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吉沢久子100歳のおいしい台所
吉沢久子

 第一章 幼い頃の台所

 生まれは深川・木場

 一九一八年(大正七年)一月二十一日に、吉沢久子さんは生まれた。この年、一九一四年から続いた第一次世界大戦が、十一月十一日にドイツの降伏で終了した。九百九十万人の死者、二千万人の負傷者、戦費が当時の金額で四千億円という、犠牲と爪痕を残した戦いであった。また、国内では、七月に富山県魚津町(現・魚津市)の漁民婦女四十人余りの、船積出しを阻止する要求をした動きが、米騒動となり、わずか二週間で全国に拡大したなどの出来事のあった年である。
 生まれた場所は、深川・木場の祖母の家である。生家の様子がどのようであったか、また祖母の人となりや生活ぶりといったことの記憶は乏しい。

 私が育った家は、街中の一区画のようで、門があって、真ん中に木が一本立っていましたね。お隣のおじさんは、この一角に住んでいたようです。まあ、小さいときは、そんなこと、あまり興味がなく遊んでいるだけでしたから。
 自分の幼いときのことがどうだったのか、と考えたとき、誰かに聞こうと思っても、そのときは、もう誰も聞く人はいませんでした。だから、小さいときのこと、本当に覚えていなくて困っちゃうんです。私は、前向きというか、前ばっかり見てたんでしょうね、きっと。ボヤーッとした記憶しかないんですけど、祖母の三味線を弾く姿を、何となしに覚えているんです。祖母は、木場に関わりのある仕事をしていた家の娘だったと思うのですが、小さい頃のことで、三味線を弾く人は芸者さんだと思っていたものですから、「おばあちゃんって芸者さんだったの?」なんて、聞いたことがあるんですよ。そんなことぐらいしか記憶がないですね。

 その頃の木場の風景なども、はっきりしていないという。

 水の風景は、丸太があって、浮いているのが見えたのは、記憶しているんですけどね……。

 好奇心の芽が

 小さい頃のことは、ほとんど覚えていないのですが、怖かった出来事で、川に落ちたこと、これだけは、シッカリ覚えています。木場ですから、丸太が浮いていて、そこへおじさんたちが乗って、仕事しているのが、面白そうで、私も丸太に乗りたいな、なんて思って、乗ったんですね。そしたらすぐにひっくり返って、川に落ちたんです。

 助けてもらったのですか

 すぐに、おじさんが救い上げてくれて、助けてもらいました。助けられて、母や祖母に怒られたと思うんですが、それも覚えていない。川に落ちたことは、怖かったから、それは覚えているんですね。

 大正時代は大らかというか、のんびりしていたというか。五歳にも満たない、小さな子供が、一人で丸太に乗る、いや川に近づくことすら、現代では考えられない。育児中の母親たちには、想像もつかないことだろう。まして、幼い子供が川に落ちるような環境があるということが、今なら大きな社会問題にもなっているところだ。
 大らかな大正時代にしても、吉沢さんは、小さいときから、天性の好奇心の芽を持っていたということだろうか。それとも、危ないことをする、お転婆さんだったのか。

 決して大人しい子ではなくて、川でも何でも一人で遊びに行って、逞しい子だったんだと思います。今みたいに、子供は一人で遊びに行っちゃいけないとか、言われなかったんでしょうね。小さい頃の友だちのことなども、まったく覚えていないんです。
 もしかしたら、祖母、母、叔父など大人ばかりに囲まれていたからでしょうか。

 関東大震災で

一九二三年、五歳のとき、関東大震災に見舞われる。

 家の中にいたら、隣のおじさんが、頭にたらいをかぶって、慌てて逃げる姿が見えて、それが可笑しくて、はっはっはあ〜なんて、笑っていました。面白かったのですね。今考えると、瓦などが落ちてくるので、かぶっていたと分かるのですが、そのときは分からなくて、面白がってばかりでした。
 それに、家が全部丸焼けになって、祖母や母、親戚と一緒に、逃げて野宿したんですよ。それも印象的なこととして記憶があります。とにかく、夜中に外で寝るのが、嬉しくてしょうがなかったようです。
 肝心の地震の怖さというのは覚えていないんですね。

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