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ひとだま 隠密絵師事件帖
池 寒魚

   第一話 ひとだま

 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた慶長八(一六〇三)年、第十一子として生まれたのがのちの水戸徳川家初代当主頼房である。
 家康は頼房に対し、不吉な予感を抱いたといわれる。そのため頼房が江戸に入るのは家康の死後であり、徳川姓を許されたのはさらに三十三歳のとき、家康の死から実に二十年が経過していた。
 そして家康の予感は、二百五十七年後の安政七(一八六〇)年に的中してしまう。三月、桜田門外においてときの大老井伊掃部頭が水戸浪士を中核とする一団に暗殺されたのだ。事件は徳川幕府終焉の始まりに違いなかった。

     一

 その男の食いっぷりが何とも小気味よく、司誠之進は半ば見とれていた。
 男──鋳掛屋の利助は丼に盛った白飯に刻んだ菜っ葉の香々を散らし、ざっと湯をかけ、夢中で掻っこんでいる。渦を巻いた米が勝手に利助の口へ流れこんでいくようだった。
 よほど腹が空いていたのだろう。たちまち三杯を平らげ、大きく息を吐いた。両手を膝に置き、ぺこりと頭を下げる。
「ごちそうになりました」
 誠之進も利助の顔を知っていた。品川宿の北にある海蔵寺の先の長屋に住んでいて、時おり近所の井戸端に来て鍋、釜の修繕をする姿を見かけていたからだ。三十半ばくらいで痩せている。
 今朝方海蔵寺のわきで倒れているのを口入れ稼業をしている藤兵衛のところ──橘屋に出入りしている手下の与吉が連れてきたのだ。
 橘屋は品川宿で東海道に面しており、町内の旅籠や料理屋などに男衆を紹介する口入れ屋を稼業としていた。ふだんから十数人の男衆が出入りしており、住み込みもいる。そのため毎朝飯だけは大量に炊いていた。田舎ならいざ知らず江戸市中では町家でもごく当たり前に白米を食べていたが、茶は贅沢品ゆえ、冷や飯の湯漬け、香々が多い。
 また、藤兵衛はこの春から南町奉行所同心の手先、いわゆる目明かしを引きうけていた。
 利助のとなりにかしこまり、横目で睨んでいた与吉がいう。
「今朝方、長屋のかみさん連中が騒いでいるもんですからのぞきこんだらこの野郎が倒れてやしてね。抱きおこすと腹ぁ減って動けねえってんで、自身番に連れていっても食い物があるじゃなし、いっそ親分のところへ運んだ方が助かると思いやして」
「かまわねえよ」
 長火鉢の前であぐらをかいた藤兵衛がうなずく。
 与吉が利助の脇腹をつついた。
「ほら、さっきうわごとみてえにおれにいってたことを親分にも申しあげねえか」
「はい」
 返事をしたものの利助は顔を伏せたきり、黙りこんでしまう。
 藤兵衛が与吉に目を向ける。
「何があったんだ?」
「へえ。何でもこいつはひとだまを見て、目ぇまわしたっていうんで」
「ひとだまだぁ」藤兵衛が片方の眉を上げる。「そりゃ、怪談の時節にゃ違えねえが、そんなもん芝居か講談の話だろう」
「いえ」利助が顔を上げ、またすぐにうつむいた。「本当に見たんで」
 また与吉が利助の脇腹をつつく。
「最初からお話ししねえかい」
 利助がうつむいたまま、ぼそぼそと語りはじめた。
「ゆうべは、ちょいとばかり金が入ったんで、久しぶりに玉木屋でものぞいてみようかと宵の口に長屋を出まして」
 玉木屋は品川宿の旅籠だが、食売女を置いていた。飯を盛り、酌をして、添い寝までしてくれた上、翌朝また飯をよそってくれる。幕府が江戸市中で公認している遊廓は吉原だけだが、宿場町には女を置き、客を取らせる旅籠が多かった。品川は江戸を出て、東海道最初の宿場町であり、旅籠や小料理屋が数多く軒を並べている。
