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クアトロ・ラガッツィ 上
クアトロ ラガッツィ

著者:若桑 みどり
■ISBNコード: 978-4-08-746274-6
■判型/総ページ数: 文庫判/576ページ
■発売年月日: 2008年3月19日
   プロローグ

 なぜ今、そしてどうして私が、四百年以上も前の天正少年使節の話などを書くのだろう。
 日本では信長がその権力の絶頂で明智光秀に討たれ、秀吉が天下をとって全国統一をなしとげようとしていたころに、九州のキリシタン大名三人がヨーロッパに派遣した四人の少年は正式な使節として遠く海をわたっていた。
 彼らは中国、インド、ポルトガルを経て、スペインにわたり、その領土に「太陽は沈まない」と言われた国王フェリペに親しく謁見した。彼らはそこからイタリアにわたり、ルネサンスの最後の栄光をまだ輝かせていたフィレンツェの大公フランチェスコ・デ・メディチの熱烈な接待を受け、芸術史上の大パトロン、ファルネーゼ枢機卿に迎えられて永遠の都ローマに入り、カトリック世界の帝王であるグレゴリウス十三世と全枢機卿によって公式に応接され、つぎの教皇であり大都市建設者であったシクストゥス五世の即位式で先導を務めたのである。八年後に彼らは日本に帰り、秀吉に親しく接してその成果を報告し、西欧の知識・文物と印刷技術を日本にもたらしたのだった。
 つまり彼らは、十六世紀の世界地図をまたぎ、東西の歴史をゆり動かしたすべての土地をその足で踏み、すべての人間を、その目で見、その声を聞いたのである! そのとき日本人がどれほど世界の人びととともにあったかということを彼らの物語は私たちに教えてくれる。そして、その後、日本が世界からどれほど隔てられてしまったかも。
 私は一九九五年、ちょうど日本の敗戦から五十年たった年に、大学を一年休んでしばらくものを考えることにした。敗戦の年に十歳だった私にとって、戦後の五十年めとは、自分の人生や、日本の運命について考えなくてはならない節目の年に見えたのである。戦後、数多くの日本の若者たちが、世界に取り残され、孤立していた日本を変えようとして、西欧の科学や文化を吸収し、それを日本に持ち帰り、日本を世界のなかに置くためにその人生を賭けてきた。毎年、何艘の船が向学の精神をもった若者を満載して神戸や横浜から西欧に向けて帆をあげただろう。一九六〇年代までは貧しい学生はみな船でヨーロッパに行っていたのである。一九六一年に横浜を旅立った私もそのなかのひとりだった。
 私は研究の土地としてローマを、研究のテーマとしてカトリック美術を選んだ。焼跡からじゅうぶんに立ち直っていなかった貧しい日本から来た私には、壮麗なローマの都市はまばゆいばかりの栄光に満ちていた。蒼白のサン・ピエトロ大聖堂、宇宙的なミケランジェロの天井画の下で、うちのめされたまま呻吟した私は、自分をかぎりなく矮小な、かぎりなく貧しいものと感じた。最初私はカラヴァッジョを研究しに行ったのだが、ヴァティカンでミケランジェロを見てしまったので、それに圧倒されてしまった。
 それから三十数年、私はミケランジェロと格闘し、彼を理解し、彼の芸術をわがものと思うために研究した。そして一九九五年、敗戦の五十年め、ある夜、私はこういう声を内心に聞いた。「東洋の女であるおまえにとって、西洋の男である、ミケランジェロがなんだというのか?」
 ミケランジェロをいくら研究しても、私は「西洋美術を理解する東洋人の女」であるにすぎない。それまでは無我夢中だった。その結果、私はミケランジェロの本質がわかってきていた。まるで年来の知己のように彼のことがわかってきた。だが、そのことがとてもむなしかった。私と彼をつなぐものがなにもないからだった。なぜなら、彼は白人男性で、十六世紀のイタリア人であり、私は現代の日本人だからだ。
 日本人として西洋と日本を結ぶことを研究したい。究極、この今の私と結びつくことを研究したい。そのテーマはいったいなにか。それがわからなかった。そして自分のほんとうのテーマを探すために大学に一年間の休学を申し出たのである。
