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銀河のワールドカップ
ギンガノワールドカップ

著者:川端 裕人
■ISBNコード: 978-4-08-746300-2
■判型/総ページ数: 文庫判/512ページ
■発売年月日: 2008年5月20日
 第1部 コパ・デ・ハポン

   一、美咲公園

 ねじくれ、ささくれて、普段は汚らしい印象すら与える桜の木が、一年に一度の晴れ舞台に向けて力をため込んでいる。枝々の先端についたつぼみは、はち切れんばかりだ。
 花島勝は薄ピンクの雲に覆われた一週間後の公園を想像するだけで、げんなりした気分になった。世間は花見やら新年度やらで浮わついた雰囲気に包まれるだろうが、自分には関係ない。ただやり過ごすべき宙ぶらりんの日々がはじまったばかりで、有り余る時間をどうするのか、というのが目下、最大の問題なのだ。昼間から公園のベンチで発泡酒を飲み、煙草をくゆらせるのは変わりないにしても、花見の喧噪などむしろ迷惑だ。
 ベビーカーを押した若い母親が、ベンチの前を通り過ぎ、花島の足下に目をやった。両足の間に、フィルター近くまで吸った残骸が十本分以上、転がっている。花島は母親と顔を合わせないように、そっぽを向いた。
 花島は子供が嫌いではない。むしろ、好きだ。だが、今の花島は小さな子供の母親にとって、子供から遠ざけておきたい存在だと自覚する。近くのマンションには小さな子供のいる若い家族が多いようで、ベビーカーが前を通るたび胸にちくりと痛みを覚えた。
 だが、それはむしろ小さな問題だ。
 とにかく青空だ。美咲公園の周囲を取り巻く桜の木々の切れ間から、薄青い空が覗いている。風は柔らかく、目を閉じるとすぐに睡魔が襲ってきそうなほど心地よい。部屋の中では気が塞ぐ。同じ酒を飲むのでも、こっちの方がずっといい。
 まあ、なんにもやることがないってのも悪くないか、とさえ思える。さっきまで追いつめられた気分で中途採用のエントリーシートの空欄を埋めていたのと比べると雲泥の差だ。そうだ、焦ることなんてないじゃないか。ここ何年か働きすぎたし、半年間、雇用保険をもらえるというのなら、骨休めしてもいいだろう。花島は近くにベビーカーが見あたらないのを確認してから、最後の一本になったマイルドセブンを口にくわえた。
 美咲公園は、公園というよりもむしろ広場だ。遊具などはなく、だだっ広い空き地を平らに整地してある。東京二十三区の標準からすればかなり贅沢で、小さな子供たちが自転車の練習をしたり、キャッチボールしたりするのにもってこいだ。看板には「自転車禁止、球技禁止」と書いてあるが、誰もそんなことは気にしていない。
 塩ビのボールと素手のバットで三角べースにうち興じている小学校低学年の子供たち。補助輪をつけた十六インチの自転車を公園の外縁にそって走らせる幼児。逆側のベンチには、携帯ゲームに熱中する高学年のグループもあった。思い思いの午後がゆるゆると流れ、また明日も繰り返し、桜が咲き、季節が変わり……と考えると、やはり気が重くなった。どこにも所属せず、なんら生産的な活動に従事しない自分は、風に吹かれて今にもふわりと漂い出してしまいそうな気がする。
 ふいに黄色いボールが弾み、宙を舞うのが目に飛び込んできた。
 なぜか心惹かれるものがあって、花島は注視した。
 テニスの公式球だ。ラケットを握った三人の子供たちが、互いの間で黄色いボールを回している。
 花島はテニスについてはまったく素人だ。やったこともなければ、ウィンブルドンやら全米オープンやらをテレビ観戦したことすらない。にもかかわらず、ひと目で分かった。
 やつら、巧いのだ。
 軸のぶれないバランスの良い立ち方でステップを踏み、軽快なリズムで黄色いボールをやりとりする。かなり強い回転を左右両手で自在にかけたり、手首の柔軟な使い方で回転を殺したり、小器用だ。コントロールも抜群で、気がつくと三人のボール回しが軽快なダンスに見えてきた。
 しかし、花島の目が吸い寄せられたのは、三人の巧さ、だけではない。
 そっくり、なのである。なにからなにまで。
