一月九日には三川坑で炭塵爆発が起こり、死者四五八名、重傷者六七五名を出した。大牟田の町は壊滅的な打撃を受けた。
 初老の運転手は誰にともなく呟いた。
「大牟田は炭鉱で汚かときが一番よかったです。今は寂しか町になってしもた。三池工業が甲子園で優勝したときは、そら大変なもんでした。試合のときは、皆テレビにかじりついとって、町は静まり返って、誰も外に出とるモンがおらんだった。パレードでも荒尾や福岡から大勢の人が押しかけまして。あぎゃん騒ぎはもう後にも先にもなかでしょう」
 私はこれらの深刻な社会も三池工野球部の背後に思い浮かべながら、調べるべき範囲の広さを感じ、海風の混ざった大牟田の空気を吸い込んだ。

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