 宿場町は江戸の外とされ、遊女目当ての客が多かった。中でも品川は江戸に近く、吉原ほど格式張らないかわり値も安かったので気楽に遊べた。玉木屋は中の下ほどの旅籠で職人の手間賃でも遊べる。ちなみに岡場所は非公認の遊女街を指すが、あくまでも江戸市中の悪所のことだ。
 利助がぼそぼそとつづける。
「間の悪いことにうしの奴に会っちまいまして」
 わきから与吉が言葉を添える。
「うしってのは丑松といいましてね、こいつが住んでる長屋に巣くってる遊び人でして」
「それで」
 藤兵衛がキセルに莨を詰めながら先をうながした。
「博奕に誘われやした。うしの知り合いが小さな賭場を開いてるっていうんで。おれは、五百文ばかり持ってたんですが、しみったれをいうんじゃねえよ、二朱にすりゃ、ちゃんと登楼って、たっぷり酒を飲んだあと、一晩中女の腹の上だって……」
 利助が語りつづける。要は五百文を二朱に膨らまそうとして負けたということらしい。藤兵衛は長火鉢の隅にいけた炭にキセルを近づけ、吸いつけた。煙をぱっと吐いて訊く。
「で?」
「あとひと息だったんです」
「何があとひと息だよ」与吉が利助の頭を張った。「大負けして、すっからかんじゃねえか、馬鹿野郎」
 利助がもじもじし、唇を尖らせる。
 文無しになった利助は長屋に帰り、水を飲んで空きっ腹をごまかし、寝てしまうしかなかった。
「それで長屋の入口にある後架で小便をして、井戸の水を汲もうとしたとき、後ろで音がしたかと思うと火の玉がぼわんと浮かびあがりまして」
 周囲を昼間のように照らすほど明るかったらしい。
「ひとだまだと思ったとたん、わけがわからなくなって。気がついたら井戸のわきで寝てたんです」
 藤兵衛がふたたび与吉を見やった。
「お前んとこの近所じゃねえのか」
「へえ」与吉が座りなおし、藤兵衛に向きなおった。「ちょうどこいつがひとだまを見たってあたりで弔いがございやしてね。九十になろうって婆さんがついにいけなくなって昨日の朝早くにおっ死んだんでさ。それでゆうべは長屋に寝かせて、今朝方寺に運んだような次第で」
 藤兵衛が顎を撫でる。
「死んだのは昨日の朝か」
「へえ」
 藤兵衛が誠之進に顔を向ける。
「ひとだまってのは死んだすぐあとに出るのが相場でござんしょ?」
「さあ」誠之進は首をかしげた。「そっちの方には明るくないんで」
「いや、ひどく明るくて、周りが昼間のように……」
 いいかけた利助の頭を与吉がまた張った。
「馬鹿。そんな話をしてるんじゃねえよ」
 キセルを長火鉢の縁にぶつけて灰を落とした藤兵衛が吸い口をくわえてひと息吹いた。残っていた薄い煙がさっと広がる。
「ひとだまねぇ」首をかしげた藤兵衛だったが、気を取りなおしたようにいう。「まずは最初から聞かせてもらおうじゃねえか」
「へえ」利助が座りなおす。「空っけつでおまけに空きっ腹で、長屋にたどり着こうというときでございました……」

 海蔵寺の奥を左へ入れば、もう目と鼻の先が長屋だ。背にした品川宿の紅灯は遠ざかり、足下すら見えないほどに暗い。
「キショウメ」
 腕組みし、うつむいて歩いていた利助は低く罵り、地面を蹴飛ばした。面白くなかった。悔いと怒りが肚の底でまぜこぜになっている。
「うしの奴め」
 つぶやいた。声にするとさらに怒りがつのってくる。
 うし──同じ長屋に巣くっている遊び人の丑松の誘いに乗らなければ、今ごろはほろ酔いで同じ道を歩いていたに違いない。宵越しの金は持たないを身上とし、ちょっとでも金があれば、酒を飲んでしまう。それが珍しく五百文ばかり溜まった。このところ忙しくて日が暮れると寝てしまう暮らしをしていたせいだ。五百文あれば、川を越えて向こうにある品川宿で女の肌に触れられる。
 長屋を出たところで丑松に出くわしたのが運の尽き。柔らかな女の肌を思い、間抜けな笑みでも浮かべていたのだろう。
