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女は五階と二階とを既に三回往復していた。築二十五年以上でクリーム色のリシン吹き付け外壁の賃貸マンションにエレベータはない。依頼してあった二階の部屋のフローリング工事をリフォーム業者が済ませて帰ると、入れ替わりに家具屋の運搬業者が注文しておいた赤いビニール製の二人掛けソファを搬入に来た。朝の天気予報では平年より二度高い最高気温になるといっていた。五階にはあとブーツが二足、二人映せる姿見と薄いビニールマットが各一枚ずつある。三回は往復しなければならない。薄い長袖の上着を脱いでTシャツー枚になると、痩せてしまわないか、と女は思った。
おおかたの道具の移動を終えると、女は五階の自分の部屋でシャワーを浴び、テーブルのパソコンに向かった。料金設定とPHSのメールアドレスを打ち込むと、あとは自分の名前を決めるだけだった。本名では抵抗があるが、かといってまったく関係のない名前もうまく思いつかなかった。座卓の上に、昨日友達の葉子が残した、ホームページの立ち上げ手順が書かれたメモが置いてある。女はその端っこに「梨香」と小さく自分の名前を書いてみる。平凡な名前だった。さらにこの平凡を進めたい、と女は思った。女は名前を「リカ」として打ち込んだ。同い年で同じ名前は何人くらいいるだろうかと考えながら、手順どおりに進め、確認のために再起動させて立ち上がっていることを画面で確かめた。
二階の部屋は五階と同じ間取りだった。間取りといってもワンルームで、違うところは外の景色の角度と、部屋の照明を調光式にしたこと、そしてフローリング全体に吸音シートを被せたことだった。窓の外には歩道のある片側二車線の県道をはさんで正面にチェーンの弁当店と二年位前に中堅デベロッパーが分譲したタイル張りの十一階建てマンションがあった。しかしこの二階の部屋は窓もカーテンも閉められて、真っ暗な中にリカしか座らないであろう赤いビニール製の二人掛けのソファが置かれ、二人映せる姿見と薄くて黒い色のピニールマットが壁に立て掛けられている。
リカは冷凍のきのこパスタとえびピラフを温めて遅い昼食を済ませると、葉子に携帯でメールを送信した。
昨日は遅くまでありがとう。今完了したよ。今度お礼にあんかけスパ行こ!
平日の昼間、葉子からの返信はまず期待できない。準大手パソコン周辺機器メーカーの広報担当をしている葉子は忙しく、平日はほとんど販売店や広告代理店との打ち合わせ、さらに戦略会議や新規プロジェクトで社内他部門との接触も多く、夜遅い部署があれば葉子の仕事もそれによって遅くなった。男も女も、労働基準法も関係なく働いてもう七年が経っていた。実はリカも九ヶ月前まで同じ会社で働いていた。葉子はリカより歳が二つ上だったが二人はすぐに仲良くなっだ。性格や外見はむしろ反対だったがリカは葉子がうらやましかった。憧れとか目標ではなく、単にうらやましいと思った。小柄で愛嬌がありコミュニケーション能力が高い葉子は、いくつになっても社会から必要とされるはずだ。少なくとも大柄で人に一種の威圧感さえ感じさせるリカにはそう思えた。百八十センチを超えるリカの身体は、むしろ周囲に気を使わせていたのではないか、とリカは思っていた。新入社員のころ、研修中に営業部の先輩男性社員と取引先へ同行したとき、客から珍しい用心棒だねと言われたり、小柄な男性社員と話をしているだけで相手は怒られたような顔になっていた。しかしリカはたいしてそういうことを気にしなかった。飲み会や打ち上げなどで、ちいさくてかわいいねーなどとからかった時の上司の表情や周りの複雑な雰囲気を楽しんでさえいた。
葉子からの返信はないまま一時間が過ぎると、リカは大き目のスポーツバッグにトレーニングウェアやタオルやシューズを詰め込んで歩いて十分くらいの所にあるスポーツクラブヘ自転車で向かった。半年前から通っているリカの目的は筋力トレーニングだった。だからスタジオのダンスやヨガには全然興味がなく一度も入ったことはない。サウナとプールさえ先月ひどく暑かった日にトレーニング後シャワー代わりに1度入ってみただけだった。フロントで会員証を提示しロッカーの鍵を受け取る。一階のロッカールームでトレーニングウェアに着替えると、リカは階段で二階に上がり、まず三畳ほどのマットコーナーでモニターに映るインストラクターの男に倣ってストレッチを始めた。インストラクターはいつもと同じ男でいつもと同じストレッチを続けている。もう何度同じ映像を見たかわからないが、見るたびにリカは自分がこの男を失神させるところを想像した。技はスリーパーホールド、何年か前にテレビで偶然、ブラジル人の柔術の達人が日本人のプロレスラーを失神させた試合で見て、覚えた。その、落ちていく日本人プロレスラーの表情や眼つきに、鳥肌が立ち全身の毛穴が開いた気がした。なかなかギブアップしないプロレスラーを、レフェリーが危険と判断して止めに入った時、技を解いたブラジル人選手が離れ際に相手を睨みつけ蹴飛ぱしたのを、リカは見逃さなかった。勝敗は完全についているから、攻撃したわけではない。あれは、おれを殺人者にするつもりか、という、ブラジル人選手の怒りに違いない、とリカは思った。柔術の達人とはいえ、身体の大きな鍛えられたプロレスラーを素手で殺すことが出来るのか、と思った。その後レンタルビデオを借りて何度も繰り返しその試合を見た。うつ伏せの状態の男に上から被さる形、仰向けの状態で下から絞める形、立った状態で後ろから持ち上げながら絞める形、いつもこの三パターンをイメージトレーニングした。中でもリカが得意としたのは立った状態で後ろから持ち上げながら絞める形だ。なぜならリカが今確実にインストラクターに勝っている点は体格だけだからだ。バックを取ることができれば絞める力を重力が補助してくれるはずだ。インストラクターが体格を補う筋力を備えていたとしても、身体自体が地面から離れてしまえば発揮できるパワーは半減するはずだ。もともと平均的な男性に近い筋力のあるリカだったが、この半年のトレーニングで相当な自信は得ていたものの、鍛えられたインストラクターの筋力を超える確信まではなかった。いずれにしてもこのインストラクターの落ちた顔をモティベーションに今日もリカはベンチプレスに仰向けになった。胸の筋肉はそれほどいらないため、負荷重量を軽めに設定して二十回バーベル代わりのハンドルを上げ下げして、腹筋を鍛えるアブドミナルクランチに座り三十回、腹斜筋を鍛えるロータリートーソも左右三十回ずつこなした。スポーツドリンクを一ロ飲んでから背筋を鍛えるバックエクステンション、これは肩幅を広くしたいリカにとって重要なトレーニングのため、とりあえず筋肉がこれ以上無理というまでやった。腿、腕の太さも重要と考えるリカは、続いてレッグエクステンション、レッグプレス、アームカールなどを限界までこなした。
(…この続きは本書にてどうぞ)
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