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ザ・藤川家族カンパニー Final
嵐、のち虹
響野夏菜

   第0話 嵐の前の静けさ

 藤川家は、築五十数年のモルタル造り二階建てである。
 界隈が華やかだった時代には診療所だった建物で、玄関はガラスの引違戸。
 かつて診療所名がペイントされていた箇所には、アルファベットを手貼りした表札がかかっている。

「まったくもう」
 上がり框で、十九歳の七重は腰に手をあてた。
 広めの三和土が、きょうだいの脱ぎ散らかした靴でいっぱいになっている。
 またか、と靴を片付けていると、七重のサンダルを飛び石がわりに、ラベンダー色のスニーカーに着地した者がいた。
「妹」の十遠だ。
「テンちゃん!」
 あやうく手を踏まれるところだった七重が非難がましい声を上げると、テンちゃんこと十遠は、スニーカーに踵を押し込みながら弁解した。
「ごめん! 約束に遅れそうなの!」
 肩に掛けたビニール製のバッグが七重の目に留まる。
「プール? 誰と?」
「ひまりんと、ゆんちゃん」
 どちらも、十遠のクラスメイトだ。
 十遠は建てつけの悪い戸を勢いよく開けて表に飛び出した。サンダルをつっかけた七重は、慌てて後を追う。
「門限、六時だからね。夏休みが始まったからって、例外はないからね!」
「わかってるー」と返事が風に乗って流れてきた。と、十遠が走りながら振り向く。
「あ! お姉ちゃん、アイス切れてたから買っといて!」
「テンちゃん、前!」
 口元に手を当てて怒鳴ると、はっとした十遠がきわどいところで通行人を避けた。ポロシャツの中年男性に小さく頭を下げ、ポニーテールをはずませて舗道を駆けて行く。
 ショートパンツからすらりと伸びた足が眩しかった。ぶつかられかけた男性にとってもそうだったのか、どこか感心したように振り返って眺めている。
「もう小学五年生だもんなぁ」と七重はつぶやいた。
 十遠がこの家に来たのは四年前、小学一年生の時だ。シングルマザーだった母を亡くし、実の祖父母に引き取りを拒否されて、行きがかり上、藤川家で暮らすことになったのである。
 この四年間で、十遠はびっくりするほど変わった。笑顔が増えた。
 七重お姉さん、と他人行儀な呼び方だったのが「お姉ちゃん」に変わったのは、いつだったろうか。
 遠ざかる後ろ姿を感慨深く見守っていると、十遠にぶつかられかけた男性が七重に歩み寄り、前置きもなしに訊いた。
「いまの子って、福田十遠?」
 驚いて答えられない七重の顔を、男性は覗きこむ。
 七重は目を逸らした。どこか面白がるような目つきと口調が不快だったのだ。
 どこかから飛んできたアブラゼミが、藤川家のモルタルの壁に止まった。
 男性が再び口を開いたタイミングで、腹を震わせて鳴き始める。
「俺、──の──ヤなんだけどさ」
 男性の言葉を聞き取れなかった七重は、セミから離れつつ訊ね返した。
「すみません、もう一度お願いします」
「だから、十遠の父親だって!」
 ヂヂッ
 怒鳴り声に驚いたアブラゼミが、水滴を飛ばして飛び去った。
 水滴は舗道に黒いしみをつけ、すぐに乾いて消える。
 七重もセミに劣らず驚いていた。頭の中が真っ白だ。
「テンちゃんの」
 父親──。
 引違戸にかけられた手作りの表札が、ふいにカタンと音を立てた。

 

   第1話 未来への遺言

     1

「シズオちゃん! シズオちゃん!」
 家の中に駆け戻った七重は、三和土から長兄を呼んだ。
「ふぉーい」
 すぐ目の前の自室兼事務所のドアを開けた四寿雄が、伸びきったTシャツに皺だらけの短パンというだらしない恰好で出てきた。
 三十四歳の四寿雄は無精髭を撫でながら、眠たげな目を七重の背後の人物に向ける。
 途端、顔つきが険しくなった。
「──緑川さん」
 強ばった口調に、会ったことがあるのだと七重は確信した。
 時期はおそらく四年前だ。十遠と同居するにあたり親族を調べる必要があり、その関係で連絡したものと思われる。
「そうそう。緑川勇次。さっきそこで十遠と会ったんだけど、あいつ意外に背ぇ高いな」
 驚いたよ、と勇次の親しげな口調に、七重は反発を覚えた。
 この四年間、一度だって十遠を気遣うそぶりもなかったくせに。
 もっとも、連絡を取りたくても取れなかったのかもしれない。十遠は婚外子で、勇次にしてみれば公にしたくない存在だったのだから。
「てゆうかさ。客が来たのに、この家はあげてもくれないわけだ?」
「どうぞ、そちらに」
 四寿雄は、脚に錆の浮き始めた古い合皮のソファを示した。靴を脱ぎ、七重が揃えたビニール製のスリッパを履いた勇次は、ソファにどっかりと腰を下ろす。
「この家って、なに? 昔は病院とか?」
 勇次は室内を物珍しそうに眺め、かすれて読めないスリッパの文字に目を凝らした。
「診療所でした」と七重が答える。
「ナナ、コーヒーを淹れてきてもらってもいいか?」
 四寿雄に頼まれ、うなずいてその場を離れた七重の背に、勇次の声がかかった。
「あ、おねぇちゃん、アイスコーヒーでね。ガム入りミルクなしで」
 ウェイトレスじゃないんだけど!
