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逝年(せいねん)
石田衣良
   プロローグ
 花が枯れていく。
 その過程をゆっくりと間近に見つめたことはあるだろうか。日々花の美しさは、磨り減っていく。やわらかだった花びらがしおれ、茶色の染みが浮き、かさかさに乾いていくのだ。空をさしていた花芯はうなだれ、先を丸めてしまう。
 死は花が枯れるのに、よく似ている。それが、ぼくにはよくわかった。花の美しさが消えていくように、死はその人をその人らしくしていた命の力を、すこしずつ奪っていくのだ。それは決して反転させることができない絶対的な変化である。
 ぼくは十一年まえに母を亡くした。そのときはあまりに急だったので、死をきちんと受けとめることはできなかった。小学校四年生で、母の緊急搬送と葬儀と不在の嵐に巻きこまれたのだ。
 けれども、今回は違っていた。
 彼女はぼくの娼夫としての才能を見抜き、影の世界に誘ってくれた恩人だった。女性がもつ欲望の多彩さと不思議さを教えてくれた人だった。ぼくがこの仕事で腕をあげ、同時により深く目覚めて世界を見るように手助けしてくれた女性だった。成人してから出会った二番目の母だったのである。
 その人がゆっくりと生の世界を離れ、死に近づいていく。それを数カ月にもわたり、手の届く距離で見つめていたのだ。ぼくは死の秘密を見つけた。それはとても単純なことだった。死は恐るべきものではなく、ぼくたちのすぐそばにあるとても親しいものだ。音もなく降る春の雨の最初のひと滴や眠っている頬に滑る愛しい人の指先のように、優しくよろこばしく、人の心をそっと慰めてくれるものなのだ。
 彼女の「死」をともに生きたことで、ぼくは以前よりもずっと強くなった。別に急ぐつもりはないけれど、いつかそのときがきても、久しぶりに会う友人のように死を迎えられると思う(これはたまたま現在を生きている人間の傲慢さなのかもしれないが)。
 それもすべて彼女の影響である。ぼくたちの白い部屋には、彼女のための場所があり、真っ白な壺のなかで彼女の白い骨は今も眠っている。その骨を笑いながら拾ったのは、ぼくと彼女の娘とぼくの同僚だ。
 彼女の骨は、とても白く、軽く、乾いていて、ひどく強かった。
 人の骨ほど清潔なものはない。
     1
「やっぱり、ここの部屋にしてよかったね」
 平戸東がアルミサッシの窓辺に立って、レースのカーテン越しに外を眺めていた。代官山の街並みは、都心でもかなり緑が多い。アズマはこの白い部屋にあわせて上下オフホワイトで決めていた。白い麻のカプリシャツはへそのすぐうえまで前立が開き、パンツは裾から腰骨までファスナーがついた白の軍パンだ。
 肩をつつかれて、振りむくと御堂咲良がちいさなホワイトボードをあげた。
[ソファの位置を直すから手伝って]
 咲良は生まれつき耳がきこえず、口がきけなかった。インテリアショップのトラックは、コンテナいっぱいの家具を搬入して、先ほど帰ったばかりだ。ぼくは咲良といっしょに三人がけの真っ白な革のソファを動かした。ソファにカウチにオットマン。すべて同じデザイナーの作品で、イタリア製。合計で軽く二百万円は超えている。だが、事務所のインテリアには手を抜かないというのは、このクラブの不在の主、御堂静香の教えだ。
 フルオープンになるジャロジー式のサッシにむけて、ソファセットを整えた。窓辺に観葉植物をおいたほうがいいかもしれない。この部屋は中層マンションのペントハウスである。以前はプロのカメラマンがスタジオとして使用していたという。床は白いタイル、壁と天井も白。わずかに青く見えるほどの純白だ。斜めに切られた天窓からは、自然光がたくさん降ってくる。リビングの広さは三十畳ほどあるだろうか。
 ぼくたちのクラブの再出発には、ぴったりの場所だった。

 御堂静香の逮捕から一年がたっていた。
 ぼくたちはそのあいだ、息を殺し日常生活を送っていた。「ル・クラブ・パッション」は空中分解したのだ。オーナーの御堂静香は、八王子にある医療刑務所へ。クラブのナンバーワンだったアズマは、ためこんだ報酬で遊び暮らしていた。静香の娘の咲良はちいさなマンションに移り、ひとり暮らしを始めた。ぼくは大学にもどり、卒業のための単位をせっせと積みあげた。
 けれども、ぼくたち三人の心は決まっていた。いつか、あの伝説のクラブを復活させるのだ。待機していた一年間にぼくたちは何度も打ちあわせを重ねた。三人で旅行をしたこともある(軽井沢、バリ、ミラノ、パリ)。
 もちろん、恐怖はいつも存在した。ぼくは何度も悪夢を見た。警察官が明け方に部屋の扉をノックする夢だ。何度も自分が逮捕されるのではないかと感じることはあったけれど、ぼくの決意は揺らがなかった。それはアズマや咲良も同じだったと思う。ただ身体を売るだけではない。もっとおおきななにかを、ぼくたちはクラブの仕事のなかに見つけていたのだ。
 再建の資金は御堂静香がつくっていた裏の銀行預金にたっぷりと眠っていた。彼女は取調べで決して、「クラブ・パッション」の秘密を漏らさなかった。コンピュータのなかの顧客名簿はすぐに消去できるようにトラップがかけられていたし、ほんとうに大切なVIP客については咲良の頭のなかが帳簿になっていた。それは資金の流れも同じで、未成年で客をとっていたわけでもない咲良には、警察の手はおよばなかったのである。たとえ、取調べを受けたとしても、咲良は微笑を浮かべたままのりきったことだろう。
 沈黙は彼女を守る砦だ。
 ぼくたちは新しい事務所で、初めてのお茶の時間にした。
 紅茶をいれたのは咲良である。ガラスのセンターテーブルには、ガラスのカップ&ソーサーがならんだ。薫り高い枯葉色の液体だけが宙に浮かんでいるように見える。
「さて、どうやって仕事始めようか」
 アズマは無邪気にレモンを絞った紅茶を口に運んだ。外見にだまされてはいけない。この年若い娼夫になにができるのか。それを一年以上まえにぼくは身をもって体験していた。どの世界にも天才はいる。
 唇を読んだ咲良が笑ってうなずき、テーブルに数枚のコピー用紙をのせる。アズマがいった。
「これが黄金のチケットっていうわけか。宝くじのあたり券より価値があるんだものね」
 ぼくはそのうちの一枚を手にとった。常連客のアドレスと電話番号が、咲良の流れるような文字でびっしりと書かれている。
「営業を再開するのは、簡単だな」
 咲良はうなずき、アズマは笑った。
「ほんと。『クラブ・パッション』のダントツのナンバーワンとツーがそろってるんだもん」
 ぼくとアズマは毎週のように順位を替えながら、クラブの柱として指名を競っていた。ぼくにはアズマのような特殊技能はなかったけれど。
「それが問題なんだ」
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