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信長の女
清水義範
   
 吉法師の親衛隊の人数は、日に日に増加していた。地侍や農家の次男、三男たちにしてみれば、めしを食わせてもらってひたすら戦闘訓練をしていればいい、というのは魅力的だったのだ。大人には笑われるような格好の吉法師が、実戦的で理にかなった指図を次々にしてきて、それに従って迅速に行動するのは心地よかった。だんだんと、おれたちは強くなっている、というのが実感できて、闘争の本能が喜びだすのだ。
 吉法師に直接声をかけられたり、名を覚えてもらうのも若者たちにやる気を出させるのだった。
 吉法師は事を急いでいた。もともと、何より速度が好き、という人間だったが、この頃は命令したことが即座に行われないと相手が誰であっても頭をはたいてやりたくなるのだった。さすがに、自分でもイライラしすぎていると反省するのだったが。
 去年、織田信秀は美濃の稲葉山城を攻めた。美濃では守護の土岐氏に内紛があった。兄の土岐頼武が、弟の頼芸に逐われたのだ。今は頼芸の支配で安定してきたが、実は美濃を実質支配しているのは斎藤道三という成り上がり者だった。稲葉山城の城主は斎藤道三である。
 信秀は越前の朝倉家と連合軍を組んで美濃攻めをした。朝倉氏に、頼武の嫡子頼純が保護されていたので、その正当の当主を擁立するため、という名目である。
 ところが、道三は連合軍の攻撃をむしろ待ち構えていた。城下に押し寄せる敵軍を逆に急襲し、蹴散らしたのだ。信秀は木曾川へと逃げ落ちた。軍勢の三分の一、五千人の兵をこの戦いで失ってしまう。有力な大将が何人も討死にし、弾正忠家の戦力はガタ落ちとなったのである。
 そのことが吉法師に焦燥感を与えていた。美濃の道三恐るべし、である。いつまたその強敵が襲いかかってくるかもしれないのだ。恐れる敵は道三だけではない。信秀の力が衰えたとなれば、支配してきた三河が叛旗を翻すこともあるだろう。それどころか、このところは信秀に従ってきた、二つの尾張守護代織田家が敵にまわって巻き返しをはかることも考えねばならないのだ。
 父上は少し老けた、と吉法師は見ていた。以前にくらべ、威圧感が減じてきている。体の具合もあまりよくないようだ。
 その父上がこの先弱みを見せれば、当家は危機を迎えることになるだろう。
 そう考えると、居ても立ってもいられなくなるのだ。吉法師が親衛隊を厳しく訓練しているのはその焦りからだった。
 夕刻、島田神社で、吉法師は行軍競べに勝った赤隊に褒美を与えた。だが、訓練はそれで終りではない。謙昭寺の住職が、今どこで何をしているのか、いちばん速く調べてきた者に刀をやる、と言ったのだ。日が落ちてからの、情報収集活動である。敵の情報をいち速く正確に掴むことの重要性を彼は知り抜いていた。
 すべての訓練が終ったのは真夜中だった。寺に用意された宿坊で、吉法師は家来たちに交じって雑魚寝した。
 その翌日、吉法師は一人で津島湊へ行った。大黒屋源右衛門から、お引き合わせしたい人がいるからと、招待を受けていたのだ。
 何度も訪ねたことのある木綿問屋の屋敷をふらりと訪問した。この日は、いつもよりはまともな服装であった。
「よくおいで下されました。お呼び立てする形となりましたことはお詫び申し上げます」
 大黒屋は辞を低くしてそう言った。初めて出会った日は別として、大黒屋はすぐにこの物事に対する理解の速い子が、織田家の嫡子であることを知ったのだ。それを知ってしまってからは、初対面の時のように名古屋弁丸出しでしゃべることはできなくなっていた。
 最新の商品がどのように流通しているのかを知りたがる吉法師に対して、個人教師のようになって商いのことを手引きしてきたのである。
「会わせたい者がいるとか」
「はい。吉法師様は珍しいものがお好き故、必ずや喜んでいただけましょう」
「珍しい人間か」
 他国の商人などであろうか、と思って吉法師はそう言った。確かに、吉法師は伊勢の神官ぐらいしか他国人を見たことがなかった。
「こちらでございます」
 と大黒屋に屋敷の中を案内される。贅をこらした見事な屋敷であった。
「こちらに」
 と言って大黒屋は鳳凰の欄間のある一室の襖の前に立ち止まった。
「どうぞ」
 と言うので、吉法師は襖を開けた。
 思いがけない華やかなものが目に飛び込んできた。
 その部屋は中庭に面していた。立って、中庭のほうを見ている人間がいた。襖が開いたのに気づいて、こちらを振り返って見る。
 女性だった。見たこともないような美しい衣裳を身につけた、日本人離れした妙齢の女性が、柳のようにすらりと立っていた。
 この衣裳は何か、と吉法師の関心はまずそこへ向かう。
 絹を着ていた。まずそのことはわかる。だがその衣裳は一度も見たことのないものだった。
 白い襦袢のようなものを下に着ているらしく、裾のあたりが少し見えていた。その上に着ているのが朱色の羽織のようなものだった。とにかく色が鮮やかだ。そして、肩掛けのように巻いているのが、青地に金糸で花々を刺繍したもので、目を奪われるほど綺麗だった。
 下に着ているのが裙子、袖の大きな羽織のようなものが衫、肩掛けのようなものがひ子である。色の鮮やかさと、刺繍の華やかさが目を驚かせる。
 抜けるように肌の色が白い若い女性だった。吉法師より二つ三つ年上、といったところだろうか。どう見ても異国の衣裳である。それを身につけて超然と立っていた。髪には、箍という宝玉のはまった髪飾りをつけている。
「十一屋梨華殿でございます」
 と大黒屋は言った。
 吉法師はその女性の顔から目が離せなくなってしまった。整ったはっきりした顔である。髪は漆黒で、肌はあくまで白かったが、たおやか、という印象ではなかった。眉が細く、唇は薄く、目に驚くほどの力があったのだ。すべてのものを見抜くような眼力の感じられる切れ長の目であり、その強い印象にしびれた。
「初めまして。お見知りおきを」
 と娘は言った。
 吉法師は思わずこう言った。
「その服はいかなる」
 娘は薄く笑うとこう答えた。
「これは明国の服。母の形見のもので、時折袖を通している」
 この女は天女か、と吉法師は思った。とにかくその異装と、力のみなぎった目の魅力に、一瞬で心を奪われてしまったのだ。
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