 横柄な物言いにむかっ腹を立てながら、七重は冷蔵庫を開け、ペットボトルのアイスコーヒーをグラスに注いだ。ガムシロップとストローを添えて勇次に出す。
「あ、どうもね」
 礼を言う時、勇次は斜めからすくいあげるように七重を見た。
 かすかな笑顔は、自分の容姿に自信があるからこそだ。
 キモ。顔にこそ出さなかったが、七重は腹の中で毒づいた。五十代とおぼしき男性、しかも「妹」の父親に色目を使うような真似などされたくない。
「おねぇちゃん、学生さん?」
 それがあなたになんの関係が? と思いながら、七重は答えた。
「大学一年です」
「ってことは、十八か十九? いいねぇ、ジョシダイセー」
 からかうような抑揚に、七重は顔をしかめそうになる。
 ふいに、二階からかわいらしいはしゃぎ声が降ってきた。覚束ない足取りで廊下を歩く音に続いて、のんびりした声が聞こえてくる。
「うーちゃん、階段は危ないからだっこだよー」
 幼児の転落防止ゲートを開閉する音がして、娘を抱いた美晴が降りてきた。
 美晴は再来月、十九歳になる。第一子の麗は一歳三ヶ月で、お喋りらしきものも始まってかわいい盛りだ。
 美晴は、ソファでアイスコーヒーを飲んでいる勇次に会釈し、七重に言った。
「ちょっと公園に行ってくるね。暑いから、すぐ帰ってくると思うけど」
「わかった。行ってらっしゃい」
「いまの子、あれっておねぇちゃんの友だちのシンママでしょ?」
 美晴が麗をベビーカーに乗せて出かけてしまうと、意味ありげな眼差しで見送った勇次が、シングルマザーを蔑称的に「シンママ」と表した。
 癪に障った七重は、弟の嫁だとは教えずにおく。
 勇次はとくに答えを求めてはいなかったようで、のんびりと口火を切った。
「いまさらだけど、四年前は失礼したね。おたくから美月が死んだって連絡をもらった時、正直、振り込め詐欺的な、金を毟るための芝居だろうって警戒心が働いてさぁ」
「当時、やり取りには弁護士が同席したはずですが」
 勇次のはす向かいのソファに腰を下ろした四寿雄が強ばった声で言うと、勇次は打ち消しのしぐさをする。
「それも紛らわしかったんだよね。だってあの弁ちゃん、おたくの身内でしょ?」
 四寿雄の二つ下の次兄、五武のことだ。疑いが先行していた勇次には、家族ぐるみで騙そうとしているように感じられたのだろう。
「それにあの時は、隠し子がいるってバレるわけにもいかなくてさ。美月も、認知だけしてくれれば絶対に迷惑かけないって言って産んだわけだし」
 認知って、と七重は思わず顔をあげた。
「ああ、最近の若い子は、そういうことをちゃんと知ってるんだ」
 勇次が言い、笑い話のように続ける。
「認知ってさ、俺の名前が子どもの戸籍の父親の欄に書かれるだけかと思ってオーケーしたんだけどさぁ。あれ、こっちの戸籍にも載っちゃうのね。愛人の住所も名前も生年月日も全部」
「ご自分の戸籍を取り寄せて、気づいたんですか」と四寿雄。
「取り寄せたのは、嫁だけどね。おっと、元嫁か」
「離婚されたんですね」
「そ。去年、大バレして。子どもは俺と絶縁するって」
 あとで聞いた話だが、勇次と元妻との間には、すでに成人した子どもがいるそうだ。
「元嫁のやつ、話を派手にばらまきやがってさぁ。近所には白い目で見られるわ、会社じゃ居場所がなくなるわ。参っちゃったよ」
「それで、今日はどのような件でいらしたんですか?」
「だからそれを、いま話してるんじゃない。人の話は、最後まで聞きなさいって」
 うるさそうにした勇次が唇を湿し、思い出すような眼差しになる。
「去年はほんと、つらかったなぁ。家族を失くして、家も追いだされて独りきり。コンビニ飯ばっかで、眠れなくて、酒の量だけが増えてさぁ」
 自業自得の文字が、七重の脳裏で点滅した。家族をないがしろにしたら、家族からも愛想を尽かされるに決まっている。
「元嫁に何度土下座しても、復縁要請は却下。そのうち、ストーカーで警察呼ぶとまで言われてさ。正直、俺の人生詰んだと思ったよ。このまんまずっと、家庭のあったかいぬくもりとは無縁にいくしかないんだ、って」