 そのとき、一九六一年に横浜から船に乗ってマルセイユまで行った最初の外国旅行の強烈な体験が、無意識の蓋をあけたように復活してきた。この船はフランスの郵船で、ベトナム号といった。同じ船には文化人類学者として高名な川田順造さんや、同じく映画学者としてカリスマ的な蓮實重彦さんもいたといえば、留学生がつくってきた日本の戦後の歴史の一端がわかるだろう。ベトナム号は、横浜を出帆して、香港、サイゴンヘ、セイロン島のコロンボ、そしてボンベイ、北東アフリカのジブチ、そこからカイロ、地中海へ一ヶ月の船旅を続けた。私が知ったのは、日本がヨーロッパからとても遠いということだった。それだけではない。日本とヨーロッパのあいだには、いくつもの不穏な海、いくつもの、荒涼とした灼熱のヨーロッパ植民地が横たわっていたのだ。
 東アジアの小国に生まれながら、西欧型知識人の環境と教育によって、イタリア・ルネサンスをはじめとする西欧文化をわがものと思い、奢り高ぶっていたが、じつは世界などなにひとつ知りはしない。東アジアについても東南アジアについても、アフリカについても、近東についても、なにもなにひとつ知ってはいない。
 船のなかでは、フランス語を流暢に操るフランス政府留学生がおおぜいいて、客室の世話をするコルシカ人のメートル・ドテル(客室主任)は彼らを尊敬し、名誉白人のように扱っていた。彼はコルシカ島がイタリア領であったことを誇っていた(自分をナポレオンの生まれ変わりだと言っていたが)。私がイタリア語を話すので、私も名誉白人の仲間に入れていた。彼は、香港から臭い匂いのする質素な身なりの中国の少女が私と同室になったことをひどく詫びた。むろん、私もひどくいやな気分で、一日部屋に帰らないことが多かった。
 あるとき、彼女は、私が寝過ごして朝食を食べそこねるのではないかと心配して私をゆり起こした。私は英語もフランス語もイタリア語も通じないこの中国娘に僻易して、紙片にでたらめな漢文で「われ眠りを欲す」と書いた。彼女は大笑いをして紙片をとり、「わが名は黄青霞」と書いた。私は起きて彼女を見たが、私たちがとてもよく似ていることにそのときはじめて気づいた。「われは香港の祖母のもとを出て今サイゴンの父母のもとへ行く。汝いずくより来たり、いずくへ行かんと欲するや」。「われは日本より来たり、ローマヘ行かんと欲す。かしこにて学を修めることを願う」。青霞は私の肩を叩いて紙片を見せた。「われ汝の成功を祈る」
 サイゴンで黄青霞は手をふって降りていった。メートル・ドテルは犬を追っ払うようなしぐさで、「マドマゼル、追っ払いましたよ!」と言った。でも、私は傷ついた。青霞は私だったからだ。まぎれもなく私は黄青霞の「仲間」、「黄色い」東アジア人なのだ。その日から私は名誉白人の仲間には入らなかった。この経験を私はひそかに、「わが心の黄青霞」と呼んでいた。そして筆談の紙片をたいせつにもっていた。でもそのときは、それが自分にとってどういう意味があるのかをわかっていなかった。
 このとき、おおぜいの日本人の留学生のなかに、ひときわ私の注目を惹くグループがあった。非常に若い、質素なシャツを着た三人の青年だった。彼らはほかの乗客のようにばか騒ぎをせず、ダンスパーティーに出ず、とても静かで、とても日常的だった。甲板では読書をしていることが多く、たまには卓球をしていた。好奇心にたえかねて、あるとき、彼らがどこへ行くのかを尋ねた。彼らはみな神学生だった。そして選ばれてローマのコレジオ(神学校)に神学を学びに行くのだった。私はこの船ではじめてローマに行く人をみつけてうれしかったのでこう聞いた。「イタリア語はできる?」。三人はさわやかに笑いイタリア語はできないと言った。「では不安でしょう? 授業はどうするの?」。ひとりの青年が答えた。「でもラテン語ができますから」。それからひとりの黒いシャツを着た青年をさして言った。「彼はとくにできます」。畏敬の念でいっぱいになって(エラス! 私はラテン語が不得意だ!)、「ではラテン語ができるから留学生に選ばれたの?」と聞いた。黒いシャツの青年が答えた。「たぶん幼児洗礼を受けているから選ばれたのだと思います」(????)
