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腰痛探検家
高野秀行
   前口上
 私は腰痛持ちである。
 本格的に「発病」してから今の時点で約三年半を数える。その間、起きているときはもちろん、眠っているときでさえ常に脳の三割くらいは腰痛について考えている。もちろん深い考察ではない。「あー、いてえなあ……」という一言がぐるぐると走馬灯(なんて見たことないけど)のように回っているのだ。もう死期が近づいているのではないかと錯覚することもあるくらいだ。
 腰痛になってからろくなことはない。私は「辺境作家」を自称している。アジア、アフリカ、南米などの辺境地を旅したり「探検」の真似事をしたりし、その記録を文章にとどめることを生業としている。
 ところが今やほんの一時間程度、立ったり歩いたりするだけで辛い。自分の足で密林を歩くことも少なくない辺境取材には重大な支障をきたす。取材に行けなければ原稿も書けないから、作家生命の危機である。
 いや、その前に日常生活に支障をきたす。毎日、妻に「腰が、腰が」と愚痴をこぼすので疎まれる。洗濯物干し、風呂洗いや古新聞のゴミ出し、掃除機かけ、皿洗いなど、なぜか家事は腰に悪い前かがみ姿勢の連発なので、今まで以上に敬して遠ざける。妻は当然不機嫌になる。家庭生活の危機だ。
 なのに、多くの場合、さして同情されない。作家生命や家庭生活の危機はあっても生物的な生命に差し支えはないからだ。「腰痛の人、多いよねー」と軽く流されたり、「まあ、死ぬわけじゃないし」と突き放されたり、「辺境作家がそんな年寄りじみたこと言ってなさけない」とトドメを剌されるケースもある。
 かといって、同情されたいのかというと、それもちがう。「ほんとに大変ですね……」といきなり深刻になられると「いや、別に死ぬわけじゃないし」とへらへらしている自分がいる。たかが腰痛なのだ。ガンや白血病のように大袈裟に同情されると、自分が「痛い! 辛い!」と大騒ぎしているようで赤面する。
 たまに「私も腰が痛くて……」という同志を発見すると嬉しくなり、それまで全然親しくなかったのにいきなり意気投合することもあるが、その関係に嫌気もさす。一方で、そんな人が「あ、私、いつの間にか治っちゃったんですよ!」などと嬉しそうに報告してくると、「よかったですね」のかわりに、「この裏切り者!」と口走りそうになる。
 なんだろう、この微妙でイタイ心の揺れは。そして、あるときふと気づいたのである。
「これは恋の悩みにそっくりじゃないか」
 失恋や片思いは死ぬほど辛い。でも死にはしないから本気で同情されることは少ない。もし本気で同情されるとかえってみじめになる。失恋仲間と傷をなめあったあとはため息が出て、その失恋仲間がハッピーになると祝福よりも嫉妬の炎が燃え上がる。
 腰痛に悩む者は恋に悩む者と同じ程度に孤独なのだ。そして、恋に悩むと人間が変わるように、腰痛になると人間が変わる。見える世界も激変する。
 有史以来、世界でどれだけの腰痛持ちが誕生し、今現在も全世界で、日本全国でどのくらいの腰痛持ちがいるのか見当もつかない。「膨大」としか言えない数だろう。きっと恋に悩む者と同じくらいの数がいる。しかし、古今東西でさんざん恋愛について語られてきたのに腰痛について語った本はいくらもない。
 もちろん、「こうすれば腰痛は治る!」とか「腰痛の原因はすべて○○だった!」という類いの本は掃いて捨てるほどあるし、中にはけっこう考えさせられるものもあるが、「腰痛になると世界がどのように見えるか」とか「腰痛に絶望したとき人は何を考えるか」なんて書いてある本は見たことがない。
 恋愛では千年以上も前から「恋愛小説」というジャンルが存在し、迷える人に希望を与え、絶望に苦しむ人には「あなただけではないのですよ」と共感のメッセージを送ってきた。なのに、なぜ「腰痛小説」は一冊たりともないのか。
 腰痛持ちの感性と思考回路は独特である。腰痛持ちを取り巻く環境も独特だ。少なくとも腰痛世界を"探検"してきた私はそう思う。しかし、それが普遍的なものなのか私個人の特殊な体験なのか、他に事例がないから判断もできない。そこで私自身の腰痛探検を私小説ばりにセキララに語り、世の腰痛人間に問いかけたい。
 もし私の体験が全国数百万(?)の腰痛持ちの道標になるならこれ以上の喜びはないし、もしそうならなくても、トンチキな中年男の腰痛騒動は、トンチキな中年男の失恋騒動と同じくらい面白いにちがいない。
 腰痛の人もそうでない人も楽しめること請け合いだ。私が自分の体を張って書き上げた、まさに「腰砕け巨編!」を堪能いただきたい。
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