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真説・長州力 
1951-2018
田崎健太

プロローグ 端っこの男

 ぼくが長州力を初めて見たのは、中学生のときだった。
 黒い髪をなびかせた長州はテレビの中で、いつも不機嫌な顔をしていた記憶がある。それから三十数年経った二〇一三年五月、実際の彼は穏やかで優しい笑みを浮かべていた。その後、二、三ヶ月に一度の割合で、六本木にある彼の行きつけの居酒屋で酒を飲みながら話を聞くことになった。
 壁には料理名の書かれた紙がいっぱいに貼られ、威勢のいい女将が切り盛りしているこの店を長州は気に入っていた。二〇畳ほどの店には木製テーブルが並べられており、いつも背広にネクタイをした人間たちで混んでいた。気取らない、どこにでもありそうで、実際はなかなかない居心地のいい店だ。
 長州の坐る場所はいつも同じだった。一番奥のテーブルで、入口に背を向けて坐った。上座を勧めると、長州は首を振った。
「ぼくはいつもここです。端っこがいいんです」
 きちんと足を揃えて、ちょこんと物静かに坐る姿は、リングの中とはまったく違っていた。
「中学校ぐらいから、ぼくはいつも端っこでしたね。なるべく後ろ側の端っこ。高校時代は完全に真後ろの端っこでしたね。大学時代、よく映画館に行ったんですけれど、コマ劇場の後ろ。坐る場所は決まっていました」
 彼の話は味わい深いものだった。プロレスラーたちの豪快な酒の話をひとしきり話した後、ぽつりと言ったことがある。
「親父がね、仕事が終わった後、毎日ビールを一本か二本飲むんです。あるとき、俺はこの年まで酒を一度も旨いと思って飲んだことがないと言った。学問も何もない親父ですけれど、その言葉がなんか頭から離れない。寄り合いなどに出かけて、酔っぱらって帰ってよくお袋と喧嘩するのに、旨いも不味いもないだろうとそのときは思っていた。今から考えれば親父なりの苦しさがあったのかなと」
 長州は少し間を置いた後、笑みを浮かべながら続けた。
「旨い酒でも楽しい酒でも、いつか底が見えますよ」
「底が見えるとは?」
 ぼくは訊き返した。
「人間はみんな永遠に酒を飲めると思っているんでしょうね。やっぱり勢いがいいときは、どんな仕事の世界でも旨い酒を飲めます。でも、いつまでも旨い酒は飲めない。だんだん透明になって底が見えてきた」
 そして「ああ、ぼくは底が見えていますね」と小さく頷いた。
「だから缶珈琲(コーヒー)で割ってしまおうかと」
 長州は泡盛を珈琲で割った、黒い液体が入ったグラスを上げた。
 こんな風に彼の口から出る言葉は、ごつごつとした岩のようなずっしりとした重みがあった。
 当時、ぼくは執筆活動のほか、早稲田大学でスポーツジャーナリズムの授業を受け持っていた。彼は名前を覚えるのが苦手だということもあっただろう、大学で教えていることを知ると二〇歳近く年下のぼくを「先生」と呼ぶようになった。話しぶりはいつも丁寧で、年下だから軽く見るということは一度もなかった。ただ、取材という形で話をするのは好きではないようだった。いつも二時間程経つと、
「先生、そろそろ仕事はいいじゃないですか? 飲みましょうよ」
 と取材を切り上げようとした。
 初対面のとき、ぼくは自分の取材方法についてこう説明していた。
「どうして、と思うほど細かなところまで訊ねるかもしれません。細部を積み重ねることで原稿に奥行きが出ると考えているのです」
 長州が取材嫌いであることは教えられていた。しかし、ぼくは必要だと思うことについては、彼にとって不都合であっても納得するまで訊ねる。そして「分かるでしょ」という類の阿吽の呼吸には応じないという宣言のつもりだった。すると長州は「はい」と軽く頭を下げた。
 とはいえ、取材嫌いという心配は杞憂だった。彼との会話はいつも和やかで愉快なものだった。質問に考え込むことはあったが、誠実に答えようとしていることは伝わった。
 しかし、である。
 その場ではなんとなく分かったような気になった話が、あとから録音を聞き直してみると、意味をなさないことも多かった。話が急に飛んでいることもあり、文意を正確に理解できない箇所もあった。
 何より、彼は細かな記憶が曖昧だった。ある事柄を知りたいと、詳しく訊ねていくと「まったく覚えていないんです」と言い切ることがあった。不都合なことを隠すために、わざと覚えていないと言っているのかと疑ったこともある。ただ、首を捻って「……だと思います」と困った顔をするのを見ると、悪意があるようには思えなかった。
 人間として魅力があり協力的であるが、厄介な取材相手であった。
 取材開始から一年以上経っても、彼の言葉がぷかりぷかりと浮かんでいるだけで、一冊の本となる手応えはなかった。
 ある夜のことだった。
 その日は、さまざまな資料を参考にして書き込んだ年表を見ながら、関係者への取材で明らかになったことをぶつけていくことにした。もう険悪な雰囲気になってもいいとぼくは開き直っていた。すると、長州はすでに二〇人以上の関係者に会っていたぼくの努力を認めてくれたのか、敬愛するマサ斎藤の話をきっかけに、話が止まらなくなった。
 そんなとき、店にアントニオ猪木が真っ赤なマフラーを垂らして、藤原喜明らを連れて姿を現した。猪木もまったく偶然に、この居酒屋を贔屓にしていたのだ。
 長州は店に入ってきた猪木の姿を認めると、立ち上がって挨拶した。それまで、長州は猪木のブラジルヘの投資で新日本プロレス社内から反発が出ていた時代の話をしていた。猪木に挨拶した後、多少声を落としたものの、表情を変えず何事もなかったかのように長州は話を続けた。
 猪木は小一時間、酒を飲むと、店の客からの要望で「イチ、ニー、サン、ダーッ」と雄叫びを上げて、近くの店に移っていった。彼は見事にアントニオ猪木を演じていた。その姿を静かに眺めていた長州と対照的だった。
 その日の取材は五時間に及んだ。以前の取材データを読み込み質問をしたこともあったろう、それまで斑になっていた話の隙間が埋まりつつあった。ようやく一冊の本になるという手応えを感じたのだ。
 つまり──。
 長州力を描くことは、吉田光雄という、本質的に慎ましい、店に入ると隅に坐ってしまう在日朝鮮人二世の人生を描くことだ。ただ彼の周りにはプロレスという虚と実が入り混じった靄がかかっていた。
 長州はプロレスが最も華やかな時代の「ど真ん中」を駆け抜けてきた。この本を書き上げることは、彼を覆う膜を一枚一枚めくり上げていく旅であり、同時に昭和という時代のプロレスの興亡を描くことなのだ──。


