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最後の冒険家
石川直樹
   出会い
 こうやって人は死んでいくんだろうな、と思った。自ら命を絶とうとしているわけではもちろんないし、病気にかかっているわけでもない。ビルの屋上などにある貯水槽を改造したクリーム色のタンクの中に入って、ぼくは冬の太平洋の真ん中を漂っている。上にあるハッチの隙間から時々海水が入ってきて、溜まった水がタンクの底のほうでちゃぷちゃぷと不快な音を立てている。
 今は膝下までの水位しかないけれど、やがて太ももまで浸かって、胸まできて、首を越えて……、と考えていくと、そこで思考を打ち切らざるをえなかった。タンクが沈む前にハッチを開けて脱出し、今着ている分厚い羽毛服の上下のまま、真っ暗な海に飛び込んだらどうなるだろう。水を吸った羽毛服は身体を浮かせてはくれないはずだ。でも冬の海で衣類を脱いで飛び込んだら、間違いなくハイポサーミア、つまり低体温症になって、生き延びることはできない。外に浮かんでいるはずの球皮につかまってみようか。いや、だめだ、すぐ沈むに決まっている。
「死ぬかもしれない」と思ってからも、どうやって生きるかということを冷静に考えてみるだけの余裕はあった。時化のために上半身を起こしただけで激しい酔いに見舞われるものだから、身体も満足に動かすことができず、頭の中で思案することしかできなかったのだ。ぼくは半分まぶたを開いて、薄暗いクリーム色の壁の先にある天を仰ぎながら、高度8000メートルの空から海までやってきて、次はどうすれば陸地へ戻ることができるか、ということを長いあいだ考えていた。2004年1月28日未明、ぼくは神田道夫とともに漆黒の太平洋上を漂うタンクの中から脱出できないまま海に沈みかけていた。

 冒険家・神田道夫とはじめて出会ったのは、2003年夏の暑い日、東京・青山のとある喫茶店である。当時ぼくは26歳で、まだ大学院の学生だった。もうその喫茶店がどこにあるのかさえも忘れてしまった。店内はおよそ青山という場所に似つかわしくなく、メニューはサインペンによる手書きで、ありがちなオフホワイトの壁紙はタバコのヤニで汚れていた。
 ぼくは表参道で打ち合わせを終えた帰りで、神田さん(以下・敬称略)には「19時に青山で会いましょう」とだけ伝えてあった。待ち合わせ場所を決めていなかったので、彼は現地でその喫茶店を見つけ、店内から電話をかけてぼくに場所を案内してくれた。
 どうして神田がぼくに会おうとしているのか、その理由はあらかじめ知人から聞いていた。54歳だった神田は、翌年に実行を計画している熱気球による太平洋横断遠征のパートナーを探しており、共通の知人を介してぼくに連絡をくれたのだった。そのときはまだ太平洋横断もなにも、気球がどういうもので、神田がどのような計画をたてているのかもまったくわからなかった。ただ、神田は冒険や探検の世界では有名だったし、気球に無知なぼくも名前くらいは聞いたことがあったので、単純にどんな人か会ってみたいという気持ちだけはあった。
 喫茶店は閑散としており、客はほとんど入っていなかった。奥の方に初老のサラリーマンが座っていただけで、多少大声で話したとしても誰かの耳に届くことはない。神田は先に到着していて、4人がけのテーブルに一人で座っていた。ネクタイにジャケットを羽織っていたので、仕事帰りなのだろう。どちらかというと小柄で、痩せても太ってもいるわけではなく、一見するとどこにでもいそうなお父さんである。豪放だけどちょっとだらしない冒険家タイプでもなかったし、ゴーグル焼けの黒い顔から目だけぎらぎらさせているような登山家タイプでもない。長年世界を旅してきた旅行者のような達観した空気をもっているわけでもないし、自転車乗りや長距離ライダーのような荒っぽい野性味もなかった。今まで出会ってきた数々の旅人とはあきらかに異なるタイプで、このような機会がなければ、日常生活でぼくと彼が言葉を交わすことなどなかっただろう。
 お互い名前を名乗って挨拶をした後、「お会いできて嬉しいです」とぼくは言った。決して社交辞令ではなく、彼と会えてぼくは本当に嬉しかった。神田は、ヒマラヤの8000メートル峰、ナンガパルバットを熱気球で飛び越えた功績によって2000年度の植村直己冒険賞を受賞している。噂は空の世界と縁がなかった自分のところにも届いてきており、そのような人物に会えて嬉しくないわけがなかった。
 神田はぼくに名刺を2枚差し出した。彼が勤めている埼玉県の川島町役場の名刺と個人の名刺があり、個人の名刺には「日本熱気球飛行技術研究会会長」とある。不思議な肩書きだと思った。一般的に想像できる冒険家らしい堂々とした態度はなく、どちらかといえば謙虚で実直な印象だった。しかし、無口という雰囲気ではない。
 彼はカバンをまさぐりながら、自分の冒険の履歴が年表になっている雑誌記事のコピーを取り出すと、一気に話し始めた。人ははじめて会えば世間話や雑談からはじまり、どこでお互いを知ったかなどを話したりするものだが、彼の場合は一切そういうことがなかった。単刀直入である。余計なことは喋らない。声は大きいが、いくぶん伏し目がちで、ほとんど目を合わせようとしなかった。
 その履歴は箇条書きになっていた。

1949年 12月   誕生
1977年 ファーイーストバルーンクラブに入会、熱気球を始める
1979年 2月   熱気球操縦技能証取得
7月   熱気球による富士山越え飛行
1980年 5月   熱気球による日本初の北アルプス越え飛行
1983年 2月   熱気球による日本初の本州横断飛行
(石川県金沢市から栃木県小川町まで303キロメートルを飛行)
1984年 2月   熱気球中軽量級の長距離世界記録達成
(島根県隠岐島から長野県飯田市まで419キロメートルを飛行)
1986年 11月   熱気球中軽量級の高度日本記録9569メートル達成
1988年 11月   熱気球中量級の高度世界記録1万2910メートル達成
1990年 5月   熱気球による世界最高峰エベレスト越えに挑戦
(ヒマラヤ上空1万メートルを世界初飛行、エベレスト越えは断念)
1993年 2月   熱気球による東シナ海越えに成功
(中国上海近くの江蘇省如東県から熊本県産山村まで940キロメートルを飛行)
1994年 6月   熱気球中重量級の長距離世界記録達成
(オーストラリア・西オーストラリア州ムレワから南オーストラリァ州フロムダウンまで2366キロメートルを飛行)
1997年 2月   熱気球中重量級の滞空時間世界記録達成
(カナダ・アルバータ州カルガリーからアメリカ合衆国・モンタナ州ジョーダンまでを50時間38分間飛行)
1998年 9月   熱気球によるK2越えに挑戦、気象条件により飛行を断念
2000年 10月   熱気球による西ヒマラヤ最高峰、ナンガパルバット越えに成功

 喫茶店のテーブルの上には、過去の冒険に関する新聞記事や資料のコピーがうずたかく積み上げられていく。彼はいわゆる冒険譚として、身ぶり手ぶりを交えて大袈裟に語ったり、ことさら苦労を強調するようなタイプではない。事実だけを自分の言葉で語る。それもシンプルな言葉だから、どんなに大変だったか、あるいは大変でなかったか、それさえもわからない。もしかしたら話す相手が冒険家と呼ばれたこともあるぼくだから、そういう説明の仕方をしたのかもしれないと思う。
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