 丑松が訊いた。
『馬鹿にご機嫌じゃねえか。どこへ行くんでぇ?』
『ちょいと遊びにね』
 懐に収めた巾着をぽんと叩いてみせた。
『女郎買いか。お大尽だねぇ』
『よせよ、そんなじゃねえよ』
 巾着の中身は五百文、もっとも安い食売女を相手にするだけで精一杯。それでも少しなら酒も飲める。そう話すと丑松が鼻を鳴らした。
『しみったれをいうんじゃねえ。二朱にすりゃ、ちゃんと登楼ってたっぷり飲んだ上に一晩中女の腹の上だ』
 丑松のいう通りだった。五百文で一朱、倍にすれば二朱で、そこそこの女と差し向かいで飲み、朝まで同衾できる。そんなことはわかってるといいかけたが、丑松が先んじた。
『この先で知り合いが賭場ぁ開いてる。ご近所相手のケチな博奕だが、五百文が二朱、うまくすりゃ一両までふくれあがるぜ』
 一両は無理にしても、二朱で勝ち逃げすればと甘酸っぱい期待が湧きあがり、つい丑松に従った。行った先では丁半博奕の真っ最中だった。
 出だしはよかった。あと一息で二朱というところまで、ちまちま賭けては小さく勝ちを重ねていた。どういう具合か、ずっと丁の目がつづいて、利助は勝ちつづけていた。
 わきに座った丑松が耳元でささやいたものだ。
『潮目が来てやがるじゃねえか』
 もう一つ勝てば二朱というとき、半の目が出た。負けは大したことはなかった。それでも目の前の駒をさらわれると胸の底にぽっかり穴が空いたような気がした。取られたら取り返すまでだ。ふたたび丁に駒を張ったが、またしても目は半。頭に血が昇った。負けておめおめ引き下がれるか……。
『おいおい熱くなるなよ。博奕は熱くなっちゃ、終えだぜ』
 丑松のささやきが利助をさらに熱くさせた。丁から半に切り替え、駒を置く。だが、持ちあげられた壷の下に転がっていたサイコロの目は赤い目が二つ、一一(ピンゾロ)の丁。裸にさらしを巻いただけの壷振りが口元にちらりと笑みを浮かべた。
 いや、浮かべたような気がした。
 かっと血が昇った。丁に張れば半、半と置けば丁──あっという間に空っけつで賭場を放りだされた……。
 海蔵寺の角を左へ曲がる。つんと来る異臭にまばたきする。長屋の端にある総後架の異臭は鼻より目に来て、小便がずいぶん溜まっているのを感じた。考えてみれば、夕間暮れ、長屋を出てから賭場に行き、真夜中まで打っている間、いちども小便をしていない。
 総後架のわきにある小便器に向かい、着流しの裾をからげ、ふんどしのわきからつまみ出すと勢いよく放った。
「飲んでもいねえのによく出やがる」
 つぶやいたとたん、空っぽの胃袋が身もだえする。飲んでいないだけでなく、朝に湯漬けを食べたきり何も食っていない。しかも一文無しでは、屋台の蕎麦もたぐれない。総後架わきの井戸で水を汲み、せめて腹一杯飲もうかと思いつつ、止まらない小便をながめていた。
「いつまで出やがるんだい」
 ようやく小便が終わり、二、三度振って、ふんどしのうちへ押しこむ。
「何やってんだろうなぁ」
 利助は三十になる。独り者で、近所に身寄りもない。長屋に帰ったところで大根の尻尾はおろか黄色くなった葉っぱすらない。
「腹ぁ減ったなぁ」
 悪罵も底を尽き、ぼやきになって井戸のそばまで行ったとき、うしろでぼんと鈍い音がした。
 ふり返る。
 目の前に白く輝く球が浮かびあがり、ゆっくりと空へ昇っていく。周囲が真昼のように照らされていた。
 利助は口をぽかんと開け、光の球を見つめていた。

 与吉と連れだって出ていく利助の背を見送ったあと、藤兵衛が誠之進を見た。
「どう思われやす?」
「まんざら利助が嘘を吐いているようにもみえなかったが」
「そう」腕を組んだ藤兵衛がうなずく。「私もそう見たんでやすがね。しかし、ひとだまたぁねぇ」
「信じられんよなぁ」
「たしかに」