第一章 もうひとつの苗字

「朝鮮人」という魔法の言葉

 長州力こと吉田光雄は一九五一年一二月三日、山口県徳山市──現在の周南市で生まれた。
 徳山は明治以降、富国強兵という国策に深く関わり発展してきた街だ。一九〇五年に海軍煉炭製造所が置かれ、その後、船舶の燃料が石油に移った一九二〇年頃から瀬戸内海沿いに次々と重油タンクが建設されている。戦後はこうした施設を生かした石油関係産業で栄えた。
 徳山市内には、海沿いから順に、国鉄、市内線と呼ばれる県道、国道二号線が走っていた。市内線は徳山駅前を通っており、長州が子どもの頃、駅周辺には商店がぎっしりと立ち並び、人でごった返していた。市内線を駅から東に向かうと、東川という小川にぶつかる。長州の一家はその川沿いに住んでいた。海側には化学工場の煙突から灰色の煙が立ち上るのが見えた。日本の急速な復興の息吹が感じられる街だった。
 長州の両親は朝鮮半島出身である。父親は一九三九年にソウルの東南、忠清北道から日本に来た。一九一〇年八月の韓国併合により、朝鮮半島は日本領となっていた。父親が日本の地を踏んだ年、ドイツ軍がポーランド西部国境を突破し、第二次世界大戦が始まっている。
「親父はまず北海道に行ったみたいです。それが今でいう強制連行ではない気がする。炭鉱をやっていて、あまりにつらすぎて本土に渡ってきた。北海道で知り合ったかどうかは定かではないんですが、うちのお袋と大阪で一緒に住んでいた」
 長州の大学時代の後輩、平澤光志が北海道出身であることを知ると、父親は「樺太から引き揚げてきて食えなかったとき、北海道の人に助けてもらった」としみじみ思い出話をしたことがある。
 樺太、つまりサハリンには炭鉱があり、多くの朝鮮人が働いていた。第二次世界大戦終了後、島はソビエト連邦に占拠され、日本人たちは引き揚げ船で北海道に戻っている。その中で、朝鮮半島は日本統治から外れたという理由で、少なくない朝鮮人が船に乗れなかった。サハリンに残された彼らは苛酷な人生を辿ることになった。
 長州の父は、戦争終了前に島を出たのだろう、大阪を経て徳山に辿り着いている。朝鮮半島からの玄関口である下関が近いこともあり、徳山には多くの朝鮮人が暮らしていた。
 長州は四人きょうだいの末っ子である。一回りほど離れた長兄、姉、一つ違いの次兄がいる。
「本当はもう一人長女がいて、戦中か戦後に亡くなっているんです。ぼくの記憶はまったくないです。生まれてもいなかったでしょうから」
 朝鮮人の多くは、工場地帯と国鉄線路の間、細長い場所に小さなバラックを建てて住んでいた。そんな中、長州の父親はどのように立ち回ったのか、かなり広い土地を“確保”していた。
 戦後の混乱期、所有権のはっきりしない土地が少なくなかった。
「勝手に縄を張ったみたいな感じだったのかな。バラック建てのかまぼこみたいな一軒家、そして子どもが遊ぶには不自由しないぐらいの敷地がありましたね。豚小屋もあって二〇匹ぐらい豚がいた。祭りや行事があれば、豚を絞めて。そのときは街の在日の人が集まっていました。庭には離れみたいな小屋があって、親父が碁をやっていたんですが、その先生みたいな日本人のおじいちゃんが住んでいました」
 父親は廃品回収業を営んでいた。庭には段ボールや錆びついた自転車、さまざまな物が山積みになっており、その中を両親が真っ黒になって働いていた姿をよく覚えているという。夏場、父親のぼろぼろになったランニングシャツ姿が特に印象的だった。自宅の敷地は、もともとの土地所有者が名乗り出てきたため、次第に狭くなっていった。
 食事は朝鮮式だった。
 朝から唐辛子が入った辛い鍋、竈で炊きあげられた米飯、キムチが食卓に並べられた。キムチは母親が漬けたものだった。
「子どもの頃はつらかったですね。ぼくは魚が好きだったんです。だから焼き魚とか煮魚が食べたかった。今はチゲは好きなんだけれど、あの当時、朝からチゲが出てくると、食欲がわかなかったですね」
 ある日、光雄が「朝からチゲなんか食べたくない」とごねると母親は顔色を変えた。殴られると察した光雄は窓から飛び出した。後ろから待てという声が聞こえた瞬間、腹部に何か当たった感覚があった。しばらく雨の中を駆けた後、その場所を見ると服に穴が空いて血が滲んでいた。母親は竈にくべていた火箸を投げたのだ。
 別の雨の日のことだ。
 家には粗末な傘しかなかった。光雄が「こんなもの持っていけるか」とつっかかると、「このガキ」と傘を投げつけられた。光雄はよけようとしたが、傘の先がまたも腹部に突き刺さった。
 とはいえ、母親を恨むことはなかった。子どもなりに、彼女が必死で生きていることを分かっていたのだ。母は廃品回収の手伝いのほか、庭の隅にバラックを建ててホルモン焼き屋を開いていた。マッコリは手製、つまり密造酒である。毎晩、その屋台には日雇い労働者たちが集まった。中には刺青を露わにした気の荒い男たちもおり、揉め事はしょっちゅうだった。光雄はそうした男たちにかわいがられ、小遣いを貰うこともあった。客の中には警察官もいた。密造酒を見逃す見返りとして、彼らが金を払うことはなかった。
 父親も気性が荒かった。
「ぼくの小さい頃、毎日夫婦喧嘩していましたね。親父が酔っぱらって帰ってくる。また始まるなと布団の中で思っていると、親父があーだこーだ言って、起きろとかお袋を蹴ったりしている音が聞こえる。そうしたらお袋がバーンと殴る。お袋は一七〇(センチ)ぐらいあったのかな? 大きかったですよ。大きく見えたのかな。太っていました」
 体格のいい母親に殴り飛ばされた小柄な父親は襖にぶつかって、大きな音を立てて襖ごと倒れた。
「ちっちゃくても親父は親父だから。あーだこーだ言いながら、お袋を叩く。小学校の一、二年ぐらいのときかな、(自分は)泣いて止めようとしたこともありますね」
 母親が光雄たちを連れて家出をしたこともある。
「お袋の妹が大阪に住んでいた。学校に行かなくていいのが嬉しくて、休みみたいな感覚。それで美味しい物が食べられる」
 母親は父親との喧嘩の後、自分の実家の方が家柄は上だったのだと愚痴をこぼしながら泣いていたこともあった。
「私は奉公人が何人もいるところで育ったんだ。それがあんな奴のところに嫁いで、犬みたいな暮らしで苦労させられた、と」
 街にはまだ生々しい戦争の傷跡が残っていた。海軍燃料廠が置かれていた徳山は、戦争中、激しい爆撃に晒されていた。光雄の通っていた徳山小学校の校庭には、直径一〇メートルほどの大きな爆弾跡があった。戦後しばらく、その穴の底はゴミを燃やすために使われていた。商店街には、首から募金箱をぶら下げた傷痍軍人がアコーディオンを演奏しており、教師の中には出征していた者もいた。
 小学校三年生のとき、クラスの担任となった男も従軍経験者だった。その教師は光雄を目の敵にした。
「差別意識が凄かった。ぼくともう一人を毎日殴る。二人とも在日なんです」
 悪戯をした、あるいは給食費を持ってくるのが遅れたという理由だった。
──朝鮮人!
──朝鮮の子どもは殴られても痛くないんだよなぁ。
 教師はそう言いながら、平手打ちした。
「どういう具合に耐えるか分かりますか? 周りの子どもが、また叩かれているって笑うんです。笑われるとぼくはすごく恥ずかしかった。でも、屈辱で睨むなんてことはしない。恥ずかしいから笑ってやろうと思った。ぼくが叩かれて、にやっと笑うとその先生は余計に殴る」
 思い返してみれば、母親が朝鮮戦争で亡くなったという弟の写真を見て、一人で泣いていたこともあった。そして小学校高学年の頃には、吉田のほかに「郭」という苗字があることを知った。
「小学四、五年生になるとちょっと元気がいいからトラブっちゃうと、やっぱりお前は朝鮮人だからとか言われる。そういう言葉を言われると、軀から力が抜けていくのが分かった」
 朝鮮人という言葉を聞くと、魔法にかかったかのように自分が小さくなっていく気がしたという。

