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ゴースト もういちど抱きしめたい
中園ミホ
古林実夏
   プロローグ
 こんなにぐっすり眠ったのは、どれくらいぶりだろう。
 眠りから覚めはじめた意識の中で、星野七海は思っていた。
 心地好い乾いたシーツの感触、肌の上を転がっていく微風。
 それに、香ばしい、コーヒーのいい香りがしている。
 そこまで思って、七海はハッと目を開けた。
 窓から差し込んでくる光がまぶしい。
 瞬きをしながら、ぼやけた焦点を合わせると、見慣れない天井。見慣れない壁。
 すべてに見憶えがない部屋――。
 咄嗟に上半身を起こした七海は、さらに焦っていた。
 何も身につけていない、裸だった……。
 昨日、着ていた洋服はベッドの周りに点々と落ちている、下着までも……。
 カタン――。
 ふいに物音が聞こえた七海は、慌ててベッドカバーを自分に巻きつけ身体を隠す。
 ベッドルームからは、リビングとそこに続くキッチンが見渡せていた。
 キッチンには、見憶えのない男がいる。
 この家の住人だろう――。
 男はまだ、七海が目覚めたことには気がついていない。
 七海はベッドから降りて、素早く洋服を身につけた。
 ――私は昨日、三五歳になった。
 昨晩は、自分のバースデーパーティだったはず……。
 混乱する頭を整理しようと、記憶を辿る七海。
 パーティが終わって、会社の車で会場を出た。
 それから……?
 そこから先が抜け落ちていて、すっかり空白になっている。
 携帯は? と見回して、廊下にあるキャビネットの上にバッグを見つけた。
 きっと携帯はバッグに入ったままだろう。
 ベッドルームは、リビングよりも少し高い位置にあって、リビングに続く階段があった。
 七海は足音を立てないようにそっと階段を降りてゆく。
 壁に隠れるようにして、キッチンの男を見た。
 白いシャツにジーンズというラフな格好の男は、白いホーロー製のケトルを傾けて、フィルターにお湯を注いでいた。
 フィルターから落ちる深い褐色のコーヒーが、サーバーを満たしていく。
 男がゆっくりと、静かな動作でお湯を注ぎ入れる度に、コーヒーのいい香りが立ち上っている。
 見憶えのない、その男の横顔。
 スッと通った鼻筋、シャープな顎のライン、がっしりとした肩に筋肉質な腕。
 いつ、どこで出会ったのだろうか?
 今、目の前で呑気にコーヒーを淹れている男、と。
 それにしても――。
 考えているうちに、七海は無性に腹立たしくなってきた。
 酔っぱらって、前後不覚の抵抗できない女性を引きずり込んで、それで――。
 なんて最低の男!
 わざと大きな足音を立てて男の背後に近づいた七海は、男が振り向いた瞬間に頬を平手打ちした。
 「パシンッ」と、少し大げさな音が部屋に響く。
 彼が表情を作る僅かな時間さえ与えずに、部屋を飛び出した七海。
 外に出ても、七海の高ぶった感情は鎮まらなかった。
 たいしてアルコールに強いわけでもないのに、誕生日だからと調子に乗って飲んで、記憶を無くして、知らない男の部屋で目覚めるなんて……。
 三五歳にもなって私は何をやっているんだ。
 怒りというよりは、嘆かわしい気持ちでいっぱいになっていた。
 突然、七海の携帯が鳴った――。
 七海の会社の広報担当者からだった。
 「社長、今、どちらですか?」
 焦った口調で、早口で話す彼女は、七海の居場所を尋ねた。
 一瞬、混乱した七海は、事態を理解すると一気に青ざめる。
 今朝は、朝のテレビの情報番組に生出演する予定だったのだ。
 そういえば、打ち合わせの時、朝六時半には局に入って欲しいと言われていたのを思い出した。
 番組担当のプロデューサーから、到着時間を知りたいと連絡がきた、と社員は告げた。
 そう言われても、自分が今、どこにいるのか分からない。
「先方には、私から連絡しておきます。朝早くからごめんね、ありがとう」
 そう取り繕って、七海はとりあえず電話を切った。
 六時半まで、あと一五分もない。
 けれど、七海の出演するコーナーは、いつもなら、だいたい七時半前後に始まっている。
 まだ、一時間以上の時間があるから、本番には間に合うはず。
 七海は、自分を落ち着かせ、この場所がどこなのか、手がかりになりそうな看板やビルを探した。
 どこにでもありそうな、早朝の閑静な住宅地。人も歩いていなければ、タクシーがやってくる気配もない。
 だからといって、今さっき飛び出して来たばかりの家に引き返して、殴った男に、ここはどこですか? と訊くのも間抜けすぎる。
 落ち着いて。こんなの、たいした事じゃない。
 七海は、自分にそう言い聞かせると、今、立っているここが東京だと願いつつ適当に歩き出した。
 七海には、道に迷ったときにどちらに進めばいいのかが自然に分かるような、動物的な勘の鋭いところがあるのだ。
 近くの踏切を渡って少し行くと、思ったとおり、大きな通りに出られた。
 タクシーに滑り込んで、テレビ局の名前を告げる。
「この時間帯なら、三〇分かからないでしょう」
 と陽気に答える運転手。
 通勤ラッシュ前で、まだ人も車もそれほど多くはない。
 良かった、七時前には、テレビ局に着くことができそうだ。
 普段はたいして信じてもいない神に感謝した。
 担当プロデューサーに連絡をいれた七海は、今、タクシーで向かったばかりだと正直に告げて謝った。
 見知らぬ男の家で目覚めたことは、もちろん言わなかったけれど、言い訳をするのが本来好きではないから、嘘はつかなかった。
「生放送なのに困るんですよ」
 と、プロデューサーは、妙に間延びする話し方で文句を言ったが、間に合いそうだと判断したのか、あまり不機嫌ではなかった。
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