「それにしても、親分」誠之進は苦笑した。「この怪談話で私を呼んだのかい」
 朝寝を決めこんでいるところに橘屋の若い衆──徳が来た。藤兵衛がすぐに来ていただきたいと申しておりまして、といったのだ。
 これのことでご相談したいといって徳が両手を胸の前に上げ、指先をだらりと下げてみせた。芝居に見る幽霊の仕草である。何の話だかさっぱり要領を得なかったが、とりあえず徳といっしょに橘屋へやってきた。
「わざわざご足労いただいて恐縮でございます」
「ご足労というほどじゃないよ」
 長屋のある路地を出て右に行けば、すぐに東海道にぶつかり、その角から西へ三軒行ったところが橘屋である。口入れ稼業ゆえ屈強な男衆がいるので近所で揉め事があれば橘屋に持ちこまれ、藤兵衛か、代理の者が顔を出せば、たいていは解決した。
「喧嘩だ、酔っ払いだ、踏みたおしだっていうんなら私でも何とかなりやすが、ひとだまじゃ相手が悪い」
 藤兵衛が身を乗りだしてくる。
「神田のお師匠のところへはちょくちょくいらっしゃってるんでしょ」
「たまに、だが」
 神田の師匠とは、絵師河鍋狂斎のことである。誠之進は絵師と称してはいるが、画業だけで食うことはできず旅籠大戸屋で用心棒の真似事をして小遣いを稼ぎ、何とか糊口をしのいでいる。
「誠さんのお師匠ならひとだまの方もお詳しいんじゃないですかね。たしかお師匠は観音様やら地獄やら幽霊やらもお描きになってると聞いておりますぜ。それならひとだまのこともあれこれご存じでしょう」
「どうかなぁ」
 誠之進は腕組みし、首をかしげた。
 重ねて藤兵衛がいう。
「実はもう一つお願いの筋もござんしてね」
「師匠に?」
「ええ」
 それから藤兵衛が日本橋にある大店の呉服屋の名を口にした。
「ご存じですか」
「名前だけなら。足を踏みいれたことも、そばに行ったこともないが」
「あそこの大旦那……、といってもとっくに隠居の身でしたが、去年の師走にとうとういけなくなりまして。実はご隠居様は法禅寺の檀家総代も務められてました」
 誠之進の住む長屋は法禅寺の境内にあった。
「それでご隠居の息子、つまり当代が追善供養として画会を催したいといっておりまして。そこへ神田のお師匠に来ていただけないかと……」
「ちょっと待って」誠之進は手のひらで藤兵衛を制した。「殊勝な心がけだとは思うし、私は法禅寺の長屋に住まっているが、それだけで師匠が画会に来られるかはわからんぞ」
「そうですか」
 さしてがっかりした様子もなく、藤兵衛はキセルに莨を詰めはじめた。
「実は亡くなったご隠居の棺桶には絵が一枚入れられましてね」
「絵?」
 何とか声を圧しだしたものの誠之進は背中にどっと汗が浮かぶのを感じた。
「一風変わった絵だったそうでございます」
 キセルの雁首を火種に近づけ、吸いつけた藤兵衛がふっと煙を吐いた。片方の眉を上げ、誠之進の顔をのぞきこむ。
「何でも白い鴉の絵だったとか。ご隠居はたいそう気に入られて、遺言までされたそうです。棺桶に入れるように、と。ね、まんざら誠さんと因縁がないわけじゃないでしょ」
 誠之進は低く唸った。

     二

 江戸から東海道をやって来て、品川宿の入口──歩行新宿にさしかかった右側にひょろりとした一本松がある。
 昨秋のこと、誠之進は中ほどの枝にとまっている一羽の鴉を見た。嘴から足、全身を覆う羽毛もすべて白く、目が赤かった。白鴉は誠之進に目を留めると、威嚇するように鋭く鳴いた。
 そのとき、目だけでなく、口の中も血を吐いたように赤いのに気がついた。
 見かけたのは、一度きりである。白い鴉は群れの中ではつまはじきにされ、餌場ではほかの鴉にいじめられ、長生きできないと聞いた。
 乗り合いの漕ぎ船に乗った誠之進は何度も宿場をふり返ったが、岸に並んだ旅籠の陰になっているために松を見ることはできなかった。