最強の中学生

 二〇一四年一〇月末、ぼくは徳山を訪ねた。周南市は秋から冬に向かっており、薄手の革のコートではすでに肌寒かった。
 新幹線停車駅である徳山駅は、建て替えられたばかりで真新しかった。西側は港に繋がっており、駅からフェリー乗り場の看板が見えた。南東側には商店街が広がっていたが、その多くはシャッターが下りて人通りはなかった。駅の近くに百貨店だったであろう、大きなビルがあった。この百貨店は半年ほど前に閉店し、一帯が一気に寂れたと後から知った。駅から少し離れた一角が歓楽街となっており、キャバレーのネオンが並んでいた。ネオンの文字はどれも古めかしく、もはや営業していないのではないかと思われる店も少なくなかった。高度成長期の抜け殼のような街だった。
 徳山小学校、岐陽中学校で光雄と同級生だった高島利治が、白い軽トラックでぼくの泊まっている駅前の古ぼけたビジネスホテルまで迎えに来てくれた。
 高島は高校を卒業後、東京の大学へ進学。音楽業界、飲食業界で働いた後、故郷に戻って家業の造園業を継いでいた。
 高島の話は、駅北口にあるカレー店で聞くことになった。オールディーズの流れるこぢんまりとした店の主も光雄の同級生だった。
 小学校三年生の担任から光雄が激しく殴られたという話をすると、高島はそういった記憶はないと首を振った。そして、彼の小学生時代はほとんど印象がないのだと付け加えた。
 高島の記憶に残っている光雄の姿は中学生になってからのものだ。高島はしばしば光雄の家へ遊びに行っていた。
「お父さんは寡黙な人だった。お母さんは優しい人だったね。光雄は一番下だったので、お父さん、お母さんはもちろん、兄貴に対しても、口答えしない雰囲気があった。それがごく普通というように。外で会っているときと、家に帰ったときでは光雄の様子が変わった」
 軀を強くするという考えだったのか、吉田家では水代わりに牛乳を飲んでいた。光雄は高島のことを普段「高島ぁ〜」とわざと間延びして呼んでいた。それが彼の家では急に大人しくなり「おっ、牛乳飲むか」ときびきび気を遣ってくれることが高島にはおかしかった。
「長州さんは相当、喧嘩が強かったんですよね」
 ぼくが水を向けると、高島は声を上げて笑った。
「強いとかそういうレベルじゃない。誰も喧嘩しようと思わない。中学のとき歯向かったのが一人いたけどね。一〇メートルぐらいピーンッて飛んでいったよ」
 徳山市内の中学校の生徒が映画館に集まる映画鑑賞会という行事があった。映画館で隣り合わせた、近隣の太華中学校の番長が光雄に喧嘩を売り、近くの空き地で決闘することになった。勝負は一瞬にしてついた。光雄がその番長を一発でのしてしまったのだ。
 高島は光雄とは違った高校に進学したが、付き合いは続いた。この頃、高島は祖父母の家に住んでおり、監視の甘い彼の部屋は格好のたまり場となった。
「安いウイスキーを買ってきて飲む。酒の飲み方なんか知らん。頭数で四人ならば四等分にしてコップに入れて飲む。弱い奴は吐きまくる。いつも光雄はええ感じで酔っていた」
 高校時代、光雄たちはしばしばキャンプに出かけた。高島は鉄の支柱と折り畳んだテントを抱えてバスに乗った記憶があるという。帆布製のテントは重くかさばった。
「今から考えれば、夜逃げみたいな集団だったろうね」
 中の一人がフォークギターを抱えて、加山雄三の曲を歌った。夜になると裸電球の下に集まり、順番に小咄をした。仲間と過ごす、何気ない時間が楽しくて仕方がなかった。
 徳山湾にはさまざまな形をした島がいくつもある。その風光明媚な様は見る人を穏やかな気持ちにさせる。その中の一つ、蛇島までみんなで泳いで渡ったこともある。潮に流されながら、なんとか泳ぎ着いた。ほっとしたのも束の間、これからまた泳いで帰るのかと光雄たちは顔を見合わせた。
 どこにでもいる多少やんちゃで、将来に朧気な夢と不安を抱えた高校生だった。

桜ケ丘高校レスリング部

 光雄の夢は野球選手になることだった。
 小学校高学年のとき、光雄は町内会で作った「ハリケーン」という野球チームで徳山市の大会に出場している。ほかのチームは揃いのユニフォームを着ていたが、光雄たちは帽子にチームの頭文字「H」をつけただけで、服装はまちまちだった。グラブやバットは古く、引け目を感じたという。キャッチャーとして出場した光雄は二年続けてこの大会で優勝している。
 同時期、光雄は「暁武道少年団」で柔道も始めている。少年団で一緒だった六藤逸美は、光雄は広島カープが大好きで、中学では野球部に入るつもりだと言っていたことを覚えている。しかし、岐陽中学入学直後、光雄は顧問から強く誘われ、柔道部に入った。
 柔道ですぐに頭角を現した光雄は、県内でも名前の知られる選手となった。今度は桜ケ丘高校のレスリング部に勧誘され、特待生として授業料免除で入学した。
 桜ケ丘高校は光雄が通っていた徳山小学校のそばにあった。名前の通り、校門に繋がる道の両側には桜の木が植えられており、春になると辺りは桃色に染まった。
 徳山の街を車で案内してくれたのは高校時代の同級生、片山勝美だった。
 片山が初めて光雄の姿を見たのは中学生のときだった。
 片山の通っていた住吉中学の番長が「吉田は大したことがない」と言ったのが光雄の耳に入り、彼が二、三人で学校に殴り込みに来たのだ。校門で待ち構えている光雄たちを見て「吉田が来た、吉田が来た」と不良たちが泡を食っていた。
 片山もまた柔道部だった。ただ、階級が違うため、光雄と対戦する機会はなかった。腕っ節には自信があった片山は噂に気圧されながらも「吉田? 大したことない」とうそぶいていた。
 高校入学後、片山が教室に入ると、少し後ろの席に光雄が坐っていた。細く鋭い目付き、太い腕、厚い胸板。同じ年齢とは思えない貫禄があった。映画館で喧嘩をふっかけた太華中の番長がぶっ飛ばされたという噂を思い出した。
 自分も陰口を叩いていたのが彼の耳に入っているのではないかと、目を合わさないように軀を縮めていた。しかし、これからずっと同じクラスなのだ。どこかで話をしなければならないだろう。片山は意を決して休憩時間に話しかけることにした。
「吉田さん、こんにちは」
 思わず敬語になっていた。
「彼からすればぼくのことは眼中になかった。名前すら聞いたことなかったでしょう。仲良くなってから、ぼくが陰口を叩いていたことを明かしましたが、向こうはまったく知らなかった」
 愉快そうに片山は軀をゆすって笑った。
 片山は中京大学に進学し、卒業後は母校、桜ケ丘高校の体育教師となった。六〇歳を過ぎており、担当授業も少ないので比較的時間の自由が利くのだと、かつて吉田家があった場所に案内してくれた。そこには小綺麗な住居用マンションに挟まれた、古い三階建てのビルが立っていた。屋上に書かれた「麻雀」という文字は雨風に晒されて、すっかり色が落ちていた。
「下のお兄さんが川に鯉を放していて、光雄も餌をやっておったですよ」
 片山は道路から川を覗き込んだ。今も浅い川の中に鯉が泳いでいるのが見えた。
 運動部の主力選手たちは片山のクラスに集められていた。その中でも光雄は一目置かれる存在だった。
 光雄の強さを聞きつけて、一年生のとき防府の私立高校の生徒たちが徳山まで来たことがある。相手の学校は、気が荒い生徒が多いことで知られていた。彼らに呼び出された光雄は片山たちを引き連れて市立体育館の裏に向かった。体育館と道路の間に死角があり、喧嘩によく使われる場所だった。
 体育館裏では三、四人の男が待ち構えていた。光雄は慌てることなく、前に踏み出すと「来いや」と番長らしき男をけしかけた。
 光雄の雰囲気に相手は呑まれていた。さらに光雄は「どうしたんや?」と低い声で挑発した。
「はよ、片づけて帰りたいんやろ」
 にやりと笑った。片山たちは後ろで「おらっ、来んかい」と気勢を上げた。勝負はついたと片山は思った。しかし、このままでは引っ込みがつかないと考えたのだろう。一人が飛び出しナイフを取り出した。
 そのとき、乳母車に子どもを乗せた婦人が通りがかった。女性はナイフを持っている男を見て、目を丸くした。
「おばさん、危ないよ」
 光雄は声を上げた。その声を合図にしたかのように、不良たちは逃げ出していった。
 そんな光雄は高校二年生のとき、まったく歯が立たない男と出会う──。

