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彼女の嫌いな彼女
カノジョノキライナカノジョ

著者:唯川 恵
■ISBNコード: 978-4-08-746357-6
■判型/総ページ数: 文庫判/288ページ
■発売年月日: 2008年10月17日
   1 千絵、二十三歳、OL、独身

 新宿西口にある高層ビル。
 二十三階のオフィスの窓からは、空と地上の境界線がはっきりしない、いつもの風景が見える。
 千絵は仕事の手を休めて顔を上げた。
 ランチを終えたばかりで、活気を取り戻せない身体の細胞が、なかなかデスクに集中してくれない。パソコンのキーボードを叩く指はさっきからずっと止まったままだ。
 眺めるというより、ただ目に映るに任せたまま、千絵は遠くに視線を飛ばしていた。
 十月の風景は、まるで濁った霧がかぶされたようだ。晴れなのか曇りなのか、明るいのか翳っているのか、どんなに目を凝らしても、果ては滲んだ絵の具のように曖昧にかすんでゆく。
 こんな時、ふと思う。
 これはこの空の下に住む都会の人間そのものだ。
 はしゃいでいるのか強がりなのか、健康なのか病んでいるのか、時には、愛しているのか憎んでいるのか、それさえも、はっきりしない。
 そうやって曖昧で、輪郭を持たず、周りに溢れる情報や風俗に惑わされたり、足元を掬われたり、時には拒絶しながら、誰もが笑顔を見せ、しぶとく生きる都会の生活。
 慣れるまでには、時間もかかる。けれど慣れてしまえば、少しの麻痺感とともに快適に過ごせるようになる。だから、何だかんだ言いながらも都会から離れられない。
 吉沢千絵、二十三歳。
 新潟から上京して五年。東京の短大を出て、就職難を何とか乗り越えて、総合燃料会社であるこのM物産に就職した。
 千絵が所属するのは第二販売部。主にプロパンガスを全国の小売店に供給するのが仕事である。
 そのとき、目の前に書類の束が差し出された。顔を上げると、木村主任が立っている。
 ヒゲの濃い木村主任は、どことなく不潔感があって、今のように見下ろされる格好での会話は、ツバが落ちてこないかとハラハラする。
「これ、二時の会議に使うから二十部コピーして、第三会議室の机に置いておいて。それとお茶の用意ね」
 えーっ、と思い、千絵は抵抗を込めた上目遣いで主任を見た。
 五メートル離れた席には今年入社した小田ゆかりがいる。そういった雑用は本来彼女に回すべきものだ。
 そんな千絵の思いを察したのか、主任は言い訳っぽく答えた。
「いや、小田くんはちょっと今、手を離せないらしくてね」
 確かに小田ゆかりはデスクに向かって何やら手を動かしている。
「だから、頼むよ」
 ムッとする気持ちを抑えて、千絵は書類を受け取った。
「わかりました」
 こんなとき、ついひねくれた感情が湧く。
 それというのも、新入社員の小田ゆかりに対して、上司や男性社員たちがどことなく特別な気遣いをしているのがわかるからだ。誰も彼女に無理強いしたり、横暴な態度に出ることはない。そして、そのシワ寄せはみんな千絵に回ってくる。
「可哀想じゃないか、まだ入社したばかりで慣れてないんだから」
 そう思っているのだ。
 そんなのは単なる甘やかしにすぎないのに。
「じゃあ頼んだよ。二時だからね、遅れないように」
 主任はしつこく念を押して自分の席に戻っていった。
 千絵は書類と腹立たしい気持ちを抱えて席を立った。こんな上司たちを見ていると心底「フン」と思う。
 私の時とえらい待遇が違うんじゃないの。たかだかちょっと美人なくらいで。ちょっと名のあるお嬢様大学を出ているからって。
 小田ゆかりのデスクを通り過ぎる時、彼女がロングストレートの髪をかき上げて、殊勝な顔つきで千絵を見た。
「吉沢先輩、ごめんなさぁい」
 甘ったるく、やけに語尾を引っ張った話し方だ。
「あら、気にしないで。手が離せないんだったらしょうがないものね」
 千絵は笑顔で答えた。表立ってケンカ腰になるほど、もう子供じゃない。でも、目はすばやく彼女の仕事をチェックする。
 思ったとおりだ。手が離せないなんて、冗談じゃない。たかが伝票の日付印押しではないか。そんな仕事などいつだってやれる。
 小田ゆかりは三十分で仕上げる仕事を一時間かけ、残業になりそうな時は必ずうまい言い訳を口にして五時にはデスクから姿を消す。有給休暇や半休は定期的に取り、男性社員をホステスのノリで扱って味方にする。いわば今時の、典型的に要領のいい新入社員だった。
 千絵はゆかりから離れると、思い切り不機嫌な顔をした。言いようもない腹立たしさ。でも、誰にぶつけていいかわからない。
 コピー室へ行く前に、給湯室に入った。コーヒーでも飲んで、少し気分を変えたかった。
 けれどそこには先客がいた。先輩OLの川原瑞子だ。
 彼女は千絵より一回り年上の三十五歳。独身である。同じ部だが、小田ゆかりとは反対側の五メートル先の席に座っている。
「あら、吉沢さんもコーヒータイム?」
 川原瑞子に言われて、千絵は肩をすくめた。
「ええ、コピーする前にちょっとと思って」
 千絵は食器棚から自分のカップを取り出して、ポットからコーヒーを注いだ。
 ひとりでゆっくり飲みたかったのにと、思う。先輩OLというのは、いつだってどこでだって、煙ったい存在なものだ。
「それ、二時の会議のコピー?」
「はい」
 答えて、千絵はカップを口に運んだ。
「そう、ご苦労さま」
 川原さんは壁によりかかってほほ笑んだ。
 いつになく優しい言葉をかけられて、千絵はつい言いたくなった。
「川原さん、聞いてくれます」
「何?」
「本当はこういった仕事って、いちばん若い小田さんがするべきだと思うんですよね。なのに彼女ったら、手が離せないって、みんなこっちに回してくるんです。でも、その仕事って伝票の日付印押しなんですよ。小田さん、逃げるのうまいんだから。いい加減、頭にきちゃう」
 ここまで言うと、ついでにもっと言いたくなった。
「最近の若い子って、みんなああなのかしら。要領ばっかりよくて、自分から進んでやろうという気なんかサラサラないんだから。この間だって来客のお茶いれ、私が言うまで席を立とうとしないんだもの。気がつかないんじゃないんです、気がつかないフリをしてるんです」
 川原さんは頬にうっすら笑みを浮かべた。
「朝だって、九時ぎりぎりの出勤だし、お昼も一時過ぎても堂々とお化粧直しなんかしてるし、まったく、呆れちゃう」
 川原さんはカラになったカップを自分で洗って、水切りカゴの中に伏せた。それから千絵を振り向いた。
「あなたもこれで、少しは私の苦労もわかったでしょう」
「え……?」
「じゃあ、お先に」
 川原さんは給湯室から出ていった。
 その意味がわかるまで、しばらく時間がかかった。つまり、川原さんは皮肉を言ったのだ。千絵も小田ゆかりと同じように要領がよくていい加減なOLだと。
 千絵はムッとしてコーヒーを飲み干した。
 だから、年をくったOLはイヤなのだ。優しい顔をしておいて、必ずチクッと針を刺す。根性がひねくれている。あんなことなど言わなければよかった。もう、絶対、言わない。 (…この続きは本書にてどうぞ)

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