 用心棒として出入りしている大戸屋で筆頭の位である板頭に汀という遊女がいる。先ほど藤兵衛がいっていた日本橋の大店のご隠居が晩年贔屓にしていた妓だ。棺桶に入れてくれと遺言したのが汀の絵だった。
 汀は美人であるだけでなく、詩歌、音曲のたしなみもあった。それだけに気位が高く、扱いにくかった。
 幕府が認めた遊廓吉原と違って、旅籠に食売と称して女を置き、客の相手をさせる品川宿は、値段は安く、吉原ほど格式張らないので人気を呼んだ。また、湊が目の前であるだけに江戸前の魚の新鮮さと種類の豊富さは吉原をしのぎ、妓たちも気取らず、身も心も精一杯に尽くし、一夜妻となる。
 夜が明け、朝餉をしたためたあと、玄関まで出て見送られると、もう一度訪れたくなるのが人情といえる。
 そうした中、汀はほかの妓たちとは違っていたのである。もともと気むずかしいところがあったのかも知れない。だが、簡単にはなびかないからこそ惹かれる客たちも少なくなかった。汀が板頭を張っている理由でもある。
 だが、なぜか誠之進には心を許していた。とくに思いあたる理由はなく、しいていえば、ウマが合うといったところか。
 汀を贔屓にしていた大店のご隠居が二十両を出すといったのが汀の肖像だった。しかし、汀がなかなかうなずかない。ただ、誠之進が描くのであれば、承けてもいいといったのだ。
 あわてたのは誠之進だ。
 子供の頃から駿河台狩野派の流れを汲むと称する画塾で学んだが、絵師としての技量は大したものではなく、たまに浮世絵の下絵を描くくらいで画業だけでは食っていけなかった。それゆえ大戸屋で用心棒の真似事をし、小遣い銭を稼いでいる。とても二十両の値がつく絵を描けるはずがなかった。
 ご隠居の病が重くなり、いよいよ最期が近くなっても汀がどうしても誠之進のほかでは承けないといい張った。追いつめられた誠之進は汀を前にして筆を執ったが、そのとき描いたのが白い鴉だった。
 板頭を張りながらほかの妓たちとも品川宿とも馴染まない汀の孤高が白い鴉につながったのではないか……。これはあとになって考えたことだ。
 松を描き、薄墨で雲を描いた中に鴉だけを白く抜いた。目はまっすぐに見る者に向けられ、嘴を大きく開いている。白い鴉が一声鳴いた刹那を描いたのである。
 描きあがった絵を誠之進の肩に手を置き、乳房を押しつけるようにしてのぞきこんだ汀がつぶやいた。
『これ、私に似てるかも』
 絵は汀が欲しいというので渡したが、ご隠居の手元に行き、棺桶に入れられたことなど今日の今日まで知らなかった。白い鴉を描いて以来、汀からも大戸屋からも催促されることがなかったのですっかり忘れてしまっていたのだ。
 藤兵衛が白い鴉の絵といっていたのを思いだし、誠之進は小さく首を振った。もっとも二十両といわれた絵の代金も受けとってはいない。誰もが忘れているのならかえって気が楽だ。
 漕ぎ舟が日本橋の河岸に着いたところで降り、狂斎の自宅がある神田明神下までぶらぶら歩いた。急ぐことはないし、そもそも狂斎が在宅しているのかもわからない。ただもう一つあてがあった。あまりあてになりそうもなかったが……。
 狂斎宅にたどり着くと、玄関に立った誠之進は声をかけた。
「ごめん」
「はいよ」
 男の声が答え、ほどなく框に見上げるような巨漢が現れた。誠之進を見て、目を見開く。
「おや、珍しい」
「あてにしてないあてがいた」
「何だ、そりゃ。ご挨拶だな」
 巨漢──鮫次が渋い顔つきをする。裸足でも六尺をゆうに超える長身で、身幅もある。もっともあまり鍛えられたことのないぶよぶよのでぶだ。狂斎の弟子ではあるが、絵師というより雑用をいいつけられることの方が多い。
 その鮫次が框に立っているので自然と見上げる恰好になった。鮫次が肩越しに親指で奥を指す。