光雄がマットに転がされた

 日本体育大学から教育実習でやって来た江本孝允は、男子生徒、特に女子生徒から敬遠されがちな格闘系運動部の生徒たちにとって目障りな存在だった。
 目鼻立ちのくっきりした顔、ジャージの上からでも見て取れる逆三角形で均整の取れた軀、さらに東京から来たということで女子生徒たちが騒いでいたのだ。
 江本がレスリング部の練習に参加すると聞いた片山は「しめた」とほくそ笑んだ。
 練習の前、片山は光雄に声をかけた。
「あの江本、練習から踏んづけてやれよ」
「やっちゃるわ。こっぱにしちゃる」
 光雄は悪戯っぽく笑った。
 すでに光雄の身長は一八〇センチ近くになっており、体重も八〇キロを超えていた。一方、江本は七〇キロもない。レスリングの世界では体重が大きくものをいうと片山は聞いたことがあった。ましてや光雄の強さはとてつもない。期待通り、江本を叩きつぶしてくれるはずだった。
 レスリング部の道場は木造の平屋で柔道部と共用になっていた。柔道部の片山たちはレスリング部の練習が始まるのを待ち構えていた。
 光雄は「お願いします!」と大きな声を出して、江本に向かっていった。
 しかし──。
 二人は組み合ったまま、動かない。
(何をしよんかいのぉ)
 片山たちがじりじりしていると、光雄はマットに転がされた。再び、江本と向き合ったが、またもや同じだった。その日、二人は練習中ずっとスパーリングを続け、光雄は一度も勝つことはできなかった。このことはすぐに学校中に広まった。
 翌日から、片山たちは江本の姿を見かけると、「おはようございます!」と大声で挨拶するようになった。
 江本は一九四六年七月一日、瀬戸内海に浮かぶ祝島で七人きょうだいの三番目として生まれた。
 祝島は一周約一二キロの小さな島である。周防灘と伊予灘の境界に位置し、一帯は豊かな漁場となっていた。江本の父親は一〇人ほどの若い衆を束ね、鯛や鱧を獲っていたという。
 中学卒業後、江本は島を出て桜ケ丘高校に進学した。最初に入ったのは野球部だった。しかし、高校一年の夏休み、島の海がどうにも懐かしくなった江本は練習をさぼって帰省した。休みが明けて徳山に帰ったが、野球部に戻ることはできない。そんなとき、同じ祝島出身の同級生から、一緒にレスリング部に入らないかと誘われた。
──チャンピオンになったらタダでアメリカヘ行ける。
 アメリカという言葉が心に響いた江本はレスリング部に入ることにした。
 そこで江本は自分にレスリングの才能があることに気が付いた。
 得意技はタックル返しだった。足を獲ろうとタックルしてくる相手を面白いようにひっくり返した。高校三年生のとき、六九キロ級で日本一となり、念願のアメリカ遠征メンバーにも選ばれている。
 卒業後に進学した日本体育大学では、ミュンヘンオリンピックレスリング代表の山本郁榮、元衆議院議員の松浪健四郎と同級生となった。入学後、江本は六三キロ級へと階級を落とさせられた。もともと贅肉のない江本に減量は苦行だった。試合が近づくと江本はひたすらサウナに入り汗を出した。試合では力を出し切ることはできず、大学時代の最高位はインカレ(全日本学生レスリング選手権大会)三位に終わっている。
 それでも、江本の強さは本物だった。
 江本の教育実習中、アメリカの選抜チームが桜ケ丘高校に来たことがあった。年末から正月にかけて、日本の高校選抜がアメリカヘ行き、反対に春の時期、アメリカの選抜チームが日本に来るという慣例だった。
 日本とアメリカ、体重別に対戦していくのだが、アメリカには一〇〇キロを超える長身の選手がいた。日本側には彼と釣り合う選手がいない。そこで急遽、江本が光雄のいる日本チームに加わることになった。
 小柄な江本の姿を見て、アメリカチームの監督は選手に「怪我させるなよ」と指示した。ところが、試合開始と同時に江本はその選手を軽々と持ち上げ、フォールしてしまった。
 翌春、江本は大学を卒業すると、桜ケ丘高校に赴任しレスリング部の監督となった。光雄が三年生のときのことだ。

