ランチを食べ終わって皿を片付けられても、母のミツエが席を立たず、メニューを引き寄せてデザートを物色しているのを見て、奈都子はそっとため息をついた。
「たまには会いましょうよ、いろいろ話したいこともあるし、おいしいものおごるから」電話で誘われた。
たまにはいいか、と軽い気持ちで家を出てきたけれど、おいしいものというのは、待ち合わせをしたターミナル駅の駅ビルに入っているイタリアンレストランの九百八十円のパスタランチだし、話というのはここ数ヶ月読いている、従弟の離婚とそれに伴う再婚と妊娠に関する母の愚痴である。
この話は少しずつ形を変えたり光の当たる角度を変えたりしながらミツエを通して何度も奈都子の前に現れて、聞くたびにうんざりさせられる。老人相手の振り込め詐欺のようなものだ。始まりだけわずかに色を変えてはいるが、結末は同じ。
「だからね、良枝さんは。パパちゃんに結納の席にまで出てほしいって言うのよ。そんなのおかしいと思わない? うちはただの親戚なのに、なんでそんなところに出なきゃならないのよ? そりゃあパパちゃんは保険会社の元重役で、新しい奥さんのお父さんていう人が、ちっちゃな代理店の社長だから、関係があるって言ってもさ。あんなに息子に離婚してほしくないって泣いてたのに、不倫相手に子供がもういるって知った途端、手のひらを返すように急いで離婚させて。かわいそうに佐智子さんは子供ができてることも知らないまま、家事をおろそかにしたのなんのと難癖つけられて、慰謝料ももらえずにほっぽり出されてさ。私はかわいそうで仕方がないよ」
ミツエがバッグからくしゃくしゃのハンカチを出して涙を拭く、芝居がかったしぐさまでするので、奈都子はぞっとして目をそらした。
奈都子たちの隣のテーブルには、子供づれの若い母親が二人座っている。五月とはいえまだ肌寒い日なのに、申し合わせたようにタンクトップに大きな輪のピアス。こんがり焼けてるし、腹が子供を産んだとは思えないほどぺったんこだからよく似合っているけど、とても母親には見えない。子供は合わせて三人。どの子がどっちの母親の子供か、まったく区別がつかない。同じように頬と服が汚れていて、奇声をあげている。
奈都子が見ていると、母親の一人が子供をつかんで引き寄せ、「――ちゃん、お母さんたちね、お話がしたくて来てるのよ。たまには静かにお話がしたいの。わかる?」と耳元で叫んでいるが、子供はくすぐったがってさらに興奮し、首をすくめげらげらと笑うばかりだ。その母親がちらりとこちらを見た。奈都子が子供たちをぼんやり見ているのを、非難と受け取ったのだろうか。奈都子はあわてて視線を戻しながら、この母親たちは二十四、五? もしかして十代かもしれない。いずれにしろ、自分より十歳は若いのだろうと重い気持ちになった。
母はまだハンカチを使っていた。そのハンカチの白地に紺の花柄に見覚えがあって思わず、奈都子は声を出した。
「あ、そのハンカチ……」
「え」
ミツエは目に当てたハンカチを、まじまじと見る。
「そうよ、これ、あんたが置いてったのよ。あんたが結婚した後、部屋を片付けたら出てきたのよ。返そうか」
ミツエはぽいっとハンカチを二人の間に投げ出した。アイロンはかかってない。くしゃくしゃになったハンカチには、薄いシミまでついている。
ハンカチは奈都子が退職する時に、後輩が贈ってくれたものだ。いや、誕生日だったか? バレンタインのお返しだったかもしれない。会社勤めの時は、なぜか記念日には必ずハンカチをプレゼントしあった。デパートで一枚五百二十五円のハンカチ。それがまるで自分たちが同じ種族であることのあかしのように。
ミツエはハンカチの替わりに、アイスコーヒーのグラスを引き寄せ、やけのようにガラガラと音をたてストローで氷をかき混ぜた。
「再婚が決まったら、今度の人はしっかりしていて立派な家のお嬢さんなんです、なんてしゃあしゃあと言っちゃってさ。奥さんのいる男と子供つくる女のどこが立派な家のお嬢さんなのよ。笑わせないでよ」
くしゃくしゃのハンカチが生き物のようにゆっくりと形を変えて広がっていくのを、奈都子は見ていた。古びたハンカチでさえ元に戻ろうと形を変えるのに、夫婦は一度ゆがんだらたいていはそのままだ。
奈都子は法事の時に一度だけ会った、従弟の元妻を思い浮かべた。法事の後一緒に食事の準備を手伝ったが、お茶を注いで回ったり弁当を配ったり、何でもテキパキとこなして、よく笑うきれいな頭のいい人だと好印象を持った。口うるさい親戚たちだって悪く言う者はなかった。そう、彼女だって五年前はしっかりした女性だと皆が誉めそやしていたのだ。それがどうして、こんなことになってしまったのだろう。
「女なんていない、ただただ家事もろくにしない佐智子さんのことが不満だからって、あの時良枝さんが言うから、パパちゃんの大学の同期の赤木さん、知ってる? 弁護士の。ほら、あんたが子供の時、大きな熊さんをお土産に持って遊びに来てくれたじゃない、え? 覚えてない? ほら、あったじゃない。リポンをつけた熊。顔がなんだか、やたらと精密でさ。熊の剥製みたいだって、あんたたち恐がってたじゃないの。だから、箪笥の上の方に置いて。思い出した? あれ、外国製ので本当に高かったんだってよ……そうよ、あの赤木さんに聞いたのよ。最近の離婚の相場っていくらなんですかって。そうしたら、普通の離婚で慰謝料百万、不貞があったら三百万、裁判になったらそれじゃすまないかもしれない、とにかく二人の話し合いでできるだけ早く別れた方がいいって言われたのよ。だから、私が良枝さんにそれを話したら、うちにはそんなお金はとてもないからとにかく早く別れさせたい、どうしたらいいだろうって。それから、急に離婚話が進んでさ。なんだか、私が入れ知恵して離婚の片棒担いだようなもんじゃないの。まったく、寝覚めが悪いったらありゃしない」
奈都子はよく動く自分の母親の唇を見ながら冷蔵庫の中身を思い浮かべる。合い挽き肉と木綿豆腐があったっけ。今夜はあれで、麻婆豆腐にしよう。長ネギがなかった。タマネギでいいか、ちょっと味が変わっちゃうけど。豆板醤と花椒をたくさん入れたら本格的な味になる……でも、麻婆豆腐だけじゃ野菜が足りないかな、野菜、何があったっけ。帰りにスーパーで買って帰ろうかしら。それなら、やっぱり長ネギも買った方がいいか。
「ねえ、あんた、聞いてるの? なっちゃん」
幼い頃と同じように呼ばれて、奈都子ははっとして、ミツエの顔を見た。
(…この続きは本書にてどうぞ)
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