「先生ならいるぜ。ついさっき一仕事終えたところだ」
「仕事を終えたばかりならお疲れじゃないのか」
「そうでもねえ。昨夜は市ヶ谷で画会があって、おれも先生のお供でくっついてったんだ。帰ってきたのは今朝方、明るくなってからだよ。おれも自分の住処に帰るのが面倒なんで泊まっちまったが、失敗だったな」
 鮫次が禿げ頭を掻いた。
 狂斎との因縁ができたのは鮫次のおかげだった。昨秋、大戸屋でべろべろに酔っ払い──品川宿に来る前に一升五合、大戸屋で二升を飲んでいた──、妓が来ないといって大暴れしたときに誠之進が呼ばれた。さらに大酒を飲みながら鮫次が一文無しだったので翌朝付け馬となって代金の回収に来ることになった。
 そのとき訪ねてきたのが狂斎の自宅なのだ。
「失敗って、ゆうべも酒で?」
「おれだっていつも酒癖が悪いってわけじゃねえよ。失敗ってのは、ここに泊まったことさ。どんなに酔っ払って帰ってきても先生は席画をやったあとは筆なおしをやる。観音様を一幅描くんだ。それから日記をつけて、湯漬けを食ったかと思えば、すぐに仕事にかかった。おかげでちっとも寝られやしなかった」
「先生もお休みになってない?」
「ああ。いつものことだ。飲めば飲むほど描きたくなるっていうんだから始末が悪い」
 鮫次が大あくびをする。
「そうか」
 誠之進は腕組みした。
「どうした?」目尻の涙を小指ですくいとった鮫次が誠之進をのぞきこむ。「すすぎは面倒だから今雑巾を持ってきてやるよ。どうせ大した家じゃなし、足なんざひと拭きして上がりゃいいさ」
「実は先生に一つ、二つ相談があってね。それで来たんだが、先生に直接申しあげる前に鮫さんに聞いてもらった方がいいかと思ってね」
「何だよ、相談って」
「一つは画会なんだが……」
 藤兵衛にいわれた法禅寺の追善供養について話をした。玄関先の立ち話なので、汀とのからみは端折った。
 鮫次があっさりうなずく。
「日本橋の大店がからんでるとなりゃ、いい酒が出て、その上、いい金になる。都合さえつけば、たぶん大丈夫だろう。もう一つってのは何だい?」
 そのとき、奥から声がかかった。
「おい、鮫。誰かお客さんか。玄関先でごちゃごちゃいってねえで、さっさとお連れしろ」
 狂斎である。
「江戸っ子だからね、うちの先生は。気が短え」
 低い声でいった鮫次が躰を伸ばし、奥に声をかける。
「品川宿の誠さんですよ」
「おお、久しぶりだな。さっさと上がってもらわんか」
 ふたたび誠之進に顔を向けた鮫次が低声でいう。
「もう一つってのが何だか知らないが、こうなっちまったら先生に面と向かって申しあげるしかあるまい。これ以上、グズグズしてると雷が落ちるぜ」
 まるで聞こえたように奥から狂斎が怒鳴った。
「鮫」

 陽が西に傾いた頃──。
 開けはなたれた戸の上半分が障子となっていて、酒めしと大きく記されている。一日の仕事を終えた利助は店に入り、いつものように壁際にいった。ひっくり返した樽に板が渡してある。
 片膝を引きあげ、半あぐらをかくと男が前に来た。
「七文二合半」
 顔も上げずに注文した。
 二合半で七文のにごり酒がもっとも安い。だが、男は前に突っ立ったきり、黙っていた。利助は顎をもち上げた。男は体格がいい。利助より一尺ほども背が高く、おまけに胸板が厚かった。
 居酒屋の男たちはたいてい大柄だ。飲み食いしたあと、金を払わず居直る客を力ずくでねじ伏せ、懐をさぐって巾着を引っぱり出すためだ。中には酒を飲んだあと、いきなり外へ駆けだす輩もある。そういうときは足の速い男が追いかけ、手が届くところまで来たら背を突いて転ばし、あとからやって来た男衆といっしょになる。
 地面にあぐらを掻き、金なんかねえや、さあ、殺せとわめくのもいる。