インターハイ

 江本はすでに桜ケ丘高校を退職しており、徳山の中心地から車で小一時間の場所に住んでいた。片山の運転する車で国道二号線を東に向かい、小高い丘を切り開いた新興住宅地に入った。そこからなかなか江本の家が見つからなかった。
「本当に久しぶりに来るもんで……」
 片山はハンドルを握りながら額を拭った。周辺は真新しい一軒家が立ち並んでいた。以前とすっかり景色が変わっているのだという。
 一〇分ほど迷った後、江本の家をようやく見つけることができた。家の前に立っていた江本の姿を認めると片山は慌てて車を飛び出した。そして背筋をぴんと伸ばして「ご無沙汰しています」と頭を下げた。おう、と江本が近づくとお辞儀をしたまま後ずさりした。片山にとって江本は体育教師として母校に呼び戻してくれた恩人でもあった。
 澄み切った青空が気持ちのいい日だった。
「この田舎に住んだら都会まで出る気がせんのです。街は遠いです。飲んで帰るのは大変ですよ。だから誘いがあっても余程のことがない限りお断り。朝の五時ぐらいから起きて、三時に風呂に入って、七時か八時には寝ます。夏なんかは五時ぐらいから明るいですから、ずっと外にいて一日が終わる」
 江本はぼくを中庭に案内してくれた。そこには無数の盆栽が並んでいた。四〇〇個までは孫が数えてくれたのだが、正確な数は分からないと微笑んだ。
 光雄の力は初めて見たときから抜きん出ていたという。
「力とバランスがええですね。最初はちょっと線が細かったですけれど。フェイントをかけて相手を崩すのが巧かった」
 江本が教育実習で来たとき、彼が叩きつぶすつもりで向かってきたことを知っていましたかと訊ねると、「はい、はい、その話ですか?」と声を立てずに喉の奥で笑った。
「ぼくは彼と比べてはるかに小さいじゃないですか。それで連中が、やっちゃれって焚きつけたみたいですね。練習が始まってすぐ、お願いしますと来たんです。それから練習が終わるまでずっとやっちょったんです。ぼくは強くしてやろうと思っていただけなんですが」
 体重差が一〇キロ以上あっても問題なかったのですかと訊ねると鼻で笑った。
「ぼくも大学で四年間飯を食っていましたからね。相手は高校生ですよ。レベルが違います」
 相手にならないという風に手を振った。
「ぼくにとっては指導がやりやすくなりましたね。学校の親分をやっつけたわけですから。面白いことに、あれには気をつけろという噂が(隣接する附属の)中学校にまで広がって、しばらくぼくは大きな声を出す必要がなくなった」
 とはいえ、高校生の中では光雄の力は群を抜いていた。
「前年(六八年)、広島でインターハイがあったんですよ。そのとき彼は決勝まで行っている。次の年は当然、優勝候補ですよね」
 江本は光雄をインターハイ──全国高等学校総合体育大会個人戦で優勝させるほか、桜ケ丘高校を団体戦でもインターハイに出場させたいと考えていた。
 県予選は七階級の各校総当たりのリーグ戦で行なわれた。桜ケ丘と県代表の座を争うのは、柳井商工高校だった。鍵となるのは六九キロ級。柳井商工には六九キロ級に好選手がいたのだ。このクラスを抑えれば、七階級のうち四勝が見込め、柳井商工に勝利する。そこで、江本は重量級の光雄を六九キロ級に転級させることにした。重量級には光雄には劣るものの、もう一人の選手がおり、彼でも勝てると踏んでいた。
「お前が六九キロ級に落としたら、団体を獲れる」
 江本は主将の光雄を呼んで言った。
 すると、光雄は「分かりました」とだけ返した。ほかの部員を全国大会へ連れていくために、減量を受け入れたのだ。
 運動部の生徒にとって、食事の時間は最大の息抜きであり楽しみである。授業前、片山はいつものように朝の練習を終えて教室で「早弁や」と弁当箱を開けた。ふと見ると、光雄の前に弁当箱がない。聞くと二週間で五、六キロ落とさなくてはならないので、食事を抜いているのだという。
 食事をせずに激しい練習を続け、軀に負担がかかっていたのだろう、極端に彼の口数が少なくなった。クラスの中心である光雄がじっと黙っていると、教室は火が消えたようになった。
 教室から光雄がいなくなったこともあった。片山がレスリング部の部室に行ってみると、ジャージを着込んだ光雄が目を閉じていた。空腹の限界を超えると神経が研ぎ澄まされて、音が気になるので寝ていたのだという。暗闇の中、光雄の頬はこけ、目だけがぎらぎらと光っていた。
 ところが──。
 団体戦の試合は軽量級から始まる。二試合目の五五キロ級で、勝利を計算していた選手が敗れた。光雄は六九キロ級でフォール勝ちしたが、桜ケ丘は三勝四敗で柳井商工に敗戦。試合後、光雄は黙って俯き、負けた選手を責めることはなかった。
 光雄は本来の七三キロ級で臨んだ個人戦では危なげなく優勝し、全国大会に進んだ。

「光雄を国体に出します」

 一九六九年八月二日、インターハイ・レスリング競技は群馬県館林市民体育館で行なわれた。
 試合前、対戦表を見た江本は思わず顔をしかめた。七三キロ級には光雄のほか、二人の有力選手がいた。静岡県稲取高校の伊沢厚、秋田商業の茂木優である。特に伊沢は世界ジュニア選手権七五キロ級で三位となっていた。光雄が勝ち抜くためには準決勝で伊沢、決勝で茂木と二人を倒さなければならなかったのだ。
 光雄は伊沢に勝利、決勝で茂木と対戦した。
 この試合を江本は今も悔やんでいる。
「最初に二点取って、一点取られた。光雄は攻めましょうかって言ってきた。しかし、もうちょっと待っておったほうがいいと答えた。すると同点に追いつかれて、計量になった」
 当時の規定では、引き分けの場合、体重判定となり軽い選手が勝利することになっていた。光雄はわずかな体重差で優勝を逃した。
「ぼくの作戦が悪かったのかも分からん。あれには後悔しちょる。今度会ったら謝っておいてください」
 江本の自宅は綺麗に片づいており、窓からは太陽の光が差し込んできた。居間に出されていた炬燵の上に、八〇年代に出版された長州に焦点を当てた雑誌類を広げながら話を聞いていた。江本は「懐かしい」と言いながら、ページをめくりモノクロの写真に目を留めた。
 漁港を背景に水着姿の光雄が立っている写真だった。
「これは祝島です。インターハイの後、ぼくの家にみんなを連れていったんです」
 この頃、江本は光雄を国体──国民体育大会に出場させるかどうか頭を悩ましていた。当時、国体に出場するには日本国籍が必要だった。インターハイで光雄を優勝させてやれなかったという負い目が江本にはあった。日本一という称号を彼に与えたかったのだ。
 江本は光雄の長兄と「国籍」について何度か話している。彼とは年が近く、話しやすい間柄だった。
 光雄は有望なレスリング選手である。これからも日本代表に誘われることだろう。将来を考え帰化させたらどうかと江本が言うと、兄は「それは難しい」と強く首を振った。
「同胞がとりあってくれんようになる」
 在日朝鮮人社会の結びつきは強い。彼らの目があるので、国籍を変えることはできないのだ。
 江本は桜ケ丘高校の校長室に行き「光雄を国体に出します」と伝えた。そしてこう続けた。
「問題になった場合、ぼくが責任をとります」
 江本の強い意志を感じた校長は、「出せ」と背中を押してくれた。
 一〇月、光雄は長崎で行なわれた国体のフリースタイル七五キロ以上級に出場した。国体はインターハイよりも階級が細かく分けられている。インターハイの決勝で光雄と対戦した茂木が七五キロ級に回ったこともあり、光雄は難なく優勝した。ちなみにこのとき三位となった栄勇は、大相撲を経て国際プロレスに入り、スネーク奄美というプロレスラーになった。
 国体優勝の直後、江本は日本レスリング協会へ電話を入れている。
「ぼくは入ったばっかりで知らんじゃったんですが、七五キロ以上級で優勝した吉田光雄は日本国籍ではなかったんです」
 できるだけ弱々しく、頼りない声を江本は出した。
 インターハイ、あるいは国体に優勝すると優秀選手として、かつて江本がそうだったようにアメリカ遠征メンバーに選ばれる。パスポートの提出を求められれば、光雄の国籍が明らかになるだろう。問題となる前に先回りして、協会に連絡したのだ。江本が新人教員だったことを考慮して、光雄が日本国籍なしに国体へ参加していたことは不問とされた。
 ただ、アメリカ遠征メンバーに選ばれた桜ケ丘高校レスリング部の同級生を見送るとき、光雄の顔が寂しそうだったことを江本は今も覚えている。
 インターハイの準優勝に加えて、国体で優勝した光雄は大学のレスリング関係者から注目を集める存在となっていた。中でも熱心だったのは、江本の母校でもある日本体育大学だった。
 江本の指示で夏休みを利用して、光雄は長崎県で行なわれた日体大の合宿にも参加している。そのほか、早稲田大学と専修大学からも誘われていた。光雄の兄たちは早稲田への進学を強く望んでいた。
 しかし、早稲田はある程度の学力が必要だった。学業に興味のない光雄では難しい。そして日体大に進学すれば卒業後の進路が教員に狭まると江本は心配していた。日本国籍がなければ、教員として採用されにくいという噂を耳にしたことがあった。
 専修は、授業料免除の特待生待遇で迎えてくれることに加えて、レスリングが最も強い。専修大学に行くべきだと光雄に勧めた。