「まさか、それで十遠を思い出したとでも言うんですか」と四寿雄が乾いた声で訊いた。
「だってこれまで、親の都合でずっと不憫な思いをさせてきたわけじゃない? 悪い父親だったことを謝りたいのよ」
「それで、あわよくば一緒に暮らそうとでも言うんですか?」
 語気を荒くした七重に、勇次がこともなげにうなずく。
「そりゃ、実の父娘なんだし」
「帰ってください」
 七重は立ち上がった。動こうとしない勇次の腕を掴んで追い出そうとする。
「帰ってください! そんな勝手な理由で、テンちゃんの前に現れないで!」
「おいおい、おねぇちゃん──」
「この四年間、テンちゃんはうちで、あたしたちの妹としてやって来たんです。ようやく落ち着いたんです。地域にもなじんで、クラスに友だちも出来て」
 藤川家に来た時、十遠は心を見せない子どもだった。誰も信用しておらず、亡母との思い出の詰まったミニバッグを、文字どおり肌身離さず身につけていた。
「テンちゃんは周りの大人に凄く気を遣う子で、でもそれがストレスになって、クラスでは威張ってる子でした。だから孤立しかけて、でも救ってくれた子がいて、いま、いちばんの仲良したちは、謝罪を受け入れてくれた子たちなんです!」
 必死になってまくしたてた七重に、勇次が口元をうっすら笑ませて訊いた。
「十遠のそういう努力も苦労も知らないくせに、ってこと?」
「そうです!」
「つまりきみは、これまでの不実を理由に、父から娘への謝罪の機会を取り上げるってわけなのね?」
 罪悪感が生じ、七重はぐっと口をつぐんだ。
「緑川さん」と四寿雄が七重を庇うように口を挟んだ。「ご用件はわかりました。ですが、あんまり唐突な申し出で、わたしどもも驚いているんです」
「だから、これまで連絡を取れなかったのはさぁ」
「事情は承知してます。でもそのくらい、デリケートな問題でもあるわけですから。だいたい、これまで交流をはたせなかった父娘が、会ったその日に同居というわけにもいかないでしょう?」
「ああ、まあ──それはね」
「十遠は小学五年生です。そろそろ思春期で、難しくなってきてます。いきなり現れて意見を押しつけたら、まず反射で拒絶しますよ。このくらいの歳の子って、みんなそうだと思うんですが」
 勇次には心当たりがあったようで、沈黙ののち、訊ねた。
「つまり、今日のところは帰れってことでオーケー?」
「十遠には、お父さんが来たと必ず伝えます。そちらの希望も」
「じゃあ、スマホ出して。連絡先ってLINEでいいよね?」
 勇次はスマホを取り出して振った。いまだに携帯電話を使っている四寿雄が尻込みしたので、七重が代役でIDを交換する。
「それじゃ」
 靴を履いた勇次は、挨拶代わりに片手を上げて表通りに出て行った。
「シズオちゃん」
 七重は勇次の姿が見えなくなるのを待って、兄を呼んだ。
「テンちゃん、あの人に取られちゃうの? 実父だからって、そりゃ、あの人が一番、権利はあるのかもしれないけど」
「大丈夫だから、ナナ」
「大丈夫じゃない! ここまで来るのにだって、四年かかったんだよ?」
 あの日、十遠は三理の隠し子という触れこみでこの家にやって来た。
 七重たちの父親・三理は、これまでに五度結婚している。だから異母きょうだいの存在には納得出来ても、十遠の生年月日が七重たち三つ子の母との婚姻期間中である事実は看過できなかった。
 やがて十遠には実父がおり、三理の不倫の子どもではないと判明したが、それでも関係は長くぎくしゃくした。
 お互い素直になれずに皮肉を言い合い、距離を探りながらやって来た。
 その結果得たのが、「お姉ちゃん」というあの呼び方なのだ。
「しかも、あんなヤツが父親とかな」
 二階から声が降ってきて、見上げると、階段の手すり越しに六郎が覗いていた。
 六郎は二十三歳で、七重のすぐ上の異母兄だ。大学受験に失敗して以来、長らく引きこもり生活を続けていたが、いまは「気分転換」と称して、短期アルバイトをする程度には社会生活に復帰しつつある。
「あのオッサンって、五十過ぎてるよな? いろいろ常識なくてびっくりしたわ」
