ベランダで飼いはじめると鶏は、ひとまわり小さくすがたを変えた。木箱に金網を留めつけただけの住み処を、抜ける羽根で汚したりしない。明け方に光を見ても、大声をあげて騒いだりしない。けれども餌をよく食べて、きちん、きちんと卵を生み落とす。
やっぱり、ヒナコを連れてきてよかった、他の鶏じゃなくて。琉々は、湿っているわけではないのにしっとりした鶏の白い背を、撫でる。ヒナコを選んで、よかったよ。強く撫でられても、ヒナコはじっとしている。気もちよさそうに瞼を閉じて、嘴を天ヘ向ける。薄紅の、ときとして左側に折れたり右側に折れたりする鶏冠に、琉々は口を近づけた。熱した油に放りこんで揚げる前のチキンの香りがして、琉々はたじろいだ。毎日、卵をもらっているのに、ひどい。ヒナコが思ったかのように、琉々はそう思う。それはひどい、肉までなんて。というより、もしもその肉を口にしてしまったら、卵はもう得られなくなる。いうまでもない。交換条件だよ。と、まるでヒナコが人語を発したかのように、琉々は思う。ヒナコは合わせていた瞼を、かっと見開く。日蝕の太陽のような眼だった。
卵は、一つ。そこには例外というものはなく、数を数える慎重さで一日に一つだけ生むのだ、ヒナコは。卵は毎日、巻尺と秤で計ったように同じ大きさをしていた。それを琉々は、もらい受ける。腹の下をまさぐり卵を盗もうとする琉々の手を、突つこうとしたことさえないのだった。ほんとうはどう思っているか、わからない。怒っているのか、それとも気にしていないのか、わからなかった。
小鍋に水を入れる。水のうちから卵を沈めて、茄ではじめる。鍋の底でぽくぽくと踊るうちに、あおざめたような卵の表面には罅が入る。今日も。と、琉々は鍋の底から湧き上がる泡の向こうに罅を見て、息をつく。いつまでたっても、罅のない茄で卵を作ることができないのだった。
なにか、こつをわかっていないのだろう、と思う。卵を入れるタイミングか、水の量だろうか。毎日、一つだけ卵はもたらされ、毎日、一つだけ茄でる。習慣でも儀式でもない。昼ごはんのおかずだった。バイト先の、運送会社の倉庫で食べる昼ごはんだった。罅のない、きれいな茄で卵が出来たときにはきっと、咲美さんにあげよう。いつも自分と同じテーブルで食べている咲美さんに。
十人以上、二十人未満の人間がいつも、流れ作業の空間を行ったり来たりしている倉庫は、音のない世界。音というよりも、声の消去された世界だった。仕事中、無駄な会話を交わしてはいけないというのは当然だ。けれど、それにしても、これだけ人がいて、これだけ黙っているというのは、なんだか不自然。首や肩が凝るのは重たい荷物ばかり動かしているからではないのだった。
琉々にとっては、度の合わない眼鏡を鼻先に載せているような、居心地の悪い空間だった。会話って、しなくてもいいんだ、不都合はないんだ、と。だから、居心地の悪さの奥に心地良さが見え隠れすると気づいたときには、驚いた。ひやりとした。慣れる。どんな状況にも、いずれ慣れてしまう。不器用な自分でさえ、時間とともに慣れるということは、本能的に知っている。それは、感じなくなるということと同じ意昧だろうか。なまぬるい泥にとろとろと沈みこんでいくようだ。黒い油で汚れた羽が二度と乾かないような息苦しさに、気道をふさがれる。
咲美のことは、倉庫で働きはじめた日から見ていた。どれもこれも同じように見えるダンボールを、大きさと重さで分別していく力仕事は、女より男に向いているから、倉庫に女性は少なかった。すがたが眼についた理由にはそれもある。けれど、それだけではない。咲美は、きれいに見えた。肌の色はどちらかといえば白くはなく、両眼は黒々として大きく、両の眉は男のように太くて濃かった。頭上にまとめられた黒髪は、解いたときの長さが想像される豊かさだった。他の人たちが、流れ作業の日々に磨り減って薄くなるような表情を浮かべているのに対し、咲美はそうではなかった。咲美の居場所だけ、時空がゆがむかと思うほどの存在感に満たされて、そのつもりはなくても気づくと琉々は、眼を引きつけられていた。
パンの耳のような色をした、ぺらりと軽い作業着に着替えるためのロッカールームで、たまたまいっしょになっても、咲美は話し掛けてくることはなかった。琉々から言葉を掛けることもなかった。表面的な意味すらない目礼を交わして、それですべては済んでしまう。済んでしまうのだった。徹底的に。余すところなく。完全に。
ある日の、昼休みのこと。咲美が後頭部に息を吹き掛けるように話し掛けてきたとき、琉々は聞き違えではないかと思った。ダンボール箱がはてしもなく往き来する倉庫のなかで、黙ったまま終業まで過ごすことに慣れた琉々に、声を掛ける人など、いないはずだった。驚いて右側へ首を曲げると、その横顔に息を掛けるようにして、咲美は赤く塗って浮き立たせた唇を開いたのだった。
「その卵、おいしそうだね」
縄を投げられたようだった。海面を漂流しているときに突如、一度だけ投げられる縄だ。その先端を、掴まずにはいられない。咲美の言葉はそういう縄だった。琉々は、聞こえないといけないと思い、大きめの声で答えた。
「これ、うちで採れたの。うちの鶏のなんです」
「わ、鶏。飼ってるの?」
「うん。一羽だけなんだけど」
咲美は薄くほほえみ、琉々と同じテーブルについた。琉々は、一言二言でも咲美と口をきくきっかけが得られて、よかったのかどうか、わからなかった。同じテーブルについた咲美は、黙ってランチボックスを開け、黙って中身を口へ運びつづけ、それきり目も合わせようとしない。鶏を飼うのが悪いことだと指摘されたかのようで、琉々は小さくなった。なにも、いわれていないのに。
ところが、翌日もつづけて、咲美は昼になると話し掛けてきた。ねえ、その卵おいしそうだね。お世辞ではなく、ほんとうに、おいしそうだと眺めているようだった。それで、琉々は思ったのだった。いい卵が採れて、いい茄で卵が出来た日には、きっと咲美にあげよう、と。
罅の入った、とても人様にあげられるものではない茄で卵の日がつづく。そのあいだ、咲美と口をきく機会はなかった。一言も。ダンボール箱ばかりが、ベルトコンベアの上を流れては消えていく、倉庫の奥へ奥へと。昼が来ると、咲美は琉々と同じテーブルにつき食事をするのだった。琉々が咲美の方を見ても、咲美は視線を逸らすばかりだった。
ちらちら、横眼で観察を繰り返すうちに、琉々は気づいた。咲美は食事のとき、ランチボックスの蓋で中身を隠しながら食べている。気がついて、はっとして、昔、おばあさんが語っていたことを思い出す。おばあさんは、こういったのだ。昔は学校のお昼っていうと、なんとなく恥ずかしくて、お弁当箱のなかを蓋で隠すようにして食べたものだねえ、と。どうして恥ずかしいの? と訊くと、おばあさんは答えた。
(…この続きは本書にてどうぞ)
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