第二章 ミュンヘンオリンピック韓国代表

専修大学、鬼の加藤先輩

 長州力の取材を始めてすぐに気がついたのは、プロレスラーとなった以降の「試合」を「仕事」と呼ぶことだった。
 プロレスの世界には、大相撲から引き継がれた隠語が数多くある。長州はしばしば「お米」という「金銭」を意味する言葉を使った。彼は「コ」の部分で舌を少し巻いて発音する。長州にとってプロレスは、お米を稼ぐための「仕事」だった。
 当初、「仕事」の話は早く終わらせようとした。一方、プロレスラーとなる前、特に大学時代について話をするときはいつも愉しそうだった。
 長州は強気に見えるが、末っ子らしく、慎重に状況をうかがってから動き出すという一面がある。大学進学時の上京でもその性格が出た。レスリング部の練習が厳しいと聞き、出発を先送りしたという。レスリング部のマネージャーから何度も電話が入り、ぎりぎりになって布団一式を担いで寝台特急あさかぜに乗った。荷物を送る時間もなかったのだ。
 朝方、東京駅に着くと通勤客で溢れていた。生田にある専修大学の体育寮までの行き方が分からず、東京駅で布団を持って右往左往した。結局、生田までタクシーで向かうことになった。
 大学は学生運動の季節だった。
 光雄が入学する前年の一九六九年一月一九日、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた全学共闘会議及び新左翼の学生を警視庁が排除している。いわゆる東大安田講堂事件である。
 専修大学でも体育会系の学生は、左翼系学生対策として大学当局に動員されていた。そのため、体育寮の窓ガラスは投石から守るために金網が張られており、屋上には石の入ったミカン箱が置いてあった。
 そんな中、光雄はレスリングにどっぷり浸っていた。
「一年生のとき、とにかく練習がひどかった。ひどかったというか凄かった。全国で優勝したような人間がみんな逃げていくんだもの」
 自分も逃げ出したかったが、ほかに行き場所は思いつかなかった。だから居続けるしかなかったのだと笑った。
 レスリング部員が暮らす第一体育寮は無骨なコンクリートの五階建てだった。レスリング部は四階に固められていた。階段を上がった正面に鉄の扉があり、そこが代々、主将の部屋となっていた。
 小さな部屋には木製の二段ベッドが三つ押し込まれていた。下級生は上のベッドを使い、上級生の面倒を見ることになっていた。
 体育寮にテレビは一台、それもモノクロだった。
「コマーシャルでスカートがめくり上がるやつがあったでしょ? あのパンツの色を見たいというのでカラーテレビを買って」
 小川ローザの白いスカートがふんわりと舞い上がるという、石油会社のコマーシャルである。一、二年生全員が駆り出されて、ビルの引っ越しのアルバイトをすることになった。その一日分の給料で寮にカラーテレビが入った。
 一年生の光雄は主将の部屋に割り当てられた。部屋を仕切っていたのは四年生の加藤喜代美だった。
 加藤は今も頭の上がらない先輩である。レスリング部OB会の用事で加藤から電話があったとき、携帯電話を持ちながら背筋を伸ばして直立不動になったのだと言った。
「鬼の加藤っていう大先輩なんです。五二キロのフライ級ですから一緒に練習はしないんですけれど、凄い人です。あの人のタックルは本当に豹です。速い。その先輩が跳び上がって、ぼくを殴るんです。考えられない」
 加藤の話をするとき、長州は弾けるような笑顔になった。加藤は彼にとって誇らしい存在だった。