 もちろん殺しはしない。二、三人でよってたかって殴り、蹴って、半分だけ殺す。金は取れなくとも二度と店にはやって来ない。
 利助は黙っている男を見て、くり返した。
「七文二合半だっていってるだろ」
「ない」
「何だよ、ないってのは」
「今日から八文だ」
「馬鹿いうな。春先に七文になったばかりじゃねえか」
 昨秋までは六文だったが、春に七文になった。三月もしないのにまた一文高くなっている。
「七文なら二合だ」
 細い目で見下ろし、にべもなくいう。利助は二度うなずいた。
「わかった、わかった。八文二合半、それに田楽とから汁をくれ」
 男は返事もせず厨房に向かった。
 目の前に樽を引きよせ、懐から取りだした巾着の中身をぶちまける。ぶちまけるというほどはない。四文銭が四枚、一文銭が数枚散らばっているだけだ。どれも丸く、四角の穴が開いている。
 四文と一文をより分けておいた。酒が八文、田楽とから汁が合わせて同じく八文になる。一日中歩きまわり、鍋釜を修繕して回った稼ぎが二十文でしかない。
 さきほどの男が盆を手にして戻ってきた。銭を並べた樽の上に酒を温めるちろり、猪口、田楽を載せた皿、から汁の椀を置いていく。から汁はおからの味噌汁で酒のあてにすると悪酔いしないで済む。
 男が手を伸ばし、四文銭四枚と一文銭二枚をつまみ上げた。
「おい、十六文だろ」
 思わず声を張った。
「田楽とから汁は五文ずつ、あわせて十文だ」
 今日からかと訊こうとして言葉を嚥みこむ。修繕で得られる代金はちっとも上がらないというのに酒と食い物は日に日に高くなっていく。残った三枚の一文銭を横目にちろりから猪口に酒を移した。とろりとした酒をくいと飲み、独りごつ。
「明日からもう少し早く起きるか」
 三文の得という。残った三文と合わせれば、もう一合飲めるか、飯が食える。
 短冊に切った豆腐に串を二本刺し、焼いた上に味噌をまぶした田楽をひと口かじって、猪口に酒を注いだ。ひと口飲み、猪口を置くと椀をとってから汁をすすった。一文高くなっただけではなく、汁が薄くなったような気がした。
 ちびちび飲んでいるととなりに客が座った。ほかにも空いている樽はいくらでもあるだろうにと思って目をやった。利助は唇を歪めた。
「相変わらずしけてやがるぜ」
 声をかけられ、目を上げるとにやにやしている丑松が樽の上に散らばる一文銭を見ていた。
 大きなお世話だといい返そうとしたが、さきほどの男が近づいてきて、またしても声を嚥みこんだ。腹が膨れていくような気がしたが、足しにはならない。
 丑松が注文した。
「三十文を一合だ。暑気払いにさっと引っかけていくだけだ。燗は要らねえ。升のまんま持ってきてくんな」
「へい」
 銭を渡すと男は厨房に戻り、ほどなく一合升になみなみ注いだ酒を持ってきた。受けとった丑松の手元をついのぞきこんでしまう。
 透きとおった酒が波打ち、底まではっきりと見える。一合で三十文もするなら下り酒だろう。銘酒どころの京で造られた酒が江戸に下ってくるので下り酒。うまいと聞いていたが、口にしたことはない。それほど高い酒を飲んだ日にゃ、腹がびっくりして下っちまうとつまらないシャレになりそうだ。
 升の角に口をつけた丑松が咽を鳴らして飲む。手にした猪口を中途半端にとめて、利助は見とれていた。
 飲みほした丑松が大きく息を吐く。
「やっぱりケンビシは違うねぇ」
 ケンビシというのが酒の名なのか知らなかったが、丑松に教えてもらう気にはなれない。濁った酒をちびりと飲み、樽に置く。
 丑松がいやな目で利助の手元を見る。
「ゆうべは惜しかったな。あとひと息だった」
「負けは負けだ」
「今晩は、どうだい?」
「明日早いんだ。頼まれ仕事があってな」
「へえ」空になった升を樽に置いた丑松がにやにやしている。「精の出るこった」
「これから打ちに行くのか」