 三人が三人とも身長百六十センチちょっとくらいで、中学生なのだろう。少年らしいしなやかさと第二次性徴の後に発達がはじまる筋肉の力強さがバランスよく備わっている。黄、緑、赤。色違いのトレーニングウェアを着ており、頭にもそれぞれ同色のバンダナを巻いていた。
 さらに……なによりも、顔が同じだった。切れ長の目と薄い唇、昔のお公家さんを思わせる特徴のある顔が寸分変わらぬ様子で、正三角形の陣形を作っているのだ。
 花島は、何度も目をしばたたいた。昼間から酒を飲みすぎて幻覚を見たのではないか。
 いくら目をこらしても、同じ顔のままだ。
 三つ子ってことか。それも、一卵性の。
 納得してしまえばなんてことはない。珍しいとはいえありえないことではないし、なにより三人がやっているのはテニスだ。テニスに興味がない以上、それ以上深く考える理由もない。
 ベンチに近いあたりで別の子供たちがサッカーのミニゲームをはじめる。
 花島は一瞬、目を向けたものの、その様子を追い続けるわけでもない。空になった煙草の箱を握りつぶし、発泡酒の缶に口をつけ、桜の枝越しの空を見上げ……むしろ、意識をそらす。
 無理だ。
 少年サッカーを観ると、今でも心に痛みを覚える。スーツに身を包んで都心を回る営業マンなら、日中に子供たちの草サッカーに出くわすことなどありえなかった。日常生活から簡単に閉め出せた要素だ。
 失業生活というのは、こういうものか。一週間目にして、思い知らされる。今年はW杯(ワールドカップ)の年であり、二カ月後にはじまる熱狂を思うとさらにうらさびしさが心に迫る。
 花島は最初は漫然と、やがて身を乗り出してゲームの行方を見守った。
 コートの大きさは三十メートル四方ほどの正方形で、足を引きずってラインを描いてある。ゴールは五メートル間隔くらいで並んでいる桜と桜の間。人数は四対四、GK(ゴールキーパー)はおらず全員がフィールドプレイヤーだ。
 小学校高学年らしく、止める、蹴る、といった基本的なことがきちんとできている。一カ所に集まって団子になることもなく、たぶん地元のサッカーチームで練習している子たちなのだろう。ボールは日韓ワールドカップ公式球、フィーバーノヴァのレプリカ四号球で、かなり使い込まれていた。
 花島が子供の頃には、これだけ粒が揃ったメンツを集めるのは難しかった。Jリーグができてから、サッカーをめぐる環境は劇的に変わった。
 惜しいシュートが桜の木に跳ね返されて、一番大柄な少年の前に転がった。鼻孔が上を向いたガキ大将っぽい顔つきの子だ。相手方の一人が寄せて、ほかの二人がパスコースを消すように位置取り(ポジショニング)した。実によく分かっている。
 ガキ大将君は、機敏な動きでフェイントをかけ相手をかわした。そのまま重量感のあるドリブルで一気につっかけていく。
 へえ、と花島は口を丸くした。なかなか巧いじゃないか。
 マークを放り出して寄せてきた別の子を、体格にものを言わせて弾き飛ばす。
 そして、シュート!
 手を握りしめた瞬間、ボールが消えた。
 華奢で手足の長い子がスライディングでボールをからめ取り、もう敵陣に向かって走っている。快足だ。誰も追いつけない。
 そして、「ゴールへのパス」のようなシュート。柔らかな足首が印象的だった。ボールをややアウト側に乗せて足首の返しで正確に蹴り込んだ。
「イエイーッ」
 ゴールを決めた子が飛び跳ねた。後ろで団子にしていた髪がほどけて、踊りながら背中に落ちた。
 花島は思わず口を半開きにした。
 真っ黒に焼けてはいるが、女の子なのだ。
 なかなか驚きのある草サッカーだった。この時点で、花島は自分がもう試合を楽しんでいることを認めざるをえなかった。
 そして、雑念が生じてくる。
 八人とも良い動きをしており、サッカー協会が才能の発掘のために開いている都トレセン(トレーニングセンター)に参加させてみたい子が四人。さらにそのうち二人は地域のトレセンレベルは軽くいくだろう。どんなコーチが指導しているのだろうか。 (…この続きは本書にてどうぞ)

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