 六郎が階段を降りてきた。穿き古した、ゴムの伸びたスウェットパンツのウエスト部分を、ずり落ちないように片手で押さえている。
「曲がりなりにも実の娘が四年間世話になってた家じゃん。まず『ありがとう』だろうよ。それが、礼もなしにいきなりタメ口な上に、連絡はLINEでとか。さすがにこういう時は、電話番号を渡すもんなんじゃね?」
「まあ、過去に調べてるから、勤め先もわかってるけどなぁ」
「その会社、まさか馘になってたりしないよね?」と七重は訊いた。
 ネットでは、不倫がばれて退職したやら左遷されたやらという話をよく見る。芸能人も活動は自粛になるし、CMは軒並み降板になったりするではないか。
「どうだろうなぁ」と四寿雄はモジャモジャのくせ毛を掻いた。「とりあえず、連絡がつかなくなることはないんじゃないか?」
「それでどうするの、シズオちゃん。テンちゃんに言うの?」
 七重は訊いた。
 実父が訪ねてきたこと。
 同居を希望していること。
 四寿雄は答える代わりに、さらに髪を掻きむしった。口をへの字に曲げているのに、「黙っておこう」とは言わない長兄がもどかしい。
 十遠の最たる理解者であり、一番仲の良い六郎も無言だった。普段ならば、十遠にふさわしくない人物が訪ねてきたなら、即座にブロックしそうなものなのに。
「やっぱり、言わなくちゃ駄目ってこと?」
 泣きたい気持ちで、七重は長兄を見つめた。
「ことがことだからなぁ」
「血のつながりって、そんなに大事? っていうより、テンちゃんは自分のことをどこまで知ってるの?」
「うーん。トオとは、そういう話になったためしがないんだよ」
 じゃあどう伝えるのかと七重が訊こうとした矢先、引違戸がレールに挟まった小石を軋ませながら開いた。
 日傘を差したまま、ベビーカーを三和土に乗り入れたのは美晴だ。
「お帰り。うーちゃん、暑くなっちゃった?」
 麗がぐずったので早々に戻ってきたのだろうかと七重は思った。だが、美晴の様子が変だ。質問に応えるでもなく、顔を強ばらせたまま曖昧にかぶりを振る。
「何かあったの?」
 変質者でもいたのだろうかと眉をひそめると、美晴はベビーカーから麗を抱きあげてから言った。
「ちょっと、公園に変な子がいて」
「変な子って、うわそれサベツっスか?」
 わざとらしくつぶやいた六郎を、美晴がにらんだ。
「そういうのじゃないから」
 六郎と美晴は仲が悪かった。というよりも、六郎が一方的に突っかかっている。
 美晴をカッカさせることに成功した六郎は、悠々と退散した。やり場のない怒りを必死で飲みこんでいる美晴に、七重はなだめるように声をかける。
「今日は違う公園に行ったの?」
「ううん。いつもの神社のところ。うーちゃんとジャングルジムの周りを追いかけっこしてたら、小学生かなって子が来て、一緒に遊んでいいですかって訊くの」
「男の子?」
「女の子。たぶん、小学校低学年だと思う。いままで一度も見たことない子だったし、一緒に遊べるような年齢でもないから、ごめんね、って断ったんだけど、大丈夫ですって押し切られて」
 そうまでして遊びたい理由を、七重は考えてみた。
「赤ちゃんをかわいがりたい年頃なのかなぁ」
「ってわたしも思ったのね。偶然、名前も同じウララちゃんだって言うし、礼儀正しくて身なりも普通だから、まあいいかなぁって思って遊ばせたんだけど」
「意地悪されたの?」
「違うの。優しかったの、もの凄く」
 まるでそれが罪であるかのような口ぶりに、七重は慎重になった。
「ええと。あたし鈍くてごめんね。優しかったのって、そんなにマズいこと?」
 美晴は出産以来ピリピリしがちで、時に攻撃的だ。
 あんのじょう、美晴は苛立ちを隠しもせずに話し始めた。
「今日、暑かったでしょ? その子ね、首にひんやりするやつ巻いていたの」
「濡らして使う、タオルみたいなヤツ?」
 数年前から流行りだした、冷却グッズのうちの一つだ。
「それ。それを、うーちゃんの首に巻いて『涼しいねー』って、頭を撫でたりするの。自分のハンカチを取り出して、うーちゃんの汗を拭いたり。汗、かいてなかったのに」
 強いて言えばやり過ぎ、かな?