「当たり前よ。宵越しの金は持たねえ。お前も江戸っ子の端くれだ、それっくらいのことはわかるだろ」
 宵越しどころか、巾着の中は埃ばかりだ。それにおれは相州の出だよとつぶやく。もちろん肚の底で……。
「さて」
 立ちあがりかけた丑松がさっと顔を寄せてきた。
「お前、おれにあやつけてるそうじゃないか」
「何だよ、いきなり」
「博奕に負けた意趣返しならお門違いってもんだぜ」
 目をぱちくりさせて見返していると、丑松はさらに声を低くしてつづけた。
「帰り道におかしなものを見たって、あちこちで吹いて回ってるそうじゃねえか」
「そんなことは……」
 ないよという声が出ない。
 丑松が目を細め、利助を睨む。
「よけいなことをくっちゃべるんじゃねえぜ。それとおれの名前は金輪際出すな。わかったな」
「わかった」
 丑松が出ていくまで、利助は身じろぎもせず空になった升を見つめていた。底の一角にほんのわずか酒が残っている。
 腹が立つほど澄んでいた。

「ひとだまねぇ」
 一通り誠之進の話を聞いたあと、狂斎がつぶやくようにいった。大きな目を伏せ、何か考えこむ風ではある。
「おおかた私が幽霊の絵なんぞ描くもんだから、ひとだまのことなら狂斎に訊けとでもいわれたんだろうが」
「いえ、決してそんなことは……」
 図星を指され、背中に汗がにじむのを感じた誠之進はあわてて打ちけした。もっとも狂斎の声音に責めるような響きはない。
 目を上げた狂斎が鮫次を見やる。
「鮫、あの画帖を持ってきておくれ」
「はい」
 鮫次がさっと立ちあがった。あの画帖といわれただけで狂斎が何を求めているかがわかる察しの良さが鮫次にはある。ほどなく戻ってくると狂斎のわきに膝をついた鮫次が一冊の画帖を差しだした。
 受けとった狂斎が畳の上に画帖を置き、広げる。畳に左手をついて右手で一枚、また一枚とめくっていく。
 何が描かれているか、誠之進の目にも入った。生首、しゃれこうべ、柳の下に立つ下半身のない女……。宙に浮かびあがる火の玉に仰天し、尻餅をついた男の絵もあったが、狂斎はあっさりめくった。
 手を止めたのは、痩せた女がまっすぐに見返しているのを描いた一枚である。画帖をひっくり返すと狂斎が誠之進の前に押しだした。
「拝見いたします」
 誠之進は絵の上に身を乗りだし、じっと眺めた。
 頬がこけ、鬢がほつれて顔にかかっていた。ひたいや目尻には深いしわが描かれている。胸元から下を描く線が細くなっていき、途中で消えていた。まるで女の上体が宙に浮かんでいるように見えた。
 狂斎が静かにいった。
「先年亡くなった女房だ。胸を病んでね。可哀想にどんどん痩せていって、最後は重湯すら飲めなくなっていた」
 顔を上げた誠之進は狂斎の様子を見てはっとした。絵を見下ろしている狂斎の大きな瞳が潤んでいる。
「人には幽霊に見えるかも知れない。そういってる私にしてもいずれ幽霊画として描くだろう。絵師のさがだ」
 ゆっくりと目を上げた狂斎がまっすぐにのぞきこんでくる。
「さがといえば、さらに一つ。目にしたものは描いてしまわなければ、成仏させられないのも絵師だ」
 誠之進は返事もできず代わりに生唾を嚥みこんだ。狂斎の眼光に気圧されていたのだ。
「今夜、品川に行くよ」
「はあ?」
「ひとだまが出るんなら見てみたい。何でも見なくちゃ描けないからね。これまた絵師の……、いや、私のさがだ。さすがにくたびれてるんで、これから一眠りして、戌の刻にでも誠さんの長屋をお訪ねしよう」
 鮫次に目を向けた。
「お前は誠さんの長屋を知ってるだろ」
「はい」
「いえ……」誠之進は顔の前で手を振った。「それでは大戸屋においでください。戌の初刻に大戸屋の前でお待ちしております」

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