「どうして私を殴ってくれないんですか?」

 加藤とは、九段下にあるホテルのロビーで待ち合わせした。人が行き交う中、白いスーツを着た加藤の姿はすぐに見つけることができた。すでに定年退職をしていたが、矍鑠たる、という表現がぴったりの、すっとした背筋をした男だった。
 現在は静岡に住んでおり、この日は専修大学レスリング部OB会のゴルフコンペのために上京し、このホテルに泊まっていた。
「最初に会ったのは、入学前の二月ぐらいだったと思います。当時は春の合宿が二月ぐらいからあって、新一年生も参加するんです。特待生で強いのが入ってくるのは分かっていましたから、楽しみにしていました。当時は今と違って、すらっとしていたのを覚えています。どんどん大学生と練習をさせたんですけれど、物怖じしない。高校生離れした構えというか、あまり突っ込んでこない。重量級の選手はドタドタとやるタイプが多かったのだけれど、彼は違っていて、軽やかだった。センスがある。これは一年生から使えると思いましたね」
 レスリング部の朝は早い。
 起床は朝六時、準備運動の後、ランニング。体育寮のある専修大学生田校舎は山の中にあり、一帯の道は起伏が激しく、トレーニングに適していた。
 練習は四年生の主将が仕切る。軽量級の主将の場合は、ランニングの距離が長くなった。練習熱心な加藤が主将の時代は特に厳しかった。
「一時間半ぐらい、ただ走るだけではなく、坂をダッシュしたりね。走って三〇分ぐらいで重量級は遅れてくる。あまりに遅れて整理体操のときに戻ってきたら、大変ですよ。腕立て伏せをさせられるんです。吉田は必死になって走ってましたね」
 上級生がシャワーを浴びている間に、一年生は部屋の掃除を済ませる。そして、寮で朝食を取ると授業に向かった。
 午後の練習は三時から、寮の横の石段を登ったところにある第二体育館で行なわれる。一九六〇年に建てられたこの二階建ての体育館は、一階が剣道場になっており、レスリング部は二階を使用していた。
 鉄製の外階段で二階に上がると、床の上にレスリング用のマットが二面敷いてある。天井は鉄骨が丸見えで、夏になると太陽の熱が天井から伝わって中に籠もった。窓を開け放しても暑さは和らぐことなく、練習が始まってしばらくすると、マットのへこんだ部分に汗の水たまりができた。
 寮の食事は朝と夜の二回。午後の練習の後、夕食だった。
「我々は軽量級なので低カロリー、高タンパクに気をつけて食べていました。彼の場合はなにせ軀を大きくしなきゃいけないっていうので、(寮の食事の他に)もの凄く食べていましたよ。当時はいいものってそんなに食えない。部屋でコンロに鍋を載せてラーメンを何個か、卵も入れてね、たまに肉でも入れて食べていたのかもしれない。私の減量が始まると匂いがするからって、ほかの部屋でやっていました。減量が始まったら周りは気を遣って大変ですよ。テレビでビールの宣伝が流れたら、すぐにチャンネルを変えていました」
 部屋ごとに日誌の当番があり、毎日の練習内容、感想を書いて四年生に提出するという決まりがあった。上級生の洗濯も一年生の仕事だ。光雄が一年生のときは、「日誌、お願いします」「洗濯物、お願いします」の一日二回ぐらいしか口をきかなかったのではないかと加藤は振り返る。
「日誌は文法が間違っていたり、誤字があったり、あるいは漢字が少なかったら怒られるんです。彼はあまり勉強は好きではなかったから、授業には出ていなかったと思うよ。試験前に、出ろ、出ろって言ったけど、どれだけ出ていたかね。赤点取って、ずいぶん追試を受けていたはずです。当時はスポーツやっている奴はそれが普通だったけどね」
 一九七〇年五月末、東日本学生レスリングリーグ戦が駒沢体育館で行なわれた。専修大学のほか、早稲田大、日体大、中央大、東洋大、日本大、国士舘大の七大学による団体戦である。
 試合は九階級で行なわれ、五階級を取った側が勝利する。専修は五二キロ以下級の加藤のほか、四八キロ以下級、五七キロ以下級の軽量三階級は勝利が計算できた。しかし、六二キロ以下級から上の中量級から重量級の有力選手が欠けていた。九〇キロ以下級、そして九〇キロ以上級に出場できる光雄は、専修が欲していた選手だったのだ。
 光雄の結果が勝利を左右したのは、優勝を争っていた日体大戦だった。専修は九〇キロ以上級を残して、四勝三敗一分け。そして最後に出場した光雄が勝利し、専修はリーグ戦全勝で優勝を決めた。
 収まらなかったのは日体大のレスリング部関係者だった。
 高校時代の恩師、江本が日体大出身だったことで、光雄には早くから目を付けていた。その光雄に敗れたことで優勝を逃したのだ。それからしばらく江本はレスリングの試合会場で日体大の人間と会うと露骨に目をそらされた程だった。
 加藤に「跳び上がって長州さんを殴ったのですか?」と訊くと、ハハハと高い声で笑った。
「練習で気合いが入っていないときに、正座させたり、なんていうのがあったんです。正座だと重量級の選手は膝を悪くするので殴ったりしていた。とはいえ、重量級の選手を殴るとこちらの手が腫れちゃうからね。だから鼓膜が破れないように気をつけて靴で殴っていた」
 加藤は大学を卒業した後、三信電気に就職して競技を続けた。三信電気には道場がなかったため、専修大学で練習をしていた。そんなある日、光雄が真剣な顔で加藤のところに来たことがあった。
「どうして私を殴ってくれないんですか?」
「だってお前はちゃんとやっているじゃないか」
 加藤が言い返すと、光雄は下を向いた。
「私は強くないから殴ってくれないんですか?」
 加藤が手を出す後輩は、見どころのある、強い選手が多かった。
「いや、そんなことないよ。お前は殴る必要がないからだ」
 また、別の日──。
 飲みに出かけたとき、光雄が「気合いを入れてください」と頼んできたこともあった。
「お前を殴る理由がないから、一人では殴れない」
 加藤が断ると、光雄は周りに立つように促した。そして、三人ほどの後輩を店の外に立たせて殴る羽目になった。
「一発殴るたびに、ありがとうございますって。殴った気がしないよね。こっちは軽量級だからあいつからすればビクともしなかったんじゃないの」
 加藤は微笑みながら首を振った。

在日本大韓体育会

 一九七一年三月末、光雄は大学一年生の春休みに全国大学選抜の一員として渡米した。高校選抜に選ばれなかった光雄には、初めての国外旅行だった。全米各地を転戦し、オレゴン州レスリング選手権ではフリースタイル九〇キロ級で優勝、グレコローマンで二位となっている。
 この年の六月、二年生になった光雄は日大講堂で行なわれた全日本選手権に出場。フリースタイル、グレコローマン九〇キロ級で共に和歌山県庁の谷公市に敗れて二位に終わった。
 谷は国士舘大学時代の六八年大会でグレコローマンのミドル級史上二位の若さで優勝以降、連覇を続けていた。
 ちなみに、この七一年大会で最重量級の一〇〇キロ以上級のフリーとグレコで優勝したのが、中央大学の鶴田友美、後のジャンボ鶴田である。
 同年九月、光雄は全日本学生レスリング選手権のグレコローマン九〇キロ級で優勝した。これほど強い選手が、レスリングの最高の舞台であるオリンピックに出られないのは理不尽だと専修大学レスリング部監督だった鈴木啓三は考えるようになっていた。

 周辺取材をしたいので、関係者を紹介してほしいとぼくは長州に頼んでいる。リストの一番上に名前があったのが鈴木だった。
 分厚い軀をした鈴木は八〇歳近いという年齢が信じられないほど、生気に溢れていた。加藤に続いて、若い頃にレスリングで軀を鍛えた人間たちの逞しさを感じた。
 鈴木は一九三五年に北海道の利尻島で生まれた。椎内高校から専修大学に進学後、柔道からレスリングに転向した。
「大学四年生のとき、ブルガリアのソフィアで世界選手権があって、三ヶ月ぐらいヨーロッパを回った。選手七人と監督、そして八田一朗さん。お金がなかったからね、コーチなんか付いていなかったよ。八田さんは頭がいい人でね、選手に柔道着を何着も持たせるんですよ。あの当時は柔道着が珍しくて海外で売れた。ぼくらも模範試合をしたり
ね。食事に行くぞと言われて、どこに行くかと思ったら大使館。大使館も日本人なんか来ないものだから歓迎してくれて、いい食事をご馳走してくれるんです。ブルガリアのほか、トルコなどレスリングの盛んな国を回った。帰りにはお土産の絨毯を背負わされたりね」
 日本レスリング協会会長、そして参議院議員を務めた八田一朗は日本レスリングの父といえる存在である。そして日本のレスリングの強化のためならばなりふり構わない男だった。鈴木たちが持ち帰った絨毯は帰国後、売却されて旅費の穴埋めに使われたことだろう。
「大学を卒業すると、八田さんに国を守るところに行けと言われて防衛庁に入ったんです。今の自衛隊の体育学校、練馬の駐屯地の厚生部というところに所属していた。三島由紀夫が切腹した跡を掃除しに行った経験もあるわ」
 防衛庁で働きながら、専修大学のレスリング部を教えるようになった。
「そうしたら当時の体育部長だった相馬先生という人がいた。相馬先生は専修大学の創立者の孫なんですよ」
 鈴木は相馬から「お前、今、何をしているんだ」と訊ねられた。
「自衛隊です」
「大学に帰ってきたいという希望はあるのか」
 大学の教壇に立つことなど考えたこともなかった鈴木は「自分は教員免許も何もないですよ」と返した。
「大学には教員免許はいらないんだよ。お前が学生の頃、世界に行ったりしたのが資格だよ。一芸に秀でていればそれでいいんだ」
 六五年四月、鈴木は経営学部講師として専修大学に戻り、レスリング部の監督となった。
 光雄を専修大学に誘ったのは鈴木だった。
「高校時代からスピードがあった。凄い投げの強い選手だったね。投げはもう抜群だった。将来、必ずチャンピオンになる。必ず世界に行ける、と」
 さらに鈴木が気に入ったのは、光雄の気の強さだった。
「闘うとき、顔は相手に向かっていくでしょ。ちょっと自信がなかったり、相手が強いと思ったりすると下を見ちゃうんです。下を見たらもう駄目。前に向かっていく姿勢が第一。技術面や体力面はあとからついてくる。まずは相手に向かっていくというハートがなきゃ。また、二、三回技をかけて失敗したら、諦めちゃう奴がいる。格闘技というのは、負けてもいいから最後まで闘う姿勢を持つというのが第一。まずハート。ハートがない奴は駄目さ」
 光雄が高校三年生の夏に、鈴木は徳山を訪れている。
「無口であまり喋らなかったね。高校では練習相手がいないから日体大で練習していた。日体大は自分のところに入るものだと思っていたんじゃないかな。こちらに誘ったけど、そのときははっきりした返事はなかった。ぎりぎりまで迷っていたんじゃないかな。専修に来てくれると分かったときは、嬉しかったなぁ」
 鈴木は光雄をオリンピックに出場させることはできないかと、つてを頼って在日本大韓体育会に話を持ち掛けた。
 在日本大韓体育会は、韓国の体育協会、大韓体育会の日本支部である。このとき、会長を務めていたのは鄭建永。町井久之という日本名を名乗っていた。
 町井を主人公とした『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男「東声会」町井久之の戦後史』(城内康伸著)のプロローグで、町井の略歴を紹介している。