 気持ちに寄り添う努力はしてみたが、そこまで嫌悪することだろうか。
 ふと、四寿雄が表通りを見遣った。
 なんだろう、と倣った七重はぎょっとする。
 引違戸の向こうに、小学校低学年といった背格好の女の子が立っていた。
 帯状の磨りガラスが邪魔をしているため、背伸びをして覗こうとしている。
 悲鳴を殺した美晴が、麗を抱えて奥に逃げこんだ。ほぼ同時に、その女の子が身体をひねって頭を下げた。
 長い髪がばさりと垂れ、磨りガラス部分の下に大きな目がぎょろりと現れる。
 女の子は誰かを探すように室内に視線を走らせ、自分を見ている四寿雄と七重に気付くと、驚いたような表情を残して消えた。
 舗道を走り去ったようだ。
「あの子、行った?」
 うなずくと、美晴が戻ってきた。麗は眠くなってきたようだった。自分の親指を吸いながら、うつらうつらし始めている。
「公園にいたのって、いまの子?」と七重が確かめると、肯定した美晴は身震いした。
「尾けてきたんだ」
「子どものやることだからおもしろ半分かもしれないけど」
「美晴ちゃん。気にしすぎない方がいいよ」
 七重たちの言葉を批判と受け取ったのか、美晴がきゅっと口を結ぶ。
「今日、九重は?」
 美晴の気を逸らそうと、七重は末弟の名を出した。
 九重は美晴を妊娠させた当時通っていた私大附属高校の、大学部一年生だ。一度は高卒で就職する話も出たのだが、将来の選択肢を増やすためにと進学を決めたのである。
「授業の後はバイトじゃない?」
 美晴の口調は投げやりだった。帰りの遅い夫に対する苛立ちがにじみ出ている。
 しかし、九重が働くのは妻子のためである。夫であり父親であるなら、たとえ少額でも自分で稼ぎたいという気持ちの表れだった。
「そう言えば」と美晴がさらに話題を変えた。「さっき、わたしたちが出かける時に見えていた方って、お仕事のご依頼ですか?」
 美晴が訊いたのは、この家には四寿雄の客が訪れるからだった。
 遺言代行。それが四寿雄の仕事だ。なんらかの理由により、生前は口にすることの出来なかった〈想い〉を、依頼者の死後に代行しているのである。
「あの人は、客じゃないんだよ。トオの父親なんだ」
「十遠ちゃんのお父さんって──いまごろですか?」
「ご家庭の事情が変わって、引き取りの申し出にいらしたんだよ。急な話だったから、とりあえず今日は帰ってもらったんだけれどね」
「どう思う、美晴ちゃん」と七重は質問をぶつけてから、漠然としすぎていると気付いて言い直した。「この話、テンちゃんにするべきだと思う?」
「だって、実のお父さんなんでしょ?」
 迷うふうではあったが、美晴はそう言った。七重は口をつぐむ。
 せめて美晴一人くらい、気持ちに寄り添って欲しかった。
「うーちゃん、眠っちゃったね。布団に寝かせてくる?」
 話を切り上げるために、七重は訊いた。そうするね、と美晴は麗を連れて自室に上がってゆく。

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