 あるとき、退屈まぎれにひとりの中年の画家が彼らをからかった。「きみたちは一生童貞なの? もったいないねえ。これからきれいなおねえさんのいる青春まっただなかのイタリアに行くっていうのに」。青いシャツのさわやかな笑顔の青年が答えた。「家族をもてば、人間はみな、その家族が世界のなによりもだいじになります。ぼくたちが家族をもたないのは、世界のあらゆる人間を愛するためなのです」
 ローマに着いたのは十一月で、クリスマスが近づくころ、ヴァティカンのそばで、私は黒い長いスカートに黒いつばのある大きな帽子をかぶり赤い線の入った帯をしたすてきな三人の神父さま(まだ神父ではなかったが)に会った。彼らはまるで昔からローマに住んでいたように見えた。彼らはクリスマスイヴには、ウルバヌス八世の創建した大学の礼拝堂でのミサに招いてくれた。彼らにはおおぜいの仲間がいて、同じ祈り、同じ歌を同じことばで語っていた。外国に行く興奮で日本人留学生が緊張しきっていたのに、船の上で彼らがあんなにも平安だったのは、彼らが外国にではなく、その祖国に向かっていたからだった。かつてローマに行った少年たちの手記が、彼らがいつもとてもおだやかで平和だったと書いていたように。
 最初の留学から三十四年後、一九九五年に私はふたたびヴァティカンにいた。こんどは「東アジアヘのキリスト教布教についての第一次資料」を探しにだった。ヴァティカン秘密古文書館の館長は親切に、「それならここよりはウルバヌス八世大学付属図書館がいいでしょう。館長は友だちだから電話してあげます」と言った。
 そこで、テヴェレの傍の丘を上って大学の図書館に行き、やさしく優雅なヘンケル館長に会い、そのまま一年間、十六世紀のカトリックの東アジアの布教について調査することになった。最初はキリシタンの美術について調べていたが、しだいに、天正少年使節についての文書がとても多いことがわかった。それを読んでいると、それに引きつけられ、ほかのことが考えられなくなった。少年使節が聖天使城のそばを通ってローマじゅうの歓呼とファンファーレに迎えられ、大砲の響きが町をゆるがすところでは、思わず興奮した。なぜならこの図書館からはその聖天使城が太陽の光に照りはえて見えたからである。そして、なぜそれまで思いもしなかったのか、図書館の前のホールは、かつてクリスマスの聖歌をあの三人の青年と聞いた礼拝堂だった。
 しかし、聖天使城の白昼夢は、そのまま夢に終わりそうだった。多くの史料をかかえたまま、大学での業務に追われて、そのまま五年が過ぎた。退官して学生たちへの義務を終えたら、こんどは聖天使城の近くに部屋を借りようと思っていた。奇蹟的に、目の前に聖天使城が見えるルネサンス時代のパラッツォ(建物)を借りることができた。しかし、そのときには、少年使節をめぐる世界の物語はただの回顧ではなくなっていた。二十一世紀の最初の一年は、平和な世紀を予告しはしなかった。それどころか、異なった宗教、異なった言語、異なった文化のあいだで、今や地球を破壊しかねない戦争が起こったのである。
 この世紀は、十六世紀にはじまる、世界を支配する欧米の強大な力と、これと拮抗する異なった宗教と文化の抗争が最終局面を迎える世紀になるだろう。人類は異なった文化のあいだの平和共存の叡知を見いだすことができるだろうか。それとも争い続けるのだろうか? それこそはこの本の真のテーマなのである。
 この五百年を回顧することは、世界のなかでの日本のありかたを示してくれるかもしれない。私たちはいま五百年単位で歴史を考えるときがきている。そのような思いで、二〇〇二年九月、ツイン・ビルの悲劇から一年後に、七年をかけたこの本の第一稿を完成した。
 私はずいぶん旅をしてきた。でもこれでほんとうに私がやりたかったこと、知りたかったことが書けた。この主人公は私と無縁ではなかった。彼らは描かれたばかりのミケランジェロの祭壇画を仰ぎ見、青年カラヴァッジョが歩いた町を歩いたのだ。ローマの輝く空の下にいた四人の少年のことを書くことは、まるで私の人生を書くような思いであった。島国日本を出て広大な異文化の世界を行く船の旅はあらゆる意味で私の生涯の転換点であった。ローマのコレジオに留学する三人の若い神学生の輝く青春の姿が、天正の四人の少年の姿にいつも重なって見えた。アジアからヨーロッパヘ行く船の上に、彼らといっしょに、青春のさなかにあった自分の姿もまた重なって見えたのである。そして日本に帰ったあとの四人の少年の苦渋と苦難のいくぶんかも、私のものであった。なぜならこの四人の少年の運命は日本の運命にほかならないからである。そのことはこの本の最後のページを措かれたときに読者にはおわかりになるであろう。 (…この続きは本書にてどうぞ)

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