〈戦後、荒れ果てた東京の街で腕力を武器に名を馳せ、愚連隊のボスとして銀座に進出した。一九六〇年代初めには、約千五百人の構成員を擁する暴力団「東声会」を組織。山口組三代目組長、田岡一雄と杯を交わし、伝統ある在京の任侠団体が無視出来ない存在となる。「政財界の黒幕」と呼ばれた右翼の大立者、児玉誉士夫の側近であり、児玉の人脈を通じ、自民党党人派の首領で副総裁だった大野伴睦や農相や建設相などを歴任した河野一郎ら政界の大物とのパイプを築き上げ、日本と韓国との国交正常化交渉の水面下で暗躍。やがて韓国で軍事政権を誕生させた朴正煕大統領の厚い信頼を得て、日韓をまたに掛けたフィクサーとしてその名を知らしめた──〉

 町井は一九七一年九月から在日本大韓体育会の第八代会長となっていた。

「在日の郭光雄が気炎を吐いて優勝した」

 町井は一九二三年に東京で生まれた。両親は朝鮮半島出身で、在日二世に当たる。町井は設立以来、在日本大韓体育会にとって最大の資金援助者であった。表に立つことを避けていたが、どうしてもと頼まれて会長を引き受けたという。
 町井は専修大学出身である。しかし、その繋がりはなかったと鈴木は言う。
「早稲田大学のレスリング部関係者からの紹介で、韓国の体育協会の大幹部みたいな人から呼び出されて行った記憶はある。ずっと日本にいた人だと思うんだよね。日本語はぺらぺらだった。向こうは二、三人いてね」
 当初、大韓体育会の関係者は光雄の出場に興味を示さなかった。
 朝鮮半島は一九五〇年から五三年の朝鮮戦争で韓国と北朝鮮に分断されていた。両国はスポーツの世界で激しく対抗心を燃やしていた。六六年のFIFAワールドカップ・イングランド大会に初出場した北朝鮮代表は強豪国イタリア代表を破って八強入りしている。サッカーは韓国で最も人気のあるスポーツだった。韓国のスポーツ関係者は、自分たちも結果を残さなければならないと焦っていた。
 ただし、韓国は朝鮮戦争後の復興のただ中にあり、強化費、遠征費が限られていた。そのためオリンピックのレスリング競技への派遣は三人。重量級はアジアと世界の差が大きい。メダルが期待できる軽量級の選手を連れていきたいと大韓体育会の人間は考えていたのだ。
 それでも鈴木は引き下がらなかった。
「今回のミュンヘンでは通用しないかもしれない。しかし、経験を積めば、その次に生きてくる。次のオリンピックでは必ずいい成績を挙げるでしょう。それだけ能力のある男なのです」
 大韓体育会は鈴木の熱意に押されたか、四月にソウルで行なわれる国内選考会に光雄を参加させることになった。
 韓国オリンピック協会への根回し、渡航費、宿泊費など一切の費用は会長の町井がみている。
 長州に町井と会ったことがあるかと訊ねると、一度は「会っていない」と答えた後、言葉を翻した。
「……ぼく、会いましたね。在日の体育会ですか? あの小さいのがあったんですね、日本に。インパクトありましたね。大きな方で、身長もぼくより大きかったです。独特のもみあげがあった気がします。太い葉巻を吸ってね」
 そのときは町井が何者であるか、知らなかったと付け加えた。
 七二年四月二二日、漢城女子高校体育館で行なわれた選考会で光雄は全試合フォール勝ちという圧倒的な力を見せつけた。
 翌二三日の韓国「日刊スポーツ」は〈在日の郭光雄が気炎を吐いて優勝した〉という大きな見出しで報じている。
 また、二四日には同じ「日刊スポーツ」のコラムで話題の人として取り上げられた。

〈ミュンヘンオリンピック出場権最終選考に、ニューフェースの大男が登場し、フリースタイル、グレコローマンのライトヘビー級を席巻した。試合は三戦ともフォール勝ち。判定に持ち込まれることはなかった。柔道の背負い投げを思わせる彼の技に、観客はもちろん選考委員たちも目を丸くした。
 彼の名前は、郭光雄(日本名・吉田光雄 専修大学商学部三年生)。この最終選考には、在日本大韓体育会の推薦により、特別出場した。
「ぜひ韓国の国旗をつけたかった。国内の重量級選手たちは思ったより弱かったですが、大げさに自慢したくはありません。母国に初めて来て目がくらみそうです」
 郭光雄は二種目優勝に対しても淡々としており、興奮した様子はなかった。重量級の選手であったため、最終選考前から五輪派遣については懐疑的な声があった。しかし、この日の競技を観戦していた金体育会長は「彼が優勝すれば五輪に出す」と約束している。
 郭は前年、全日本学生選手権大会で優勝、全日本選手権でも二位となっている。日本でも彼の才能は認められており、日本帰化を無理やり勧めるという動きもあった。
「韓国人として出場できなければ、日本に帰化し五輪に出るつもりだった」
 と彼は率直な心境を打ち明けている〉

 試合の印象がよほど鮮烈だったのだろう、光雄はフリースタイル九〇キロ級でオリンピックに派遣されることになった。
 光雄が入ったことで、押し出された選手がいた。六二キロ以下級の梁正模である。
 梁はこの国内選考会で優勝、代表入りできるものだと信じていた。彼は代表から落ちたことに落胆し、レスリングから一度離れている。その後、周囲の説得で復帰、次のモントリオールオリンピックに出場し、韓国初の金メダルを獲得した。
 もちろん、光雄はこうした選手が存在したことを知らない。
 七月二二日、銀座の中華料理店で、韓国代表に入った在日選手のために在日本大韓体育会が壮行会を開いている。
 出席したのは光雄のほか、柔道の金義泰(キムウイテ)と呉勝立(オスンリ)の三人だった。そのほかに在日朝鮮人から三人の射撃選手が韓国代表に選ばれていたが、彼らはすでにミュンヘンで合宿を張っていた。

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